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19話 我慢の限界の先。
しおりを挟む回帰前と同じく、息子たち二人の学術院入学が春に決まり、イネスの毎日はせわしなくなった。
剣術の稽古を眺め、子供たちの衣服を仕立て、学術院近くの土地を下見する日々。
目まぐるしい忙しさ。
その裏では、息を殺すような暮らしが続いていた。
ダニエルに気づかれぬように。
アリーナの視線は、いつだって背中に張りついていた。
それでもイネスは、買い物袋に書簡を忍ばせ、情報を手に入れた。
「いい出来映え……。」
茂った葉がほんのり黄色を帯び、夏の終わりが近づく頃。
イネスは紋章入りのジャケットやベストを、ようやく仮縫いまで仕上げていた。
光沢のある素材と色彩は、隣国ボルテウの特徴。
イネスの記憶が正しければ、この生地は、これから帝都中で爆発的に流行する。
思い返せば、この素材を世に広めた立役者は――マルセルに違いなかった。
「マルセル兄さんのところに
行かないと。」
計画を立てても、生きるために頼れるのは、自分の腕ひとつ。
基礎を叩き込み、土台を築かなければ、独り出は立てない。
子らの未来が、彼女にとって唯一の希望。
彼らの暮らす、寮近くで暮らすのが、目標である。
鏡の前で、ほんのりと化粧を施していく。
色づいた唇が、決意のように鮮やかに映えた。
「やっぱり、十年も若返ると
違うわね。」
頬にのせた紅も、選んだ色は明るい。
若い肌には、それだけで十分だった。
――だが、扉を開けた瞬間、音が消えた。
冷たい気配が肌を撫で、空気がひやりと張り詰めた。
そこにいたのは、ダニエル。
「どこへ行く?」
低い声に、イネスの肩がわずかに強張る。
手には、子供たちの衣服の入った袋。
馬に乗りやすいよう軽装に整えた姿から、彼女がどこかへ行くつもりであることは、あきらかだった。
「……マルセル兄さんのところよ。」
「縫製盤を、貸してくれることに
なってるの。」
動揺を悟られまいとしながら、イネスは毅然と答える。
「“縫製盤”?君が?」
帝国にはわずかしか存在しない縫製盤――。
技術者など数少ない。
隣国ボルテウの独自技術。
ダニエルは繊維業まで手を広げ、羊毛を用いた裁縫産業を展開していた。
その縫製盤も、扱いの技も、彼が喉から手が出るほど欲しているもの。
「教えてもらうの。」
その一言で、ダニエルの唇が引き締まる。
「……ダメだ。許可できない。」
「なぜ?
あの子たちの服を仕上げるためよ。」
「……。」
君の特別に、あいつがなることが
――許せない。
言葉が詰まり、後が続かない。
彼女をマルセルのもとへ行かせたくない。
理屈ではなく、"本能"。
「いくわね。」
背を向けかけたイネスの肩に、短く冷たい声が落ちる。
「アリーナを連れていけ。」
「ダメよ。
縫製盤は衣料業の要。
部外者は立ち入れないわ。」
「“部外者”? なら君は?」
放った言葉が、喉の奥で凍りついた。
イネスのまつ毛が微かに揺れ、瞳が静かにダニエルを見返した。
――“妻”であることと、“部外者”であること。
その境界線が、もう二人の間では見えなくなっていた。
そして心の距離は、誰よりも遠い。
「君は、俺の妻だろう?
「それなのに、おかしいじゃないか……」
愁いを帯びるその瞳が、イネスには憎たらしく思えた。
「愛している」――その言葉を口にしても、ノアを手放せない卑怯な男。
「その化粧……。まるで、あの男と
密会でもしにいくみたいだ。」
「変な噂が立ったらどうする!?
君は俺の妻であり――
伯爵夫人なんだ。」
イネスの目が、静かに吊り上がる。
「……伯爵夫人?」
「あなたがいつも連れ歩いていたのは
“ノア”よ。
街の人、伯爵夫人の顔なんて
知らないわ」
不満を口にしなくなったのは、長い結婚生活で諦める癖がついていたから。
自分を守るために、感情を殺すしかなかった。
「わたしの“夫”はあなたなのに、
あなたの“妻”は、本当にわたし?」
冷たく、無機質な仮面のように、イネスは真っ直ぐとダニエルを見つめた。
言わないつもりでいた。
責めないつもりでいた。
――離婚を切り出すその日までは。
けれど、被害者のようなこの振る舞いには、どうにも抑えられそうになかった。
「あなたの妻は、今も昔も
わたしなんかじゃないでしょ!?」
叫んだ声が、壁に反響して消えた。
その静寂が、彼女の決意をはっきりと映した。
「……違う、昔は確かに……
でも今は、本当に君のことしか
愛していない」
「……愛?あなたにとって、
裏切ることが――愛だって言うの?」
ノアと繰り返されるダニエルの浮気。
……もう、限界だった。
「黙っていることは、容認と違う……。」
「ただ、あなたには
何をいっても無駄でしょう!?」
この人が知るより、ずっと長い時間を
耐えてきたのは、多額の借金を
返してくれたお礼だとも思っていた。
けれど、"過去のわたしは死んだ"!
……そろそろ解放の時。
「わたしは……わたしは――」
――あなたと別れるつもり。
最後の言葉を口にすることを、なんとか踏み留まった。
まだ言うときではない。
「わたしを、放っておいて。」
「……イネス……っ」
イネスの剣幕に、ダニエルは完全に言葉を失ってしまった。
イネスの怒りに隠された悲しみ。
――流すことのない涙。
その涙さえ奪ったのは、他でもない自分だった。
「前みたく、父のことを盾にして、
脅してみなさい!」
「わたしだって、もう
黙ってなんていないわ!」
大きな溜め息。
肩を落とすダニエルにぶつかり、イネスは肩を震わせた。
揺るがない。
力をつけて、お父様のことだって
わたしが救ってみせる。
未来で起こること――。
それをわたしは知っている……。
それこそが、今のわたしの“武器”となる。
「いくわ。」
「…………イネス、待て。」
視線を落とし、
ダニエルはイネスとは目を合わせなかった。
「今は、あなたと話をする気分に
なれないわ。」
「……馬車でいけ。
じきに雨が降る……」
――イネスは返事をしなかった。
そして馬車には乗らず、馬に乗り出掛けた。
ダニエルの言いつけに背いたのは、反発したい気持ちもあるけれど、なにより――雲ひとつなく晴れていたから。
しかし、彼女は気づかなかった。
それすらも、“試される遊戯”のひとつ――
抗うことの難しさを、愛と罰の秤にかけて、ただ、眺めるように。
胸元の《エンリケ》が、淡く脈を打った。
それはまるで、彼女の決意を試すように――
いや、“運命”そのものが嗤ったかのように。
その光こそ、後に巡る波乱のはじまりだった――。
――次話予告。
嵐で帰れない。
疼く体――もし、あなたに抱かれたら。
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