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第8話「冷徹な秘書と100万円の小切手」
幸せな朝から数日が過ぎた頃、平穏な駄菓子屋に不穏な影が落ちた。
蓮さんは「重要な会議がある」と言って、渋々会社へ向かった後だった。
店の前に止まったのは、蓮さんの車とは違う、黒塗りの高級セダン。
降りてきたのは、銀縁メガネをかけた冷徹そうな男だった。蓮さんの秘書、橘(たちばな)と名乗ったそのベータの男性は、店に入るなりハンカチで鼻を覆う仕草をした。
「単刀直入に申し上げます。西園寺専務とのお付き合いを、今すぐやめていただきたい」
ドラマでしか見たことがない展開に、僕は呆気にとられた。
橘さんは、革の鞄から封筒を取り出し、カウンターに置いた。中身は見なくても分かる。
「手切れ金、ということでしょうか」
「話が早くて助かります。ここには相場の倍、100万円が入っています。この店の経営状態も調査済みです。これがあれば、借金の返済にも充てられるでしょう」
橘さんの声は事務的で、感情がこもっていなかった。
僕を見下す目。
ああ、やっぱり。世間から見れば、僕は財閥の御曹司をたぶらかす、身の程知らずの貧乏人なのだ。
「……蓮さんは、このことを?」
「専務は一時的な熱に浮かされているだけです。貴方のようなオメガが、西園寺家の将来にふさわしくないことは、ご自身が一番よく分かっていらっしゃるはずだ」
心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような痛みが走る。
その通りだ。
僕はヒートも不順な、できそこないのオメガ。華やかな社交界も、複雑な経済の話も分からない。ただ駄菓子を売ることしかできない。
橘さんの言葉は正論だった。
でも。
『湊。愛してる』
あの夜、蓮さんがくれた熱と、言葉の数々。
首筋に残るマーキングが、じわりと熱を持つ。
「……お金は、受け取れません」
「足りないと?」
「違います。僕は、蓮さんの気持ちを信じたいんです。彼が『いらない』と言うまで、僕は彼から離れません」
震える声で、精一杯の強がりを言った。
橘さんが眉をひそめ、さらに言葉を重ねようとした、その時だ。
「誰が『いらない』だって?」
店内の空気が、一瞬で凍りついた。
入り口に、鬼のような形相の蓮さんが立っていた。
「せ、専務!? 会議中では……」
「お前が勝手な動きをしていると聞いて、抜けてきた。……橘、俺の『大切なお客様』に、何を渡そうとした?」
蓮さんは大股で近づくと、カウンターの上の封筒を乱暴に掴み取り、中身を確認もせずに握りつぶした。
そして、橘さんを射殺すような目で睨みつける。
「俺のパートナーを金で買おうとするとは、いい度胸だ。クビにされたいのか?」
「ですが専務!会長が心配されておりまして……」
「親父には俺から話す。それとも何か? お前は俺の判断よりも、親父の顔色のほうが大事だと言うのか?」
圧倒的なアルファの威圧感。
橘さんは顔面蒼白になり、小刻みに震え出した。
蓮さんはため息をつくと、僕のほうへ向き直り、表情を一変させた。
「湊、すまない。嫌な思いをさせたな」
「ううん、大丈夫……。でも、会議は?」
「そんなものより、君のほうが一億倍大事だ」
蓮さんはカウンター越しに僕の手を取り、甲に口づけを落とした。
橘さんに見せつけるように。
「橘、よく聞け。この人は俺の『番』だ。次、彼に無礼な真似をしたら、この業界で生きていけなくしてやる」
「つ、番……!? まさか、すでにマーキングを……」
橘さんは絶句し、それから深々と頭を下げた。
逃げるように去っていく車を見送りながら、僕は蓮さんの胸に顔を埋めた。
「怖かったか?」
「少しだけ。……でも、蓮さんが来てくれたから」
「当たり前だ。俺のセンサーは、君のピンチには敏感なんだ」
彼は笑って、僕の髪を撫でた。
その手つきは、100万円の札束よりもずっと価値のある、温かいものだった。
蓮さんは「重要な会議がある」と言って、渋々会社へ向かった後だった。
店の前に止まったのは、蓮さんの車とは違う、黒塗りの高級セダン。
降りてきたのは、銀縁メガネをかけた冷徹そうな男だった。蓮さんの秘書、橘(たちばな)と名乗ったそのベータの男性は、店に入るなりハンカチで鼻を覆う仕草をした。
「単刀直入に申し上げます。西園寺専務とのお付き合いを、今すぐやめていただきたい」
ドラマでしか見たことがない展開に、僕は呆気にとられた。
橘さんは、革の鞄から封筒を取り出し、カウンターに置いた。中身は見なくても分かる。
「手切れ金、ということでしょうか」
「話が早くて助かります。ここには相場の倍、100万円が入っています。この店の経営状態も調査済みです。これがあれば、借金の返済にも充てられるでしょう」
橘さんの声は事務的で、感情がこもっていなかった。
僕を見下す目。
ああ、やっぱり。世間から見れば、僕は財閥の御曹司をたぶらかす、身の程知らずの貧乏人なのだ。
「……蓮さんは、このことを?」
「専務は一時的な熱に浮かされているだけです。貴方のようなオメガが、西園寺家の将来にふさわしくないことは、ご自身が一番よく分かっていらっしゃるはずだ」
心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような痛みが走る。
その通りだ。
僕はヒートも不順な、できそこないのオメガ。華やかな社交界も、複雑な経済の話も分からない。ただ駄菓子を売ることしかできない。
橘さんの言葉は正論だった。
でも。
『湊。愛してる』
あの夜、蓮さんがくれた熱と、言葉の数々。
首筋に残るマーキングが、じわりと熱を持つ。
「……お金は、受け取れません」
「足りないと?」
「違います。僕は、蓮さんの気持ちを信じたいんです。彼が『いらない』と言うまで、僕は彼から離れません」
震える声で、精一杯の強がりを言った。
橘さんが眉をひそめ、さらに言葉を重ねようとした、その時だ。
「誰が『いらない』だって?」
店内の空気が、一瞬で凍りついた。
入り口に、鬼のような形相の蓮さんが立っていた。
「せ、専務!? 会議中では……」
「お前が勝手な動きをしていると聞いて、抜けてきた。……橘、俺の『大切なお客様』に、何を渡そうとした?」
蓮さんは大股で近づくと、カウンターの上の封筒を乱暴に掴み取り、中身を確認もせずに握りつぶした。
そして、橘さんを射殺すような目で睨みつける。
「俺のパートナーを金で買おうとするとは、いい度胸だ。クビにされたいのか?」
「ですが専務!会長が心配されておりまして……」
「親父には俺から話す。それとも何か? お前は俺の判断よりも、親父の顔色のほうが大事だと言うのか?」
圧倒的なアルファの威圧感。
橘さんは顔面蒼白になり、小刻みに震え出した。
蓮さんはため息をつくと、僕のほうへ向き直り、表情を一変させた。
「湊、すまない。嫌な思いをさせたな」
「ううん、大丈夫……。でも、会議は?」
「そんなものより、君のほうが一億倍大事だ」
蓮さんはカウンター越しに僕の手を取り、甲に口づけを落とした。
橘さんに見せつけるように。
「橘、よく聞け。この人は俺の『番』だ。次、彼に無礼な真似をしたら、この業界で生きていけなくしてやる」
「つ、番……!? まさか、すでにマーキングを……」
橘さんは絶句し、それから深々と頭を下げた。
逃げるように去っていく車を見送りながら、僕は蓮さんの胸に顔を埋めた。
「怖かったか?」
「少しだけ。……でも、蓮さんが来てくれたから」
「当たり前だ。俺のセンサーは、君のピンチには敏感なんだ」
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その手つきは、100万円の札束よりもずっと価値のある、温かいものだった。
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