借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる

水凪しおん

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番外編「初めての朝」

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 征四郎の腕の中で目覚める朝はいつも夢の続きのようだった。隣で眠る彼の穏やかな寝顔、規則正しい寝息、そして自分を包み込む安心感に満ちたαの香り。そのすべてが伊織の心をこの上ない幸福で満たしてくれた。

 正式な番になってから初めて迎える朝。伊織はまだ夢見心地のままそっとベッドを抜け出した。昨夜の披露宴の熱狂とその後の甘い時間が、まだ肌に残っているようだった。征四郎はよほど疲れていたのか深い眠りについている。その寝顔を愛おしく見つめながら、伊織はあることを思いついた。

(そうだ、朝ごはんを作ろう)
 それは二人が心を通わせるきっかけになった特別な儀式。料理長に任せてもいいのだが、今日だけはどうしても自分の手で作りたかった。

 伊織は足音を忍ばせて厨房へと向かった。まだほとんどの従業員が出勤していない静まり返った厨房。その空間が伊織は好きだった。
 冷蔵庫から卵、豆腐、それに昨日届いたばかりの新鮮な季節の野菜を取り出す。メニューはもう決まっていた。初めて彼のために作った時と同じ、だし巻き卵と筑前煮。そして炊きたてのご飯とお味噌汁。

 とん、とん、と小気味よい包丁の音だけが静かな厨房に響く。野菜を切り丁寧に出汁を引く。その一つ一つの作業に心を込めて。
(あの頃は食べてくれるかどうかもわからなくて不安でいっぱいだったな)
 今では征四郎が和食を好むことは屋敷の誰もが知っている。特に伊織が作る料理を彼はいつも「世界一だ」と言って綺麗に平らげてくれる。その言葉が伊織にとっては何よりの喜びだった。

 ジュ、という音と共に卵焼き器の上で美しい黄金色の生地が焼けていく。甘く香ばしい匂い。それは幸せの匂いだった。
 すべての準備が整う頃には窓の外から朝の光が差し込み始めていた。伊織は出来上がった料理をお盆に載せて、寝室へと運んだ。

 そっと扉を開けると征四郎はまだベッドの中にいた。しかしその目はうっすらと開いている。

「……いい匂いがすると思っていたら……」

 掠れた甘い声。彼はゆっくりと身体を起こすと、伊織が持つお盆を見て目を丸くした。

「……君が作ってくれたのか」

「はい。番になって初めての朝なので。どうしても私が作りたくて」

 伊織がはにかみながらそう言うと、征四郎はたまらなく愛おしそうな顔で伊織を手招きした。お盆をサイドテーブルに置きベッドに近づくと、強い力で腕を引かれ彼の胸の中に倒れ込む。

「……おはよう、伊織」

 耳元で囁かれ伊織はくすぐったさに身をよじった。

「おはようございます、征四郎さん」

「最高の目覚めだ。ありがとう」

 そう言って彼は伊織の額に優しいキスを落とした。

「さあ冷めないうちに食べよう。ベッドの上で食べるのもたまにはいいだろう?」

 征四郎の提案に伊織はこくりとうなずいた。二人でベッドの上に並んで食べる初めての朝食。それは少し行儀が悪いけれど、最高に贅沢な時間だった。

「……うん、美味い」

 だし巻き卵を一口食べた征四郎が心から満足そうに目を細める。

「君の作るだし巻き卵は本当に絶品だ。どんな高級料亭の味もこれには敵わない」

「そんな大袈裟ですよ」

「大袈裟なものか。俺にとっては、何よりもご馳走だ」

 当たり前のようにそう言ってのける彼に伊織はまた顔が熱くなるのを感じた。この人は本当に自分の心をかき乱すのが上手い。

 食事を終え二人でコーヒーを飲んでいる時だった。征四郎がふと思い出したように言った。

「そういえば伊織。新婚旅行はどこへ行きたい?」

「え……しんこん、りょこう?」

 考えてもみなかった言葉に伊織はきょとんとしてしまう。

「当たり前だろう。君と二人きりでゆっくり過ごしたい。どこか行きたい場所はあるか?海外でも国内でも、君の望む場所ならどこへでも連れて行ってやる」

 真剣な顔でそう言う征四郎に伊織はしばらく考え込んだ。行きたい場所。世界はこんなにも広い。自分はどこへだって行けるのだ。
 やがて伊織ははにかみながらこう答えた。

「……どこでもいいです」

「どこでも?」

「はい。あなたが隣にいてくれるなら私はどこへ行っても世界一幸せですから」

 その答えに征四郎は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。そして次の瞬間、たまらないといった表情で伊織を再び強く抱きしめた。

「……君には敵わないな」

 その声は幸せをかみしめるように甘く優しく震えていた。
 番になって初めての朝。それはこれから始まる数えきれないほどの幸せな日々の、ほんの始まりに過ぎなかった。
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