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第一章 巳坂

八雲の部屋

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「そういえば、どこに連れていくか聞かなかった」

 前を行く八雲さんがいきなり止まったので、そのままお尻にぶつかり顔がぐちょりと濡れてしまった。

「いやん」

 そんなわざとっぽい声がした。が、僕はお構いなしに着物の袖で顔を拭いた

「私の部屋でいい?」

 まさかの自室?

「八雲さんがいいのなら、僕に断る理由はないですけど…」

「なら、そうする」

 少し引き返し、階段を通って二階へと上がる。登りきった階の廊下は前後に伸びていて、八雲さんはそのまままっすぐに進んでいく。振り返ると階段が二つ見えた。三階もあるのだろう。

 Tの字に別れた角を曲がり、赤い色の暖簾をくぐると、短い廊下になった。この屋敷に来てから見た中では、一番短い廊下だった。暖簾をくぐってすぐに引き戸があり、もはや行き止まりと言っていい。

 ちらりと曲がらなかった反対の廊下へ目を向けると、そちらも同様に人一人がおさまる程度の空間が暖簾で区切られている。ただ違うのは、掛かる暖簾が真っ赤とは対照的に、眩しい白色であることぐらいか。

 八雲さんが、がらりと戸を開ける。

 後ろから顔を覗かせてみたが、目に映る景色はまたしても廊下である。向かって右手に伸びているので、素直に曲がり奥へと進む。右側は、等間隔で障子が並び、おそらく個室になっているのだろうと勝手に推測する。

 左側もやはり障子であるが、光が透けて入りこんできているので、開ければ外に繋がるのかもしれない。

 けれども、透け込む光が無視されているかのように、廊下は青白く、薄暗く、よく見えない。

 人間ならば不気味さを覚えるのだろうが、そこにはまったくもって陰気がないので、僕はあっけらかんとしていた。

 やがて八雲さんの足が止まった。

 障子を開けると今度は洋風のドアがあり、そそくさとそれも開ける。

「とりあえず、あちらが落ち着くまで、ここで待ってて」

 案内された部屋はこの屋敷の景観に全くそぐわず、洋風な造りであった。

 まず鼻をくすぐったのは、墨や絵の具が混じったような匂いだった。この部屋の奥の扉から漂ってくる。絵師である事は先ほど聞いていたので、やはり八雲さんの自室らしかった。

 それよりも三台の除湿器の奥にある大量の漫画本で埋め尽くされた本棚が目立って仕方がない。

「読みたかったら読んでいい」

 本棚に目を取られていた僕に、八雲さんは声を掛ける。

 振り返ってみると、小さな丸テーブルに飲み物を出してくれていた。そして、やはりここでも金盥の中に収まっていた。

「冷たいから大丈夫。環、猫舌。猫だから」

 そういって、幽かにふふっと笑った。

「その洒落ならさっき、お茶の時に言えば良かったじゃないですか」

「さっきは円がいた」

 ああ、そうか。

 そういえば人間のいる前で正体をばらすのは、失礼になるのだった。

「けど、円さんは僕の正体を知ってますよ?」

「円がそれを口にしないのなら、知られていないのと同じ。それにやっぱり、人の前で正体を言うのは気が引ける。環も気を付けるべき」

「はあ」

 思えば八雲さんの正体は何の妖怪だろうと思いながら、用意してくれた座布団に座ると、水を一口飲む。とても美味しい水だった。

 巳坂に来てから、ようやく一息付けた気がした。それでもさっきの部屋でのモヤモヤは消えてはなかったが。

「アニメ、見る?」

「え?」

 突然の提案に、はいとも、いいえとも言えない。

 八雲さんはDVDを片手に、相変わらず無表情でこちらを見ている。パッケージが無地なので一体どんな内容なのかは分からない。なので僕はアニメが見たいというよりも、八雲さんが勧めるDVDの中身の方が気になり承諾した。

 ゴム手袋を付けてプレイヤーをセットする。確かに濡れたまま精密機器に触れるのは、御法度だろう。

 セットが終わると、八雲さんはリモコンを操作する。

 さて、中身とは如何に。

 …。

 ……。

 ………。

 ゲゲゲの○太郎だった。

 それも第四期。

 罷りなりにも妖怪がテレビの前に並んで座り、ゲゲゲの○太郎を見ている。しかも片方は全身ずぶ濡れで金盥に入っている。

 見る者が見れば、とてつもなくシュールな光景であろうと思った。

 ちらりと八雲さんの横顔を見る。心なしか目が輝いている気がした。そして改めて変わり者だなと実感する。

 そのまま二話分を見終わったところで、ふうっという息使いが聞こえた。

「やっぱり、陰摩羅鬼おんもらきと折りたたみ入道の話はいい。ねずみ男が泣ける」

「確かに。僕は垢舐めと白溶裔しろうねりも好きですが」

 ぴくりと八雲さんが動く。

「まさか、環も妖怪好き?」

「妖怪相手にどんな質問してるんですか」

「巳坂にいる連中、この手の話は相手してくれない。人間以外で○太郎談義ができたの初めて」

「まあ、みんな妖怪ならそうでしょう。僕の場合は、此の世で飼い主だった人が大の妖怪好きで、半ば無理やり見てたんですよ」

「もしかして、全シリーズ?」

「それどころか、劇場版から実写まで見せられました」

 すっと手を差し出してきた。

 ここまで機敏に動く八雲さんを見たのは初めてだった。

「ここにはいつでも来ていい。歓迎する」

「…ありがとうございます」

 手がぐちょりとなりながら握手を交わした。

 見知らぬ土地で同じ話題で話せる相手が見つかったのは、まあ幸運だったのかもしれない。
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