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第1話「死と、始まりの鐘」
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肺が凍りつくような冷気が、肋骨の隙間をすり抜けていく。
私の体は、冬の別荘の硬い石畳の上に横たわっていた。視界の端に見えるのは、あの日見たのと変わらない、鉛色の空から舞い落ちる雪だけだ。
全身を砕かれたような激痛は、不思議と遠のいていた。代わりに支配していたのは、焼きごてを押し当てられたような憎悪と、底冷えする絶望だった。
喉の奥から、鉄錆の味が込み上げてくる。
咳き込むと、口端から熱い液体がこぼれ落ちて、白い雪を赤黒く染めていった。
動かない指先で、濡れた石畳をひっかく。
――寒い。痛い。
視線を、なんとか上へと巡らせる。
三階のバルコニー。そこから私を見下ろしている男がいた。
逆光で表情は見えない。けれど、そのシルエットだけで、誰だかはっきりとわかる。
鷹司レオ。私の夫であり、私の運命の番(つがい)であり、そして今、私をここへ突き落とした男。
彼は動かなかった。助けを呼ぶ素振りもない。ただ、道端の石ころを見るような無機質な視線を、瀕死の私に投げかけているだけだ。
風に乗って、彼の低い声がわずかに届いた気がした。
『――役立たずの、虫けらが』
その言葉が、私の命を繋ぎ止めていた最後の糸をぷつりと切った。
愛していなかったわけではない。政略結婚だったとはいえ、オメガとして生まれた私がアルファの彼に惹かれたのは、抗えない本能だった。彼に認められたくて、家のために、会社のために、すべてを捧げてきた。
それが、この結末か。
薄れゆく意識の中で、私は雪を握りしめる。
許さない。絶対に許さない。
もしも、神というものが存在するならば。もしも、もう一度チャンスがあるのなら。
私はお前を愛さない。お前に尽くさない。
お前が一番大切にしているものを奪い取り、その高い場所から引きずり下ろして、この泥と血にまみれた地面に這わせてやる。
視界が暗転する。
心臓の鼓動が、雪音にかき消されるように止まった。
***
「……い、ますか? 久我山様?」
誰かが、私を呼んでいる。
遠くで鳴る鐘の音が、頭蓋骨に反響して酷くうるさい。
目を開けると、そこは雪の降る石畳の上ではなかった。
目の前には、大きな鏡がある。
磨き上げられた鏡面に映っていたのは、純白のタキシードに身を包んだ、少しあどけなさの残る自分の姿だった。
「久我山様、お加減が悪いのですか?」
背後から声をかけてきたのは、メイクアップアーティストの女性だ。彼女は心配そうに眉を寄せ、私の顔を覗き込んでいる。
私は呆然と自分の手を見つめた。
血に濡れていない。爪も割れていない。温かい。
鏡の中の自分に触れる。冷たいガラスの感触。
こめかみの奥がずきりと痛んだ瞬間、記憶の奔流が押し寄せた。
ここは、控え室だ。
今日は、鷹司レオとの結婚式の日だ。
「……鏡、ですか」
自分の口から出た声は、記憶にある死の間際のかすれた声ではなく、若く張りがあった。
「はい。もうすぐお時間ですが、顔色が少し青いようで……」
「いいえ、大丈夫です。少し、立ちくらみがしただけですから」
私は反射的にそう答え、鏡に向かって口角を持ち上げた。
引きつることもなく、完璧な笑みが作れたことに安堵する。
夢ではない。これは現実だ。
私は戻ってきたのだ。三年前の、地獄の入り口へ。
胸の奥で、どす黒い炎がゆらりと燃え上がった。
恐怖はない。あるのは、研ぎ澄まされた刃のような殺意と、計算高い理性だけだった。
前回、私はここで不安に震え、これからの結婚生活に淡い希望を抱いていた。だからこそ、レオの冷徹さに打ちのめされ、都合のいい人形へと成り下がっていったのだ。
だが、今は違う。
奴がどんな人間か、私は骨の髄まで知っている。
「行きましょう。夫が待っていますから」
私は「夫」という単語を、甘い毒を含ませるように発音した。
係員に導かれ、重厚な扉の前へと立つ。
この扉の向こうに、奴がいる。
パイプオルガンの荘厳な音色が響き渡り、扉がゆっくりと左右に開かれた。
ステンドグラスから降り注ぐ極彩色の光。バージンロードの先、祭壇の前に立つ男の背中が見えた。
広い肩幅。仕立ての良い漆黒のタキシード。その威圧感だけで、参列者たちを圧倒している。
私は父のエスコートを断り、一人で歩き出した。
一歩、また一歩。
靴音が響くたびに、過去の記憶が踏み砕かれていく。
私が近づくと、男がゆっくりと振り返った。
鷹司レオ。
端整な顔立ち。氷のように冷たいブルーグレーの瞳。
三年前のあの日、私を突き落とした目。
私は喉笛を食い破りたい衝動を、穏やかな微笑みの仮面の下に押し隠す。
そして、祭壇の前で彼の隣に並んだ。
誓いの言葉。神父の声が遠く聞こえる。
私は淀みなく誓った。病めるときも、健やかなるときも。
――嘘だ。お前が病んだとき、私は笑ってそれを見下ろすだろう。
指輪の交換を終え、いよいよ誓いのキスになる。
私は知っていた。一度目の記憶では、彼は私の唇ではなく、義務的に頬へ、それも触れるか触れないかの接触しかしなかったことを。彼は私を汚らわしいものでも見るように扱ったのだ。
だから私は、今回もそのつもりで目を閉じた。
その瞬間だった。
ぐい、と腰を引き寄せられた。
驚いて目を開けると、レオの顔が目の前にあった。
彼の瞳が、細かく震えている。
氷のようだったその瞳に、信じられないほどの熱と、哀切な色が浮かんでいた。
「……旭」
つぶやかれた名前は、まるで祈りのようだった。
次の瞬間、私の唇は彼によって塞がれていた。
頬ではない。唇だ。
それも、ただの接触ではない。貪るような、それでいて壊れ物を扱うような、深く、重い口づけだった。
会場がどよめく音が聞こえる。
私は思考が真っ白になった。
――な、に?
唇から伝わる温度が熱い。彼の手が、私の背中に強く食い込んでいる。まるで、離したら私が消えてしまうとでも言うように。
長い、あまりにも長いキスの後、彼はゆっくりと唇を離した。
至近距離で見つめ合う。
レオの目尻が、微かに赤らんでいるように見えた。
彼は私の頬に大きな手を添え、親指で愛おしそうに唇を拭う。
「やっと……」
彼は何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。
私は混乱の中で、必死に表情を保つ。
これはどういうことだ?
私の知っている鷹司レオは、こんな顔をしない。こんな、熱っぽい瞳で私を見たりしない。
もしかして、これは新たな罠なのか?
それとも、私が知らないだけで、結婚式の当日はこういう演技をするつもりだったのか?
いいや、違う。一度目は絶対に違った。
戸惑う私の耳元で、レオが低く囁く。
「愛している、旭。もう二度と、離さない」
その声は甘く、そしてどこか狂気を帯びていた。
背筋に悪寒が走る。
違う。これは私の知っている「過去」じゃない。
復讐のために戻ってきたはずの盤上が、最初の一手から狂い始めていた。
私の体は、冬の別荘の硬い石畳の上に横たわっていた。視界の端に見えるのは、あの日見たのと変わらない、鉛色の空から舞い落ちる雪だけだ。
全身を砕かれたような激痛は、不思議と遠のいていた。代わりに支配していたのは、焼きごてを押し当てられたような憎悪と、底冷えする絶望だった。
喉の奥から、鉄錆の味が込み上げてくる。
咳き込むと、口端から熱い液体がこぼれ落ちて、白い雪を赤黒く染めていった。
動かない指先で、濡れた石畳をひっかく。
――寒い。痛い。
視線を、なんとか上へと巡らせる。
三階のバルコニー。そこから私を見下ろしている男がいた。
逆光で表情は見えない。けれど、そのシルエットだけで、誰だかはっきりとわかる。
鷹司レオ。私の夫であり、私の運命の番(つがい)であり、そして今、私をここへ突き落とした男。
彼は動かなかった。助けを呼ぶ素振りもない。ただ、道端の石ころを見るような無機質な視線を、瀕死の私に投げかけているだけだ。
風に乗って、彼の低い声がわずかに届いた気がした。
『――役立たずの、虫けらが』
その言葉が、私の命を繋ぎ止めていた最後の糸をぷつりと切った。
愛していなかったわけではない。政略結婚だったとはいえ、オメガとして生まれた私がアルファの彼に惹かれたのは、抗えない本能だった。彼に認められたくて、家のために、会社のために、すべてを捧げてきた。
それが、この結末か。
薄れゆく意識の中で、私は雪を握りしめる。
許さない。絶対に許さない。
もしも、神というものが存在するならば。もしも、もう一度チャンスがあるのなら。
私はお前を愛さない。お前に尽くさない。
お前が一番大切にしているものを奪い取り、その高い場所から引きずり下ろして、この泥と血にまみれた地面に這わせてやる。
視界が暗転する。
心臓の鼓動が、雪音にかき消されるように止まった。
***
「……い、ますか? 久我山様?」
誰かが、私を呼んでいる。
遠くで鳴る鐘の音が、頭蓋骨に反響して酷くうるさい。
目を開けると、そこは雪の降る石畳の上ではなかった。
目の前には、大きな鏡がある。
磨き上げられた鏡面に映っていたのは、純白のタキシードに身を包んだ、少しあどけなさの残る自分の姿だった。
「久我山様、お加減が悪いのですか?」
背後から声をかけてきたのは、メイクアップアーティストの女性だ。彼女は心配そうに眉を寄せ、私の顔を覗き込んでいる。
私は呆然と自分の手を見つめた。
血に濡れていない。爪も割れていない。温かい。
鏡の中の自分に触れる。冷たいガラスの感触。
こめかみの奥がずきりと痛んだ瞬間、記憶の奔流が押し寄せた。
ここは、控え室だ。
今日は、鷹司レオとの結婚式の日だ。
「……鏡、ですか」
自分の口から出た声は、記憶にある死の間際のかすれた声ではなく、若く張りがあった。
「はい。もうすぐお時間ですが、顔色が少し青いようで……」
「いいえ、大丈夫です。少し、立ちくらみがしただけですから」
私は反射的にそう答え、鏡に向かって口角を持ち上げた。
引きつることもなく、完璧な笑みが作れたことに安堵する。
夢ではない。これは現実だ。
私は戻ってきたのだ。三年前の、地獄の入り口へ。
胸の奥で、どす黒い炎がゆらりと燃え上がった。
恐怖はない。あるのは、研ぎ澄まされた刃のような殺意と、計算高い理性だけだった。
前回、私はここで不安に震え、これからの結婚生活に淡い希望を抱いていた。だからこそ、レオの冷徹さに打ちのめされ、都合のいい人形へと成り下がっていったのだ。
だが、今は違う。
奴がどんな人間か、私は骨の髄まで知っている。
「行きましょう。夫が待っていますから」
私は「夫」という単語を、甘い毒を含ませるように発音した。
係員に導かれ、重厚な扉の前へと立つ。
この扉の向こうに、奴がいる。
パイプオルガンの荘厳な音色が響き渡り、扉がゆっくりと左右に開かれた。
ステンドグラスから降り注ぐ極彩色の光。バージンロードの先、祭壇の前に立つ男の背中が見えた。
広い肩幅。仕立ての良い漆黒のタキシード。その威圧感だけで、参列者たちを圧倒している。
私は父のエスコートを断り、一人で歩き出した。
一歩、また一歩。
靴音が響くたびに、過去の記憶が踏み砕かれていく。
私が近づくと、男がゆっくりと振り返った。
鷹司レオ。
端整な顔立ち。氷のように冷たいブルーグレーの瞳。
三年前のあの日、私を突き落とした目。
私は喉笛を食い破りたい衝動を、穏やかな微笑みの仮面の下に押し隠す。
そして、祭壇の前で彼の隣に並んだ。
誓いの言葉。神父の声が遠く聞こえる。
私は淀みなく誓った。病めるときも、健やかなるときも。
――嘘だ。お前が病んだとき、私は笑ってそれを見下ろすだろう。
指輪の交換を終え、いよいよ誓いのキスになる。
私は知っていた。一度目の記憶では、彼は私の唇ではなく、義務的に頬へ、それも触れるか触れないかの接触しかしなかったことを。彼は私を汚らわしいものでも見るように扱ったのだ。
だから私は、今回もそのつもりで目を閉じた。
その瞬間だった。
ぐい、と腰を引き寄せられた。
驚いて目を開けると、レオの顔が目の前にあった。
彼の瞳が、細かく震えている。
氷のようだったその瞳に、信じられないほどの熱と、哀切な色が浮かんでいた。
「……旭」
つぶやかれた名前は、まるで祈りのようだった。
次の瞬間、私の唇は彼によって塞がれていた。
頬ではない。唇だ。
それも、ただの接触ではない。貪るような、それでいて壊れ物を扱うような、深く、重い口づけだった。
会場がどよめく音が聞こえる。
私は思考が真っ白になった。
――な、に?
唇から伝わる温度が熱い。彼の手が、私の背中に強く食い込んでいる。まるで、離したら私が消えてしまうとでも言うように。
長い、あまりにも長いキスの後、彼はゆっくりと唇を離した。
至近距離で見つめ合う。
レオの目尻が、微かに赤らんでいるように見えた。
彼は私の頬に大きな手を添え、親指で愛おしそうに唇を拭う。
「やっと……」
彼は何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。
私は混乱の中で、必死に表情を保つ。
これはどういうことだ?
私の知っている鷹司レオは、こんな顔をしない。こんな、熱っぽい瞳で私を見たりしない。
もしかして、これは新たな罠なのか?
それとも、私が知らないだけで、結婚式の当日はこういう演技をするつもりだったのか?
いいや、違う。一度目は絶対に違った。
戸惑う私の耳元で、レオが低く囁く。
「愛している、旭。もう二度と、離さない」
その声は甘く、そしてどこか狂気を帯びていた。
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