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14話 縄で縛る支配欲ーー絡んだ繊細な糸。
しおりを挟むコンコン……ッ
控えめなノックが響く。
ダニエルは、机に置かれたグラスを見つめたまま、しばらく動けずにいた。
――イネスだろうか。
先ほどの言い争いを悔やみ、謝りに来たのかもしれない。
酒に酔った男の、淡い希望。
「……イネス?」
静かな問いかけに、扉の向こうから柔らかな声が返る。
「いえ、ノアよ……
ダニエル、ほんの少しだけ
あなたと話がしたくて……」
聞きたかった声とは違った。
イネスよりも少し低く、雨を含んだような声色だった。
「もう遅い。
明日にしてくれ」
「……扉を開けてくれなくても
いいの。
でも、そのまま聞いて……っ」
ノア――イネスとの仲違いの原因。
顔も見たくなければ、思い出すのさえ嫌だった。
だが、涙を滲ませるようなその声が、今の自分と重なって聞こえた。
「あなたを愛しているから、
わたしには、あなたの痛みが
わかるの……」
その声に、涙を滲ませたような響きがあった。
「痛み……?」
何故なのか、ダニエルの胸にその言葉がスッと馴染んだ。
「そうよ……痛み……」
「友人としてで構わない。
ほんの少し――話をしましょう……」
――友人、か……。
俺は、彼女を狂ったように求め
いつの頃からか、愛と性の欲に
まみれた日々をおくった。
「俺と君は――そう呼ぶには、
あまりにも複雑だ……。」
周囲の視線も、軽蔑の囁きも、それすら気にならなかった。
――まるで獣だ……。
「俺は……」
しかし――ノアがダニエルのその声を遮る。
板一枚隔てた先。
「奥様の心を、
取り戻したいのでしょう?」
悪魔のようにそっと囁く。
「キリアンとブラット。
わたしが二人と話をするわ。」
ダニエルの中には、誰にも触れさせない“暗い井戸”がある。
酒は、その底を覗くための灯り。
ノアは知っていた。
その灯が揺らぐ夜――彼の心に隙間ができ、驚く程、ほどけやすいということを。
だから彼女は、糸をたぐるように、言葉を落とす。
「あの子たちを、
わたしが説得するの。」
――あの子たちを
切り捨てたって構わない。
ダニエルさえ、一緒なら……。
「わたしなら、できるわ。
子供たちと、奥様の
架け橋になれる。」
「そうすれば、すべてが
うまくいく……
奥様はまた、あなたを
愛するようになる。」
「イ、イネスが俺を……?」
固く結んだつもりでも、心など、少し綻べば、すぐにほどけてしまう。
ノアは、ダニエルの声色から、それを感じとる。
もう、勝ったようなもの。
「ここを開けてくれる……?」
「だが……
部屋にいれることは……」
「少し相談するだけよ。
奥様のためでもあるの。
それに、わたしにしか
できないのよ?」
導くような声。
ダニエルの決心を鈍らしていく。
確かに……
これはイネスのためにもなる。
あいつらが、心を開きさえ
すれば、離縁なんて、イネスも
言い出さないだろう……。
"イネスの初恋の男"。
ダニエルには、その焦りもあったのかもしれない。
ひとつ息を呑み――ダニエルは心を決めていく。
ノアへの頑なな拒絶や、迷いを押し殺し、ドアノブをゆっくりと回した。
ノアの口の端がかすかに緩む。
金属が静かに回る音。
それに呼応するように、ノアの息がふと漏れた。
ダニエルの部屋から薫る、爽やかな香り。
ベルガモットとムスク。
ノアの脳幹を、激しく揺さぶる。
…ああ、この香り…甘い…っ
ーー"わたしの男”。
灯りが、夜の闇に浮かぶノアの輪郭を照らした。
「少し、話をするだけだ……」
「……ええ、入るわね」
ノアの微笑みは、まるで夜そのもののように艶やかだった。
そして、その夜――ノアがこの部屋を出てくることはなかった。
月は静かに沈み、夜は何事もなかったように明けていった
――
朝。
イネスは窓を閉ざしたまま、キリアンとブラットの声が聞こえないかと耳を澄ませながら、静かに身支度を整える。
あまり期待してはいけない――そう自分に言い聞かせるように。
傷つくことのないよう、心を固く包み込んだ。
そして思った通り、子供たちは鍛練場に現れなかった。
二人は食堂にも
いないかもしれない。
朝食はいっそ、
部屋へ運んでもらったほうが……。
――けど、それは逃げだ。
立鏡に映るエンリケのネックレスをしばらく眺め、イネスは覚悟を決めて部屋を出た。
もし今日も、あの子たちが
食堂に現れなければ
わたしから会いに行こう――
すると食堂には、可愛らしい息子二人と、ダニエル。
――そして、ノアの姿もあった。
「おはよう……ございます」
キリアンが、たどたどしくもイネスに挨拶をすると、「ママ、おはよう!」
ブラットが、少し照れ臭そうに挨拶をした。
――これは"夢"なの?
一夜にして、がらりと変わった状況。
エンリケの力ではないかと疑う程だった。
その眩しい朝の光が、少しだけ未来を照らしているように感じた。
和やかな朝食。
ノアが度々、目の端に映りこむことをのぞけば、最高の食卓だった。
息子達の笑顔はイネスの胸を弾ませた。
まだ心の奥に小さな棘のようなものは残ってはいる。
それでも、昨日までは霞んで見えていたサラダの色さえ、色濃く鮮やかに映り、味もやさしく美味しかった。
「イネス、食事がすんだら
少し話をしないか……?」
――ダニエルが、ちゃんと
子供たちに話をしてくれた?
イネスは心よく返事をし、ゆっくりと食事を続けた。
――そして、
「子供たちにしっかりと、
話をしなかった俺が悪かった……」
「朝は、鍛練は中止にして、
子供たちと向き合ったんだ。」
ダニエルは続ける。
「君にとって、子供が一番だ……
その先に、夫婦としての形が
残されているならば、
俺は、君と添い遂げていきたいと
思ってる。」
ダニエルの"業"は、あまりにも深く、イネスはすぐには返事ができなかった。
けれど、イネスは、
「前向きに考えたい――時間が欲しい。」
そう言ってダニエルの部屋を出た。
許すか、許さないか。
そんな単純な話ではない。
――けれど、彼の言うとおり、新しい夫婦の形があるのなら。
イネスの心にも、わずかに赦しの気持ちが芽生えていたのかもしれない。
イネスは、ふとノアの趣味で彩られた装飾品の数々に目を向けた。
そして小さく笑い呟く。
「これも、替え時ね。」
ノアとイネス――
手にしている糸の意味は、まるで違う。
ひとりは、愛という名の縄で、他者の心を絡めとろうと手繰り寄せ。
もうひとりは、絡まった細い糸が自然にほどけていくのを、焦らず受け止めようとしていた。
――そして無情にも、その愛を試す機会ははやくも訪れた。
「奥様、ダニエルとの話し合いは
どうでした?」
残念にも、イネスの部屋の前に待ち構えていたのは、ノアだった。
「汚いところね……
ここに人が住んでるなんて
本当に信じられないわ。」
髪を艶かしく掻き上げ、耳にかけるその仕草は――先ほどまでのしおらしさとはまるで別人。
低く、甘く嘲るようにイネスを見ている。
「話をすることなんてない……。
あなたは、どうせ
ここから出ていくんだから。」
イネスはノアとは視線を合わさなかった。
挑発にも乗らず、立ち塞がる彼女を押し退けた。
――すると、
「あの子たち、
あなたにあげるわ。」
目を細め、ノアは冷たい嘲笑を浮かべた。
――気持ち悪い
あの人は、この女の
どこが好きだったの?
「あげる……?」
腹の底から、怒りが渦巻く。
――すると、ノアがイネスに近づき、耳元で呟いた。
「昨日のダニエル、
悲しそうにしてたわよ?」
少し間を置いて、イネスは口を開いた。
「……あなたには、
関係ないことよ。」
ダニエルが悲しそう?
なぜこの女が知っているの?
二人の間に不穏が漂う。
「わたしの胸の中で、慰めてあげたの」
「慰める……?」
「鈍感ね……。
わたし達、昨日はずっと朝まで
二人で過ごしていたのよ?」
「……嘘よ。」
この女は、嘘つき……
信じてはダメ……。
しかし、惑わされないように心を強くもとうとしても、自然と足は震えた。
「ダニエルを貰うから、
子供たちは、あなたにあげる。」
「お互い痛み分けってわけ。」
ノアは笑みを浮かべ、真っ黒な嫉妬の余韻を、イネスに焼き付ける。
鼓動は煩いほど脈を打ち、底から沸きだす怒りに、イネスは拳を握りしめた。
「あの子たちは、
犬や猫とは違うのよ…?」
この女、何様なの?
イネスの瞳に、深い憎しみが滲む。
「それに、信じない。」
ダニエルの真っ直ぐな瞳と、唇を重ねたあの晩の記憶が、断片的に頭をよぎる。
――「愛しているのは君だけ」
エンリケによってねじ曲げられた感情だとしても、あの熱や吐息。
ノアの言うことは信じたくなかった。
それでも、心の奥がざわつき、頭の中はどこか白くぼやけていた。
「事実よ! 昨日はあなたのことを、
あの人ったら
"息子のことばかりで、
煩わしい女"
って言ってたわよ?」
「キリアンとブラットが、
朝、あなたと普通に
接していたのは、
わたしのお陰ってわけ。」
イネスは後ずさる。
喧嘩の原因は、子供たちのこと。
ダニエルが、話をしなければ、ノアは知りえないこと。
舌をつかって上唇を舐めると、ノアはイネスの耳に小さく囁いた。
「夜、彼の手は、迷うことなく
わたしを求めたの……。
子共を、新たにつくるのも
いいかもしれないわねぇ」
そして、イネスの耳に向かって息を吹いた。
「キャッ……!
やめて!離れなさい!」
イネスは、ノアを弾くように突き飛ばし、鋭く睨み付けた。
「信じられないなら、今夜、
わたしは、また彼の部屋に
行くから、遠くからでも
見ていなさい。」
――ああ……最高よ。
この女を、またバカにできる……
ノアは薄笑いを浮かべると、ゆっくりと背を向けた。
「これからもよろしくね?
お・く・さ・ま……。」
その声音には、かすかな愉悦が滲んでいた。
不快な余韻を残し、ノアは静かに姿を消した。
「そんなの、あり得ない……!!」
しかしその疑念が、やがて確信に変わるまで、そう時間はかからなかった。
エンリケの宿る石――愛に狂え。
まるでそう囁くように、脈打つほの光孕んでいた――。
――次話予告
完全なる決別へ向けて。
支えとなる彼との出会い。
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