遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花

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46話 醜悪な魂の骸

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《この章は、残虐描写を含みます。》

  

エンリケ――
石が戻ったら、
再び、時を戻して欲しいと、頼んでみよう。
 
どんな代償でも払う――この命に代えても。
 
すがるような思い。
ダニエルは、祈る思いでマルセルを待った。
 
――
 
――ジャネットの家。
マルセルが扉を叩くも、返事はなく、人の気配は感じられなかった。
やむなく、窓を割り押し入る。
 
――散らかった部屋。
――空いたままの引き出し。
 
 「……うっ……」
 
鼻を抑え、思わずえずく。
溜まったゴミと香水の匂いが、空気を重く押しつぶすようだった。
 
 「……人が住むところなのか……」
 
華やかで、常に着飾り化粧気のあった彼女の意外な一面に、マルセルはゾッとした。
 
 「ここにはいない……。
  既に逃げたか……」
 
焦燥が胸を締め付ける。
頭の中で必死に思案する。
逃げるなら、国を離れるために港近くの宿泊所か、
酒好きの彼女のことだ――きっと酒場にいる。
 
港に数件。
マルセルは目星をつけ向かう。
 
しかし、積もった雪は馬の蹄を覆い、思うように進めない。
 
 「……くそっ……」

今にも息絶えそうなイネスの姿が浮かぶ。
二度と彼女に会えないかもしれない。
そんな不安を必死で打ち消し、マルセルは急いだ。

他国に逃げられたら終わりだ。
そうなれば、ジャネットに代償を払わせることも、
ネックレスが手元に戻ることもないだろう。
 
嫌がる馬をなんとかなだめ、雪を蹴散らして進む。

 「……諦めるわけにはいかない……!」
 

――

 「誰の仕業だ?
  君をこんな目に遭わせたのは……」

 「ただじゃおかない……
  首を切り、その死体を、
  野良犬にでもくれてやる。」

目を覚まさないイネスを前に、怒りと悲しみ。
そして後悔が入り混じる。
  
仕事することを止められなかったこと。
――それ以前に、彼女をそう追い込んでしまったのは、自分だ。
  
ダニエルは、イネスの白くなった頬をそっと撫でた。
  
 「こんな時でないと、
  触れることも許されないからな……」
 
たとえ拒まれ、たとえ嫌われたとしても、
もっと――もっと抱き締めていればよかった。
 
頭部の大きな外傷だけでなく、頬の痣や擦りむけた肌の傷も痛々しい。
 
回帰前の光景が、何度も脳裏をよぎる。
氷のように冷たい、細い体――。
正気に戻った瞬間、眼前に飛び込んできたのは、無残な姿のイネス。
 
――亡骸を抱え、叫び苦しんだあの日。
その光景と、今の状態が重なり、ダニエルの胸を締めつけた。
 
消えてしまいそうな、かろうじてある呼吸。
もし君を失ったら、俺はきっと壊れてしまう――。
 
目線を落とし、いつも気になっていたイネスの薬指を見た。
陽に焼けた指輪跡。
ダニエルは、そっと擦る。
 
 「……指輪を、どこへやった?
  見つけたら、今のうちに
  はめてやるのに……」
 
小さく笑みを浮かべ、ダニエルはイネスの腕をそっと布団の中へと戻した。
 
 「……イネス……目を覚ませ。
  キリアンや、ブラットには
  君が必要なんだ……」
 
医者から渡された煎じ薬。
震える手で少量をすくい、イネスの口に流し入れる。
横から溢れ、飲ませることもままならない。
失った血液を補うため、水分は欠かせない。

 「……起きてから、
  俺のことを怒るなよ……?」
 
ダニエルは、煎じ薬を口に含み、慎重に口へ運ぶ。
艶も色も失ったその唇。
  
むせさせぬよう、ゆっくりと、何度も繰り返す。
 
伝う涙が、ダニエルの頬からイネスの顔へ落ちる。
 
まるで彼女が悲しくて泣いているかのように見え、胸の奥がさらに締めつけられた。
 
 
――


港町には船が並ぶ。 
マルセルの目論見通り、
ジャネットは行きつけの酒場にいた。

雪の降る夜。
空席が目立つ中、彼女は酒を一人煽っていた。

奪ったネックレスを眺め、嘲笑の笑みを浮かべる。

 「ねぇ、あんたさ、価値がないって。
  今見たら……ククッ……
  ほんとにただの黒い石。」

質屋に持ち込んだところ、このネックレスの石は、宝石の類ではないと買い取りを拒否された。
 
 「伯爵夫人様が、
  毎日身につけてるものだからさ。
  てっきり、値打ちのある品だと
  思ったのに――ぷはっ」
 
ジャネットは喉を鳴らして笑った。
 
 「平民に混じって働くくらいだもの。
  ……よく考えたら、わかる話よね」
 
くつくつと、喉の奥で笑い声が転がる。
 
 「ヒヒッ……あれ?
  もう、なくなっちゃったわね……」

最後の一滴を舌に垂らし、ジャネットは追加の酒を頼んだ。

 「お客さん……
  今日はもう帰った方がいいって
  寒気がする……」

店主の男は、理由もなく体を震わせた。

 「やだ、風邪……っ!?
  移さないでよね!」

――バンッ!

突風が吹き荒れ、扉が叩きつけられるように開いた。
雪が一気に舞い込み、灯りが揺れる。

 「……理由はわからねぇが……
  嫌な予感がする……
  今日は帰ってくれ……」

有無を言わせぬ声だった。

ジャネットは、雪の夜へと押し出された。

 「何よ……冷たいわね……
  ここで過ごす最後の夜なのに――」

扉が閉まり、音が断ち切られる。

――頑張ってきた結果が、これ?
――わたしの人生、なんだったの?

視界が滲んだ。

 「……マルセル様……
  マルセル様……っ……
  ボルテウから、
  わざわざここまで来た理由が……
  あの女のためだったんですか……?
  こんなにも、あなた様を愛し……
  ……うっ……っ……」

雪を踏むたび、心の奥で異音が鳴る。
乾いたひび割れが、静かに広がっていく。
   
――やがて、悲しみは怒りへと沈殿し、
黒い澱となって、内側を満たしていく。
 
 「最後に……あの女の顔を、
  蹴ってやればよかった……」
 
 「不細工な顔をみたら……
  少しは気も晴れたでしょうに……
  残念だわ……フッ……
  ちゃんと死んだかしらね……
  フフッ……」
 
歪んだ笑いが、白い息に溶けた、その時。
不穏は、音もなく滲み出た。
 
雪はいつの間にか止み、夜は霧を孕み、
辺り一帯を漆黒に塗り替えていく。
 
 『……醜悪なり。
  名を証すことさえ
  吾には忌まわし……』
 
囁きとも、吐息とも付かぬ声。
耳元――頭の内側に、直接落ちてくるようだった。
 
ぞくり、と背筋が凍りつき、
ジャネットは思わず息を呑んだ。
 
目を見開き、振り向く。
だが、そこには霧と闇しかない。
 
 「……だ、誰……?
  誰なの……っ……?」
 
――酔っているだけ。
酒のせいで、幻を見ているにすぎない。
そう言い聞かせ、唇を噛む。
 
 『……嗚呼。
  勿体なきことよ……』
 
声は、なおも低く、湿ったまま続いた。
 
 『無念にて、耐え難し……
  かような穢れし者に
  なお肉の体あること――
  我には、ただただ憎らし……』
 
霧が、ひくりと脈打った。
生き物の臓のように、鈍く、湿った鼓動。
 
 『これまでに、
  我が見し醜き魂―― 
  その数、数え切れず』 
 
 『……なれど
  お前ほどのもの、
  久しくなかった』
 
低く、絡みつくような囁き。
声は一つではない。
 
霧の中から、黒き影が滲み出る。
 
人の形を成さぬもの。
手とも顔とも付かぬ輪郭が、幾重にも揺らぎ――
 
 『加えてやろう……
  我が見届けし、
  醜の列にーー』
 
影は、じわりと距離を詰めた。
逃げ場はない。
 
ざわめきが、呪いのように絡みつく。
 
影は彼女を取り囲み、
耳元で、喉元で、胸の内で――囁く。
 
後悔。
嫉妬。
嘲り。
 
それらすべてが、黒い手となって、
 
――引きずり込むように。
――仲間にするように。


 「……あ゙……あ゙あ゙――ッ……!!」
 

喉が裂けるような、もはや言葉にならぬ叫び。
それは悲鳴というより、魂そのものを引き剥がされる音だった。
 
 
遠く――
馬を走らせていたマルセルの耳に、
その絶叫が、かすかに届いた。
 
 「……今のは……?」
 
胸騒ぎに突き動かされ、
彼は雪を蹴立て、声のした方角へと馬首を向けた。
 
やがて、霧の奥に、わずかな灯りが滲んだ。
――近づくにつれ、鼻を突く、焦げた匂い。
  
灯りを掲げた、その先。
白一色の雪の上に――
黒く炭と化した塊が、無造作に転がっていた。

人の形を、かろうじて留めているだけの、残骸。
 
マルセルは、言葉を失った。
 
石に拒まれ、喰い尽くされた痕――
馬の怯えた嘶きが耳を裂く。

マルセルは息を呑み、一歩下がった。
これは――人の手で成し得る業ではない。

 「……っ!」
 
雪の中、ひっそりと淡く光る、黄色い石のネックレス。
そこにあるのは、イネスのものに相違ない。

――ここを、すぐに去ろう……!
 
異様な気配から逃げようと、マルセルがそれを急ぎ拾い上げた――その瞬間。
馬が、荒れ狂った。

疾風のごとく吹き荒れる風。
掴んでいた手綱は、指をすり抜ける。
 
白い雪煙を上げ、馬はマルセルを残し、闇の中へと走り去っていった。
心臓が凍るような孤独――息をするたび、雪の冷たさが骨まで沁みた。
 
――
 
荒ぶ雪が、無慈悲に彼を打ちつける。
視界は瞬く間に閉ざされ、どの方向へ進むべきかもわからない。
 
冷たい風が肌を裂き、全身を貫く痛みに、息をするのもやっとだった。
 
やがて立っていることさえ叶わず、
マルセルは雪の上に崩れ落ちた。
 
粉雪が顔に張り付き、視界をさらに遮る。
――意識は、氷のように静かに、しかし確実に遠のいていく。

  
 
  ああ……駄目だ……
  俺は死ぬ……

 

――意識は、氷のように静かに、遠い……。
 
胸に浮かぶのは、幼き頃のイネス。
そして大人になった彼女の姿。
 
何年離れても、変わらぬ想いが心を埋め尽くしていた。 
 
イニー……ごめん……
 
俺のせいで……っ……
 
命なんて 惜しくない……
  
せめてネックレスを 返してあげたかった……
 
君の無事を この目で……
 
そして、できることなら――

――君に、愛されてみたかった……
 
 
 「……イ……ニッ……」 

 
声にならない呼び名が、雪に溶ける。

  
――その時。
胸に仕舞われた石が、囁いた。

 『吾は、汝を好んだ。
    暇を潰すには足れり……』
  
  
微かに残る意識の底へ、 
冷たい声が、沈み込む。
 
 『穢れなき肉の体よ
  実に愛でたきもの……』

瞼を抉り開けようとしても、その気力はすでになかった。

 
  誰…だ……?

 
 『愛しき女に、逢いたきや?』

 
 
 「………あぁ……会いたい……」
 

 
無意識の言葉を最後に、
マルセルの意識は、闇へと途絶えた。

 
 ――次話予告
愛するからこその選択。
渦巻く嫉妬。
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