遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花

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40話 仕組まれた罠

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朝の勤務を知らせる鐘は、ずいぶん前に鳴り終えていた。
それにもかかわらず、工房にイネスの姿はない。
――昨日のこともある。
マルセルは胸の奥に小さな不安を抱えたまま、壁の時計を見つめた。
 
 コンコンッ
 
 「マ、マルセル様!!」
 
ノックと同時に扉が開き、ジャネットが飛び込んできた。
その顔には、はっきりとした緊迫の色が浮かんでいる。
 
 「大変なことが起きました。
  どうか、こちらへ……」
 
案内されるまま外へ出ると、焼却場の前で一人の職人が立ち尽くしていた。
手には、煤に汚れた黄色の木箱。
マルセルの姿を認めるなり、彼は今にも泣き出しそうな表情で口を開いた。
 
 「……つまり、この製織図を
  保管していた箱が、
  ここで見つかった、ということか……」

職人は小さくうなずいた。
今季の分だけでなく、これまでの製織図すべてが、その箱にまとめて入れられていたという。
焼却場で“空の箱”が見つかった――
それが意味するのは、ひとつしかなかった。
中身の紙は、すでに燃やされてしまったのだ。
 
血の気が引いていくのを、マルセル自身がはっきりと感じた。
 
 「こんな大事なものを……
  そもそも、なぜこんな箱に……!?」
 
 「す、すみません……
  棚が散らかっていると、
  ジャネット様に注意を受けまして……
  整理のために、一時的に
  こちらへ移しておりました……」
 
その言葉に、横からジャネットが静かに口を挟む。

  「それなら昨日、
  イネスさんが掃除していましたね……」
 
マルセルは、ゆっくりと彼女を見た。
その視線は鋭いが、感情を抑えた深刻なものだった。
 
 「……別の箱に移したのを、
  勘違いしている可能性もある。
  工房に戻ろう。
  製織図が残っていないか、
  皆でもう一度、探す」
 
その一声で、工房内は一気に慌ただしくなった。
製織図は、布作りの“地図”だ。
失えば、積み上げてきた技と時間が、すべて無に帰す。
職人たちは顔を見合わせると、総出で捜索に取りかかった。
 
――その頃。
雪道を急ぐ一台の馬車があった。
イネスは、ブラットのことを放っておけなかった。
だが同時に、働き始めて早々の遅刻は許されない。
胸の内で焦りが膨らんでいく。
 
 「……馬車より、
  馬のほうが早かったかも
  しれないわね……」
 
雪道用の蹄鉄を打った馬とはいえ、雪の上を進む馬車は、どうしても速度が落ちる。
これは、無理をして馬に乗ろうとするイネスを案じ、ダニエルが用意させたものだった。
その優しさが、今はもどかしく感じられた。

―― 

そして一方。
兄弟部屋では、父に向けられた怒りが渦を巻いていた。
 
 「父さんなんか、嫌いだ……っ!」
 
ブラットが吐き捨てると、キリアンは即座にうなずく。
 
 「……父さんは勝手なんだ」 
 「ノアのことだって
  あんなに好きだって言ってたくせに」
 
言葉は途切れず、感情はそのまま流れ出る。
 
 「僕たちの気持ちなんて
  知ろうともしない」
 
キリアンは歯を食いしばった。
 
 「父さんには心がないんだ!!
  僕の友達にひどいことをした」
 
ブラットの怒りはさらに強まる。

  「ねえ、兄さん。
   僕たちで、父さんに何かひどいことを
   してやらないか……?」

ブラットの問いかけに、キリアンはすぐには答えなかった。

  「…………力じゃ無理だ」
  「父さんには、勝てない」

父が怒ったときの痺れるような緊迫感を思い出し、キリアンは小さく首を振る。

  「……でも……僕は悔しい」

寒さに震えていた友人たちの姿が脳裏をよぎる。

  「いや、待てよ……」 

キリアンの顔が、パッと明るくなった。

 「出来るぞ……酷いこと!!」
 「父さんの弱点は――
  イネスさんなんだ!!」

――

製織図は、まだ見つかっていなかった。

 「やっぱり、イネスさん……
  要らないものだと思って
  燃やしてしまったんだわ……」

ジャネットの声に、必死に探していたみんなの手が止まった。

  「まだ決まったわけじゃない……」

マルセルだけは、まだ諦めていなかった。

  「……でも、これだけ探してもない
   なんて」
 
  「あんな大事なものを捨てるなんて
   ありえないだろ……」

工房や倉庫の箱はすべて確認済みだ。
 頭を抱える者もいれば、立ち尽くしたままの者もいる。
 
 「これまで一度も、お仕事はなさった
  ことがなかったようですし……」

ジャネットの声が静かに響く。

 「……何もわからないような人間を
  工房にいれてしまうなんて!」

 「とんでもないことを
  しでかしてくれたもんだ……」

不満の声が重なると、ジャネットが大きく反応した。

 「……彼女を責めないでください
  掃除ならと、安易に任せてしまった
  わたしの責任です……」

 「ジャネットさんが悪いわけ
  ではないですよ……」

 「掃除くらいなら、誰だって
  普通はできますから……」

項垂れる者や、頭を抱える者がいた。
落胆の色は、濃かった。

 「みんな待て」
 「彼女からは、まだなにも聞けて――」
 
 「お、遅れてすみません……っ!!」
 
扉を開けた瞬間、イネスは、工房の空気が変わったのを感じた。
 視線。
 視線。
どれもが、彼女ひとりを見ている。
マルセルの声は、もう届いていなかった。

遅刻したことがいけなかったのだと、イネスは胸を締め付けられる思いで、マルセルのもとへ駆け寄る。
 
工房に満ちる重い空気が、その理由をまだ知らない彼女を、いっそう焦らせる。
 
 「遅くなり、すみませんでした!!」

マルセルは、工房に張り詰めた空気を感じ取り、一歩前に出た。
 
 「……君を待っていた」 
 「製織図が、見当たらないんだ。
  何か、心当たりはないか?」
 
責める響きはなかった。 
だが、周囲の視線が、その問いに重みを与えていた。
イネスは一瞬、言葉を失った。
 
 「製織図……?」
 
そして、はっとしたように顔を上げる。
 
 「あ……それなら……
  大事なものだと思いましたから、 
  燃やさなかったんです。」
 
静まり返る工房内。
 
 「年ごとに分けて、 保管してあります。」


 ――次話予告
浴槽に閉じ込められたイネスとダニエル。
父の理性が試される。
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