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37話 冷たい過去の残酷
しおりを挟む「イネスさん。
ここにある書類、
全部燃やしてちょうだい」
「は、はい」
この日、ジャネットはイネスにあらゆる雑用を押し付けた。
掃除から買い物、在庫整理まで。
イネスは昼の休憩も挟まず、気が付けば空は夕日に染まっていた。
カンッカンッカンッ…!!
激しく鳴る鐘の音は、業務終了の合図だった。
職人たちは一斉に外へ出ていく。
「お疲れ様でした」
挨拶の掛け合い。
仕事が終わり、イネスの緊張の糸もようやくほどけた。
「外が暗くなる前に、
わたしも帰らないと……」
荷をまとめているイネスのもとに、袋片手のマルセルが現れた。
「イニー、お疲れ様。
袋に焼いたチキンを入れてきた。
帰ったら食べるといい」
袋から漂う香ばしい匂いに、イネスの顔がほころぶ。
「うわぁ……美味しそう!
帰ったらすぐにいただくわ。
お腹ペコペコなの」
イネスの変わらない笑顔に、マルセルは少し戸惑った。
昨日、無理にキスをし、告白が失敗に終わったはずなのに、彼女の表情は何事もなかったかのように自然だった。
ずっとイネスのことが気掛かりだったマルセルに比べ、イネスの心の奥は、昼、ダニエルと口論になるほど、服を褒め庇ってくれた。
そのマルセルの様子を思い出して、密かに感謝していた。
「今日はどうだった?
雑用ばかりで大変だった?」
「働くってやっぱり大変ね」
「……っ、大丈夫か!?
もっと楽な仕事を任せ――」
「ち、違うの……!
楽な仕事をしたいわけじゃなくて……
とにかく頑張りたくて」
愚痴みたいになってしまった……情けない……
イネスは小さく顔を背ける。
外に出ると、あたりはすでに薄暗い。
日没まで時間はわずかだ。
イネスは急ぎ馬小屋へ向かった。
「送ってく」
「……え?あっ……いいのよ、そんな」
「明日から、君の就業時間を早めよう。
こんな暗い中じゃ危険だ」
「………」
軽く馬を走らせ、並走する。
暗く沈む林の中、風が木々をざわめかせ、枝が互いにぶつかる音が耳に刺さる。
暗闇は厚く、視界はすぐに奪われた。
イネスの心に、あの日の恐怖が鮮明に蘇る。
手綱を握る手がギュッと強くなる。
全身が寒気に包まれ、鼓動は早まり、胸の奥が締め付けられるようだ。
「…………っ…」
賊に襲われた夜、男たちの嗤う声、容赦なく痛めつけられた痛み——。
あの時の恐怖が、まるで体を通して今再び襲いかかるかのようだった。
これはただの記憶……
自分にそう言い聞かせるが、心臓の鼓動は落ち着かない。
マルセルがそっと声をかけるが、その声は遠く、届かない。
林の暗闇は厚く、息が詰まるようだった。
屋敷に辿り着いたとき、イネスの顔は真っ青だった。
「イニー!?大丈夫か?」
「……大丈夫……
送ってくれてありがとう。
暗い森が怖くて……
子供みたいに怯えてごめんなさい……」
灯りを向けると、肩が小さく震え、唇は血の気を失い真っ青になっていた。
指先まで硬直し、体全体が恐怖で支配されている。
「イニー。これは普通じゃない……
一体どう――」
「遅いじゃないか……」
声を聞きつけたダニエルが外までやってきた。
マルセルは苛立ちを抑えつつ、イネスをダニエルに任せる。
「マルセル兄さん……
送ってくれてありがとう……」
礼もそこそこに、イネスはフラフラと階段を上がっていく。
涙を抑えるのがやっとだった。
「イネス。何があった……?
あいつに何かされたのか!?」
この声すら煩わしい。
ダニエルには、説明することさえできない、自分が死んだ過去。
「なにもされてない……
ただ、今は一人になりたいの
放っておいて……」
冷たく突き放し、イネスは部屋の扉を閉めようとした。
ダニエルは足先を扉の隙間に挟み、それを阻止した。
無理に部屋に入ると、力ない彼女の肩を抱き、椅子に座らせた。
「真っ青じゃないか……」
靴を脱がせ、足の指先を心配そうに擦る。
「こんなに冷えてる……」
部屋は暖炉で暖かく、テーブルには料理も並べられていた。
これはダニエルの気遣いだ。
呆然と眺めていると、過去の冷たい記憶が頭を駆け巡る。
罰部屋に追いやられた一年目。
薪がなく、困り果てたイネスは使用人に助けを求めた。
「薪がなくなったの……
わけてくれないかしら」
「夏の間用意しなかった罰ですよ
寒いなら厚着で過ごせばよろしい」
鼻で笑う使用人たちを尻目に、イネスは雪をかき分け、凍った木の枝を拾った。
惨めだった日々。
怒りや悲しみに暮れ、やがて年月はそれさえ奪い、寂しさと空しさだけを残した。
この暖かな部屋も、ダニエルの優しさも、すべて偽物に思えた。
過去、彼が見せたあの態度こそが本当の姿だ。
「……消えて……」
「……今……何て言った?」
「消えてって言ったの……っ……
わたしの前から消えてよ!!」
殺された記憶が蘇り、過去の心の痛みがイネスを襲う。
「あ、あなたの顔なんて……っ……
もう……見たくない……」
掠れた声。
顔を手で覆い、泣き崩れるイネス。
いっぱいいっぱいだった。
「……ごめん……」
ダニエルは小さく呟き、イネスの肩を抱いた。
「さっ……触らないで!!」
体を振って拒むが、ダニエルの力はそれ以上に強い。
「離して……お願い……
一人にして!!」
「……こんな君を、一人にできない……」
やがて脱力し力の入らなくなったイネスの体。
ダニエルの抱き締める腕も、自然と力が弱まる。
「もう、わたしに構わないでほしいの……」
「それはできない……」
小さく震える声で答えるダニエル。
「……あなたは、わたしを愛して
なんかいないの……」
イネスはエンリケのネックレスをギュッと握る。
「愛してる……
君のためならなんだってできる……」
「………わたしは屋敷の隅で、
薬草を摘んでいただけの女よ……」
「そんな女の一体どこを
愛したっていうの……?」
ダニエルの鼓動が焦りで小さく跳ねた。
きっと昼の会話を聞かれていた。
「……違う、そうじゃないんだ……」
酷いことを言った自覚がある。
弁明のしようもない。
「あなたが愛してるのはノア……」
「違う!それは断じて――」
「違わない……!!
わたしは目にしてきたの
あなた達が肌を寄せ合い、
口づけを交わすところまで……」
「それは邪術によって……」
「……信じてくれ、俺が好きなのは君だ……」
「違うの……
うまく説明できないけど、
あなたが好きなのはノア……」
「……なら、君を愛おしいと思う
気持ちも……
そばにいたいと願う気持ちも……
この感情の名はなんだ?」
ダニエルは胸を抑えた。
「空白の時間を取り戻したい……
君を忘れていた時を戻したい……」
潤むダニエルの青い瞳に、炎の灯りが揺らめく。
張りつめた空気に、イネスは低い声を落とす。
「……わたしを本当に愛しているなら
すぐにここから出ていって……」
「だが……」
「気持ちが落ち着いたら、
子供達の顔をみにいくから……」
「………」
「ねぇ、はやく行って……お願い」
ダニエルが部屋を後にした。
イネスはそこで小さく踞り、静かに涙を落としていた。
彼女の傷は深い。
――次話予告
初雪――みすぼらしい子供達。
選ぶべき友達。
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