βの俺がΩに分化したら、病弱なはずのαの主君の本性が覚醒。執着と溺愛で主従が逆転しました

水凪しおん

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第1話「忠誠の在り処と微かな変調」

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 銀食器の触れ合う澄んだ音が、静寂な朝の食堂に小さく響く。
 朝日が差し込む大きな窓の外では、小鳥たちが楽しげにさえずっていた。

「ラッセル様、本日のスープは味が濃すぎませんでしたか」

「いや、丁度いい。レオンハルトの選ぶものは、いつも私の口に合う」

 儚げに微笑むのは、我が主君、ラッセル・フォン・ヴァレンティン様。
 この広大なヴァレンティン公爵領をいずれ背負って立つお方だ。
 透き通るような白い肌に、陽光を浴びて煌めく銀糸の髪、そして理性を吸い込むような深い紫紺の瞳。
 そのお姿は、精緻な硝子細工のように美しく、そして同じくらい脆く見えた。

 俺、レオンハルト・シュトラウスは、そんなラッセル様の護衛兼従者だ。
 シュトラウス家は代々ヴァレンティン公爵家に仕えてきた家系であり、俺もまた、物心ついた頃からラッセル様の側にいるのが当たり前の人生だった。

 生まれつき病弱な主君をお守りすること。
 それが、βである俺の、揺るぎない使命であり存在意義のすべてだ。
 強面で、鍛え上げた大柄なこの身体はただそのためだけにある。

「食後は書斎で執務を。いくつか目を通すべき書類が届いている。お前も付き合え」

「かしこまりました」

 ほとんど食事に手がつけられていない皿を静かに下げながら、俺は深く頷いた。
 ラッセル様は食が細く、少し動けばすぐに息を切らされる。
 そんな主君を支え、お守りするのが俺の喜びだった。
 この忠誠心に勝る感情など、この世に存在しない。
 そう、信じていた。
 つい最近までは。

 異変は、十八歳の誕生日を迎えた数日後から始まった。
 最初は、ほんの些細な違和感だった。
 鍛錬中に、いつもなら感じないはずの気怠さを覚えたり、ふとした瞬間に身体の芯が微かに熱を帯びるような感覚。
 疲れが溜まっているのだろうと、当初は気にも留めていなかった。

 しかし、その症状は日を追うごとに無視できないものになっていく。

 執務室で書類を整理するラッセル様の背中を眺めていると、まただ、と俺は奥歯を噛み締めた。
 身体の奥底から、じわりと熱が込み上げてくる。
 まるで上質な絹で内側から撫でられているような、甘く、そして不快な感覚。
 同時に、自分でも嗅いだことのないような微かに甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。

『なんだ、これは……』

 俺は咄嗟に自身の首筋を手で覆い、匂いの元を探るようにあたりを見回す。
 しかし、執務室にはラッセル様の落ち着いたαの香りと、古い紙の匂いが満ちているだけだ。
 この甘い香りは、明らかに俺自身のものだった。

「どうした、レオンハルト。顔色が悪いぞ」

 いつの間にか、ラッセル様がこちらを振り返り、心配そうに眉を寄せていた。
 その紫紺の瞳が、俺のすべてを見透かしているようで心臓が大きく跳ねる。

「い、いえ、なんでもございません。少し、考え事を」

「そうか。あまり根を詰めるなよ。お前が倒れたら、私が困る」

 優しい言葉とは裏腹に、その視線はどこか探るような色を帯びていた。
 ラッセル様は、病弱な見た目に反して非常に聡明で、洞察力に優れたお方だ。
 些細な変化も見逃さない。
 俺のこの異変にも、すでに何か感づかれているのかもしれない。

 その夜、自室に戻った俺は鏡に映る自分を見て愕然とした。
 頬は上気し、目は潤んでいる。
 なにより、自分から立ち上る甘い香りが先ほどよりも明らかに濃くなっていた。
 それはまるで、熟れすぎた果実のようなむせ返るほどの香りだった。

 これは、Ωのフェロモンに似ている。

 脳裏に浮かんだ可能性に、血の気が引いた。
 馬鹿な。
 俺はβだ。
 シュトラウス家は代々βの家系で、αやΩが生まれた記録などない。
 それに、性分化は十代前半に終わるのが普通だ。
 十八にもなって、今更Ωになるなどあり得ない。

 だが、現に俺の身体はあり得ない変化を訴えていた。
 ごく稀に、成人してから二次性徴を迎え、βがΩへと変化する「遅延分化」という症例があることを書物で読んだ記憶がある。
 まさか、自分がその稀な症例だというのか。

 Ωは、虚弱で庇護されるべき存在。
 定期的に発情期(ヒート)を迎え、αの番となることでしか安定を得られない。
 そんな脆弱な性が、主君をお守りする従者に務まるはずがない。

『冗談じゃない……!』

 俺の存在意義は、ラッセル様をお守りすることだ。
 そのために、誰よりも強靭な肉体と精神を鍛え上げてきた。
 それが、守られる側のΩになるなど死んだ方がましだ。

 翌日から、俺は薬草師の元へ通い、体質を偽るための薬を手に入れた。
 強い苦味のある薬を毎日飲むことで、甘い香りはどうにか抑え込めたが、身体の気怠さや微熱は消えない。
 それでも、俺はラッセル様の前では完璧な従者であろうと必死に平静を装った。

 そんなある日の午後、庭園を散策していたラッセル様がふと足を止めた。

「レオンハルト」

「は、はい」

「お前、最近何か隠していないか」

 静かな問いに、心臓が凍り付く。
 振り返ったラッセル様の紫紺の瞳は、穏やかながらも有無を言わせぬ光を宿していた。

「……隠し事など、滅相もございません」

「そうか。ならいいんだ」

 ラッセル様はそれ以上何も言わず、またゆっくりと歩き出した。
 だが、その横顔には確信めいた笑みが浮かんでいるように見えた。
 まるで、俺が隠し通せるはずがないと最初から分かっているかのように。

 背筋を冷たい汗が伝う。
 俺は、この聡明な主君からいつまでこの秘密を隠し通せるのだろうか。
 そして、この身体の変化が意味するものとは一体何なのか。

 答えの出ない問いを抱えながら、俺はただ、崩れ落ちそうになる身体に力を込めて主君の半歩後ろを歩き続けることしかできなかった。
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