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第7話「仕組まれた縁談」
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伊織が作る秘密の和朝食はそれから毎日の習慣となった。征四郎は何も言わなかったが、毎朝食卓に並べられた食事は綺麗に空になっていた。それが彼からの声なき答えのように伊織には感じられ、それだけで満たされた気持ちになった。征四郎が自分の作ったものを食べてくれている。その事実が伊織の灰色の日々に鮮やかな色彩を与えてくれた。
二人の間に直接的な会話はほとんどない。しかし確実に目に見えない絆のようなものが育まれているのを伊織は感じていた。庭ですれ違う時の彼の視線。たまに部屋に届けられる甘い菓子折り。そして空になった朝食の膳。その一つ一つが伊織にとっては何物にも代えがたい宝物だった。いつしか伊織は久遠征四郎という男に、はっきりと恋をしている自分を自覚していた。叶うはずのない身分違いの恋。それでも彼のそばにいられるだけで幸せだった。
そんな穏やかな日々はしかし、突然終わりを告げた。
ある日の午後、伊織の元に実家の父親から連絡が入ったのだ。それは伊織を屋敷に訪ねてくるという一方的な知らせだった。この屋敷に来てから家族からの連絡は一度もなかった。それなのに、なぜ今になって。伊織の胸に嫌な予感がよぎった。
応接室で待っていた父親の顔は伊織の記憶にあるものよりも、ずっと狡猾な光を瞳に宿していた。彼は伊織が征四郎と上手くいっていないという噂をどこからか聞きつけ、新たな縁談を持ってきたのだ。
「伊織、お前ももういい年だ。いつまでも久遠様の屋敷でただお世話になっているわけにもいかんだろう」
父親は世間話でもするかのような軽い口調で言った。
「実はな、お前に良い縁談がある。相手は最近羽振りの良いIT企業の社長でな、桜坂様というαの方だ。お前のことを大変気に入ってくださっていてな」
伊織は血の気が引くのを感じた。
「お断りします。僕は……僕は久遠の家にいると決まっています」
「何を言っている。お前と久遠様は正式な番ではないだろう。ただの同居人ではないか。それもあと半年もすれば終わる契約だ。それよりも若く将来性のある桜坂様の番になった方が、お前にとっても我々にとってもよほど有益だ」
父親の言葉は冷たい刃物のように伊織の心を切りつけた。自分はやはり藍沢家のための道具でしかないのだ。
「嫌です。絶対に行きません」
伊織は震える声でしかしはっきりと拒絶した。この屋敷から、征四郎のそばから離れることなど考えられなかった。
伊織の頑なな態度に父親は苛立ったように舌打ちをした。
「この親不孝者が。誰のおかげで会社が持ち直したと思っているんだ。いいか、これは決定事項だ。近いうちに桜坂様との顔合わせの場を設ける。お前はただそれに従えばいい」
一方的にそう言い放つと父親は嵐のように帰っていった。
一人残された応接室で、伊織はその場に崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。どうしよう。逃げ場などどこにもない。自分には父親の決定に逆らう力などないのだ。
(征四郎さんに知られたら……)
彼がこのことを知ったらどう思うだろうか。面倒な女だと思われるだろうか。それとも、厄介払いができて好都合だと安堵するだろうか。
どちらにしても彼に迷惑をかけるわけにはいかない。この話は自分の胸の内だけにしまっておこう。伊織は固くそう決心した。
しかし伊織のその決意は脆くも崩れ去ることになる。
その日の夜、征四郎は珍しく早い時間に帰宅した。そして夕食の席で伊織と顔を合わせた。伊織は動揺を悟られまいと必死で平静を装った。だがその顔色がいつもより青白く、どこか思い詰めた表情をしていることに征四郎はすぐに気づいていた。
「……何かあったのか」
不意に征四郎が問いかけた。その声に伊織の肩がびくりと震える。
「い、いえ。何も……」
「そうか」
征四郎はそれ以上追及はせず黙々と食事を続けた。しかしその視線は明らかに伊織の様子を窺っていた。
重苦しい沈黙が続く。伊織は料理の味が全くしなかった。早くこの場から逃げ出したいのに、彼の前では身動き一つ取れなかった。
その時だった。執事の田所が神妙な面持ちでダイニングルームに入ってきた。
「当主様。先ほど藍沢様のお父上からお電話がございました。伊織様の縁談の件で一度お話がしたいと……」
その言葉に伊織の心臓が止まった。なぜ父親は征四郎にまで連絡を……。
伊織が真っ青になって征四郎を見ると、彼の動きがぴたりと止まっていた。ナイフとフォークを持ったまま、その黒い瞳がゆっくりと伊織に向けられる。
その瞳には今まで見たこともないような冷たい光が宿っていた。
「……縁談だと?」
地を這うような低い声。ダイニングルームの空気が一瞬にして凍りついた。
「それはどういう意味だ。藍沢伊織」
征四郎の声には明らかに怒りの色が滲んでいた。
「あ、あの、これは……ちが……」
伊織は必死で弁解しようとしたが、恐怖で言葉にならない。
征四郎は手にしていたナイフとフォークをカシャンと音を立てて皿の上に置いた。そしてゆっくりと立ち上がる。その全身から放たれる圧倒的なαのフェロモンと剥き出しの怒気に、伊織は呼吸すらできなくなった。
「君は俺の鳥だと言ったはずだ」
征四郎は伊織のそばまで歩み寄ると、その冷たい指で伊織の顎をくいと持ち上げた。無理やり上を向かされ彼の氷の瞳と視線がぶつかる。
「他の男のところへ行くとでも言うのか」
その声は静かだったが底知れない怒りと、そして伊織が今まで感じたことのない激しい独占欲に満ちていた。
「許さない」
吐き捨てるように彼は言った。
「君は俺のものだ。他の誰にも渡さない」
その言葉と共に征四郎の顔がゆっくりと伊織に近づいてきた。伊織はなすすべもなくただ目を閉じることしかできなかった。
二人の間に直接的な会話はほとんどない。しかし確実に目に見えない絆のようなものが育まれているのを伊織は感じていた。庭ですれ違う時の彼の視線。たまに部屋に届けられる甘い菓子折り。そして空になった朝食の膳。その一つ一つが伊織にとっては何物にも代えがたい宝物だった。いつしか伊織は久遠征四郎という男に、はっきりと恋をしている自分を自覚していた。叶うはずのない身分違いの恋。それでも彼のそばにいられるだけで幸せだった。
そんな穏やかな日々はしかし、突然終わりを告げた。
ある日の午後、伊織の元に実家の父親から連絡が入ったのだ。それは伊織を屋敷に訪ねてくるという一方的な知らせだった。この屋敷に来てから家族からの連絡は一度もなかった。それなのに、なぜ今になって。伊織の胸に嫌な予感がよぎった。
応接室で待っていた父親の顔は伊織の記憶にあるものよりも、ずっと狡猾な光を瞳に宿していた。彼は伊織が征四郎と上手くいっていないという噂をどこからか聞きつけ、新たな縁談を持ってきたのだ。
「伊織、お前ももういい年だ。いつまでも久遠様の屋敷でただお世話になっているわけにもいかんだろう」
父親は世間話でもするかのような軽い口調で言った。
「実はな、お前に良い縁談がある。相手は最近羽振りの良いIT企業の社長でな、桜坂様というαの方だ。お前のことを大変気に入ってくださっていてな」
伊織は血の気が引くのを感じた。
「お断りします。僕は……僕は久遠の家にいると決まっています」
「何を言っている。お前と久遠様は正式な番ではないだろう。ただの同居人ではないか。それもあと半年もすれば終わる契約だ。それよりも若く将来性のある桜坂様の番になった方が、お前にとっても我々にとってもよほど有益だ」
父親の言葉は冷たい刃物のように伊織の心を切りつけた。自分はやはり藍沢家のための道具でしかないのだ。
「嫌です。絶対に行きません」
伊織は震える声でしかしはっきりと拒絶した。この屋敷から、征四郎のそばから離れることなど考えられなかった。
伊織の頑なな態度に父親は苛立ったように舌打ちをした。
「この親不孝者が。誰のおかげで会社が持ち直したと思っているんだ。いいか、これは決定事項だ。近いうちに桜坂様との顔合わせの場を設ける。お前はただそれに従えばいい」
一方的にそう言い放つと父親は嵐のように帰っていった。
一人残された応接室で、伊織はその場に崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。どうしよう。逃げ場などどこにもない。自分には父親の決定に逆らう力などないのだ。
(征四郎さんに知られたら……)
彼がこのことを知ったらどう思うだろうか。面倒な女だと思われるだろうか。それとも、厄介払いができて好都合だと安堵するだろうか。
どちらにしても彼に迷惑をかけるわけにはいかない。この話は自分の胸の内だけにしまっておこう。伊織は固くそう決心した。
しかし伊織のその決意は脆くも崩れ去ることになる。
その日の夜、征四郎は珍しく早い時間に帰宅した。そして夕食の席で伊織と顔を合わせた。伊織は動揺を悟られまいと必死で平静を装った。だがその顔色がいつもより青白く、どこか思い詰めた表情をしていることに征四郎はすぐに気づいていた。
「……何かあったのか」
不意に征四郎が問いかけた。その声に伊織の肩がびくりと震える。
「い、いえ。何も……」
「そうか」
征四郎はそれ以上追及はせず黙々と食事を続けた。しかしその視線は明らかに伊織の様子を窺っていた。
重苦しい沈黙が続く。伊織は料理の味が全くしなかった。早くこの場から逃げ出したいのに、彼の前では身動き一つ取れなかった。
その時だった。執事の田所が神妙な面持ちでダイニングルームに入ってきた。
「当主様。先ほど藍沢様のお父上からお電話がございました。伊織様の縁談の件で一度お話がしたいと……」
その言葉に伊織の心臓が止まった。なぜ父親は征四郎にまで連絡を……。
伊織が真っ青になって征四郎を見ると、彼の動きがぴたりと止まっていた。ナイフとフォークを持ったまま、その黒い瞳がゆっくりと伊織に向けられる。
その瞳には今まで見たこともないような冷たい光が宿っていた。
「……縁談だと?」
地を這うような低い声。ダイニングルームの空気が一瞬にして凍りついた。
「それはどういう意味だ。藍沢伊織」
征四郎の声には明らかに怒りの色が滲んでいた。
「あ、あの、これは……ちが……」
伊織は必死で弁解しようとしたが、恐怖で言葉にならない。
征四郎は手にしていたナイフとフォークをカシャンと音を立てて皿の上に置いた。そしてゆっくりと立ち上がる。その全身から放たれる圧倒的なαのフェロモンと剥き出しの怒気に、伊織は呼吸すらできなくなった。
「君は俺の鳥だと言ったはずだ」
征四郎は伊織のそばまで歩み寄ると、その冷たい指で伊織の顎をくいと持ち上げた。無理やり上を向かされ彼の氷の瞳と視線がぶつかる。
「他の男のところへ行くとでも言うのか」
その声は静かだったが底知れない怒りと、そして伊織が今まで感じたことのない激しい独占欲に満ちていた。
「許さない」
吐き捨てるように彼は言った。
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