心を閉ざした元天才ピアニストのルームメイトの氷を、寮長の僕が絶対溶かしてみせる。

水凪しおん

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第12話: 知らないふり

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 雪村結の過去を知ってしまった晶は、深く、深く悩んだ。
 この事実を、彼にどう伝えればいい? いや、そもそも伝えるべきなのか?
「お前の過去、知ってるぞ」と言って、彼の傷に塩を塗り込むような真似は、絶対にしたくなかった。それは、彼のプライドをズタズタに引き裂き、今度こそ完全に心を閉ざさせてしまうだろう。
 数日間、一人で悩み抜いた末、晶は一つの決断をした。
 ――何も知らないふりをしよう。
 彼の過去を知らない、ただのルームメイトとして、これまで通りに接しよう。
 ただし、一つだけ心に決めたことがあった。
 以前のように、無理に彼の心を開かせようとするのはやめよう。ただ、辛抱強く、彼の世界を尊重しよう。彼が助けを求めるまで、静かに隣で見守っていよう。
 晶のその決意は、二人の関係に微妙な変化をもたらした。
 晶は、結に必要以上に話しかけるのをやめた。だが、朝は必ず「おはよう」と声をかけ、部屋を出る時は「行ってくる」と告げる。食堂で一人でいる結を見つけても、無理に同じテーブルにつくことはせず、遠くからその姿を確認するだけにした。
 それは、突き放すのとは違う、静かで穏やかな距離感だった。
 最初は、晶の変化に結も戸惑っているようだった。いつもならしつこく話しかけてくるはずの晶が、自分をそっとしておいてくれる。そのことに、どこか拍子抜けしたような、それでいて、警戒が少しだけ解けていくような、複雑な表情を浮かべていた。
 ある雨の日、晶が濡れたまま部屋に戻ると、結の机の上にタオルが一枚、ぽつんと置かれていたことがあった。
 またある時は、晶が課題のレポートに手こずって夜更かしをしていると、無言で温かいお茶の入ったマグカップを差し出されたこともあった。
 言葉はない。相変わらず、会話らしい会話はほとんどない。
 けれど、確実に何かが変わり始めていた。
 晶が作り出した、心地よい沈黙と穏やかな距離感。それは、結にとって、誰にも侵されない安心できる空間になりつつあった。
 晶のその微妙な変化に、結は戸惑いを感じながらも、心のどこかで安堵している自分に気づく。
 302号室は、息が詰まるような場所から、少しだけ居心地の良い場所に。
 凍てついていた二人の時間が、ほんの少しだけ、ゆっくりと動き出したような気がした。
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