君が選ぶやり直し

氷高 ノア

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第一章

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 辺りは既に日が落ちて、西から藍色が迫ってくる。点々と輝く星が、空を覆い始めてきた。
「楽しかった! またご飯行こうね!」
「うん、もちろん! いつでもメッセージ送って!」
 互いの家の中間地点であり、普段待ち合わせをしている人出の少ない公園の前で私たちは別れた。あと十分もあれば、余裕で家の敷居を跨ぐことができるが、敢えて私はぐるっと公園の周りを一周した。
 麻仲がいないことを確認した上で、公園に入る。街灯が二つ、眩しい光を放っており、誰もいない滑り台と砂場、ブランコを、寂しそうに照らしていた。
 荷物を地面に置き、ゆっくりとブランコに腰かける。短くため息をついた後、鎖を握りしめ、思い切り地面を蹴った。
「あー、帰りたくないなー」
 夜に吐いた音はよく響く。返事をするように、鎖がキィキィと鳴いた。
 母子家庭で育った私は、幼い頃から母に振り回されてきた。
 仕事で朝から晩まで働き、保育園の降園はいつも一番最後。小学生以上はともかく、産まれたばかりの頃の写真もほとんど残っていない。就学してからは、ご飯は残り物を食べるか、置いてあるお金を持って自分で買いに行くシステム。
 そんな放任主義なのかと思えば、門限は冬は四時半まで、夏は五時までなどに決められ、帰ってきたら必ず母に電話をかけて、留守電を入れなければならない。家に帰っても誰もいないからと、少しでも時間を破ると、怒られた。
 勉強に関しては、元々それなりにできる方らしく、中学に上がって一番初めの英語のテストで百点をとった時、母が笑って喜び、褒めてくれた。認められたことが嬉しくて、それ以来勉強を頑張った。貧乏な家庭だが、お金をかけずとも、勉強ならできる。
 そのようにして、偏差値だけはどんどん上がっていった。しかし、上がるにつれ、母も慣れてくるのか、何も言わなくなった。
 それでもいつかはまた認めてもらえると信じて、毎日必死に勉強した。
 それが仇となったのかもしれない。どこにでも好きな学校に行けるようにと自分なりに下準備をして、ようやく目指したいところができたにも関わらず、その意を伝えると、偏差値表を見て母は言ったのだ。
「絵美、せっかく偏差値高いんだから、頭悪い東高校より北高校にしたら?」
 私が行きたいところは、偏差値主義な母から見ると『頭が悪い』らしい。そんな学校に行きたい私は『頭が悪い』と言われたような気がした。私が唯一認めてもらえたことだったのに。
「でも、東高校だって、偏差値低すぎるわけじゃないし、麻仲も第一志望にしたいって言ってるくらいだよ」
 それでも、母に認めてもらいたくて抵抗した。わかって欲しかった。あなたが行きたいところに行ってくれたらそれで良いと、言って欲しかった。
 だが、母は私の言葉を聞き、更に曇り顔になる。そこで悟った。母は、私が東高校に行くことは嫌なのだと。
「麻仲ちゃんは、麻仲ちゃんに合ってるところがあるんでしょうけど。仲良しだからって合わせる必要ないじゃない」
 別に合わせているわけではなかった。私が行きたかったのだ。
 でも、それを伝える気力はもう残っていなかった。どうせ、私が何を言ったって理解なんてされない。私に降りかかる言葉は、否定のみだ。それなら言う必要なんてない。一生懸命に自分の思いを伝えて、否定される方がよっぽど辛いのだ。
「確かに……そうだよね」
 母の操り人形になることが、今の私にとって正解なのだろうと、当時は思った。
 不思議と涙は出なかった。ただ、その運命を受け入れて、進路を変更し、母の望み通り合格した。
 母は喜んでくれた。きっとこれで良かったのだと思うことにした。
 ところがおかしな事に、母が喜んでくれたにも関わらず、心から嬉しいとは思えなかった。入学後も、どこか霧がかかるような気持ちで、『これで良かったのだ』と自分に言い聞かせているのに、拒むように『これで良かったのか』と真の答えを探している。
 そんなある日のことだった。
「何よ、この点数は……!」
 一学期の中間テストの結果と、成績順位が示された紙を見て、母は激昂した。
 全ての科目が平均点以下で、順位も下から数えた方がもちろん早い。
 恋煩いがなかったかと言われると嘘になるが、勉強は当然していた。だが、進学校に集められた真面目な生徒たちは、私よりも遥かに賢かったのだ。
 学校が変わり、先生も違って、授業方法やテストの形式、出題方法も変わった。そんな全てが初めましての状況で、出題傾向を見破れるほど私は頭が良くなかったのだ。
 その結果がこれだ。今まで見たこともなかった点数を取ったことで、母は驚きと怒りを隠せない様子だった。
 なぜこれほどの点数なのか。高校に入学したことで浮かれているのではないか。こんな成績では良い大学には入れない。馬鹿な大学に入学させる金はない。大学に行かなければ高卒で働いてもらう、と。
 そんな罵声を浴びせられ、何かがプツンと切れた音がした。
 私の唯一認められていたものも、この高校に入ったことで、認めてもらえないものに変わってしまった。
 良い高校に入れたとしても、次は良い大学を、そしてその先には、良い就職先を求められるのだろう。どれほど母の希望通りに進んだとしても、母はどこまでも上を求め続けるのだ。
 私はもう駄目だ。いつまでも頑張り続けることなんてできない。どれだけ頑張っても、期待に応えようとしても、認めてもらえない。何をしても、私は母から愛されない。
「あっそう」
 ちょっと、と母が呼び止める声を無視してリビングを出て、壊れそうな勢いで扉を閉めた。
 もう私は、母の言う通りになどしない。私は私がしたいように生きる。
 心の中で誓ってからは早かった。
 門限は破る。勉強はしない。怒られても言い返す。
 母や学校にも内緒でバイトを始め、お金を貯めて好きなものを買った。可愛くなりたくて、メイクも始めた。学校にも見つからない程度のスクールメイクをして行った。
 夏休みには髪を少し明るく染めたり、ネイルをした。
 そんなことをしていると、みるみるうちに成績が下がって補習対象になった。バイトと重なったり、面倒臭くて怠る日も出てきた。先生からの呼び出しが増えた。真面目なクラスメイトからは白い目で見られ始めた。
 母と本気で喧嘩をする日も増えた。口を挟まれる度に私も噛み付いて、母が涙する時もあった。それでも私は絶対に謝らなかった。もう誰の指示にも従いたくなかった。
 だって、他人の希望通りに動いたところで、私が幸せになるわけじゃないから。
 我ながら立派な反抗期だなと思う。今まで我慢してきた反動だろう。でもこれが、きっと本当の私だ。私らしく生きている今は、批判は多いが前ほど苦痛じゃない。
 それでも、孤独を感じて、寂しく思うことはある。そしてそれを埋めてくれる存在を探しているのも事実だ。
「そうだ、高羅たからに連絡しよっと」
 私はSNSを開き、彼氏とのメッセージ画面を開いた。
『高羅、今何してるの~?』
 すぐに既読になるかはわからなかったが、ブランコを漕いでいると、程なくして、ポケットの中から軽快な通知音が鳴った。
『部活終わって帰ってるところだよ。春田さんは?』
 付き合っても尚、未だに苗字呼びなところに若干距離を感じるが、それもまた誠実に思えて嬉しくなる。いつまでそう呼んでくれるのかを確かめたく、敢えて声をかけずにいるが、もう少し経てば名前で呼んで欲しいことを伝えたいなとも思った。
『部活お疲れ様! 私も今帰り! 高羅に会いたいなぁと思って連絡しちゃった笑』
 寂しそうな表情のスタンプを添えて、私は送った。大好きだからこそ、私は隠さなかった。自分の気持ちに正直に生きると決めたのだ。好きなものは好き。嫌いなものは嫌いだ。
『いいよ。今どの辺? 春田さんのいるところに行くよ』
 優しい彼氏の言葉に、私は心臓から顔にかけて一瞬で沸騰し、熱いほどの湯気がまとわりつくような感覚がして少し身震いをした。何だかくすぐったくて、全身を掻きむしる代わりに、腕を何度もさする。温かくて、少し痒い心臓に手が届けばいいのにと思った。
『ありがとう! でも、部活で疲れているだろうし私が行くよ!』
 気持ちは嬉しいし、本当は来て欲しい。だが、それより私は家から離れたかった。家から離れて、家族のことなど忘れて、夢のような世界に浸りたい。
 私はブランコから飛び降り、急いで地面に寝そべっている鞄を持ち上げた。
 まだキィキィと独りでに揺れるブランコは、置いていかないでと鳴いているよう。白い街灯が照らす私の影は、真っ黒に染まっていた。
 ついこの前までは、こんなにも暗い公園は私の中に存在しなかった。自分で切り開いた、新しい世界だ。明るい世界にだけ閉じ込められていた私を、私が自ら解放した。親の言うことが正しいなんて嘘だ。私は絶対に間違っていない。
 入口にある銀のポールに上り、そこからジャンプをして公園を出た。
 古い住宅街が並ぶ道は真っ暗で、街灯だけがポツポツと進む先を照らしている。
 早く会いたい。
 地面を蹴る度に、肌寒い空気が頬を掠って、誰もいない家の方へと流れていった。
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