天使様の愛し子

東雲

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フォルセの果実

閑話 雨上がりの空の下

4章に入る前のささやかな小噺です。


◇◇◇◇◇◇

「わぁ…」

降り続けていた雨が止んだ翌日、澄んだ青々しい空の下、様変わりした大地を一望し、感嘆の声が零れた。
雨に濡れた大地は水の膜を張り、宮廷から眺める世界は、まるで一面が湖のような景色へと変貌していた。

「すごい…」

浅い水の底では、真白い大地に咲く色とりどりの花がゆらゆらと揺れていた。陽の光を反射する水面の輝きは幻想的で、それでいてどこか懐かしく感じる風景に、思わず手摺りから身を乗り出す。

「アドニス、危ないぞ」
「アドニス、落ちてしまいますよ」
「アドニス様、それ以上は身を乗り出しませんように…」

それと同時に重なった三人分の声と、そっと腰や腕に回された腕に、グイッと後方に戻された。

(大丈夫だと、思うんだけど…)

「危ない」と言われた手摺りも、自分の腰ほどの高さだ。よほど身を乗り出さない限り落ちないと思うのだが…どうやら自分の注意力は大変疑われているらしい。

「大丈夫…」
「落ちたらどうするんだ」
「危ないでしょう?」
「せめてお二人と手を繋いでいらして下さい」
「……うん」

顔にありありと浮かんだ『心配』という表情に、素直に頷くしかない。

(羽根…もらっておいた方が良かったかな…?)

そうしたら、彼らに余計な心配もさせなかっただろうか…と、少しばかり自分の選択に不安を覚えながら、先日の話し合いのことを思い出した。


イヴァニエとルカーシュカ、エルダから「翼について、もう一度よく考えてみては?」と言われたのは、バルドル神と対面した翌々日のことだった。
というのも、翼の有無は飛べる、飛べないという問題だけでなく、聖気の回復量や所有量も変わってくるはず…というのが三人の見解だった。
「恐らく」という仮説でしかないと言われたが、聖気の回復速度を考えると間違いないだろうとも言われた。
そしてこれも仮説でしかないが、翼が無いから粛法が扱えないのではないか、ということだった。
憶測でしかないが、もしかしたら、翼を得ることで粛法も使えるようになるかもしれない───そう聞いて、自分なりに色々考えた。

考えた結果、それでも「今すぐは必要ない」という気持ちは変わらなかった。

飛べないこと、粛法を使えないことで、不安になることはあったが、不便だと感じたことはない。
勿論、部屋に閉じ籠っていたこと、エルダが身の回りのことを全てこなしてくれていたことも大きかっただろう。
ただ粛法が扱えなくても、自分にも出来ることがあるのだと分かった今、不安は消えてしまったし、エルダにも「アドニス様のお世話をするのは私の役目ですから」と改めて言われ、更に欲求意識が薄れてしまった。
聖気の回復方法も食事をすることで賄える。元を辿れば、義務的に栄養素を摂取していただけだったが、今となっては『食べる』という行為そのものを好きになっていた。
それを三人に伝えれば「好きだと思う方を選べばいい」と言ってくれたので、ならば…と思ったのだが───…


(バルドル様と、もう一度お話しした方がいいのかな…)

悶々と悩んでいると、不意に名前を呼ばれた。

「アドニス? どうしました?」
「ん……うぅん」

もう少しちゃんと考えよう…そんな気持ちでふるふると首を横に振れば、ルカーシュカが首を傾げた。

「下に降りてみるか?」
「え?」
「ん? なんだ、降りたいと思ってた訳じゃないのか」
「あ……いえ…えっと…」

確かに考えていたのは違うことだ。だがその直前までは、一面に広がる水面に心を奪われていた。
湖のように煌めく大地に降りてみたい…きっと無意識の内に、それに近づこうとして、手摺りから身を乗り出したのだ。

「んっと…」
「うん」
「でも…あの……い───」

『いいの?』
そう言おうとして、咄嗟に口を噤んだ。

(……そうだ…もう、外に出ちゃダメって、言われないんだ)

行きたい所へ自由に行っていいのだ。誰かに何かを制限され、咎められる自分はもういない。
それでもほんの少しだけ心配で、もじもじと左右の足の先を絡めた。

「……あの…下に、降りてみたい…です」

ドキドキしながら、それでも思い切って気持ちを口にすれば、ルカーシュカもイヴァニエも優しく微笑んでくれた。

「ええ、降りてみましょう」
「手を。ちゃんと掴んでるんだぞ」
「は、はい…!」

するりと取られた両手を握れば、ふわりと地から足が離れた。
ふわふわと浮く感覚は未だに不思議だが、ゆっくりと高度が下がるにつれ近づく大地に、心臓は高鳴った。
先に大地に足を付けたイヴァニエとルカーシュカ、その傍らに降り立ったエルダの足元を見れば、足首よりもやや深い水嵩だと分かった。

(あ…靴が…)

今更ながら、三人の靴が水浸しになっていることが心配になったが、誰も気にしていない様だった。
そうこうしている内に、ゆっくりと体は大地に近づき───チョン、と水面の表面に爪先が触れた。

「…っ」

ほんの少しだけひんやりとした水にピクリと肩が跳ねたが、そのままゆっくり、ゆっくり、爪先から水の中に足を浸していけば、サラリとした地面に足の裏がついた。

「わ…ぁ…」

触れた瞬間は少しだけ冷たいと思った水温も、足の裏からじんわりと伝わる大地の熱と合わされば、とても心地良く感じた。

「アドニス様、大丈夫ですか? 冷たくないですか?」
「うん、大丈夫。…あの、服…濡れちゃ…」
「後で乾かせば良いので、大丈夫ですよ」
「…ありがとう」

表情を緩めるエルダに笑みを返し、もう一度足元に目を向ける。足を動かすたびにパチャパチャと揺れる水と広がる水紋が楽しくて、勝手に頬が緩んだ。

「楽しいですか?」
「はい」
「ふふ、良かったですね」
「少し歩こうか?」
「はい…!」

両手はルカーシュカとイヴァニエと繋いだまま、柔らかな大地の上をゆっくりと歩いた。
足を水に取られる分、自然とゆったりとした足取りになるのも、今は楽しくて仕方なかった。
ひんやりとした水と、じんわりと温かい地面。歩くたびに動く水の中で、ゆらりと揺れる花は泳いでいる様で、キラキラと輝く水面から反射する光は眩しいほどに美しかった。

「……綺麗」

ポツリと零れた声は無意識なものだったが、それに返事をするように、繋いだ手を強く握り返された。

「雨が降ると、こうやって…湖みたいに、なるんですか?」
「そうだな。でも二、三日もすれば元に戻るよ」
「…お水、消えちゃうんですか?」
「消えるというか、少しずつ大地に染み込んでいきますね」
「……地面、びちゃびちゃになっちゃう…?」
「ふっ…大丈夫、ならないよ」

のんびりと言葉を交わしながら、ゆるゆると歩く。
そうしながら、頭の片隅で部屋から離れ過ぎるのはまだちょっと怖いな…と思っていると、ぴたりとルカーシュカとイヴァニエの足が止まった。

「…?」
「あまり遠くに行くのも、まだ怖いでしょう?」
「…!」
「歩くのはこの辺りだけにしておこう。…それとも、もっと遠くまで行くか?」
「う、うぅん…! こ、この辺だけが、いいです」
「うん。じゃあそうしよう」

そう言って少しだけ方向を変え、部屋から付かず離れずの場所を歩き出す。
言葉にせずとも気づいてくれる彼らの優しさが嬉しくて、じわりと滲んだ温かな感情に、堪らず笑みが零れた。

「ふふ」
「アドニス様?」
「どうしました?」
「…楽しいなって」

こちらを見つめる、青と黒と翠の瞳。
温かな色を帯びた瞳に湧き上がる愛しさは、どこか擽ったくて、落ち着かなくて───でもそれ以上にずっとずっと嬉しくて、頬は緩みっぱなしだった。



その後、寄ってきた赤ん坊達に誘われるまま水の中に座り込んでしまい、三人に叱られてしまったが、それも少しだけ嬉しいと思ってしまったのは、内緒の話だ。










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ぷち補足。
・イヴァニエさんとルカーシュカさんは、アドニスくんが飛べないなら飛べないで自分達が抱き抱える口実になるので、それはそれで良いと思ってる。なんなら無い方が良いくらいに思ってる。
・エルダくんは自分さえ側にいれば不自由させないので何も問題ないと本気で思ってる。
・三人のお叱り理由:水の中に座り込んだせいで服が濡れる→濡れた布が肌に張り付いてお尻や太腿の形がくっきり&下半身透け透けで大変すけべ→本人危機感零→教育的指導→アドニスくんはあんまり分かってないけど、心配してもらえたのは分かって、申し訳なさと嬉しさのマリアージュ。
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