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第7話「静かなる嫉妬と蠢く悪意」
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フィンがゼイドの執務室に通うようになって、数日が過ぎた。その生活は以前よりも少しだけ外の世界との接点が増えたことを除けば、鳥籠の中と大差はなかった。
ゼイドは執務中も、フィンのことを常に気にかけていた。少しでもフィンが退屈そうな顔をすればどこからか取り寄せた珍しい菓子を与え、寒そうに身じろぎすれば最高級の毛皮でできた膝掛けをかける。その溺愛ぶりは、執務室に出入りする部下たちの間でも畏怖と呆れの混じった噂の種になっていた。
フィンはゼイドの隣で静かに本を読みながら、時折彼の仕事に口を挟んだ。といっても大それた助言ではない。兵士の食事の栄養バランスについてや、駐屯地の衛生環境の改善策など、前世の知識に基づいたささやかな提案ばかりだ。しかしフィンの提案は的確で、ゼイドがそれを取り入れるたびに軍の運営は目に見えて改善されていった。
「フィン、お前は本当にすごいな。お前が来てから、万事うまくいく」
ゼイドは手放しでフィンを褒め称え、その頭を優しく撫でる。その度にフィンはくすぐったいような、嬉しいような、複雑な気持ちになった。愛されることに慣れていない心は、まだその真っ直ぐな愛情をどう受け止めればいいのか分からなかったのだ。
しかし、誰もが二人の関係を好意的に見ているわけではなかった。
特に王都からゼイドを訪ねてきた貴族たちにとって、フィンの存在は目障り以外の何物でもなかった。彼らは自分の娘や妹をゼイドに娶わせ、国の英雄との繋がりを得ようと画策していたのだ。そこに突然現れた、平民上がりの後天性オメガ。彼らのプライドが、それを許すはずがなかった。
「ヴァルモニカ卿。あのような出自の知れぬ者を番とされるとは、いささかご冗談ではございませんか」
ある日、執務室を訪れた恰幅の良い侯爵が、あからさまにフィンを侮蔑するような視線でゼイドに言った。その時フィンはゼイドの隣で、献上された茶葉の品質について調べていた。
空気が、凍りついた。
ゼイドの顔から、すっと表情が消える。フィンは彼の周りの温度が数度下がったような錯覚を覚えた。これがあの、「氷の鬼神」の片鱗か。
「……今、何と?」
地を這うような低い声に、侯爵はびくりと肩を震わせた。しかし、彼はまだ虚勢を張っていた。
「ですから、あのような男ではなく、我が娘のエリアーナこそ、貴方様の番にふさわしいと……」
「黙れ」
ゼイドの言葉は、短く鋭利な刃物のようだった。瑠璃色の瞳が、絶対零度の光を宿して侯爵を射抜く。
「俺の番を侮辱するということは、この俺に喧嘩を売るということだ。お前も、お前の家も、明日にはこの国の地図から消えていても、文句は言えんな?」
その言葉には一切の誇張も、脅しもない。本気でそれを実行するであろう、静かな怒りが込められていた。侯爵は顔面蒼白になり、わなわなと震え始めた。
「ひっ……も、申し訳ございません!どうか、お許しを……!」
「失せろ。二度とその顔を見せるな」
侯爵は、這うようにして執務室から逃げ出していった。フィンはその一部始終を呆然と見つめていた。自分のために、ゼイドがここまで怒りを露わにするとは。
静まり返った執務室で、ゼイドはゆっくりとフィンの元へ歩み寄ると、その身体を壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
「すまない、フィン。不快な思いをさせた」
「い、いえ……俺は、大丈夫です」
「大丈夫なものか。顔色が悪い。……やはり、お前は俺の部屋から一歩も出すべきではなかった」
ゼイドは心底後悔したように、フィンの髪に顔を埋める。その声は不安と執着に震えていた。フィンはゼイドの背中にそっと手を回した。彼を安心させたい。ただ、その一心で。
だが、この一件はほんの始まりに過ぎなかった。
その日の夜、フィンは一人で図書室を訪れていた。ゼイドは緊急の会議で席を外しており、部屋で待っているのに退屈したのだ。ゼイドには「決して一人で部屋から出るな」と固く言われていたが、砦の中だし大丈夫だろうと高を括っていた。
古い書物を探していると、背後から複数の足音が聞こえた。振り返ると、そこには昼間の侯爵の息子であろう若い貴族の男と、その取り巻きが数人、下卑た笑みを浮かべて立っていた。
「これはこれは、噂の『団長の愛人』殿じゃないか。こんなところで一人とは、不用心だな」
リーダー格の男が、ねっとりとした視線でフィンを頭のてっぺんから爪先まで眺める。フィンは直感的に危険を感じ、後ずさった。
「何か、御用でしょうか」
「用?ああ、大ありだ。お前のような平民上がりがゼイド様の隣にいるのが、我々は気に食わないんだよ。少し、身の程というものを教えてやろうと思ってな」
男たちが、じりじりと距離を詰めてくる。逃げ場はない。フィンは壁際に追い詰められ、恐怖で全身が凍りついた。
『ゼイド様……!』
心の中で、番の名を叫ぶ。しかし彼がここにいるはずもない。
「さあ、抵抗するなよ。お前がどんな声で鳴くのか、楽しみだ」
汚れた手が、フィンの肩に伸びてきた。その瞬間、フィンは覚悟を決めて目をぎゅっと瞑った。
しかし予想していた衝撃は、いつまでたってもやってこなかった。代わりに聞こえてきたのは男たちの短い悲鳴と、何かが凍りつく不気味な音だった。
おそるおそる目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
フィンに伸びていた男の手が、その先から美しい氷の結晶となって凍りついている。そして男たちの背後には、凍てつくような怒気をまとったゼイドが立っていた。
ゼイドは執務中も、フィンのことを常に気にかけていた。少しでもフィンが退屈そうな顔をすればどこからか取り寄せた珍しい菓子を与え、寒そうに身じろぎすれば最高級の毛皮でできた膝掛けをかける。その溺愛ぶりは、執務室に出入りする部下たちの間でも畏怖と呆れの混じった噂の種になっていた。
フィンはゼイドの隣で静かに本を読みながら、時折彼の仕事に口を挟んだ。といっても大それた助言ではない。兵士の食事の栄養バランスについてや、駐屯地の衛生環境の改善策など、前世の知識に基づいたささやかな提案ばかりだ。しかしフィンの提案は的確で、ゼイドがそれを取り入れるたびに軍の運営は目に見えて改善されていった。
「フィン、お前は本当にすごいな。お前が来てから、万事うまくいく」
ゼイドは手放しでフィンを褒め称え、その頭を優しく撫でる。その度にフィンはくすぐったいような、嬉しいような、複雑な気持ちになった。愛されることに慣れていない心は、まだその真っ直ぐな愛情をどう受け止めればいいのか分からなかったのだ。
しかし、誰もが二人の関係を好意的に見ているわけではなかった。
特に王都からゼイドを訪ねてきた貴族たちにとって、フィンの存在は目障り以外の何物でもなかった。彼らは自分の娘や妹をゼイドに娶わせ、国の英雄との繋がりを得ようと画策していたのだ。そこに突然現れた、平民上がりの後天性オメガ。彼らのプライドが、それを許すはずがなかった。
「ヴァルモニカ卿。あのような出自の知れぬ者を番とされるとは、いささかご冗談ではございませんか」
ある日、執務室を訪れた恰幅の良い侯爵が、あからさまにフィンを侮蔑するような視線でゼイドに言った。その時フィンはゼイドの隣で、献上された茶葉の品質について調べていた。
空気が、凍りついた。
ゼイドの顔から、すっと表情が消える。フィンは彼の周りの温度が数度下がったような錯覚を覚えた。これがあの、「氷の鬼神」の片鱗か。
「……今、何と?」
地を這うような低い声に、侯爵はびくりと肩を震わせた。しかし、彼はまだ虚勢を張っていた。
「ですから、あのような男ではなく、我が娘のエリアーナこそ、貴方様の番にふさわしいと……」
「黙れ」
ゼイドの言葉は、短く鋭利な刃物のようだった。瑠璃色の瞳が、絶対零度の光を宿して侯爵を射抜く。
「俺の番を侮辱するということは、この俺に喧嘩を売るということだ。お前も、お前の家も、明日にはこの国の地図から消えていても、文句は言えんな?」
その言葉には一切の誇張も、脅しもない。本気でそれを実行するであろう、静かな怒りが込められていた。侯爵は顔面蒼白になり、わなわなと震え始めた。
「ひっ……も、申し訳ございません!どうか、お許しを……!」
「失せろ。二度とその顔を見せるな」
侯爵は、這うようにして執務室から逃げ出していった。フィンはその一部始終を呆然と見つめていた。自分のために、ゼイドがここまで怒りを露わにするとは。
静まり返った執務室で、ゼイドはゆっくりとフィンの元へ歩み寄ると、その身体を壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
「すまない、フィン。不快な思いをさせた」
「い、いえ……俺は、大丈夫です」
「大丈夫なものか。顔色が悪い。……やはり、お前は俺の部屋から一歩も出すべきではなかった」
ゼイドは心底後悔したように、フィンの髪に顔を埋める。その声は不安と執着に震えていた。フィンはゼイドの背中にそっと手を回した。彼を安心させたい。ただ、その一心で。
だが、この一件はほんの始まりに過ぎなかった。
その日の夜、フィンは一人で図書室を訪れていた。ゼイドは緊急の会議で席を外しており、部屋で待っているのに退屈したのだ。ゼイドには「決して一人で部屋から出るな」と固く言われていたが、砦の中だし大丈夫だろうと高を括っていた。
古い書物を探していると、背後から複数の足音が聞こえた。振り返ると、そこには昼間の侯爵の息子であろう若い貴族の男と、その取り巻きが数人、下卑た笑みを浮かべて立っていた。
「これはこれは、噂の『団長の愛人』殿じゃないか。こんなところで一人とは、不用心だな」
リーダー格の男が、ねっとりとした視線でフィンを頭のてっぺんから爪先まで眺める。フィンは直感的に危険を感じ、後ずさった。
「何か、御用でしょうか」
「用?ああ、大ありだ。お前のような平民上がりがゼイド様の隣にいるのが、我々は気に食わないんだよ。少し、身の程というものを教えてやろうと思ってな」
男たちが、じりじりと距離を詰めてくる。逃げ場はない。フィンは壁際に追い詰められ、恐怖で全身が凍りついた。
『ゼイド様……!』
心の中で、番の名を叫ぶ。しかし彼がここにいるはずもない。
「さあ、抵抗するなよ。お前がどんな声で鳴くのか、楽しみだ」
汚れた手が、フィンの肩に伸びてきた。その瞬間、フィンは覚悟を決めて目をぎゅっと瞑った。
しかし予想していた衝撃は、いつまでたってもやってこなかった。代わりに聞こえてきたのは男たちの短い悲鳴と、何かが凍りつく不気味な音だった。
おそるおそる目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
フィンに伸びていた男の手が、その先から美しい氷の結晶となって凍りついている。そして男たちの背後には、凍てつくような怒気をまとったゼイドが立っていた。
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