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夢の終わり
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その日は、昼から雨が降り続けていた。春先だというのに少し冷える夜、ノラは一人で過ごしていた。
いつもなら隣にいるリアムがいないのは、珍しく彼が自身の家に帰っているからだ。
今ではほとんど家に帰ることもなくなり、朝から晩までずっとノラの家にいたリアム。まるで我が家のように「ただいま」と言って帰ってくる彼がいないことが不思議で、寂しくて、妙に落ち着かない気分になった。
(早く帰ってこないかな……)
ついそんなことを考えてしまうくらい、リアムと共に暮らしている今が当たり前になっていた。それを嬉しく思う反面、少しだけ後ろめたい気持ちになるのは、未だにリアムの両親に自分達のことを報告できていないからだろう。
リアムが願った彼の成人まで、あと三週間。三週間後にはリアムは成人する。そうしたら、彼の両親にも、周囲の皆にも、二人の関係を打ち明けようと話し合って決めていた。
大人同士の付き合いなら、誰に文句を言われることもない。言われたところで、互いに愛し合っているのだから、なんの問題もない。なにも怖くない。すぐそこまで迫っている未来を想像するだけで、胸がドキドキした。
(おばさんとおじさんに許してもらえるかは、まだ分からないけれど……)
当人同士の問題とはいえ、リアムの両親のことを考えるとまだ少し怖かった。リアムは「大丈夫」と言っていたが……とそこまで考えて、ふと意識がリアムのいる隣家に向いた。
(……わざわざウチまで呼びに来るなんて、なにかあったのかな)
これまで、リアムが家に帰らないことに対して、彼の両親はなにも言ってこなかった。いや、正確に言えば「リアムが毎日入り浸っててごめんね」と言われたことはあったが、リアムに対して「帰ってきなさい」と注意している姿を見たことはなかったように思う。まして我が家までやって来て、リアムを連れ帰ったことなど一度もなかった。
放任主義なのかと思っていたが、夕暮れ時、二人揃ってリアムを迎えに来たおじさんとおばさんの表情は、どこか険しかった。
もしや自分達の関係がバレて、叱責されているのでは……静かな家の中に一人でいるせいか、良くない考えばかりが浮かぶ。
降り続ける雨音だけが響く中、騒つく胸を持て余すように、窓の外に視線を向けた時だった。
ガチャ、と家の戸口が開く音がして、ハッと意識をそちらに向けた。
リアムが帰ってきた──瞬時に広がった安堵と喜びから、小走りで玄関まで向かう。
「リアム、おかえ──」
緩む頬を隠しもせず向かった玄関先。そこにいたのは、ずぶ濡れのまま俯き立ち尽くすリアムだった。
「リアム!?」
予想外の姿にギョッとしながらも慌てて駆け寄ると、その身に触れた。
(っ、冷た……!)
隣家から我が家に来るだけのたった数歩の間に、一体なにがあったのか。毛先から落ちる雨垂れもそのままに、未だに俯いたままのリアムに胸がざわつく。
「とにかく中に……わっ!?」
このままでは風邪をひいてしまう。なにかあったのかを聞く前に濡れた体を拭かなければ……そう思い、リアムの手を掴んだ瞬間、手を握り返され、半ば強引に抱き締められた。
「……リアム?」
突然の抱擁に驚くも、そこにはいつもの甘さも温もりもない。
服越しに伝わる冷たい体温と、濡れて冷えていく布の重さ。肩口に顔を埋め、無言のまま震えるリアムに、呼吸を忘れるほどの緊張が走った。
なにか良くないことがあった──そう察するには有り余る一瞬の沈黙の中、忙しなく鳴り始めた心臓の音を隠すように、冷えたリアムの体を優しく包み込んだ。
「……どうしたの? 家で、なにかあった?」
リアムの両親に自分達の関係がバレてしまったのだろうか?
もしや、別れるように言われたのだろうか……そんな悪い考えばかりが渦巻く中、リアムの声がポツリと落ちた。
「……ごめん」
「っ……」
泣き声のように揺れて掠れたリアムの声に、心臓がドクリと跳ねる。
ああ、やはり……咄嗟に浮かんだ考えに薄く唇を噛んだ次の瞬間、背に回ったリアムの指先が、掻き抱くように強く握り締められた。
「……明日、この町を出ることになったんだ」
「…………え?」
「王都に、戻ることになったんだ……ごめん、ごめんね、ノラ……!!」
「──」
思ってもみなかった告白に、思考が停止する。
ただ意識の端で、離れたくないと嫌がる腕を繋ぎ止めるように、震える体をきつく抱き締めていた。
「……王都の屋敷に帰ってくるようにって、報せがあったんだ」
玄関先で抱き合うこと数分、回らない頭をなんとか動かし、リアムを無理やり家の中に引き入れると、浴場に連れて行き、冷えた体を必死に温めた。濡れた服を替え、ベッドに並んで座ると、抱きついたまま離れないリアムごと二人で毛布に包まった。
そうして待つこと暫く、リアムがようやく口を開いた。
「帰ってくるようにって……誰に? それに王都の屋敷って……」
聞き慣れない単語と遠く離れた地名に眉を寄せれば、腰を抱くリアムの指先に力が籠ったのが分かった。
「……父親だよ」
「え?」
「僕の本当の父親は、貴族なんだ。……僕は、貴族と平民の間に生まれた私生児だ」
「──」
衝撃的な告白に、言葉が出てこなかった。
ノラが目を見開いたまま固まっている間に、リアムは自身の半生についてポツリ、ポツリと語り出した。
リアムの父親は侯爵家の嫡男だった。政略結婚をし、当主となった男だが、女癖が悪く、常に愛人がいるような状態だったそうだ。妻となった結婚相手は、政略結婚をした相手に対する愛情もなく、夫の女性関係にも無関心だった。
そんな二人だったが、それでも跡取りとなる息子をもうけた。第一子、第二子と年を繋げて生まれた三年後、侯爵家の使用人として働いていた平民の娘が妊娠した。
未婚の女性が身籠ったことに、周囲は彼女を責め立てたが、彼女が発した一言で侯爵家は大騒ぎになった。
『この子の父親は侯爵様よ!!』
彼女の発言を侯爵は否定したが、過去にも権力を振り翳し、使用人やメイドに手を出していた男の言葉を信じる者は少なかった。なにより、美しい面立ちの彼女に侯爵が言い寄っている姿を、複数の使用人達が目撃していたのだ。
事実、彼女は侯爵に逆らえず、無理やり純潔を奪われ、子を孕んだのだ。彼女は被害者でしかなかった──が、それを許さない者がいた。侯爵夫人だ。
政略結婚の末、貴族の義務として子を成したのに、平民の娘が侯爵の子を身籠った──そのことが、侯爵夫人としての彼女のプライドを深く傷つけた。
怒り狂った侯爵夫人によってリアムの母は屋敷を追い出され、彼女は身重のまま実家に帰った。
それから約半年後、リアムが生まれると同時に、母となる女性はこの世を去った。
望まぬ妊娠と出産で心身共に衰弱し、儚くなってしまった娘。彼女の両親の胸中を想像するのは容易く、行き場のない怒りは生まれたばかりの赤子に向いた。
憎い侯爵の子、ましてや貴族の理不尽な振る舞いで生まれた赤子は、孤児院に捨てられ、そこで『リアム』と名付けられた。
それからは孤児として孤児院で育ったリアムだが、五歳になった頃、突然侯爵家の人間がやってきて、そのまま引き取られたのだという。
なにも分からぬまま、いきなり侯爵家の屋敷に連れてこられたリアムは、そこで前侯爵──血縁上は祖父となる人物と初めて対面した。
前侯爵がリアムを引き取った理由は、リアムの異母兄弟である二人の兄にあった。
侯爵夫妻は子育てに熱心ではなく、後継ぎとして能力に不安が残る状況だった。そのため、前侯爵は万が一の時の『備え』として、リアムを引き取り、侯爵家の後継ぎ候補として育てようとしたのだ。
前侯爵の独断で侯爵家に引き取られたリアムを待っていたのは、華々しい貴族の生活とは程遠いものだった。
侯爵夫人はリアムが後継ぎ候補になることに猛反対したが、前侯爵の意見が覆ることはなく、リアムは常に侯爵夫人に怯えながら生活しなければいけなくなった。
侯爵家の離れに閉じ込められ、貴族子息としての作法を頭と体に叩き込まれるだけの日々。
離れの外に出ることも許されず、自由に過ごせる時間もなく、毎日毎日無理やり勉強をさせられるだけ……そんな辛く悲しい日々に泣いても、リアムを助けてくれる者は一人もいなかった。
我関せずの侯爵と、リアムに憎悪を向ける侯爵夫人。前侯爵はリアムの世話を使用人に任せた後は、存在すら忘れていただろう。下手にリアムに近づき、侯爵夫人の怒りを買うことを恐れた使用人達は皆、決してリアムと関わろうとしなかった。
未来への希望も期待も無く、鬱々と過ぎるだけの毎日を送っていたリアムだが、ある日、突如侯爵家を離れることになった。
八歳になり、貴族令息や令嬢が集う茶会に出席できる年になったリアムだが、侯爵夫人はリアムが表舞台に出ることを嫌がり、ヒステリックに物や使用人に当たるようになった。
これを疎んだ侯爵と二人の異母兄弟は、『アレがいるからいけないのだ』とリアムを屋敷から追い出そうと画策した。
これに気づいた前侯爵は、知らぬ間に侯爵家の血が混じった者をどこかへ追いやられるくらいならば……と、リアムを王都から出すことを決めた。
侯爵家と関わりのない遠く離れた片田舎の町で平民として過ごせば、夫人に見つかることもないだろう──そう言われ、リアムは侯爵家を追い出された。
「そうやって、この町までやってきたんだ。……三年ぶりに屋敷の外に出られたことも、自由に過ごせる時間も、嬉しくて仕方なかったな」
遠くを見つめながら静かに語るリアムに、ノラは言葉を失った。
あまりにも唐突な告白に、思考も感情も追いつかない。ただ、激しい悲しみと怒りが綯い混ぜになり、視界が眩むほど感情が昂った。
侯爵家の人間達の身勝手さと、幼少期のリアムの孤独を想像すると、それだけで握り締めた拳が怒りで震えた。それと同時に、ずっと一緒にいたのに、リアムの過去についてなにも知らなかった自分が情けなくて、悔しくて、泣きたくなった。
子どもの頃から、いつだって笑顔で優しく接してくれたリアム。その裏側に、どれほどの悲しみが積み重なっていたのだろうと思うと、胸が痛くて、苦しくて、声が出なかった。
「……ノラ、大丈夫?」
「だ、だい、じょうぶ、て……っ」
そう問いたいのこちらだと言うのに、どうしてリアムが自分の心配をするのか。
こんな時でさえ自分のことを案じてくれるリアムの優しさが今は苦しくて、堪えていた涙がポタリと零れ落ちた。
「……ごめんね」
「な、で……っ、リアムが、謝ることなんて、ないのに……!」
「うん。でも、泣かせちゃったから……ごめんね。泣いてくれて、ありがとう、ノラ」
「っ……、リアム……!」
そう言って微笑むリアムに、堪らずその身を抱き寄せると、ぎゅうぎゅうと抱き締めた。
「ごめん……! 俺、なんにも、知らなくて……っ」
「……ノラには、知らないままでいてほしかったよ」
抱き締めた腕の中、諦めにも似た呟きが聞こえ、心臓がビクリと竦んだ。
腕の中に閉じ込めていた温もりを離すように、恐る恐る腕の力を緩めれば、目元を赤く染めたリアムの顔が間近に見えた。
「……王都に戻ったら、僕は貴族として生きることになる」
「それ、て……」
「侯爵家を継げってことだろうね」
「──!!」
瞬間、悲鳴めいた呼吸が喉の奥で潰れた。
「なんで、そんな、今更……」
十年も放っておいて、なぜ今更そのような話になるのか……そこまで考え、ハッとする。
「ま、待って、リアムの父親が貴族なら、じゃあ、おじさんと、おばさんは……?」
今し方の話しでは、リアムの母親は既に亡くなっているはずだ。ならば隣家に住むリアムの両親は一体誰なのか、ようやくその疑問に辿り着いた。
「あの二人は、家庭教師兼、僕の見張りだよ」
「見、張り……?」
「僕がどこかに逃げ出さないようにって、侯爵家が付けたんだ。今まで、親子のフリをしてただけだよ」
「うそ……そんな……」
信じられない言葉に、ただただ愕然とする。
リアムと両親の仲は、至って普通の親子に見えた。明るいおじさんと朗らかなおばさん。生前は祖父母とも仲が良く、よく世間話をしながらお茶をしていたのに、あの姿すら偽りだったのかと思うと悲しくて、リアムを取り巻く環境が恐ろしくて、緩めた腕に再度力が籠った。
「大丈夫だよ、ノラ。見張りって言ったって、酷いことをされた訳じゃないし、二人とも、僕に同情して優しくしてくれたから」
「同情って……」
「……本当なら、明日の出発のことだって、黙ってることもできたんだ」
「え?」
「前日に知らせて、逃げられでもしたら大変でしょ? でも、教えてくれた。……ノラと、ちゃんと最後の挨拶ができるようにって」
「っ……」
最後の挨拶──聞きたくなかった、知りたくなかった現実を突きつけられ、息が止まった。
「リ、リアム……」
「……決まってたんだ。僕が成人するまでに、兄達が後継ぎとして問題なく成長できたなら、僕は侯爵家とはなんの関係もない平民として、解放されるって」
言葉と共に、リアムの腕が背に回った。
「あと、少しだったんだ……あと少しで、ノラと一緒に……これからも一緒に、生きていけるって、思ったのに……!」
「~~~っ!!」
掠れて途切れた声が泣き声に変わった瞬間、リアムを守るようにその身を抱き締めていた。
『成人するまで待って』
あの言葉の中に、一体どれほどの重さと希望が詰まっていたのだろう。
なにも知らず、浮かれていた自分が恥ずかしい……そう思うのに、リアムの望んだ未来が『ノラと一緒に生きていくこと』だったことが嬉しくて、嬉しくて、切なくて──その想いだけで、もう胸がいっぱいだった。
『離れたくない』と全身で訴え、腕の中で嗚咽を殺しながら泣くリアム。その背中をそっと撫でると、静かに深呼吸をした。
「……リアム、大好き。大好きだよ」
このまま、リアムとは別れることになるだろう。
考えたくない、信じたくないのに、現実はあまりにも残酷だ。
叶うならば、別れたくない。離れたくない。そう願っているのは自分だけではないことは、重なった体温から痛いほど伝わってきた。
叶わぬ願いに焦がれる悲しみも、離れ離れになる辛さも、きっと二人とも同等で、愛し合った日々は確かに存在していた──それが分かるからこそ、今こうしている瞬間も積み上がっていく思い出だけで、自分は生きていける。そう思えた。
でもリアムは、これから独りで王都に向かわなければいけないのだ。向かった先で待っているのが、幸せな生活でないことくらい、簡単に想像できた。
一人も味方のいない貴族の世界で、たった独り、孤独と闘いながら侯爵家の跡取りとして生きていかなければいけないリアム。そんな未来を想像するだけで、身を切られるような痛みが胸を刺した。
だからこそ、ここで「嫌だ」「離れたくない」「行かないで」なんて弱音は、とても口にできなかった。
リアムの方がずっとずっと辛くて、悲しくて、悔しくて堪らないだろうに、自分が泣き言を言う訳にはいかなかった。
(このまま、二人でどこかへ逃げてしまいたい……)
どうしようもない願望も、口にしてしまわないよう、必死に奥歯を噛み締めた。
逃げ道があるのなら、きっとリアムが言っている。「このまま二人で逃げよう」と言ってくれる。
その言葉を口にしないということは、定められた人生から逃げることはできないと、彼自身、悟っているのだろう。
「大好き……愛してるよ、リアム」
ならばせめて、最後の記憶は愛おしいものであってほしい。
リアムのこの先の人生に、例え自分は関われなくとも、彼の孤独の一片を溶かせるような思い出になりたい──そう願いを込め、愛を紡いだ。
「ずっとずっと、愛してる」
精一杯の愛情を込めて振り絞った声は、リアムの泣き声と雨音に混じり合い、夜の帳に消えていった。
その夜は、二人抱き合ったまま眠りについた。離れたくないと希うように、共に相手の体を抱き締め、唇が重なるだけのキスをした。
リアムの体温も、匂いも、温かくて心地良くて、心底愛しくて、このまま朝が来なければいいのにと本気で願った。
眠ってしまうのが怖くて、リアムの金色の髪に指先を絡め、胸元に寄せたまろい頭をそっと撫でる。
『大好き』という想いを込めて、額に口づけを落とせば、返事をするように首筋に口づけが返ってきた。
互いに一言も発しないまま、抱き締めた温もりを忘れないようにと、手と唇で触れ合う。
子どもの戯れのように過ごした最後の夜は、切なさだけを残し、瞬きの間に終わりの刻を迎えた。
まだ陽も昇らない暗い部屋の中、リアムがゆっくりと体を起こした。それだけで、その時が来たのだと察してしまえた。
互いに口を噤んだまま、どちらともなく手を取り合うと、ベッドを抜け出し、静寂が満ちる家の中をゆっくりと歩き出した。
小さな家の中、あっという間に辿り着いた玄関先。その扉の前で、口を閉ざしたまま、二人立ち尽くした。
この扉を開けたら、きっともう二度とリアムには会えないだろう……目の前に迫った別れの時が信じられなくて、信じたくなくて、ぐっと唇を噛んだ。
(……嫌だ)
ほんの数時間前、昨日の夕刻までは、こんな未来が待っているだなんて、想像すらしていなかった。
明日もきっと、今日と同じ一日が待っているのだと、これからもこの先も、リアムと一緒にいられる未来が続いているのだと、信じて疑わなかった。
たった一晩の間に奪われてしまったものはあまりにも大きくて、苦しくて、離れたくなくて、繋いだ手を解くことができなかった。
(嫌だよ……!!)
行かないで──そう口にできたなら、どれほど良かっただろう。
本当は、大声で泣いてしまいたい。別れたくない、離れたくないと、みっともないほど泣いて縋りつきたい。だがリアム自身、彼の力ではどうにもできない現実に苦しんでいるというのに、これ以上の重荷など背負わせられなかった。
(……泣くな)
「さようなら」なんて、別れの言葉は言いたくない。
「元気で」なんて、望まぬ旅立ちを強要された彼に言いたくない。……贈る言葉が見つからない。
ただ泣き顔だけは見せないようにと、繋いだ指先に力を込めると、くっと顔を上げた。
せめて、リアムの姿をきちんと目に焼き付けておこう──そう思い、向けた視線の先にあったのは、真っ直ぐこちらを見つめる青い瞳だった。
「……リアム?」
「僕は、ノラとの未来を諦めたくない」
「──」
力強く発せられたリアムの言葉に、息を呑む。
「貴族になんてなりたくない。爵位なんていらない。ノラ以外に大事なものも、大切なものも、欲しいものもない」
「っ……」
自分を丸ごと求めるような言い方に、ドキリと胸が鳴る。初めて向けられた強烈な欲に戸惑うも、熱を孕んだリアムの眼差しは強く、逸らすことができなかった。
「絶対に帰ってくる。時間は掛かっちゃうかもしれないけど、ノラのところへ、必ず帰ってくる。絶対に。だから、だからどうか、待っていて」
「リアム……」
繋いだ手を両手で包み込み、懇願するようにこちらを見つめるリアムの指先は、微かに震えていた。その真剣な表情に愛しさが込み上げるも、同時に胸に湧いたのは、どうしようもない切なさだった。
本人の意思とは関係なく、無理やり王都へと連れ戻されるリアム。帰ったところで、きっと自由を奪われ、意思もすべて無視されるだろう。
そんな中で、リアムがこの町に帰ってこられる可能性などあるのだろうか──無意識の内に滲んだ疑問と不安は、即座に振り払った。
(……違う。これはリアムの希望なんだ)
現実など関係ない。例え夢物語だとしても、叶わぬ願いだったとしても、それがリアムにとっての希望であるならば、返事など決まりきっていた。
「うん。待ってる。ずっと、待ってるよ」
リアムの願いは、自分の願いだ。
不安を飲み込み、なんとか笑顔を作れば、リアムの表情が一瞬崩れ、すぐに泣きそうな笑みへと変わった。
「……ありがとう。愛してるよ、ノラ」
「俺も、愛してるよ、リアム」
そう言って笑い合うと、指先を絡め、キスをした。
殊更丁寧に、想いを込めて交わした口づけ。重なった唇がゆっくり離れていくのと一緒に、絡んでいた指先が解け、リアムの体温が離れていく。そのまま背を向け、玄関扉を開けたリアムが一歩を踏み出す。
「……いってきます」
「……うん、いってらっしゃい」
振り返って微笑んだリアムの言葉に涙が溢れそうになるも、必死に笑ってみせた。
ゆっくりと閉まっていく扉に遮られ、リアムの姿が徐々に見えなくなっていく。
パタン……と閉じられた扉の向こう、完全にその背が見えなくなると同時に、その場に崩れ落ちた。
「はっ……はっ……」
堪えていた涙が瞳からボロボロと零れ落ち、我慢していた感情が一気に溢れ出す。
悲しい、悔しい、寂しい、苦しい……いくつもの負の感情がごちゃ混ぜになり、自分の気持ちがどこにあるのかも分からない。ただ今は、まだ扉の近くにいるリアムに泣き声が聞こえないように、声を殺して泣くことしかできなかった。
「う、く……っ」
悪い夢だと思いたい。嘘だと言ってほしい。そう強く願っても、目の前の扉が開くことも、リアムが帰ってくることもなかった。
(リアム……ッ、リアム、大好きだよ……!)
もう届かない声で、愛しい人への愛を謳う。
一人残された薄暗い家の中、満ち足りていた幸福が、音もなく崩れていく音を聞いた。
それから暫く経ち、空が白み始めた頃、リアムの家の前に一台の馬車が停まった。
片田舎ではお目に掛かることのない立派な馬車。そこにリアムと彼の両親だった二人が乗り込む姿を、小窓のカーテンの隙間からそっと見つめた。
一瞬、リアムの瞳がこちらを向いた気がしたが、その視線はすぐに逸れてしまった。最後に見えたリアムの横顔は冷え切っていて、どうしようもなく胸を締め付けられた。
(リアム……)
どうか、彼がこれから向かう先が、少しでも優しく明るい世界でありますように──そう祈っている間に馬車は動き出し、朝靄の中へと消えていった。
(……終わってしまった)
出会いから十年。その中で恋人として過ごせた時間は、たった半年。
長い長い片思いの末にようやく実った恋は、あっけないほど簡単に、強制的に終幕を迎えた。
突然の別れはどこか現実離れしていて、頭の中にモヤが掛かっているように思考は鈍ったままだ。それでも、胸が張り裂けてしまいそうなほどの悲しみの中にも、幸せだった時間の記憶が蘇ってきて、じわりと視界が滲んだ。
「……好きだよ」
小さな呟きが、リアムに届くことはない。ただ行き場を失った愛情だけが、溢れて止まらなくなった。
「大好きだよ……リアム」
リアムが帰ってこられる可能性は零に近いだろう。
リアムの言葉を信じていない訳じゃない。けれど、希望を持つことを許してくれるほど、現実は優しくないと知ってしまった。
「大好き……っ」
リアムにまた会いたい。叶うならば、思い描いていた未来のように、共に生きていきたい。でもそのために、無茶はしてほしくなかった。
もしもリアムが、帰った先で幸せになれるならそれでいい。それがいい。薄情だと思われても構わない。リアムが幸せになれるなら、自分のことは忘れてくれたっていい。
だから、この願いも、この想いも、自分だけのものとして大事にしていこうと心に決めた。
「ずっとずっと、大好きだよ……!」
愛し合った日々の思い出だけで、一人でも生きていける──そう、自分自身に言い聞かせた。
リアムが町を去った翌日、リアム一家がいなくなった噂は瞬く間に町中に広がった。
元より目立つ存在だったリアムが姿を消したこと、町の役人として働いていたリアムの父が出勤してこなかったことで発覚した一家の失踪に、小さな町はちょっとしたパニックに陥った。
もぬけの殻となった家の中に、急遽町を出ることになった旨を認めた置き手紙が残されていたことで事態は収束したが、そこかしこでリアム一家についての噂が囁かれた。
なにか事件に巻き込まれたのではないか、誰かに追われていたのではないか、どこかの貴族に攫われたのではないか……そんな話が方々から聞こえてきた。
ノラも何人もの知り合いから、突然の失踪の理由や行き先について聞かれたが、「なにも知らない。聞いていない」と返し続けた。
幼い頃からの知り合い達は、「ノラが知らないなら誰も知らないよな」とすぐに納得してくれたが、リアムに懸想していた少女達からはなにか知っているんじゃないかと詰め寄られた。
だが何度尋ねられようと一貫して知らぬ存ぜぬを貫き通している内に、彼女達も諦めたのか、次第に話しかけられることもなくなった。
リアムが自分にだけ打ち明けてくれた秘密を、誰にも教えたくないという思いもあったが、なにより自分自身、リアムの抱える秘密についてよく知らないのだ。知らないことは話せないし、他人の秘密を勝手に話すつもりもない。だからこそ、真実は自分の胸の内にこっそりと秘め続けた。
そうして一週間、二週間と経つ内に、リアムの噂話を耳にする機会はどんどん減っていった。
まるでリアムが皆の記憶から忘れ去られていくような寂しさに、少しばかり胸が痛んだが、致し方のないことだと、無理やり自分を納得させた。
そんな中でも、日々の生活は当たり前のように続いていく。
朝起きて、朝食を食べて、仕事に行って、昼食を食べて、また仕事をして、帰ってきて夕食を食べる。
毎日同じことの繰り返し。それ自体はこれまでの生活と変わらないはずなのに、『リアムがいない』というただそれだけで、恐ろしいほどの孤独感に襲われた。
祖父母を亡くしてから、ずっと側にいてくれたリアム。共に暮らし、同じ食卓を囲み、他愛もない会話を楽しみながら笑い合っていた時間は、あまりにも幸福に満ちていた。
祖父母とリアム。ノラにとって大事な人達の思い出が詰まった家の中で一人過ごす時間は、うるさいほど静かで、心が死んでしまいそうなほど寂しくて、何度泣いたか分からない。
それでも、明日は無情にやってくる。「明けないで」と願った夜でさえ、当然という顔をして朝はやってきた。
立ち止まることも、振り返ることも許されないまま、虚無感に襲われながらも、ただ必死に毎日を生き続けた。
孤独な日々にも少しずつ慣れ始めた頃、信じられない噂が町中に流れた。リアムによく似た青年が、王宮で開かれた王女の生誕パーティーに参加していたという話だ。
噂の出所は町の領主である男爵で、実際にパーティーに参加していた彼の発言には信憑性があった。
自身の娘がリアムに懸想していたことで、その存在を知っていた男爵。貴族としては末席になるとはいえ、平民との恋愛に難色を示していた男爵だからこそ、リアムが貴族として、それも侯爵家の者として参加していたことに心底驚いたらしい。
驚愕を誰かと共有したくなったのか、交流のあった町長へと話は流れ、その噂はあっという間に町中に広がった。
リアムがいなくなってから約半年。再び噂話で色めき立つ周囲とは裏腹に、ノラの気分は重く沈んだ。
王宮での王女の生誕パーティー……平民である自分には、想像すらできないほど遠い世界に行ってしまった愛しい人に、絶望にも似た寂寥感が押し寄せる。だがここで悲しい顔をするのはおかしくて、周りの皆に合わせるように驚くフリをした。
そんな中、リアムに想いを寄せていた少女がポツリと呟いた。
「リアムくんのこと、王子様みたいって思ってたけど、本当に住む世界が違ったんだね」
その一言が、グサリと胸を刺した。
住む世界が違う──その通りの現実に、愛し合った日々まで否定されたようで、胸が苦しくて、上手く息ができなくなる。
(……そういえば、初めて会った時から、リアムは他の子達と違ってたっけ)
現実逃避をするように思い出したのは、初めてリアムにあった日の記憶だ。
容姿も、言葉使いも、何気ない所作も、リアムは町の子ども達とはまったく違っていた。
一目惚れをしたのは間違いないが、リアムが纏う特別な雰囲気に、子ども心に惹かれていたのだろう、と今頃になって気づく。
(……俺は、リアムの全部が好きだったけど、リアムは、俺のどこを好きでいてくれたんだろう)
思い返せば、自分のどこを好いてくれたのか、一度もリアムに尋ねたことはなかった。
告白されたあの日から、「大好きだよ」「可愛いね」と何十回と言われ、羞恥心から聞けなかったというのもあるが、なにより自分に自信がなかったのだ。
美しく、優しく、魅力的なリアムと、体付きが少し立派なこと以外にこれと言って突出したものを持っていない自分。
付き合っていた頃は、リアムと恋人になれたことが嬉しくて気にならなかったことが、離れ離れになってしまった今、こんなにも後ろめたく感じてしまう。
(ダメだ、そんな風に考えちゃ……!)
じわじわと滲み出した悪い考えを振り払うように、ふるりと頭を振るう。
自分もリアムも、互いに相手のことを心から想っていた。間違いなく愛し合っていた。
分かっているはずなのに、そんな過去まで疑ってしまいそうになる自分が心底嫌だった。
リアムが王宮のパーティーに参加していたという噂が広まってから、彼に懸想していた少女達はリアムの話題を口にしなくなった。
突然姿を消し、貴族として再び姿を現したリアム。貴族の令息が事情があって平民のフリをしていたのだろうと想像するのは容易く、ほとんどの者は身分違いの恋に夢見ることなく、現実を受け入れた。
実らなかった恋の終わりと共に、多くの少女達は大人の女性へと成長し、やがて同年代の中でも結婚する者が現れ始めた。
一人、二人と幼い頃からの顔馴染み達が恋仲になり、次々と結婚していく──その流れに逆らえるはずもなく、ノラの元にも結婚を前提とした交際の話が持ち込まれるようになった。
(参ったな……)
リアムと離れ離れになって二年。二十一歳になったノラの元には、世話焼きなおじさんやおばさんからの「いい子がいるの」という紹介が続いていた。
今日も近所のおばさんに捕まり、なんやかんやと世間話をするついでに彼女の姪だという隣町の少女を紹介され、逃げるようにして帰ってきた。
妙に疲れの滲む体を引きずるようにフラフラと自室へと向かうと、ベッドの上に倒れ込んだ。
「はぁ……」
堪らず漏れた溜め息は、鬱屈としていた。
現状に至る原因は分かっていた。共に暮らしていた祖父母を亡くし、親友だったリアムを失い、周囲との交流も最低限で浮いた話もないまま、仕事に打ち込むだけの自分を皆案じてくれているのだ。
孤独感や寂しさを消化しようとするのに必死で、周囲に目を向ける余裕がなかったのが原因なのだが、最近は「早く家庭を持って、おじいさんとおばあさんを安心させてあげなさい」とまで言われるようになり、皆の心配がただただ苦痛になっていた。
祖父も、祖母も、きっと自分にそんなことは望んでいないだろう。
リアムへの恋心に気づいていながら、ノラの気持ちを理解し、静かに見守ってくれた優しい祖父母。その想いを都合のいい勝手な言葉に書き換えられているようで、憤りすら感じた。
(こんな風に考えちゃいけないのに……)
心配してくれるのは嬉しい。でも放っておいてほしい……それが本音だった。
あれから、ゆっくりとだが日々の物悲しさにも慣れ始めたというのに、ここに来て再び心を乱されるようなことになるとは思ってもみなかった。
(俺とリアムが恋人同士だって、皆が知ってたなら、なにか違ってたのかな……)
心労から、ふとそんな考えが浮かんだ時だった。
──もう、リアムへの恋心を隠さなくてもいいのではないだろうか?
ふっと湧いた思考に、ハッと目を見開くと上体を起こした。
「そうだ……」
同性へ向けた恋愛感情という後ろめたさと、公にすることでリアムに迷惑がかかるのではという恐怖心から、ずっと隠してきたリアムとの関係。だがそれももう、隠す必要が無くなったではないか。
自分しかいない今、例え同性間の恋愛に対して理解を得られず馬鹿にされようと、軽蔑されようと、誰も傷ついたりしない。
自分が好きなのはリアムであって、それは恥ずべきことではないと、祖父とリアムが教えてくれたのだ。誰になにを言われようと、傷ついたりしない。
『僕が好きなのはノラだし、周りにどう言われようと思われようと、なにも気にならないよ。それだけは知っていてね』
いつかのリアムの言葉と愛しい声を思い出し、ジン……と目頭が熱くなる。
(……俺が好きなのも、リアムだけだよ)
恋人同士だったことは言わない。きっと交際していた過去を明かしたところで、嘘だと思われるだけだろう。なにより、付き合っていることは二人だけの秘密にしようと決めていたのだ。
リアムが成人したら、交際していることを皆にも伝えよう……そう約束していた彼は、もういない。
ならば二人だけの秘密は秘密のまま、自分だけの思い出として、大事にしまっておきたかった。
(もう、隠さなくていいんだ)
リアムと恋人同士だったことは秘密のままでも、自分がリアムのことを愛しているのは本当で、この想いが変わらないのは嘘じゃない。
頼りなく不安定に揺れていた自身の気持ちをしっかりと胸に刻むと、ノラは深く深呼吸をした。
数日後、またいつものように、知り合いの年配の男性から女性を紹介された。
「一度付き合ってみたらどうだ? 好きになるかもしれないぞ」
「……悪いけど、好きな人がいるから、誰とも付き合う気はないんだ」
これまでなんとなくその場を濁して、この手の話題から逃げていた。そんな自分がハッキリと『好きな人がいる』と告げたことがよほど予想外だったのか、近くにいた知り合いも寄ってきて、「誰だ、誰だ」と好奇心を隠そうともせずに聞いてきた。
(……大丈夫)
自分の気持ちを正直に口にするのは、勇気がいる。緊張もする。まったく怖くないと言えば嘘になる。
でも、精一杯胸を張って、堂々と愛する人への気持ちを言葉にしたかった。
「リアムだよ」
瞬間、その場の音が止んだ。
「俺は、リアムが好きだ。だから、他の誰かと付き合うつもりも、好きでもない相手と結婚するつもりもないよ」
ハッキリ告げた言葉は存外力強く、振り絞った声は、ほんの少しも震えていなかった。
それから、自分がリアムに懸想していることがじわじわと周囲に広まっていった。
初めてリアムへの想いを暴露した時は、冗談だと思われて笑われたが、何度も同じ理由で断り続けている内に、皆ようやく本当のことだと気づいたらしく、次第に女性を紹介されることも無くなった。
その間も、色々お節介を焼かれることはあった。
「友愛と恋愛を履き違えているんじゃないか」「男が好きなのか」「おじいさんとおばあさんが悲しむぞ」等々、叱責紛いに責められることもあった。
その度に、「恋愛感情として好きだし、友愛と履き違えている訳じゃない」「男が好きなんじゃなくて、リアムだから好きになったんだ」「祖父母は自分の気持ちも知っていて、応援してくれた」と、ハッキリ言い返している内になにも言われなくなった。
その後、暫くは腫れ物に触るような、やんわりと遠巻きにされるような空気が漂ったが、こうなることは覚悟していた。然程気にすることもなく、今までと変わらぬ生活を続けていたが、数週間が経つ頃には、意外にも自分のことを励ましてくれる人達が現れた。
それは幼い頃からこの町で共に育った、昔馴染み達だった。
「お前がリアムを好きだってことは、なんとなく知ってたよ」
ある日の夕暮れ、仕事終わりに突然飲みに誘われて向かった先では、見知った顔が何人も揃っていた。そこで唐突にリアムの話題を出され驚いたが、そこに嫌悪感はなく、逆に動揺してしまった。
「どうした? バレバレだったことに驚いたか?」
「いや……いや、そっちも驚いたけど……その、俺がリアムのことを好きだって言っても、なにも思わないのか?」
「なにかって?」
「その……男同士なのに、おかしいとか……」
「そりゃあ、今までそういうヤツが周りいなかったからな。正直驚いたし、変に気も遣っちまったけど、別におかしいとは思ってねぇよ。国だって同性婚を認めてるんだ。年寄り達みたいに、やいやい言ったりしねぇよ」
「……そう、か」
「当然」とでも言うように、あっけらかんと告げる昔馴染みとその言葉に頷く周囲に、それまで張っていた気がゆるりと解けた。
「ただまぁ、リアムのことは早く忘れな。もう会えないヤツのことを想っても、お前が辛くなるだけだぞ」
「……うん。ありがとう」
そこでようやく気づく。彼も、他の皆も、自分のことを慰めるために集まってくれたのだ、と。
同性に向けた恋愛感情を否定するでも、いない相手をいつまでも想い続ける滑稽さを馬鹿にするでもなく、ただ『このまま想い続けても辛くなるだけだ』と自分のことを心配し、諭してくれているのだ。
「本当に……ありがとう……っ」
それに気づいた瞬間、泣いていた。
これまで、祖父母を亡くし、愛した人と離れ離れになり、独りぼっちになってしまったという孤独感に必死に耐えていた。
だが実際は、色んなことに怯え、心配してくれる周囲の気遣いや優しさにも気づかず、自分から孤独の殻に閉じ籠っていただけなのだ。
己の情けなさと薄情さが恥ずかしくて、こんな自分のことも案じてくれる皆の優しさが嬉しくて、涙が止まらなかった。
その間も、誰かが背を叩き、皆が明るい口調で「今日はいくらでも飲め!」「奢りだから飲まないと損だぞ!」と軽口を言う。大の男がメソメソ泣いていても、気にせず笑わせてくれようとするその優しさに、気づけば自然と頬が緩んでいた。
二年前、リアムと別れたあの日から、初めて笑ったような気がした。
その日から、昔馴染み達とは幼い頃のような友人関係に戻った。
思い返せばリアムが引っ越してくるまでは、年の近い子達とは性別問わず遊ぶ仲だった。それがいつしかリアムとばかり一緒にいるようになり、その関係が薄れていたのだ。
「ノラはリアムとばっか遊んでたし、リアムはノラ以外のヤツには無関心だったからな」
そう言われた時は少しばかり気まずい気持ちになったが、続けて「ノラはリアムのことが大好きだったもんな」と揶揄うように言われ、気まずさはすぐに恥ずかしさに変わった。でも今は、その気恥ずかしささえ、どこか心地良かった。
友人達との会話が増え、共に行動する時間も増えると、それまでのどこか遠巻きにされていたような空気は和らぎ、元の生活が帰ってきた。
正直、同性同士の恋愛について、もっと厳しい態度を取られると思っていた。事実、町の人全員に理解してもらえた訳じゃない。「気持ち悪い」と嫌悪感を剥き出しにした言葉を投げつけられたこともあったし、「男が好きって本当かよ」と嗤われたこともあった。
だがそれも極少数の人からであって、ほとんどの者は無関心か、意外にも応援してくれる人の方が多かった。
同性への恋愛感情を告白したら、生き辛くなってしまうのではないかとずっと怯えていたが、存外息がしやすい現実に、十年以上抱えていた不安や緊張が解けていくのが分かった。
(リアムと恋人になったって言っても、大丈夫だったのかな)
一瞬そんなことを思うも、やはりリアムの人気ぶりを考えれば難しかっただろうな、と苦笑が零れた。
リアムへの恋情を告白し、友人達に受け入れてもらえたあの日以降、リアムと過ごした日々を思い出しても、以前のように辛くなることはなくなった。
悲しくない訳じゃない。寂しくない訳じゃない。でも、じくじくと痛むような辛さは和らぎ、遠く離れてしまった温もりを懐かしく、愛しく思えるようになっていた。
(……少しは、強くなれたのかな)
リアムが旅立つ前夜、泣きじゃくるリアムを抱き締めながら思い浮かべた未来に、自分は今いるのだ。
愛し合った日々の思い出だけで、一人でも生きていける──強がってみせたあの日の自分に、ようやく胸を張って向き合えるような気がした。
それからは、ただ同じ毎日を繰り返すだけの無気力な生き方はしなくなった。
寂しさを忘れるように仕事に打ち込むこともなく、時たま友人達と食事に出掛け、普通に笑えるようにもなった。
勿論、リアムのことを忘れた日なんて一度もない。ふとした時に、祖父母やリアムと過ごした時間や共に囲んだ食卓を思い出しては、しんみりとすることもあったが、きちんと思い出として、愛しいと思えるようになった。
仕事もそれなりに順調で、天国にいる祖父母を心配させない程度には自立した生活ができるようになった。
二人が眠る墓石の前に行っても、もう泣いたりしない。弱音を吐くこともない。「一人でも、なんとかやってるよ」と、笑って報告ができるようになった。
その間も、何度かリアムの話題を耳にすることがあった。
次期侯爵として夜会に参加していた、末の王女様とダンスを踊っていた、恋人ではないかと噂されている、婚約者として正式に発表された……等々、様々な噂が流れた。
その度に、友人達は自分のことを気遣ってくれたが、「俺が一方的にリアムを想ってるだけだから」と、笑って本音を隠した。
本当は、胸が痛くて堪らなかった。泣きそうになるのを堪えるので精一杯だった。でも、悲しんでも現実は変わらない。
次期侯爵として王女と婚約した恋人と、片田舎の小さな町に暮らす平民。高い塀と深い谷底に隔たれたような身分の差は、ただ「好き」と気持ちを口にするのも憚れるほど、絶望的なものになってしまった。
それでも想いは変わらなかった。口に出さずとも、リアムのことがずっと好きだった。
密かに、静かに、未練がましく想う日々──そうやって過ごした四年間は、愛する人の結婚の報せで終わりを迎えようとしていた。
いつもなら隣にいるリアムがいないのは、珍しく彼が自身の家に帰っているからだ。
今ではほとんど家に帰ることもなくなり、朝から晩までずっとノラの家にいたリアム。まるで我が家のように「ただいま」と言って帰ってくる彼がいないことが不思議で、寂しくて、妙に落ち着かない気分になった。
(早く帰ってこないかな……)
ついそんなことを考えてしまうくらい、リアムと共に暮らしている今が当たり前になっていた。それを嬉しく思う反面、少しだけ後ろめたい気持ちになるのは、未だにリアムの両親に自分達のことを報告できていないからだろう。
リアムが願った彼の成人まで、あと三週間。三週間後にはリアムは成人する。そうしたら、彼の両親にも、周囲の皆にも、二人の関係を打ち明けようと話し合って決めていた。
大人同士の付き合いなら、誰に文句を言われることもない。言われたところで、互いに愛し合っているのだから、なんの問題もない。なにも怖くない。すぐそこまで迫っている未来を想像するだけで、胸がドキドキした。
(おばさんとおじさんに許してもらえるかは、まだ分からないけれど……)
当人同士の問題とはいえ、リアムの両親のことを考えるとまだ少し怖かった。リアムは「大丈夫」と言っていたが……とそこまで考えて、ふと意識がリアムのいる隣家に向いた。
(……わざわざウチまで呼びに来るなんて、なにかあったのかな)
これまで、リアムが家に帰らないことに対して、彼の両親はなにも言ってこなかった。いや、正確に言えば「リアムが毎日入り浸っててごめんね」と言われたことはあったが、リアムに対して「帰ってきなさい」と注意している姿を見たことはなかったように思う。まして我が家までやって来て、リアムを連れ帰ったことなど一度もなかった。
放任主義なのかと思っていたが、夕暮れ時、二人揃ってリアムを迎えに来たおじさんとおばさんの表情は、どこか険しかった。
もしや自分達の関係がバレて、叱責されているのでは……静かな家の中に一人でいるせいか、良くない考えばかりが浮かぶ。
降り続ける雨音だけが響く中、騒つく胸を持て余すように、窓の外に視線を向けた時だった。
ガチャ、と家の戸口が開く音がして、ハッと意識をそちらに向けた。
リアムが帰ってきた──瞬時に広がった安堵と喜びから、小走りで玄関まで向かう。
「リアム、おかえ──」
緩む頬を隠しもせず向かった玄関先。そこにいたのは、ずぶ濡れのまま俯き立ち尽くすリアムだった。
「リアム!?」
予想外の姿にギョッとしながらも慌てて駆け寄ると、その身に触れた。
(っ、冷た……!)
隣家から我が家に来るだけのたった数歩の間に、一体なにがあったのか。毛先から落ちる雨垂れもそのままに、未だに俯いたままのリアムに胸がざわつく。
「とにかく中に……わっ!?」
このままでは風邪をひいてしまう。なにかあったのかを聞く前に濡れた体を拭かなければ……そう思い、リアムの手を掴んだ瞬間、手を握り返され、半ば強引に抱き締められた。
「……リアム?」
突然の抱擁に驚くも、そこにはいつもの甘さも温もりもない。
服越しに伝わる冷たい体温と、濡れて冷えていく布の重さ。肩口に顔を埋め、無言のまま震えるリアムに、呼吸を忘れるほどの緊張が走った。
なにか良くないことがあった──そう察するには有り余る一瞬の沈黙の中、忙しなく鳴り始めた心臓の音を隠すように、冷えたリアムの体を優しく包み込んだ。
「……どうしたの? 家で、なにかあった?」
リアムの両親に自分達の関係がバレてしまったのだろうか?
もしや、別れるように言われたのだろうか……そんな悪い考えばかりが渦巻く中、リアムの声がポツリと落ちた。
「……ごめん」
「っ……」
泣き声のように揺れて掠れたリアムの声に、心臓がドクリと跳ねる。
ああ、やはり……咄嗟に浮かんだ考えに薄く唇を噛んだ次の瞬間、背に回ったリアムの指先が、掻き抱くように強く握り締められた。
「……明日、この町を出ることになったんだ」
「…………え?」
「王都に、戻ることになったんだ……ごめん、ごめんね、ノラ……!!」
「──」
思ってもみなかった告白に、思考が停止する。
ただ意識の端で、離れたくないと嫌がる腕を繋ぎ止めるように、震える体をきつく抱き締めていた。
「……王都の屋敷に帰ってくるようにって、報せがあったんだ」
玄関先で抱き合うこと数分、回らない頭をなんとか動かし、リアムを無理やり家の中に引き入れると、浴場に連れて行き、冷えた体を必死に温めた。濡れた服を替え、ベッドに並んで座ると、抱きついたまま離れないリアムごと二人で毛布に包まった。
そうして待つこと暫く、リアムがようやく口を開いた。
「帰ってくるようにって……誰に? それに王都の屋敷って……」
聞き慣れない単語と遠く離れた地名に眉を寄せれば、腰を抱くリアムの指先に力が籠ったのが分かった。
「……父親だよ」
「え?」
「僕の本当の父親は、貴族なんだ。……僕は、貴族と平民の間に生まれた私生児だ」
「──」
衝撃的な告白に、言葉が出てこなかった。
ノラが目を見開いたまま固まっている間に、リアムは自身の半生についてポツリ、ポツリと語り出した。
リアムの父親は侯爵家の嫡男だった。政略結婚をし、当主となった男だが、女癖が悪く、常に愛人がいるような状態だったそうだ。妻となった結婚相手は、政略結婚をした相手に対する愛情もなく、夫の女性関係にも無関心だった。
そんな二人だったが、それでも跡取りとなる息子をもうけた。第一子、第二子と年を繋げて生まれた三年後、侯爵家の使用人として働いていた平民の娘が妊娠した。
未婚の女性が身籠ったことに、周囲は彼女を責め立てたが、彼女が発した一言で侯爵家は大騒ぎになった。
『この子の父親は侯爵様よ!!』
彼女の発言を侯爵は否定したが、過去にも権力を振り翳し、使用人やメイドに手を出していた男の言葉を信じる者は少なかった。なにより、美しい面立ちの彼女に侯爵が言い寄っている姿を、複数の使用人達が目撃していたのだ。
事実、彼女は侯爵に逆らえず、無理やり純潔を奪われ、子を孕んだのだ。彼女は被害者でしかなかった──が、それを許さない者がいた。侯爵夫人だ。
政略結婚の末、貴族の義務として子を成したのに、平民の娘が侯爵の子を身籠った──そのことが、侯爵夫人としての彼女のプライドを深く傷つけた。
怒り狂った侯爵夫人によってリアムの母は屋敷を追い出され、彼女は身重のまま実家に帰った。
それから約半年後、リアムが生まれると同時に、母となる女性はこの世を去った。
望まぬ妊娠と出産で心身共に衰弱し、儚くなってしまった娘。彼女の両親の胸中を想像するのは容易く、行き場のない怒りは生まれたばかりの赤子に向いた。
憎い侯爵の子、ましてや貴族の理不尽な振る舞いで生まれた赤子は、孤児院に捨てられ、そこで『リアム』と名付けられた。
それからは孤児として孤児院で育ったリアムだが、五歳になった頃、突然侯爵家の人間がやってきて、そのまま引き取られたのだという。
なにも分からぬまま、いきなり侯爵家の屋敷に連れてこられたリアムは、そこで前侯爵──血縁上は祖父となる人物と初めて対面した。
前侯爵がリアムを引き取った理由は、リアムの異母兄弟である二人の兄にあった。
侯爵夫妻は子育てに熱心ではなく、後継ぎとして能力に不安が残る状況だった。そのため、前侯爵は万が一の時の『備え』として、リアムを引き取り、侯爵家の後継ぎ候補として育てようとしたのだ。
前侯爵の独断で侯爵家に引き取られたリアムを待っていたのは、華々しい貴族の生活とは程遠いものだった。
侯爵夫人はリアムが後継ぎ候補になることに猛反対したが、前侯爵の意見が覆ることはなく、リアムは常に侯爵夫人に怯えながら生活しなければいけなくなった。
侯爵家の離れに閉じ込められ、貴族子息としての作法を頭と体に叩き込まれるだけの日々。
離れの外に出ることも許されず、自由に過ごせる時間もなく、毎日毎日無理やり勉強をさせられるだけ……そんな辛く悲しい日々に泣いても、リアムを助けてくれる者は一人もいなかった。
我関せずの侯爵と、リアムに憎悪を向ける侯爵夫人。前侯爵はリアムの世話を使用人に任せた後は、存在すら忘れていただろう。下手にリアムに近づき、侯爵夫人の怒りを買うことを恐れた使用人達は皆、決してリアムと関わろうとしなかった。
未来への希望も期待も無く、鬱々と過ぎるだけの毎日を送っていたリアムだが、ある日、突如侯爵家を離れることになった。
八歳になり、貴族令息や令嬢が集う茶会に出席できる年になったリアムだが、侯爵夫人はリアムが表舞台に出ることを嫌がり、ヒステリックに物や使用人に当たるようになった。
これを疎んだ侯爵と二人の異母兄弟は、『アレがいるからいけないのだ』とリアムを屋敷から追い出そうと画策した。
これに気づいた前侯爵は、知らぬ間に侯爵家の血が混じった者をどこかへ追いやられるくらいならば……と、リアムを王都から出すことを決めた。
侯爵家と関わりのない遠く離れた片田舎の町で平民として過ごせば、夫人に見つかることもないだろう──そう言われ、リアムは侯爵家を追い出された。
「そうやって、この町までやってきたんだ。……三年ぶりに屋敷の外に出られたことも、自由に過ごせる時間も、嬉しくて仕方なかったな」
遠くを見つめながら静かに語るリアムに、ノラは言葉を失った。
あまりにも唐突な告白に、思考も感情も追いつかない。ただ、激しい悲しみと怒りが綯い混ぜになり、視界が眩むほど感情が昂った。
侯爵家の人間達の身勝手さと、幼少期のリアムの孤独を想像すると、それだけで握り締めた拳が怒りで震えた。それと同時に、ずっと一緒にいたのに、リアムの過去についてなにも知らなかった自分が情けなくて、悔しくて、泣きたくなった。
子どもの頃から、いつだって笑顔で優しく接してくれたリアム。その裏側に、どれほどの悲しみが積み重なっていたのだろうと思うと、胸が痛くて、苦しくて、声が出なかった。
「……ノラ、大丈夫?」
「だ、だい、じょうぶ、て……っ」
そう問いたいのこちらだと言うのに、どうしてリアムが自分の心配をするのか。
こんな時でさえ自分のことを案じてくれるリアムの優しさが今は苦しくて、堪えていた涙がポタリと零れ落ちた。
「……ごめんね」
「な、で……っ、リアムが、謝ることなんて、ないのに……!」
「うん。でも、泣かせちゃったから……ごめんね。泣いてくれて、ありがとう、ノラ」
「っ……、リアム……!」
そう言って微笑むリアムに、堪らずその身を抱き寄せると、ぎゅうぎゅうと抱き締めた。
「ごめん……! 俺、なんにも、知らなくて……っ」
「……ノラには、知らないままでいてほしかったよ」
抱き締めた腕の中、諦めにも似た呟きが聞こえ、心臓がビクリと竦んだ。
腕の中に閉じ込めていた温もりを離すように、恐る恐る腕の力を緩めれば、目元を赤く染めたリアムの顔が間近に見えた。
「……王都に戻ったら、僕は貴族として生きることになる」
「それ、て……」
「侯爵家を継げってことだろうね」
「──!!」
瞬間、悲鳴めいた呼吸が喉の奥で潰れた。
「なんで、そんな、今更……」
十年も放っておいて、なぜ今更そのような話になるのか……そこまで考え、ハッとする。
「ま、待って、リアムの父親が貴族なら、じゃあ、おじさんと、おばさんは……?」
今し方の話しでは、リアムの母親は既に亡くなっているはずだ。ならば隣家に住むリアムの両親は一体誰なのか、ようやくその疑問に辿り着いた。
「あの二人は、家庭教師兼、僕の見張りだよ」
「見、張り……?」
「僕がどこかに逃げ出さないようにって、侯爵家が付けたんだ。今まで、親子のフリをしてただけだよ」
「うそ……そんな……」
信じられない言葉に、ただただ愕然とする。
リアムと両親の仲は、至って普通の親子に見えた。明るいおじさんと朗らかなおばさん。生前は祖父母とも仲が良く、よく世間話をしながらお茶をしていたのに、あの姿すら偽りだったのかと思うと悲しくて、リアムを取り巻く環境が恐ろしくて、緩めた腕に再度力が籠った。
「大丈夫だよ、ノラ。見張りって言ったって、酷いことをされた訳じゃないし、二人とも、僕に同情して優しくしてくれたから」
「同情って……」
「……本当なら、明日の出発のことだって、黙ってることもできたんだ」
「え?」
「前日に知らせて、逃げられでもしたら大変でしょ? でも、教えてくれた。……ノラと、ちゃんと最後の挨拶ができるようにって」
「っ……」
最後の挨拶──聞きたくなかった、知りたくなかった現実を突きつけられ、息が止まった。
「リ、リアム……」
「……決まってたんだ。僕が成人するまでに、兄達が後継ぎとして問題なく成長できたなら、僕は侯爵家とはなんの関係もない平民として、解放されるって」
言葉と共に、リアムの腕が背に回った。
「あと、少しだったんだ……あと少しで、ノラと一緒に……これからも一緒に、生きていけるって、思ったのに……!」
「~~~っ!!」
掠れて途切れた声が泣き声に変わった瞬間、リアムを守るようにその身を抱き締めていた。
『成人するまで待って』
あの言葉の中に、一体どれほどの重さと希望が詰まっていたのだろう。
なにも知らず、浮かれていた自分が恥ずかしい……そう思うのに、リアムの望んだ未来が『ノラと一緒に生きていくこと』だったことが嬉しくて、嬉しくて、切なくて──その想いだけで、もう胸がいっぱいだった。
『離れたくない』と全身で訴え、腕の中で嗚咽を殺しながら泣くリアム。その背中をそっと撫でると、静かに深呼吸をした。
「……リアム、大好き。大好きだよ」
このまま、リアムとは別れることになるだろう。
考えたくない、信じたくないのに、現実はあまりにも残酷だ。
叶うならば、別れたくない。離れたくない。そう願っているのは自分だけではないことは、重なった体温から痛いほど伝わってきた。
叶わぬ願いに焦がれる悲しみも、離れ離れになる辛さも、きっと二人とも同等で、愛し合った日々は確かに存在していた──それが分かるからこそ、今こうしている瞬間も積み上がっていく思い出だけで、自分は生きていける。そう思えた。
でもリアムは、これから独りで王都に向かわなければいけないのだ。向かった先で待っているのが、幸せな生活でないことくらい、簡単に想像できた。
一人も味方のいない貴族の世界で、たった独り、孤独と闘いながら侯爵家の跡取りとして生きていかなければいけないリアム。そんな未来を想像するだけで、身を切られるような痛みが胸を刺した。
だからこそ、ここで「嫌だ」「離れたくない」「行かないで」なんて弱音は、とても口にできなかった。
リアムの方がずっとずっと辛くて、悲しくて、悔しくて堪らないだろうに、自分が泣き言を言う訳にはいかなかった。
(このまま、二人でどこかへ逃げてしまいたい……)
どうしようもない願望も、口にしてしまわないよう、必死に奥歯を噛み締めた。
逃げ道があるのなら、きっとリアムが言っている。「このまま二人で逃げよう」と言ってくれる。
その言葉を口にしないということは、定められた人生から逃げることはできないと、彼自身、悟っているのだろう。
「大好き……愛してるよ、リアム」
ならばせめて、最後の記憶は愛おしいものであってほしい。
リアムのこの先の人生に、例え自分は関われなくとも、彼の孤独の一片を溶かせるような思い出になりたい──そう願いを込め、愛を紡いだ。
「ずっとずっと、愛してる」
精一杯の愛情を込めて振り絞った声は、リアムの泣き声と雨音に混じり合い、夜の帳に消えていった。
その夜は、二人抱き合ったまま眠りについた。離れたくないと希うように、共に相手の体を抱き締め、唇が重なるだけのキスをした。
リアムの体温も、匂いも、温かくて心地良くて、心底愛しくて、このまま朝が来なければいいのにと本気で願った。
眠ってしまうのが怖くて、リアムの金色の髪に指先を絡め、胸元に寄せたまろい頭をそっと撫でる。
『大好き』という想いを込めて、額に口づけを落とせば、返事をするように首筋に口づけが返ってきた。
互いに一言も発しないまま、抱き締めた温もりを忘れないようにと、手と唇で触れ合う。
子どもの戯れのように過ごした最後の夜は、切なさだけを残し、瞬きの間に終わりの刻を迎えた。
まだ陽も昇らない暗い部屋の中、リアムがゆっくりと体を起こした。それだけで、その時が来たのだと察してしまえた。
互いに口を噤んだまま、どちらともなく手を取り合うと、ベッドを抜け出し、静寂が満ちる家の中をゆっくりと歩き出した。
小さな家の中、あっという間に辿り着いた玄関先。その扉の前で、口を閉ざしたまま、二人立ち尽くした。
この扉を開けたら、きっともう二度とリアムには会えないだろう……目の前に迫った別れの時が信じられなくて、信じたくなくて、ぐっと唇を噛んだ。
(……嫌だ)
ほんの数時間前、昨日の夕刻までは、こんな未来が待っているだなんて、想像すらしていなかった。
明日もきっと、今日と同じ一日が待っているのだと、これからもこの先も、リアムと一緒にいられる未来が続いているのだと、信じて疑わなかった。
たった一晩の間に奪われてしまったものはあまりにも大きくて、苦しくて、離れたくなくて、繋いだ手を解くことができなかった。
(嫌だよ……!!)
行かないで──そう口にできたなら、どれほど良かっただろう。
本当は、大声で泣いてしまいたい。別れたくない、離れたくないと、みっともないほど泣いて縋りつきたい。だがリアム自身、彼の力ではどうにもできない現実に苦しんでいるというのに、これ以上の重荷など背負わせられなかった。
(……泣くな)
「さようなら」なんて、別れの言葉は言いたくない。
「元気で」なんて、望まぬ旅立ちを強要された彼に言いたくない。……贈る言葉が見つからない。
ただ泣き顔だけは見せないようにと、繋いだ指先に力を込めると、くっと顔を上げた。
せめて、リアムの姿をきちんと目に焼き付けておこう──そう思い、向けた視線の先にあったのは、真っ直ぐこちらを見つめる青い瞳だった。
「……リアム?」
「僕は、ノラとの未来を諦めたくない」
「──」
力強く発せられたリアムの言葉に、息を呑む。
「貴族になんてなりたくない。爵位なんていらない。ノラ以外に大事なものも、大切なものも、欲しいものもない」
「っ……」
自分を丸ごと求めるような言い方に、ドキリと胸が鳴る。初めて向けられた強烈な欲に戸惑うも、熱を孕んだリアムの眼差しは強く、逸らすことができなかった。
「絶対に帰ってくる。時間は掛かっちゃうかもしれないけど、ノラのところへ、必ず帰ってくる。絶対に。だから、だからどうか、待っていて」
「リアム……」
繋いだ手を両手で包み込み、懇願するようにこちらを見つめるリアムの指先は、微かに震えていた。その真剣な表情に愛しさが込み上げるも、同時に胸に湧いたのは、どうしようもない切なさだった。
本人の意思とは関係なく、無理やり王都へと連れ戻されるリアム。帰ったところで、きっと自由を奪われ、意思もすべて無視されるだろう。
そんな中で、リアムがこの町に帰ってこられる可能性などあるのだろうか──無意識の内に滲んだ疑問と不安は、即座に振り払った。
(……違う。これはリアムの希望なんだ)
現実など関係ない。例え夢物語だとしても、叶わぬ願いだったとしても、それがリアムにとっての希望であるならば、返事など決まりきっていた。
「うん。待ってる。ずっと、待ってるよ」
リアムの願いは、自分の願いだ。
不安を飲み込み、なんとか笑顔を作れば、リアムの表情が一瞬崩れ、すぐに泣きそうな笑みへと変わった。
「……ありがとう。愛してるよ、ノラ」
「俺も、愛してるよ、リアム」
そう言って笑い合うと、指先を絡め、キスをした。
殊更丁寧に、想いを込めて交わした口づけ。重なった唇がゆっくり離れていくのと一緒に、絡んでいた指先が解け、リアムの体温が離れていく。そのまま背を向け、玄関扉を開けたリアムが一歩を踏み出す。
「……いってきます」
「……うん、いってらっしゃい」
振り返って微笑んだリアムの言葉に涙が溢れそうになるも、必死に笑ってみせた。
ゆっくりと閉まっていく扉に遮られ、リアムの姿が徐々に見えなくなっていく。
パタン……と閉じられた扉の向こう、完全にその背が見えなくなると同時に、その場に崩れ落ちた。
「はっ……はっ……」
堪えていた涙が瞳からボロボロと零れ落ち、我慢していた感情が一気に溢れ出す。
悲しい、悔しい、寂しい、苦しい……いくつもの負の感情がごちゃ混ぜになり、自分の気持ちがどこにあるのかも分からない。ただ今は、まだ扉の近くにいるリアムに泣き声が聞こえないように、声を殺して泣くことしかできなかった。
「う、く……っ」
悪い夢だと思いたい。嘘だと言ってほしい。そう強く願っても、目の前の扉が開くことも、リアムが帰ってくることもなかった。
(リアム……ッ、リアム、大好きだよ……!)
もう届かない声で、愛しい人への愛を謳う。
一人残された薄暗い家の中、満ち足りていた幸福が、音もなく崩れていく音を聞いた。
それから暫く経ち、空が白み始めた頃、リアムの家の前に一台の馬車が停まった。
片田舎ではお目に掛かることのない立派な馬車。そこにリアムと彼の両親だった二人が乗り込む姿を、小窓のカーテンの隙間からそっと見つめた。
一瞬、リアムの瞳がこちらを向いた気がしたが、その視線はすぐに逸れてしまった。最後に見えたリアムの横顔は冷え切っていて、どうしようもなく胸を締め付けられた。
(リアム……)
どうか、彼がこれから向かう先が、少しでも優しく明るい世界でありますように──そう祈っている間に馬車は動き出し、朝靄の中へと消えていった。
(……終わってしまった)
出会いから十年。その中で恋人として過ごせた時間は、たった半年。
長い長い片思いの末にようやく実った恋は、あっけないほど簡単に、強制的に終幕を迎えた。
突然の別れはどこか現実離れしていて、頭の中にモヤが掛かっているように思考は鈍ったままだ。それでも、胸が張り裂けてしまいそうなほどの悲しみの中にも、幸せだった時間の記憶が蘇ってきて、じわりと視界が滲んだ。
「……好きだよ」
小さな呟きが、リアムに届くことはない。ただ行き場を失った愛情だけが、溢れて止まらなくなった。
「大好きだよ……リアム」
リアムが帰ってこられる可能性は零に近いだろう。
リアムの言葉を信じていない訳じゃない。けれど、希望を持つことを許してくれるほど、現実は優しくないと知ってしまった。
「大好き……っ」
リアムにまた会いたい。叶うならば、思い描いていた未来のように、共に生きていきたい。でもそのために、無茶はしてほしくなかった。
もしもリアムが、帰った先で幸せになれるならそれでいい。それがいい。薄情だと思われても構わない。リアムが幸せになれるなら、自分のことは忘れてくれたっていい。
だから、この願いも、この想いも、自分だけのものとして大事にしていこうと心に決めた。
「ずっとずっと、大好きだよ……!」
愛し合った日々の思い出だけで、一人でも生きていける──そう、自分自身に言い聞かせた。
リアムが町を去った翌日、リアム一家がいなくなった噂は瞬く間に町中に広がった。
元より目立つ存在だったリアムが姿を消したこと、町の役人として働いていたリアムの父が出勤してこなかったことで発覚した一家の失踪に、小さな町はちょっとしたパニックに陥った。
もぬけの殻となった家の中に、急遽町を出ることになった旨を認めた置き手紙が残されていたことで事態は収束したが、そこかしこでリアム一家についての噂が囁かれた。
なにか事件に巻き込まれたのではないか、誰かに追われていたのではないか、どこかの貴族に攫われたのではないか……そんな話が方々から聞こえてきた。
ノラも何人もの知り合いから、突然の失踪の理由や行き先について聞かれたが、「なにも知らない。聞いていない」と返し続けた。
幼い頃からの知り合い達は、「ノラが知らないなら誰も知らないよな」とすぐに納得してくれたが、リアムに懸想していた少女達からはなにか知っているんじゃないかと詰め寄られた。
だが何度尋ねられようと一貫して知らぬ存ぜぬを貫き通している内に、彼女達も諦めたのか、次第に話しかけられることもなくなった。
リアムが自分にだけ打ち明けてくれた秘密を、誰にも教えたくないという思いもあったが、なにより自分自身、リアムの抱える秘密についてよく知らないのだ。知らないことは話せないし、他人の秘密を勝手に話すつもりもない。だからこそ、真実は自分の胸の内にこっそりと秘め続けた。
そうして一週間、二週間と経つ内に、リアムの噂話を耳にする機会はどんどん減っていった。
まるでリアムが皆の記憶から忘れ去られていくような寂しさに、少しばかり胸が痛んだが、致し方のないことだと、無理やり自分を納得させた。
そんな中でも、日々の生活は当たり前のように続いていく。
朝起きて、朝食を食べて、仕事に行って、昼食を食べて、また仕事をして、帰ってきて夕食を食べる。
毎日同じことの繰り返し。それ自体はこれまでの生活と変わらないはずなのに、『リアムがいない』というただそれだけで、恐ろしいほどの孤独感に襲われた。
祖父母を亡くしてから、ずっと側にいてくれたリアム。共に暮らし、同じ食卓を囲み、他愛もない会話を楽しみながら笑い合っていた時間は、あまりにも幸福に満ちていた。
祖父母とリアム。ノラにとって大事な人達の思い出が詰まった家の中で一人過ごす時間は、うるさいほど静かで、心が死んでしまいそうなほど寂しくて、何度泣いたか分からない。
それでも、明日は無情にやってくる。「明けないで」と願った夜でさえ、当然という顔をして朝はやってきた。
立ち止まることも、振り返ることも許されないまま、虚無感に襲われながらも、ただ必死に毎日を生き続けた。
孤独な日々にも少しずつ慣れ始めた頃、信じられない噂が町中に流れた。リアムによく似た青年が、王宮で開かれた王女の生誕パーティーに参加していたという話だ。
噂の出所は町の領主である男爵で、実際にパーティーに参加していた彼の発言には信憑性があった。
自身の娘がリアムに懸想していたことで、その存在を知っていた男爵。貴族としては末席になるとはいえ、平民との恋愛に難色を示していた男爵だからこそ、リアムが貴族として、それも侯爵家の者として参加していたことに心底驚いたらしい。
驚愕を誰かと共有したくなったのか、交流のあった町長へと話は流れ、その噂はあっという間に町中に広がった。
リアムがいなくなってから約半年。再び噂話で色めき立つ周囲とは裏腹に、ノラの気分は重く沈んだ。
王宮での王女の生誕パーティー……平民である自分には、想像すらできないほど遠い世界に行ってしまった愛しい人に、絶望にも似た寂寥感が押し寄せる。だがここで悲しい顔をするのはおかしくて、周りの皆に合わせるように驚くフリをした。
そんな中、リアムに想いを寄せていた少女がポツリと呟いた。
「リアムくんのこと、王子様みたいって思ってたけど、本当に住む世界が違ったんだね」
その一言が、グサリと胸を刺した。
住む世界が違う──その通りの現実に、愛し合った日々まで否定されたようで、胸が苦しくて、上手く息ができなくなる。
(……そういえば、初めて会った時から、リアムは他の子達と違ってたっけ)
現実逃避をするように思い出したのは、初めてリアムにあった日の記憶だ。
容姿も、言葉使いも、何気ない所作も、リアムは町の子ども達とはまったく違っていた。
一目惚れをしたのは間違いないが、リアムが纏う特別な雰囲気に、子ども心に惹かれていたのだろう、と今頃になって気づく。
(……俺は、リアムの全部が好きだったけど、リアムは、俺のどこを好きでいてくれたんだろう)
思い返せば、自分のどこを好いてくれたのか、一度もリアムに尋ねたことはなかった。
告白されたあの日から、「大好きだよ」「可愛いね」と何十回と言われ、羞恥心から聞けなかったというのもあるが、なにより自分に自信がなかったのだ。
美しく、優しく、魅力的なリアムと、体付きが少し立派なこと以外にこれと言って突出したものを持っていない自分。
付き合っていた頃は、リアムと恋人になれたことが嬉しくて気にならなかったことが、離れ離れになってしまった今、こんなにも後ろめたく感じてしまう。
(ダメだ、そんな風に考えちゃ……!)
じわじわと滲み出した悪い考えを振り払うように、ふるりと頭を振るう。
自分もリアムも、互いに相手のことを心から想っていた。間違いなく愛し合っていた。
分かっているはずなのに、そんな過去まで疑ってしまいそうになる自分が心底嫌だった。
リアムが王宮のパーティーに参加していたという噂が広まってから、彼に懸想していた少女達はリアムの話題を口にしなくなった。
突然姿を消し、貴族として再び姿を現したリアム。貴族の令息が事情があって平民のフリをしていたのだろうと想像するのは容易く、ほとんどの者は身分違いの恋に夢見ることなく、現実を受け入れた。
実らなかった恋の終わりと共に、多くの少女達は大人の女性へと成長し、やがて同年代の中でも結婚する者が現れ始めた。
一人、二人と幼い頃からの顔馴染み達が恋仲になり、次々と結婚していく──その流れに逆らえるはずもなく、ノラの元にも結婚を前提とした交際の話が持ち込まれるようになった。
(参ったな……)
リアムと離れ離れになって二年。二十一歳になったノラの元には、世話焼きなおじさんやおばさんからの「いい子がいるの」という紹介が続いていた。
今日も近所のおばさんに捕まり、なんやかんやと世間話をするついでに彼女の姪だという隣町の少女を紹介され、逃げるようにして帰ってきた。
妙に疲れの滲む体を引きずるようにフラフラと自室へと向かうと、ベッドの上に倒れ込んだ。
「はぁ……」
堪らず漏れた溜め息は、鬱屈としていた。
現状に至る原因は分かっていた。共に暮らしていた祖父母を亡くし、親友だったリアムを失い、周囲との交流も最低限で浮いた話もないまま、仕事に打ち込むだけの自分を皆案じてくれているのだ。
孤独感や寂しさを消化しようとするのに必死で、周囲に目を向ける余裕がなかったのが原因なのだが、最近は「早く家庭を持って、おじいさんとおばあさんを安心させてあげなさい」とまで言われるようになり、皆の心配がただただ苦痛になっていた。
祖父も、祖母も、きっと自分にそんなことは望んでいないだろう。
リアムへの恋心に気づいていながら、ノラの気持ちを理解し、静かに見守ってくれた優しい祖父母。その想いを都合のいい勝手な言葉に書き換えられているようで、憤りすら感じた。
(こんな風に考えちゃいけないのに……)
心配してくれるのは嬉しい。でも放っておいてほしい……それが本音だった。
あれから、ゆっくりとだが日々の物悲しさにも慣れ始めたというのに、ここに来て再び心を乱されるようなことになるとは思ってもみなかった。
(俺とリアムが恋人同士だって、皆が知ってたなら、なにか違ってたのかな……)
心労から、ふとそんな考えが浮かんだ時だった。
──もう、リアムへの恋心を隠さなくてもいいのではないだろうか?
ふっと湧いた思考に、ハッと目を見開くと上体を起こした。
「そうだ……」
同性へ向けた恋愛感情という後ろめたさと、公にすることでリアムに迷惑がかかるのではという恐怖心から、ずっと隠してきたリアムとの関係。だがそれももう、隠す必要が無くなったではないか。
自分しかいない今、例え同性間の恋愛に対して理解を得られず馬鹿にされようと、軽蔑されようと、誰も傷ついたりしない。
自分が好きなのはリアムであって、それは恥ずべきことではないと、祖父とリアムが教えてくれたのだ。誰になにを言われようと、傷ついたりしない。
『僕が好きなのはノラだし、周りにどう言われようと思われようと、なにも気にならないよ。それだけは知っていてね』
いつかのリアムの言葉と愛しい声を思い出し、ジン……と目頭が熱くなる。
(……俺が好きなのも、リアムだけだよ)
恋人同士だったことは言わない。きっと交際していた過去を明かしたところで、嘘だと思われるだけだろう。なにより、付き合っていることは二人だけの秘密にしようと決めていたのだ。
リアムが成人したら、交際していることを皆にも伝えよう……そう約束していた彼は、もういない。
ならば二人だけの秘密は秘密のまま、自分だけの思い出として、大事にしまっておきたかった。
(もう、隠さなくていいんだ)
リアムと恋人同士だったことは秘密のままでも、自分がリアムのことを愛しているのは本当で、この想いが変わらないのは嘘じゃない。
頼りなく不安定に揺れていた自身の気持ちをしっかりと胸に刻むと、ノラは深く深呼吸をした。
数日後、またいつものように、知り合いの年配の男性から女性を紹介された。
「一度付き合ってみたらどうだ? 好きになるかもしれないぞ」
「……悪いけど、好きな人がいるから、誰とも付き合う気はないんだ」
これまでなんとなくその場を濁して、この手の話題から逃げていた。そんな自分がハッキリと『好きな人がいる』と告げたことがよほど予想外だったのか、近くにいた知り合いも寄ってきて、「誰だ、誰だ」と好奇心を隠そうともせずに聞いてきた。
(……大丈夫)
自分の気持ちを正直に口にするのは、勇気がいる。緊張もする。まったく怖くないと言えば嘘になる。
でも、精一杯胸を張って、堂々と愛する人への気持ちを言葉にしたかった。
「リアムだよ」
瞬間、その場の音が止んだ。
「俺は、リアムが好きだ。だから、他の誰かと付き合うつもりも、好きでもない相手と結婚するつもりもないよ」
ハッキリ告げた言葉は存外力強く、振り絞った声は、ほんの少しも震えていなかった。
それから、自分がリアムに懸想していることがじわじわと周囲に広まっていった。
初めてリアムへの想いを暴露した時は、冗談だと思われて笑われたが、何度も同じ理由で断り続けている内に、皆ようやく本当のことだと気づいたらしく、次第に女性を紹介されることも無くなった。
その間も、色々お節介を焼かれることはあった。
「友愛と恋愛を履き違えているんじゃないか」「男が好きなのか」「おじいさんとおばあさんが悲しむぞ」等々、叱責紛いに責められることもあった。
その度に、「恋愛感情として好きだし、友愛と履き違えている訳じゃない」「男が好きなんじゃなくて、リアムだから好きになったんだ」「祖父母は自分の気持ちも知っていて、応援してくれた」と、ハッキリ言い返している内になにも言われなくなった。
その後、暫くは腫れ物に触るような、やんわりと遠巻きにされるような空気が漂ったが、こうなることは覚悟していた。然程気にすることもなく、今までと変わらぬ生活を続けていたが、数週間が経つ頃には、意外にも自分のことを励ましてくれる人達が現れた。
それは幼い頃からこの町で共に育った、昔馴染み達だった。
「お前がリアムを好きだってことは、なんとなく知ってたよ」
ある日の夕暮れ、仕事終わりに突然飲みに誘われて向かった先では、見知った顔が何人も揃っていた。そこで唐突にリアムの話題を出され驚いたが、そこに嫌悪感はなく、逆に動揺してしまった。
「どうした? バレバレだったことに驚いたか?」
「いや……いや、そっちも驚いたけど……その、俺がリアムのことを好きだって言っても、なにも思わないのか?」
「なにかって?」
「その……男同士なのに、おかしいとか……」
「そりゃあ、今までそういうヤツが周りいなかったからな。正直驚いたし、変に気も遣っちまったけど、別におかしいとは思ってねぇよ。国だって同性婚を認めてるんだ。年寄り達みたいに、やいやい言ったりしねぇよ」
「……そう、か」
「当然」とでも言うように、あっけらかんと告げる昔馴染みとその言葉に頷く周囲に、それまで張っていた気がゆるりと解けた。
「ただまぁ、リアムのことは早く忘れな。もう会えないヤツのことを想っても、お前が辛くなるだけだぞ」
「……うん。ありがとう」
そこでようやく気づく。彼も、他の皆も、自分のことを慰めるために集まってくれたのだ、と。
同性に向けた恋愛感情を否定するでも、いない相手をいつまでも想い続ける滑稽さを馬鹿にするでもなく、ただ『このまま想い続けても辛くなるだけだ』と自分のことを心配し、諭してくれているのだ。
「本当に……ありがとう……っ」
それに気づいた瞬間、泣いていた。
これまで、祖父母を亡くし、愛した人と離れ離れになり、独りぼっちになってしまったという孤独感に必死に耐えていた。
だが実際は、色んなことに怯え、心配してくれる周囲の気遣いや優しさにも気づかず、自分から孤独の殻に閉じ籠っていただけなのだ。
己の情けなさと薄情さが恥ずかしくて、こんな自分のことも案じてくれる皆の優しさが嬉しくて、涙が止まらなかった。
その間も、誰かが背を叩き、皆が明るい口調で「今日はいくらでも飲め!」「奢りだから飲まないと損だぞ!」と軽口を言う。大の男がメソメソ泣いていても、気にせず笑わせてくれようとするその優しさに、気づけば自然と頬が緩んでいた。
二年前、リアムと別れたあの日から、初めて笑ったような気がした。
その日から、昔馴染み達とは幼い頃のような友人関係に戻った。
思い返せばリアムが引っ越してくるまでは、年の近い子達とは性別問わず遊ぶ仲だった。それがいつしかリアムとばかり一緒にいるようになり、その関係が薄れていたのだ。
「ノラはリアムとばっか遊んでたし、リアムはノラ以外のヤツには無関心だったからな」
そう言われた時は少しばかり気まずい気持ちになったが、続けて「ノラはリアムのことが大好きだったもんな」と揶揄うように言われ、気まずさはすぐに恥ずかしさに変わった。でも今は、その気恥ずかしささえ、どこか心地良かった。
友人達との会話が増え、共に行動する時間も増えると、それまでのどこか遠巻きにされていたような空気は和らぎ、元の生活が帰ってきた。
正直、同性同士の恋愛について、もっと厳しい態度を取られると思っていた。事実、町の人全員に理解してもらえた訳じゃない。「気持ち悪い」と嫌悪感を剥き出しにした言葉を投げつけられたこともあったし、「男が好きって本当かよ」と嗤われたこともあった。
だがそれも極少数の人からであって、ほとんどの者は無関心か、意外にも応援してくれる人の方が多かった。
同性への恋愛感情を告白したら、生き辛くなってしまうのではないかとずっと怯えていたが、存外息がしやすい現実に、十年以上抱えていた不安や緊張が解けていくのが分かった。
(リアムと恋人になったって言っても、大丈夫だったのかな)
一瞬そんなことを思うも、やはりリアムの人気ぶりを考えれば難しかっただろうな、と苦笑が零れた。
リアムへの恋情を告白し、友人達に受け入れてもらえたあの日以降、リアムと過ごした日々を思い出しても、以前のように辛くなることはなくなった。
悲しくない訳じゃない。寂しくない訳じゃない。でも、じくじくと痛むような辛さは和らぎ、遠く離れてしまった温もりを懐かしく、愛しく思えるようになっていた。
(……少しは、強くなれたのかな)
リアムが旅立つ前夜、泣きじゃくるリアムを抱き締めながら思い浮かべた未来に、自分は今いるのだ。
愛し合った日々の思い出だけで、一人でも生きていける──強がってみせたあの日の自分に、ようやく胸を張って向き合えるような気がした。
それからは、ただ同じ毎日を繰り返すだけの無気力な生き方はしなくなった。
寂しさを忘れるように仕事に打ち込むこともなく、時たま友人達と食事に出掛け、普通に笑えるようにもなった。
勿論、リアムのことを忘れた日なんて一度もない。ふとした時に、祖父母やリアムと過ごした時間や共に囲んだ食卓を思い出しては、しんみりとすることもあったが、きちんと思い出として、愛しいと思えるようになった。
仕事もそれなりに順調で、天国にいる祖父母を心配させない程度には自立した生活ができるようになった。
二人が眠る墓石の前に行っても、もう泣いたりしない。弱音を吐くこともない。「一人でも、なんとかやってるよ」と、笑って報告ができるようになった。
その間も、何度かリアムの話題を耳にすることがあった。
次期侯爵として夜会に参加していた、末の王女様とダンスを踊っていた、恋人ではないかと噂されている、婚約者として正式に発表された……等々、様々な噂が流れた。
その度に、友人達は自分のことを気遣ってくれたが、「俺が一方的にリアムを想ってるだけだから」と、笑って本音を隠した。
本当は、胸が痛くて堪らなかった。泣きそうになるのを堪えるので精一杯だった。でも、悲しんでも現実は変わらない。
次期侯爵として王女と婚約した恋人と、片田舎の小さな町に暮らす平民。高い塀と深い谷底に隔たれたような身分の差は、ただ「好き」と気持ちを口にするのも憚れるほど、絶望的なものになってしまった。
それでも想いは変わらなかった。口に出さずとも、リアムのことがずっと好きだった。
密かに、静かに、未練がましく想う日々──そうやって過ごした四年間は、愛する人の結婚の報せで終わりを迎えようとしていた。
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