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五章 異変

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 この日の朝もまた慌てていた。
 やっぱ、私には朝は無理だわ……。
 今日もそう思いながらおなじみの満員電車に乗って学校へ向かっていた。

 ピンポーン、バタンッ……。プシュゥゥーッ……。

「あーあ、行っちゃった……」
 今日も琴乃と車内で待ち合わせをしている電車を逃してしまった。高校に通い始めてもう五ヶ月というのに、私は相変わらず、毎日毎日遅刻との闘いを繰り返していた。一方の琴乃は時間には正確で、遅刻などはしたことがなかった。下手したら朝の通勤ラッシュによる遅延を頻発するこの電車よりも正確かもしれない。というわけで、私は今日も琴乃と一緒に登校することは叶わなかった。
「なんか、落ち着かないな……」
 いつもの私なら、琴乃と会えなかったことを落ち込み、やや暗い気分での登校となるはずだった。しかし、この日は違っていた。なぜだかはわからないが、なぜだかとても落ち着かないのである。
 なんで⁉ どうしちゃったの⁉
 遅刻は絶対にしまいとか、そんなことは一切考えない私なので時間に追われているというわけでもない。そしていくら天然だからといってお漏らししそうになるほどバカではない。なのになぜ……?
 なぜだか知らないけど、やたらと胸がドキドキするのであった。

「おはよう、やっと来たな」琴乃がいつも通り私に話しかけた。
「あっ、琴乃……、おはよ……」
 私は何か別のことを考えながらそう答えた。
「なんだ、どうかしたのか?」
「はっ! あっ……」
 私は我に返った。自分でもよくわからない志向の渦から一時脱出したのだ。
「なんだよ? 体調でも悪いのか?」
「い、いや……、何でもない……」
 何でもない、というか何なのか自分でもよくわからなかった。そんな状況だった私はそう答えることしかできなかった。

「えー、次の二次曲線についてー。これらの関数の、曲線の頂点の座標は……」
 白衣を着た女先生のガラガラ声が教室に響いていた。
「どうしてなの……? まだドキドキする」
 授業中も朝から続く原因不明の胸のドキドキは治まることはなかった。
「そうだ、きっと疲れてるのよ。ここ最近授業中に寝ないで勉強してたから……。よーし……」
 そう思うと私は机に突っ伏した。目の前の琴乃も今日に限っては私のことには目もくれず、デコピンをされる心配もなかった。
 今日はもうおしまい……。先生……、琴姉……、おやすみなさーい…………。
 午後の授業ということもあって私はまたあちらの世界へ行こうとした。
「えー、それじゃー、西谷さん」
「誰なの?」私は夢の中で誰かに呼ばれてる気がした。

「痛っ!」

 その瞬間、額に痛みが走った。慌てて前を見ると琴乃がこちらをにらんでいた。
「おい! 呼ばれてるぞ!」イラつきながらも声を潜めてそうささやいた。
「西谷さん」
「はっ、はいっ!」
 先生のガラガラ声で私は慌てて立ち上がった。
「な、何ですか……?」
「何ですかじゃないですよ。これ。この(2)の関数の二次曲線の頂点の座標は何ですか?」
 先生は困った顔をしながら黒板をコンコンとたたいた。どうやら不覚にも私は指名されてしまったようだった。しかもよりによって苦手な数学で……。
「あっ、すいませーん。わからないんで、ちょっと待ってもらえませんかー?」
 照れ笑いをしながらそう答えた。
「もー、最後にまた当てますからね。解いといてください。……えー、それじゃー、(3)を堀田さん。(4)を五十嵐さん……」先生はそう言いながら授業を再開した。
 また笑われた……。
 私はクラス中の暖かい歓喜と冷たい視線が入り混じるのを感じながら腰を下ろそうとした。その時、私はたまたま目が合ってしまった。しかしそれはいつも周りから感じるような冷たい視線の数々ではなかった。
「誰?」
 そう思った私の視線の先には一人の男子がいた。舟渡だった。
 えっ、あいつが……? なぜ……?
それは私を温かく見守るのでも、滑稽なやつだと嘲笑するものでもなかった。
 何、この視線は……? 
 私は舟渡が少々恥ずかしがっているのを感じたその時、自分の体が熱くなってくるのを感じた。
「はっ!」
 私は慌てて目をそらし自分の席へ座った。
「何⁉ 何なのこの感じは⁉ ……というか、何なのあいつ?」
 私は体が火照るのと共に鼓動が激しくなるのを感じた。
「ダメだ! あんなやつのことなんか考えるからおかしくなっちゃうんだ! えっと、さっきの問題やらなきゃ……」
 そう呟いて教科書とノートをにらみつけカリカリと数式を書き始めた。
「えっと、カッコでくくって……。あとは、何だっけ……」わからない。そして私の思考が停止するとそのすきを狙ったかのようにやつが現れてくる。
 わっ! ダメッ! 今は数学の時間よ!
 心の中でそう叫ぶもむなしく、私の頭の中は再び舟渡のことでいっぱいになってしまった。

「あー、疲れたー……」
 最後の授業が終わり、私は机の上のカバンにもたれかかっていた。
「はい、今日は五回だな」
 私の頭をポンとたたいて琴乃は言った。
「えっ、五回って……、琴姉数えてたんだー」
「当然じゃん、毎日カウントしてるわよ」
「なーんだ。てっきりデコピンしてこないからもう数えてないと思ったわ」
「んなわけないだろ~。いちいちデコピンするのめんどくさいし……」
 さすが琴乃。ここ最近ノーマークだと思っていたが、毎日きちんと数えてられていたようだった。
「でさー、おまえほんと大丈夫か~?」
「大丈夫って何がー? 授業中寝ちゃうこと?」
「それもそうだけど、……さっきの数学の授業中、おまえいきなり顔赤くして息遣い荒くなってたぞ。なんか変なもんでも食ったか?」
「えっ! いや、別にそんなことはないけど……。でもなんでか知らないけどなんかたまにドキドキしちゃうのよ」
 私は最近自分の体に起こっているトラブルについて説明した。
「ほおー。で、いつから? 何がきっかけで?」
「それがわかれば苦労しないわよ。さっきは立ってみんなに笑われてから急に……」
「ふーん……。対人恐怖症かなー」
「えー、いくらボッチに慣れてるっていってもそんなことはないわよー」
「ははっ。まあー、しばらく様子見てみることにするよ。あっ、ちなみに、これまでの百合絵の観察記録はバッチリつけてるからな」
 そう言って琴乃はポケットから手帳を取り出し、私に見せびらかした。
「ち、ちょっとー! 何よそれー⁉」私は慌てて手帳を奪おうとしたが、琴乃はさっさとカバンの中へしまい込んだ。
「まあまあ、後々何かの役に立つかもしれないし。――あっ、そんなこと言うなら私の観察記録もつけていいぞー。まっ、私の観察なんて、ぼうっとしてる百合絵には無理かもしれないけどなー」
「くうううーっ!」
 今日もまた、琴乃の手のひらで遊ばれてしまった。
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