伯爵令嬢の前途多難な婚活──王太子殿下を突き飛ばしたら、なぜか仲良くなりました

森島菫

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第十章 感傷

第五十五話 侍従の躊躇い

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 次の日の昼下がり。侍従のハリスはひどく困惑していた。

「……」

 寡黙に主の斜め後ろで控えながらも、何か言いたげな表情がありありと浮かんでいる。長年の付き合いであるギルバートは、物珍しそうに振り返った。

「ハリス」
「はい」
「どうした」
「……いえ、その」

 少し言葉を選ぶような様子のハリス。しかし、すぐに思い直した。自分が何を言いたいのか、主にはすでに推測されているはずだ。わざわざ向こうから話を聞き出そうとしていることからも、主が侍従である自分の踏み込んだ発言を許可しているのだと理解できる。

 そこでハリスは、主の手にある一枚の紙を見た。

「……本日、提出されるのですか」

 視線の先を見て主語を導き出したギルバートは、聞き返すことなく頷く。

「この後、教会にな」
「……そうですか」

 そこにあるのは、婚約解消の書類だ。ハリスの主と、シャーロット・フォード伯爵令嬢の。

 半年ほど前から、主は彼女に時間を費やすようになった。社交に冷めている主にとってそれがどんな意味を持つのか、ハリスは想像ができていた。

 主の数々の根回しにより、フォード伯爵令嬢は主の思惑通りに婚約者の席に収まった。その手腕に、ハリスが驚くことはもう無い。主の父親である国王陛下は、若干引いているらしいが。ともかく、長年そばで仕えるハリスにとって、主がそのような行動を取ることは、すでに当たり前になっていた。

 ハリスが困惑しているのは、別のこと──突然の婚約解消をした主についてだ。

 わざわざ毎週会うほどに時間を割き、親友や公爵令嬢をも、フォード伯爵令嬢との仲を深める計画に引き込んだ主。事前に婚約の承諾を取りに伯爵夫妻と対面した際には、その強い決意を表明していた。さらに、リゼ王女から婚約の打診があった時は、最適な解決策を以て、その回避を成功させた。

 常に斜め後ろで仕えてきたハリスは、主の一連の行動をすぐそばで見てきている。もちろん、伯爵令嬢への熱量も人一倍見てきたつもりだ。主の想いは、何があっても揺らぎそうに無い相当なものだったはずだった。

 ところが主は、突然その婚約を解消した。昨日はフォード伯爵邸に赴き、解消の説明と挨拶をしてきている。

 率直に言って、不可解だった。

「……正式な解消は数日後ですか」
「ああ。教会の次は父上に提出して、それが受理されたらだからな」

 婚約の手続きも手順があるが、婚約解消の方もそれなりの手順がある。最初に両家で合意形成をし、次に教会へ書類を提出。そこで書類が受理されれば、最終段階として国王陛下への提出と受理が待っている。

 ギルバートの場合はこれから教会に提出するため、明日明後日に手続きが全て終わるわけではなく、ある程度の日数を要することになる。その後、正式な解消を発表する予定だ。おおよその目安は、一週間後。昨日、フォード伯爵家にも伝えてきた。

「じゃ、そろそろ」

 教会に書類を提出すべく、ギルバートが立ち上がる。

「あ……」

 すぐさま扉へ手を掛ける主に、ハリスは一瞬声を漏らした。

「どうかしたか?」

 振り向くギルバート。その表情は、普段となんら変わっていない。

「…………いえ。失礼いたしました」

 ハリスは少しの間口を開き、言いかけ、躊躇い──そして止めた。

 何か事情がありそうではある。それでも、主の決めたことだ。自分は従う。そう納得させて、いつも通り斜め後ろで職務を全うするハリス。

 そんな彼とともに自室を出たギルバートはというと、歩きながら先ほどのハリスの様子を思い返していた。

『どうかしたか?』
『…………いえ。失礼いたしました』

 寡黙な侍従が、珍しく何か言いたげな視線を寄越した。何を言いたかったかは明らかだ。それでも、ギルバートにはこの婚約解消を遂行する必要があった。

 もう、やり遂げるしかない。

 まっすぐに、教会へと歩みを進める。

 それから数日後、教会でギルバートとシャーロットの婚約解消書が受理された。




「……」

 ハリスは自室でくつろぐ主をちらりと見た。椅子にゆったりと腰掛けながら読書をしている。タイトルは『経営学の心得』。近代経営学の祖と謳われるジャスパー・ブラウンの書籍だ。それは、主が王宮パーティーでフォード伯爵令嬢と話した時に話題に出たものだと聞いている。

 主が何を思ってその本を読んでいるのか。ハリスの脳内には、一つしか答えが思い浮かばない。しかし、それを直接主に確かめるのも躊躇われる。聞いたところで、今さらどうにかなるものでもないだろう。すでに婚約解消書は受理されている。

 ハリスにとって、主とフォード伯爵令嬢の婚約は続いてほしいものだった。主自身が伯爵令嬢と過ごす日々を楽しみにしている──少なくともハリスには、そう見えるからだ。

 出過ぎたことをしてはいけないのは、理解している。主のそばで、侍従兼護衛の役目を過不足なく果たすこと。八年前、主従関係が築かれた時に、ハリスが決めたことだった。

 それでも、どこからともなく「このままで良いのだろうか」という憂慮が顔を出す。

 ハリスは今日も主の斜め後ろに控えながら、普段より少しだけ、感傷的な表情を浮かべた。
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