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第一章
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しおりを挟む電車に飛び乗り、二十分もしないうちに高羅の家の最寄り駅に着いた。広い改札口を出ると、すぐ目の前にある飲食店から、香ばしい肉の匂いが漂ってきて、思わず唾を飲み込む。先程麻仲とファストフードを食べたばかりだというのに、栄えたこの駅に来ると、この香りにそそられていた。
いつか行きたいと思いながらも、身近すぎて行かないような場所だった。
そんなことを考えていると、すぐ左手の壁際に、高身長で鼻が高く、子犬のような優しい瞳を持った男性が、参考書を広げて立っている姿を見つけた。
「高羅!」
私が呼ぶと、耳をぴくりと反応させる犬のように、高羅は顔を上げた。すぐに私の存在に気づき、参考書を鞄に入れて、手を振ってくる。
私は抱きつく勢いで、高羅の元へと走った。だが、まだ少し気恥しくて、さすがに手を伸ばすことは憚られる。
「春田さん、わざわざ来てくれてありがとうね」
「ううん! 高羅に会いたかったから! 寧ろ疲れてるのに会ってくれてありがとう!」
周囲は帰宅ラッシュの電車に揺られて帰ってきた、サラリーマンや学生たちで溢れ返っていた。人が出入りする騒がしい場所で、何とか言葉を届けるために、声を張る。
優しい微笑みを向けられ、改めて幸せを感じた。ずっと一緒にいることができたなら、どれほど幸せだろうか。
「なんかお腹空いたね! コンビニで肉まんでも買わない?」
ただ話すだけでも嬉しかったが、少しでも長く一緒にいたくて、私は誘いかけた。高羅はすぐに了承し、近くのコンビニへと向かう。
高羅は優しい。私が言ったことは何でも「いいよ」と言ってくれる。高羅から何かに誘ってきたり、提案されることはあまりないが、私としては全く問題なかった。
コンビニへ入ると、様々な種類の中華まんがあり、どれにしようか二人で悩む。今はどんな気分だとか、これもあれも美味しそうだとか、少なくとも五分以上はレジ近くで話していたと思う。
結局、私はピザまん、高羅はキーマカレーまんを購入し、外へ出た。コンビニの壁際に並び、二人で袋を開ける。ほくほくとした湯気が、コンビニ内の明かりに照らされて、白く昇っていった。
「ん! ひへ!」
頬張りながら声を出したことで、『見て』と言う言葉が上手く出てこなかったが、高羅には伝わったようで、指差す方向を見てくれた。ピザまんの中に入っていたたっぷりのチーズが、私の口元から指先までの架け橋となって、腕の限界値まで伸びる。
「おお! めちゃくちゃ伸びるね」
高羅が言うのと同時に、チーズはパチンとちぎれた。二人で、「あー」と声を漏らすも、目を合わせた先の表情は、穏やかだった。
今度は高羅も自身のキーマカレーまんを持ち、口へと運ぶ。
「あっつ……」
小さく呟いてから、ふうふうと冷ます高羅が可愛くて、堪らず笑ってしまった。そんな私を見て、少し悔しそうにしながらも、同じく微笑んでくれる。
高羅は私にとって、一番大切な人だ。高羅がいれば何でも良い。
中華まんを食べ終わってからも、私たちはその場でしばらく話を弾ませた。高羅の部活のこと、勉強のこと、中学のこと。
小学生の頃からサッカーを続け、今も熱中しており、今度大会に出場することになったこと。それに家族が応援しに来てくれること。
勉強はどんどん難しくなってきているが、ゲームをクリアしていく感覚で楽しいこと。時には弟の先生として教えることで、より知識をつけられるようにしていること。
中学の時、友達と遊んだ際の面白いエピソードなど、私が尋ねたことは全て教えてくれた。
「高羅は本当、周りの人に愛されてるね」
嫌味でも何でもなく、純粋にそう感じた。だからこんなにも、素敵な人柄ができ上がるのかと羨ましくも思った。
「そうかな? 確かに、関わる人は良い人ばかりだとは思うけどね。もちろん、春田さんを含めて」
良い人、か。
穏やかな視線が私に向けられていることがわかり、慌てて口角を上げる。
高羅の目には、私は良い人だと映っている。それを当然だと思う自分と、学校や家での態度を思い返して「そんなわけがない」と否定する自分がいた。
時刻は二十一時を回ろうとしていた。友達であれば、帰る時間を心配して尋ねるが、高羅とはどうしても離れたくなくて、時間の話題を手のひらで握り潰す。
もう少しだけ。あと少しだけ……。
『ブーッ、ブーッ、ブーッ』
スカートのポケットから、太腿に振動が伝わり、思わず肩を跳ね上げた。スマホが現実に引き戻させるように震えている。
「何か鳴ってない?」
高羅も異変に気づいたのか、自分のスマホの画面をつけた後、私を見つめた。
「ん? 何のこと?」
私は首を傾げて恍ける。ああ、シンデレラもこんな気持ちだったのか、なんてメルヘンチックなことを考えながら。
高羅が少し不思議そうな表情をしている間に、バイブ音が止まる。良かったと内心ほっとした瞬間に、再び振動が伝わってきた。
「それよりちょっと肌寒くない? もう一回コンビニ入ってもいい?」
音を誤魔化したくて、私は高羅を店内へと誘う。だが、真面目な彼はそれを許してはくれなかった。
「春田さん、多分スマホ鳴ってるよ。俺のことは気にせず出て良いからね」
ブーッブーッと相変わらず憎たらしい振動が続く。高羅の優しさをほんの少しだけ恨んだ。そんなことを言われたら、出ないわけにはいかないじゃないか。
「あ、本当だ。ちょっと出てくるね」
わざとらしく演技をしながら、少しその場を離れ、スマホをポケットから取り出す。画面には予想通り『お母さん』と書かれていた。
きっとまた小言を言われるのだろうと考えると、このまま電源を落としてやりたくなる。
何度門限を破っても、連絡と小言を繰り返す諦めの悪さには、ほとほと嫌気がさす。もはや、そろそろ見放して欲しい。変なところで過干渉で、見て欲しいところで放任する意味は一体何なのだ。
じわじわと怒りが湧いてきて、一言釘をさしてやろうと私は通話ボタンを押した。
「何?」
『絵美! あなた、今何時だと思ってるの! 連絡はしないし、仕事から帰ってきたらいないし。門限過ぎないようにって何回言ったらわかるの!? いい加減にしてちょうだい!』
理由も聞かずに、母の怒号から始まった。いつもこうだ。私はストレスのはけ口か何かなのか? 何回言ったって同じだし、いい加減にして欲しいのはこっちの方だ。
「別に私がどこで何をしようと私の自由でしょ」
高羅に聞こえないようにするため、小声で言わざるを得ないのが悔しいが、淡々と私も言い返す。
『自由で良いわけないでしょう! 時間を考えなさい! 今どこにいるの!? まさか悪い人と連んでるんじゃないでしょうね!』
母の叫び声が胸に刺さり、何かが切れた。
悪い人? この人は高羅を悪い人と言うのか? 何も知らないくせに、私の大切な人までもを悪く言うのか。
許せない。
「ふざけっ……」
「春田さん、大丈夫?」
コンビニの影に隠れて話していた背後から、足音が近づいてきて、小声がそっと耳に入った。
高羅が近くにいる。こんな馬鹿げた親子喧嘩を聞かれるのは、耐えられない。
私が高羅にとって“良い人”ではなくなってしまう。“良い人”でいなければ、嫌われてしまう。
そんなの嫌だ。
「わかった。うん。そうだよね。今から帰るから。じゃあね」
一方的に言い放ち、何か言いかける母を遮るようにスマホを耳から離して通話を切る。ついでに電源も落としてやった。
やはり出たことが間違いだったのかもしれない。
「ごめんね高羅。大丈夫だよ。でもそろそろ帰らないといけなくなっちゃった」
必死に笑みを顔に張り付け、私は影から出る。心配そうに私の目を覗き込む高羅を見て、恐らく母の怒鳴り声が聞こえていたのだろうなと察した。
「本当に? 送っていこうか?」
「ううん、本当に大丈夫! これ以上一緒にいたら、多分私もっと帰りたくなくなっちゃうし! じゃあ、また明日!」
私はピザまんの袋をゴミ箱に捨て、鞄を肩にかける。そして、高羅の顔も見ずに私は駅へと走った。
今、高羅を見ると、泣いてしまいそうだったから。
冷たいアスファルトを蹴る。コンビニや閉店前の飲食店が視界から流れて行く。肺に届く空気は冷たく、十月に浮かぶ月は大きくて眩しい。
本当は送って欲しかった。それでも断ったのは、彼に迷惑をかけること、そして嫌われることが何より怖かったからだ。
もしも送ってもらい、母に見つかりでもしたら、高羅に何らかの被害が出るだろう。それがきっかけで別れることにでもなったなら、私は一体何のために生きているのかわからなくなるほどだ。
駅に着いて改札を通ると、丁度電車が到着したため、急いで飛び乗る。
必死に呼吸を整え、窓の外を見た。明るい都会の街並みが、少しずつ住宅街の温もりに変わっていく。あの明かりの中にいる家族は、私とは違うんだろうなと、心底惨めに思った。
そんなガラスの世界に、私の顔も浮かんでくる。肩に合わせて切り揃えられたはずの髪は、風に煽られてあちこちへ飛んでいた。表情には怨念が塗られており、酷く醜い。
悔しい。帰ったら絶対に言い返してやる。そっちが人をサンドバッグにするのなら、私だって反動をつけて押し返してやる。
ガタガタと揺れる電車とは反対に、一つの確立した思いを胸の内に宿した。
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