上 下
38 / 40
十四章 啓介との日常

しおりを挟む
 この日の夜から私は変わった。初めのうちは的場の去り際の姿が頭から離れず気にかけずにはいられなかった私だったが、次第にその気持ちは薄れ、次の日の朝目覚めたときにはすでに私の頭の中には啓介のことしかなかった。
 心が弾む感覚。これまでは億劫だった朝の早起きや満員電車に乗っての登校も、今の私にとっては楽しみなものとなっていた。
 学校に行けば、彼に会える!
 私の足取りは自然と今まで以上に軽くなっていった。
「おっ! おはよう、珍しいな~」
「うふふっ、おはよ~」
 まだ学校には辿り着いていなかったけれど、琴乃の声がした。この日ようやく普段琴乃が乗る早い電車に乗ることができたのである。何ヶ月ぶりだろうか。入学して間もないころから登校するときは同じ電車の中で会おうと約束をしていたけれども、毎回毎回、私の方が約束の時間に遅れ、もうかれこれ数ヶ月は会うことができていなかったのだ。
「珍しいこともあるもんだな~。やっと早起きできるようになったか」
「へへっ、まあねー」
 やっぱり琴乃も驚いているようだ。得意げなった私は照れ笑いで返した。
「あー、そういえば今日は体育と地理の移動教室があるんだっけな~。良かったな百合絵、今日は二時間もあいつから離れられるじゃん」
 私の教室での席を心配してくれているのかどうかは知らないけど、琴乃はそう言った。しかし、今の私にとってはそんな心配はご無用だった。
「へっへっへー、琴姉ぇ~、もう教室の席がどうかなんてどうでもいいもんね~。うふふっ」
「ん? あっ、そう」琴乃は少し不思議そうに私を見た。
 あ~、舟渡く~ん。……琴姉にも報告してあげたいけど、後のお楽しみね~。
 あの的場から啓介を勝ち取った。早く自慢したいところだけど、ここは満員電車の中だ。さすがにこんなところでこんな話をするのは、恥ずかしいしもったいない。早く話したい衝動を抑え、昼休みまでのお楽しみにすることとした。

 教室についた。私にとってはいつもよりも早い朝だった。
「へ~、朝ってこんなに静かなんだ~」
 早朝の教室はクラスのほかの人もまばらで静かだった。二、三人のグループでひそひそ話を楽しむ女子たち。机に向かい、参考書やノートとにらめっこしているがり勉たち。こっそり持ってきたゲーム機を堂々と取り出して対戦を楽しむ男子グループ。机に突っ伏して眠る人。十数人のクラスメイトが思い思いの時間を過ごしていたけれど、その中に例の二人の姿はなかった。
「は~……。でもやっぱ後ろいないと気が楽でいいわー」
「ははは~、おまえやっぱ気にしてんじゃねーか」横も後ろも未だ空席。いつもより広々とした自席で私は琴乃とくつろいでいた。

「おーっす」
「おはよ~」
「あーあ、眠いわ~……」

 教室にだんだんと普段の活気が戻ってくる。私の隣の男子、矢野は私以上に遅く登校してくることが多かったので、琴乃は相変わらず彼の机に腰を下ろして陣取りながら私とのおしゃべりに更けていた。
 そうこうしているうちに例の二人のうちの片方がやってきた。
「ああっ! 舟渡く~ん」啓介がやってきた。しかも初めて見る彼一人だけの登校。私は喜びのあまり思わず席を立ち手を振った。彼もすぐに私のことに気づき、周囲を少し確認すると軽く手を振った。
 わあああっ! 舟渡くんが! 手を振り返してくれた!
 幸せのあまりぼうっとしていると、彼が私たちの方へやってきた。
「舟渡くん! おはよっ!」
「ははっ、西谷ってそんなに大きな声出せるんだね」
「もー、何よその言い方っ!」
「悪い悪い、ふふっ……」
「ふふふふっ……」
 夢のようだった。周りの目を気にしないで啓介とこうして思いっきり笑い合うことなんてこれまで一度もなかった。幸せ気分の私と啓介はクスクスと笑い合っていた。
「ハハハハ……、じゃっ、そろそろな」
「うん、また後でね~」
 そう言って彼は自分の席の方へと歩いていった。本当はもっと一緒にいたかった。しかし、昨日の帰りに啓介と話したことを思い出し、我慢することにした。

 〈回想〉
 ガタンタタン……。

 あの日の帰り、電車に揺られながら私と啓介は自由が丘に着くまでの短い時間を過ごしていた。
「萌花……」
 啓介は窓の外を見つめていた。
「舟渡くん……、やっぱり的場さんのこと……」
「ああ……ごめんな西谷、こんな優柔不断で浮気者の俺で……。おまえもやっぱり俺のことなんか……」
「ううん、そんなことないよ。舟渡くんと的場さん、とても仲良しだったもんね……」
「……なあ、西谷」
「何?」
「西谷……、おまえには本当に申し訳ないんだけど……、明日は……明日だけでいい、ちょっと俺と距離を取ってもらえないか」
「えっ?」彼の言葉に驚いた私だったが、彼のその表情を見てすぐに理解した。
「わかった。舟渡くんの頼みだもん。……それに、正直私もびっくりしちゃった。まさかあんなにショック受けちゃうなんて」
「すまない……」


 ということで、とりあえず今日一日は、私と啓介はこれまで通りただのクラスメイトとしてふるまい、二人で的場の様子を観察することにした。
「なんだよ~、おまえらめちゃくちゃ楽しそうじゃ~ん」
「あっ、琴姉……」すっかり忘れていた。琴乃は手帳とペンを持ちながらぶっきらぼうに言った。
「あっ、ごめんごめん。あっ……それで、何の話してたっけ?」
「それはもういいけど……、そんな仲良くしてたら……、おまえまたあいつに何かされるんじゃね~か」琴乃は以前のように私がまた的場に嫌がらせされることを心配をしているのだろうか。
 的場の嫌がらせか~、はは~ん、そんなの今の私にとってはもう杞憂だもんね~。
 今の私にとっては、琴乃の忠告もただのおせっかいにしか聞こえなかった。
「まあいいや。メモもしたし……、席戻るわ」
「うん、また後でね~」
 相変わらず無表情な琴乃はそう言うと矢野の机を降り、すたすたと行ってしまった。席に戻っていく琴乃の後ろ姿を眺めていた私の視界に、突如あいつが飛び込んできた。
 的場だ。しかし、それは私が知っている的場ではなかった。魂が抜けたような表情と顔色で、うつむきがちにとぼとぼと歩くその姿は、もはや別人かと見間違えてしまうほどのものだった。
「あっ……萌花……、おはよう……」
「あっ!」
 啓介が動いた。おどおどとはしていたものの、その目はしっかりと的場の方を見ていた。
「……」
 無言だった。このままスルーしてしまうのだろうか? 的場は相変わらずうつむきながら佇んでいた。

 バシッ‼

「え……」
 大きな音が響いた。一瞬にして張り詰める空気。ずっと啓介たちを見ていた私はあまりの突然の出来事に唖然としてしまった。それは教室にいたほかのクラスメイト達も同じだった。頬に手を当てる啓介。その隣には涙を流しながら悔しそうに目の前の彼を見つめる的場がいた。

「なんだ?」
「ケンカか?」
「あいつらとうとう破局したのか」
「あ~あ……」

 辺りからひそひそ声が聞こえてくる。的場はついに啓介に手をあげたのである。彼は痛そうに目の前の的場を見ていた。静まり返った教室の中、的場は啓介に話しかけることもなく私の方へ向かって歩き、私の席のすぐ後ろの自分の席に座った。
 ヤバい! これ絶対私も何かされる!
 そう思った私は後ろを振り返るのが怖くなり、そのまま机に突っ伏してその時が来るのを覚悟して待った。

「はいはいはい、一時間目始めますよ~」教室のドアが開く音とともに現代文の先生の声がした。
「はぁ~」
 とりあえずは何もされなかった。私は安心して上体を起こし席を立った。
「こらそこ! 起きてください!」私の方を見て先生が注意した。
 えっ! 私は起きてるけど……。そう思いちらっと後ろを振り向いた。
「あっ……」
 私の後ろの的場はまだ机に突っ伏していた。まさかの……。
 結局彼女は、先生に起こされるまでずっと机に突っ伏し起きることはなかった。

「え~、では~、次の(4)と(5)を解いてみてください……」
 中休みを挟み、四時間目の授業中も、私はすぐ後ろの的場のことが気になって仕方がなかった。結局的場は中休みも寝たきり状態だった。もちろんビンタされた啓介のことも気にはなっていたけど、私の席と彼の席は離れすぎていた。
 いつか、必ず絶対何かしてくるはず……。こんなことされてあいつが何もしてこないわけない……。あれだけ好き好き言っていたけど、とうとう本当に啓介のことも嫌いになってしまったのか?
 そんなことを考えながら問題を解いていた私は、ふと後ろの方から聞こえるつぶやきを聞いてしまった。

「……啓ちゃん。…………ねえ、……啓ちゃん……。ぐすん……」

 うわぁぁぁ~! やばいやばいやばいっ!

 的場は今どんな様子なのだろうか。怖すぎてとても後ろを振り返ることなどできなかったが、とりあえず彼への未練がまだ残っていることだけはわかった。


「はーっはっはっはっ! あいつらざまあ~!」
「ちょっと琴姉ったら~」
 普段は教室で食べるお弁当。だけどこの日は琴乃から中庭で食べたいとか言い出すから何の用かと思ったら、このざまである。琴乃は朝の的場と舟渡を見て、超ご機嫌な様子だった。
「いや~、今日はほんとスカッとさせてもらったわ~! 百合絵! ナイス! おまえほんとによくやった!」手帳片手に琴乃は嬉しそうにそう言った。
「だから私は別に……」
 昨日あった出来事を私はさんざん訊かれありのままに話した。特にこれと言って何かしたわけではない。的場の方から突然泣き出したりその場を後にしたりしたのだけれども、琴乃はまるでそれらがすべて私の功績かのように褒め称え上機嫌だった。
「それで、どこまで行ったんだ?」
「何よどこまで行ったって、昨日のことなんだからまだまともにデートすらしてないわよ。今日だって的場の様子見ようってことになって、学校ではあまり一緒にいられないんだからね!」
「ちっ! なんだよ、つまんね~な。……でもおまえマジですごいわ、見直したわ」
 琴乃は私のことを気遣ってくれているのか、それともただ楽しんでいるだけなのか? いや、これはきっと両方かもしれないな~。
 結局この日、私は昼からずっと琴乃に褒められっぱなしだった。

 放課後、本当は楽しい楽しい家庭科部の時間なのだけれど、真妃と綾子をはじめ他のみんなには啓介を勝ち取ったことは話さないでいた。あまり大ごとにしてしまうと以前のようにお祝いパーティとかが始まって部活動どころじゃなくなるし、それ以前にそんなことされたら恥ずかしいし……。それに、実は少しだけ的場に対して後ろめたい気持ちがあったのだった。真妃も真妃で終始食べ物の話ばかりで私の彼の話などする様子もないみたいだった。
 そんなことでこの日の家庭科部も平穏なお茶会に終わったけれど、真妃たちと別れたその帰り、私の中には一つ懸念事項があった。
「これじゃ家庭科部か啓介かどっちかしか選べないじゃーん」
 そう、啓介は帰宅部。しかも予備校通いで放課後も忙しいことが多かったので授業後に学校に残ることと言えば図書館で勉強をするときくらいしかなかった。つまり彼と一緒に帰るためには彼の方に帰宅時間を合わせなくてはいけなかったのである。しかし私は私で真妃たちとの楽しい時間を共にできる家庭科部があった。
「あ~、どうすればいいんだよぉ~」悩めば悩むほど私の頭の中は真妃たちと啓介のことで埋め尽くされていった。


 次の日、私は昨日以上にウキウキしながら学校に向かっていた。なんと、啓介の方から「もう自由に俺に関わってもいいよ」という許しを得たのである。
 それは昨日の夜遅くのことだった。普段はほとんど連絡をくれない啓介からLINEが来た。そこで彼は、「的場にはもう完全に嫌われたようだ。だからもうこそこそするのはやめにしないか」と送ってきたのだった。突然の彼からの連絡に、驚きと、彼との時間を思う存分過ごせるという期待で胸がいっぱいになった私は、あの時聞いてしまった的場の本心を彼に伝えることなく即OKしてしまったのだった。
 この日も例に倣って琴乃よりも遅れて教室に入ったのだが、何とそこには私を出迎える啓介の姿があった。彼もたった今来たばかりみたいだ。カバンを背負った啓介は私を見るや否やすました顔で手を振った。
「舟渡くん!」
「おはよう西谷。昨日は悪かったな」
「ううん。それより……」
「ああ、いいよ。俺だってこんなこと続けるのはつらいからな」
「舟渡くん……」
 彼を目の前にして高まる鼓動。彼に告白されたあの日から胸のドキドキを感じ続けていた私にとってはもはやそれが平常心のようになっていたのだけれど、この時ばかりはより一層強く感じていた。

「おっ」
「新しい彼女か?」
「舟渡のやつ、今度は西谷と付き合ってんのか?」

 時折聞こえるクラスメイトのひそひそ話。しかし今の私にとってそんなものは全く気にもならなかった。私はとうとう啓介の唯一の彼女になったのだ。表しようのない幸福感と満足感、そして優越感で私の心は満たされていた。
「あっ……」突如私は固まってしまった。啓介のことばかり夢中になっていた私は、琴乃が近くにいることをすっかり忘れてしまっていた。琴乃は私たちの近くの席に座り、呆然とこちらへ視線を飛ばしていた。
「ふっ……」
「ちょっと~、何よそれ~」私と視線があった瞬間、手帳を片手にした琴乃は鼻で笑いながら視線をそらしてしまった。
「ごめん、ちょっと……」
「わかった。また後でな」
 琴乃の態度が目についた私は慌てて琴乃のもとへ向かった。
「ちょっと琴姉~、何なの今の~」
「あ~、今日もおまえらアツアツだなーって思って。あっ、もちろん観察記録もばっちりつけといたぜ~」
「だからもうそれはいいって~!」
「まあまあ……、あっ! 来たぞ」
 琴乃のメモ癖に呆れかえっていた矢先、教室に的場が入ってきた。彼女はやっぱり今日もうつむきがちで魂が抜けたような表情だった。的場は静かに机と机の間を進み、私と琴乃の横を無言で通り過ぎると、すっと物音ひとつ立てずに私の後ろの席に座り机に突っ伏してしまった。
「百合絵、舟渡を勝ち取り、乙女への階段を上り始める、っと……」
 琴乃は的場のその姿を捉えると、鼻で笑いながらメモをした。
「ち、ちょっと~! 何またメモってんのよ~!」
「ひひひひ……、これが私の楽しみなんだよー」
 恥ずかしくなっておどおどする私をよそに、琴乃はすました顔をして手帳を閉じた。
しおりを挟む

処理中です...