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1st episode 〔brain in a vat〕
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もし自分の見ている世界が、夢のようなものだとしたら。
僕たちの見ている世界は、実は現実なんかではなくて、水槽の中にぷかぷか浮かぶ脳みそが見せている夢なのかもしれない。
久米崎咲凜が駅に向かう途中に口にしていた今日の話題はそんなものだった。
「水槽脳仮説、またはシミュレーション仮説。古くはデカルトの思想まで遡る思考実験だってさ」
「胡蝶の夢みたいな」
「そうそう。……ってなんだっけそれ」
「なんだっけ。蝶になった夢を見たけど、夢から覚めてみた時に、もしかして現実の方が蝶の見てる夢なんじゃ、とか考える話?」
「待って。検索する」
咲凜はスマホの顔に近づけて、マイクに向かって「胡蝶の夢、検索」とつぶやいた。それから出てきた画面をタップしたりスクロールしたりして、うんうんと頷いた。
「合ってる合ってる。中国の、荘子って人の説話だって」
「この世界が水槽の脳が見せている夢だとして、何なの」
「ほら、君が見ている空の上のさ。ちなみに今日は何色なの?」
咲凜は右手の人差し指で空を指差す。聞かれて、僕は空を見上げた。
空の真上、頭のてっぺんからずっと先。
そこには太陽とは別に光り輝く円がある。その輝きは鈍く、昼も夜も見上げればそこにある光。あの光を見ていると、それこそ今見ている世界が夢か何かのように現実感のなくなる感覚に襲われる。
「今は緑」
僕は色だけを咲凜に伝えて、すぐに下を向いた。あまり見ていたいものでもないのだ。
その光は日毎どころか不規則に色を変えていて、ほとんど見上げる度に色が変わるように思える。
「緑ね。投稿、あげとこっか」
あの円が現れてからもう一年以上経つ。
咲凜が僕の報告を受けて、あの円の色を自身の配信チャンネル用のSNSに投稿するのも、もう習慣みたいなものだった。
それでも未だに、やはり疑問に思ってしまう。
「ほんとに見えないの」
「うん、見えない。ただの曇り空」
雨だろうが曇りだろうが、見上げればそこにある円が、咲凜には見えない。というか、あれが見える人間を、僕は僕以外にはもう一人しか知らない。
この世界には円が見える人と見えない人がいて、見える人はひどく少ない。
ただ、ネットの向こうではあの円を見える人が、お互いの見ているものが幻ではないことを伝え合うみたいに、その日の円の様子を投稿する。不思議なことに、写真や動画に撮っても円は見えない。
だから、みな文字や絵の情報だけで報告する。
「今回もまたすごいね」
目の前の光景に、咲凜は感嘆した。それでいてスマホをかざし、写真と動画を撮ることは欠かさない。咲凜のスマホについた邪魔っけなキーホルダーは、以前遊びに行った時にゲーセンで二人一緒にとったもので、少しだけ気恥ずかしくなることを咲凜には言っていない。
僕たちが来ていたのは、市内の児童公園だったが、中に入れないようにテープが貼られていた。
公園に取り付けられているブランコが、何か大きな力で押し潰されたかのように、上の方からぺしゃりとひしゃげていた。もはや遊具として使うことは到底無理だ。
僕は潰れたブランコを見て、思わず唾を飲み込んだ。
ここ数日で、市内で類似の現象が起こっていた。駅構内に突然、巨大な怪物が引っ掻いたような一メートル近く大きな爪痕が残されたり、誰も気づかないうちに僕たちの通う高校の敷地内にある芝生が燃え尽きていたりだ。
「まあこんなもんでいいか」
咲凜はスマホを鞄の中にしまうと、両腕を高く上げてぐっと背伸びをした。
彼女はインターネットでオカルト系の事件を紹介するまとめ動画のチャンネルを開設していて、この市内で不可解な現象が多発しているのを知り「調査をしに行こう」と、目を輝かせて言うものだから「一人じゃ心配だから」といつも咲凜の調査に付き合っている。
「ねえ咲凜……」
「ん?」
もうやめにしないか、と言おうとしてぐっと我慢した。そんなことを言ったら、咲凜のことだ。ムキになって自分一人で調査を続けるだけに違いない。だったら、今のように僕が見張れる方がよほどマシだ。
「さっきの結局どういう話?」
だから僕は、頭の中で話題を切り替えた。
「さっきのって?」
「ほら、水槽の中の脳がどうちゃらってやつ」
「ああ、あれ」
咲凜は小さく笑って、空を見上げた。咲凜には見えない空の円を見るかのように。
「この世界が本当に水槽の中の脳が見せている夢でさ、みんなの脳味噌が機械かなんかで接続されているとして、あの空の円を見ることができる人がいるのは、その機械のバグみたいなものだって」
「すっごいわかりづらい」
咲凜が不満そうに唇を突き出した。
「えー、ほんと? ボクはこの考え、すごい面白いなー、と思ったんだけど」
「それ咲凜が考えたの?」
「ううん? そう考察してる動画があって、なるほどなー、って。まあ暴論なんだけどさ。クオリアの新神秘主義みたいな」
「クオリアって何」
「えー、それ説明するの難しい。そうだなー。平たく言うと、主観的な感覚のことでさ。りんごの赤い感じーとか、ふとんのふわふわした感じーとか、あの曲の鮮烈なメロディーとか、説明できそうでできないでしょ。この世界の認識の仕方って、自分が持っているものしかなくて、それが本当にみんな共通して持っているものなのかは説明できないよね、みたいな」
「ふーん」
なんとなくわかった。
あの空にある円も、円が見えると言う人の自己申告しかそこに円がある証拠がないから、本当にあるのかどうか検証もできない。どれだけ円が見える人がいようともそれが真実だと証明するのは困難だ。
「でも見える人はいる」
「そうだね。誰も原因を特定できないけど、確かにいる。ボクの目の前とか」
円が見えると主張する人は、何らかの未知の病なのではないかと唱える向きもあるそうだが、現状それもただの仮説で、証拠はない。
見える人はただ見えるだけ。幽霊やオーラが見えると主張しているのと何ら変わりがないから、まともに取り合うことができない。
「ま、後は家に帰って編集して動画仕上げるよ」
そう言って、咲凜は僕に手を振ると、帰路を走って行った。最後まで危なっかしくて仕方ない。
僕は溜息をついて、咲凜が見えなくなるのを確認すると、コンビニに寄った。おにぎりやサンドイッチを何個か買って、ペットボトルも数本買う。
時計を見ると、そろそろ七時で夕食の時間も近い。
早く用事を済ませようと、僕は咲凜を見習ってと言うわけでもないが、コンビニを出ると小走りでいつもの場所へ向かった。
僕たちの見ている世界は、実は現実なんかではなくて、水槽の中にぷかぷか浮かぶ脳みそが見せている夢なのかもしれない。
久米崎咲凜が駅に向かう途中に口にしていた今日の話題はそんなものだった。
「水槽脳仮説、またはシミュレーション仮説。古くはデカルトの思想まで遡る思考実験だってさ」
「胡蝶の夢みたいな」
「そうそう。……ってなんだっけそれ」
「なんだっけ。蝶になった夢を見たけど、夢から覚めてみた時に、もしかして現実の方が蝶の見てる夢なんじゃ、とか考える話?」
「待って。検索する」
咲凜はスマホの顔に近づけて、マイクに向かって「胡蝶の夢、検索」とつぶやいた。それから出てきた画面をタップしたりスクロールしたりして、うんうんと頷いた。
「合ってる合ってる。中国の、荘子って人の説話だって」
「この世界が水槽の脳が見せている夢だとして、何なの」
「ほら、君が見ている空の上のさ。ちなみに今日は何色なの?」
咲凜は右手の人差し指で空を指差す。聞かれて、僕は空を見上げた。
空の真上、頭のてっぺんからずっと先。
そこには太陽とは別に光り輝く円がある。その輝きは鈍く、昼も夜も見上げればそこにある光。あの光を見ていると、それこそ今見ている世界が夢か何かのように現実感のなくなる感覚に襲われる。
「今は緑」
僕は色だけを咲凜に伝えて、すぐに下を向いた。あまり見ていたいものでもないのだ。
その光は日毎どころか不規則に色を変えていて、ほとんど見上げる度に色が変わるように思える。
「緑ね。投稿、あげとこっか」
あの円が現れてからもう一年以上経つ。
咲凜が僕の報告を受けて、あの円の色を自身の配信チャンネル用のSNSに投稿するのも、もう習慣みたいなものだった。
それでも未だに、やはり疑問に思ってしまう。
「ほんとに見えないの」
「うん、見えない。ただの曇り空」
雨だろうが曇りだろうが、見上げればそこにある円が、咲凜には見えない。というか、あれが見える人間を、僕は僕以外にはもう一人しか知らない。
この世界には円が見える人と見えない人がいて、見える人はひどく少ない。
ただ、ネットの向こうではあの円を見える人が、お互いの見ているものが幻ではないことを伝え合うみたいに、その日の円の様子を投稿する。不思議なことに、写真や動画に撮っても円は見えない。
だから、みな文字や絵の情報だけで報告する。
「今回もまたすごいね」
目の前の光景に、咲凜は感嘆した。それでいてスマホをかざし、写真と動画を撮ることは欠かさない。咲凜のスマホについた邪魔っけなキーホルダーは、以前遊びに行った時にゲーセンで二人一緒にとったもので、少しだけ気恥ずかしくなることを咲凜には言っていない。
僕たちが来ていたのは、市内の児童公園だったが、中に入れないようにテープが貼られていた。
公園に取り付けられているブランコが、何か大きな力で押し潰されたかのように、上の方からぺしゃりとひしゃげていた。もはや遊具として使うことは到底無理だ。
僕は潰れたブランコを見て、思わず唾を飲み込んだ。
ここ数日で、市内で類似の現象が起こっていた。駅構内に突然、巨大な怪物が引っ掻いたような一メートル近く大きな爪痕が残されたり、誰も気づかないうちに僕たちの通う高校の敷地内にある芝生が燃え尽きていたりだ。
「まあこんなもんでいいか」
咲凜はスマホを鞄の中にしまうと、両腕を高く上げてぐっと背伸びをした。
彼女はインターネットでオカルト系の事件を紹介するまとめ動画のチャンネルを開設していて、この市内で不可解な現象が多発しているのを知り「調査をしに行こう」と、目を輝かせて言うものだから「一人じゃ心配だから」といつも咲凜の調査に付き合っている。
「ねえ咲凜……」
「ん?」
もうやめにしないか、と言おうとしてぐっと我慢した。そんなことを言ったら、咲凜のことだ。ムキになって自分一人で調査を続けるだけに違いない。だったら、今のように僕が見張れる方がよほどマシだ。
「さっきの結局どういう話?」
だから僕は、頭の中で話題を切り替えた。
「さっきのって?」
「ほら、水槽の中の脳がどうちゃらってやつ」
「ああ、あれ」
咲凜は小さく笑って、空を見上げた。咲凜には見えない空の円を見るかのように。
「この世界が本当に水槽の中の脳が見せている夢でさ、みんなの脳味噌が機械かなんかで接続されているとして、あの空の円を見ることができる人がいるのは、その機械のバグみたいなものだって」
「すっごいわかりづらい」
咲凜が不満そうに唇を突き出した。
「えー、ほんと? ボクはこの考え、すごい面白いなー、と思ったんだけど」
「それ咲凜が考えたの?」
「ううん? そう考察してる動画があって、なるほどなー、って。まあ暴論なんだけどさ。クオリアの新神秘主義みたいな」
「クオリアって何」
「えー、それ説明するの難しい。そうだなー。平たく言うと、主観的な感覚のことでさ。りんごの赤い感じーとか、ふとんのふわふわした感じーとか、あの曲の鮮烈なメロディーとか、説明できそうでできないでしょ。この世界の認識の仕方って、自分が持っているものしかなくて、それが本当にみんな共通して持っているものなのかは説明できないよね、みたいな」
「ふーん」
なんとなくわかった。
あの空にある円も、円が見えると言う人の自己申告しかそこに円がある証拠がないから、本当にあるのかどうか検証もできない。どれだけ円が見える人がいようともそれが真実だと証明するのは困難だ。
「でも見える人はいる」
「そうだね。誰も原因を特定できないけど、確かにいる。ボクの目の前とか」
円が見えると主張する人は、何らかの未知の病なのではないかと唱える向きもあるそうだが、現状それもただの仮説で、証拠はない。
見える人はただ見えるだけ。幽霊やオーラが見えると主張しているのと何ら変わりがないから、まともに取り合うことができない。
「ま、後は家に帰って編集して動画仕上げるよ」
そう言って、咲凜は僕に手を振ると、帰路を走って行った。最後まで危なっかしくて仕方ない。
僕は溜息をついて、咲凜が見えなくなるのを確認すると、コンビニに寄った。おにぎりやサンドイッチを何個か買って、ペットボトルも数本買う。
時計を見ると、そろそろ七時で夕食の時間も近い。
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