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69話 染み付いた"毒"
「――君に、はじめて声をかけた
あの日のことを、覚えているか?」
豪華な円卓には大輪の花が咲き誇り、銀器の上で肉料理が芳醇な湯気を立てている。
だが、イネスはそれどころではなかった。
一刻も早く罰部屋へ戻り、作業を再開したい。
イネスは一心不乱にパンをちぎり、口へ放り込む。
「ああ……あなたがわたしを
『買った』、あの日のこと?」
「かっ、買った……!?
確かに……いや、そうではなく!
建国記念日のことだ!」
ダニエルが狼狽えるのを横目に、
イネスは余裕の笑みを浮かべた。
「覚えているわ」
その手が、ふと止まる。
脳裏を掠めたのは、記憶の底に眠る建国記念日の喧騒だ。
人混みの中でなりふり構わず、必死な面持ちで自分を呼び止めたあの男。
……実はあの瞬間、
一目で恋に落ちていたなんて、
口が裂けても言えないわ……
その後、夜会で再会したダニエルは、隙のない礼服に傲慢な笑みを浮かべた別人のような姿だった。
夜会の「自分を買った高慢な男」と、自分を必死に呼び止めた「帝国最高の花婿候補」が同一人物だと気づけたのは、ずっと後のこと。
「あの時わたしは、あなたを
不審な男だと思って、
すごく警戒していたのよね」
二度、恋に落ちたようなものだった。
それでも、努めて冷静に突き放した。
だが――
「ははっ……警戒だって?
いや、俺には分かってた。
あの時、君はもう――
俺に心を奪われていたんだろう?」
「は……っ!?」
フォークから滑り落ちたレタスが、皿の端で頼りなく跳ねた。
図星を突かれ、イネスの顔が沸騰したように一気に赤くなる。
「な、何を……!
ちょっとダニエル、そういう話は、
みんながいない時にして!」
食卓が、しんと静まり返った。
父ローランはスープの匙を止めて耳をそばだて、二人の子供たちも固唾を呑んで両親を見つめている。
イネスは焦りを隠すように、勝ち誇った顔のダニエルをキッと睨みつけた。
「君が悪いんだ。今夜は
『二人きりで』食事をすると
約束したのに……
君がそれを破ったんだから」
ダニエルは不満げだ。
「それは申し訳なかったと思ってるけど……」
「で、実際どうなの?母さん」
ブラットが目を輝かせ、椅子から身を乗り出す。
「……覚えていないわ!」
「そんな訳ないだろう?
俺は確かにあの日、君の瞳の中に
燃え上がるような熱い想いを――」
ゴホンッ!
ローランが、肺を震わせるような大きな咳払いをした。
「食事を続けようじゃないか」
「ぷっ……くくっ……」
キリアンが堪えきれずに噴き出し、銀のフォークがカランと音を立てて皿に落ちた。
それを合図に、食卓は一斉に弾けるような笑いに包まれた。
ああ……これか……
糸のことさえ一瞬忘れ、イネスはふわりと心が温かくなる。
胸の奥に灯ったこの温かい光こそが、今の私が手に入れた「幸せ」なのだ。
イネスの唇から、春の陽だまりのような微笑みがこぼれ落ちた。
――
罰部屋――。
夜、イネスはダニエルが見守る傍ら作業を続けた。
煮出した二ヴァレス樹皮は、粘度が高くなっていく。
焦がさないため、イネスは棒で休むことなくかき混ぜていく。
「代われ」
短く、拒絶を許さない声。ダニエルが強引に棒を奪い取った。
「あなたは休んで。
……お父様が来れば、」
「大丈夫じゃない。君こそ休め」
有無を言わさぬ力で肩を押され、部屋を追い出される。
「……大丈夫なのに……」
渋々潜り込んだのは、あの硬いベッド。
正直、ここは嫌だ。嫌な記憶しか、染みついていない。
……でも、隣の部屋にはダニエルがいる。
その体温だけが、唯一の心強い錨《いかり》だった。
深く息を吐き、シーツの海へ沈む。
――視界が、反転する。
真っ暗な闇。
子を宿した腹。
動悸。立ち尽くす自分。
ダニエルの部屋の扉一枚隔てた先から、毒のような声が漏れていた。
「……あん……あぁん……っ
――奥様より、気持ちいい……?」
「……もちろんだ………
君のほうが、最高にきまってる」
最悪な答えが、鼓膜を抉る。
硬直する腹の痛み。
耳を塞いでも、見てもいないはずの光景が脳裏に浮かぶ。
彼が彼女に触れる仕草が、勝手に形を持ってしまう。
逃げる。
転がるように。
繰り返される不貞。
無力な自分。
……苦しい……苦しい……っ……
熱い雫が頬を伝う。
――ふと、視界が開けた。
目の前に、ダニエルの顔。
心配そうに伸ばされた指先が、涙を拭う。
その瞬間、全身の産毛が逆立った。
パシッ、と乾いた音が響く。反射的にその手を跳ね除けていた。
ダニエルの顔が、傷ついたように歪む。
「……っ……ごめんなさい……」
「怖い夢でも、見たのか?」
「……久しぶりに、ここで寝たから」
差し出された彼の手から逃げるように、胸元のネックレスを握りしめる。
冷たい鎖の感触が、自分を現実に繋ぎ止める。
ダニエルを愛している。
彼は操られていただけ。
頭では分かっている。
けれど、記憶にこびりついた「彼」は、生々しく、ノアを抱いていた。
「ごめんなさ……っ……
今は、触れてほしくないの………」
うずくまり、涙を流すイネス。
触れることも許されず、ダニエルは嘆きただ傍に寄り添う。
愛していても――届かない場所がある。
染みついた記憶を洗い流す術を、二人はまだ知らなかった。
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