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   中将は決して御簾を超えて来るような無礼な真似はしないと誓ったが、母はどこからか長髪のカツラを調達してくると、家の中をひっくり返して探した女物の衣を重ねて佐理に着せた。

 重ね着の色合いが命の十二単だったが、色などかまっている場合ではなかった。最後に母は佐理にうっすらと化粧まで施した。

「あれ、ま~」

 母と高子は仕上がった佐理を見て、あんぐりと口を開ける。

「どこぞの高貴な姫君に見えますわ、お兄様」

 騒ぐ二人の声を聞きつけてやってきた父も佐理を見て驚き、文字通り腰を抜かした。

 ボロい衣を重ね着しただけの十二単も佐理が着ると、絶妙な色合いに見えてくるのだから不思議だ。馬子にも衣装という言葉があるが、その逆の衣装にも馬子だ。

 周りの反応とは裏腹に、佐理は鏡に映った自分の姿を見て、「世も末だな」とひっそりとため息をついた。



 熟した太陽が山の端に吸い込まれ、薄く尖った三日月がまだ浅い夜を照らす。佐理はしっかりと御簾を下ろすと、几帳の陰に隠れた。

 その日、中将はなかなかやって来なかった。文の感じから、てっきりすぐに駆けつけてくるとばかり思っていたので、少し拍子抜けする。

 佐理は几帳の陰から抜け出すとそっと御簾をめくった。薄かった月は今は山のてっぺんで白々と輝いている。もう亥の刻(午後十一時)だった。

 待ちくたびれてしまった両親と高子は、うつらうつらと船を漕ぎ、三人ともすっかり夢の中だ。さっきまで庭で合唱していた虫たちも静かになり、思い出したように草陰から聞こえる虫の声はまるで寝言のようだった。

 中将はもう今夜は来ないのかも知れない。きっと気が変わったのだ。文のやり取りだけで会うのは御簾越しに一度きりなんて、そんな冷たい女、もうどうでもよくなったのだ。

 中将にはたくさんの恋のお相手がいる。こんな落ちぶれ貧乏貴族の顔も分からない冷たい女など、最初から中将がまともに相手にするはずがなかったのだ。

 これで良かったではないか。中将が愛想を尽かしてくれることを佐理は望んでいたはずだ。必要ならば、今夜は中将に嫌われるような言動を取らなければいけないとまで考えていたではないか。

 なのに、どこかで少しがっかりしている佐理がいた。

 断りの文に怒らなかった中将。それどころか佐理の和歌を誉めてくれ、つれない態度なのに一度でいいから会いたいとまで言ってくれた、佐理が友になりたいと思った男。

 今になって佐理は気づいた。御簾越しでいい、実際に会ってみたい、そう思ったのは中将だけでなく佐理も同じだった。

 夜空の月に向かってため息を吐くと、佐理は部屋の中に入った。その時だった、

「もし」

 庭先で男の声がした。まず最初に、声は勝手にここまで入って来てしまったことを詫び、そして次に近衛中将の訪問を告げた。

 佐理が承諾すると、声は御簾の前からいなくなった。

 庭で虫が一匹、リリリリと鳴いていた。佐理の心臓がトットットッと駆け出す。虫の声より自分の心臓の音の方が耳にうるさい。

 虫の声に混じって微かな衣擦れの音がした。音はゆっくりとこちらに近づいてくると御簾の前で止まった。

 上質な弦楽器のような艶のある声が聞こえてきた。

「聞こえむや 我が心の 早鐘を 君と会ふ 契りせるほどより」
(緊張であなたに私の心臓の音が聞こえてしまいそうです。あなたと会う約束をした時からずっと私の心臓はこんなです)

「遅くなって申し訳ございません」

 几帳の、そして御簾の向こうに今、近衛中将がいる。天長節の日、佐理からはるか遠いところで青海波を舞っていた中将が、すぐそこにいる。

 沈黙が流れた。父と母に佐理の声は高子にそっくりだと言われたが、それでもあまりしゃべらないことにこしたことはない。

 ふいに笛の音が風に乗って流れてきた。その音色から龍笛だと分かった。

 見事な笛だった。どこか物悲しく、それでいて雄大で聴く者を包み込むような優しさがあった。

 気づくと佐理は自分の高羅(こま)笛に手を伸ばしていた。

 佐理の笛の音が加わった瞬間、わずかに中将の笛は跳ねたが、すぐに中将は佐理に合わせてきた。

 それは中将の龍笛より高音の出る佐理の高羅(こま)笛をまるでエスコートするかのようだった。

 二つの笛の音は螺旋を描くように絡まり合い、そうかと思うとぴったりと寄り添うように宙を駆け上がり、追いつ追われつ、夏の夜を戯れた。

 こんなに演奏しやすい相手は初めてだった。いつまでも中将と笛の音を合わせていたいと佐理は思った。それは中将も同じようだった。

 佐理が笛を置こうとすると、中将の龍笛がもっとと佐理を誘った。

 どれくらい二人で笛を吹いていただろう。御簾と几帳の奥に身を隠した佐理にも夜明けの息づかいが聞こえてくる頃、中将はそっと笛を置いた。

「東の空が白んできました」

 その言葉は、もう行かねばならない、という意味だった。

 佐理は何か言おうと口を開け、しかし中将にかける言葉が見つからず、空気を噛みしめ、そしてまた口を開け、をいたずらに繰り返した。

 中将が御簾の向こうで立ち上がる気配がした。

 佐理は思わず几帳に手を伸ばす。

 伸ばしたところで中将に届くはずもないのに。

 虚しく宙を切っただけで引っ込めようとしたその手を、中将の声が掴んだ。

「もう一度、もう一度だけ、会ってはくれませんか?」

「……」

「お嫌でしたら笛を一度、吹いてください。でももし、もう一度私にチャンスをくださいますなら、笛を二度、吹いてください」

 中将の声から解かれた手を、佐理は自分の胸の前で握った。

 中将は佐理の返事を辛抱強く待っている。

 やがて佐理は自分の高羅笛を手に取った。唇に当てると静かに一度だけ息を吹き込む。

 高羅笛が高い鳴き声を上げた。

 一秒、二秒、三秒……。

 長く重い沈黙が横たわる。佐理は固く目を瞑った。このわずかな時間が苦しくて息ができない。

 衣擦れの、音がした。

 ゆっくりと、中将が去って行く。

 その音は、だんだんと、小さく、遠く、そして、やがて聞こえなくなった。

 ずくん、と心臓が鼓動したのと息が漏れたのは同時だった。

 高羅笛の高音が夜明けの空へと舞いのぼった。

 佐理の、笛に応えたのは、虚しい静寂だった。

 間に合わなかったのだ。佐理の返事は中将の耳には届かなかった。

 佐理の手から高羅笛が転げ落ちた。

 それを拾おうとした時、それは聞こえた。

 今宵、ずっと佐理の高羅笛に寄り添い続けた中将の龍笛だった。

 澄んだ朝の空気をまとった中将の龍笛は、軽やかに御簾を潜り抜け、佐理の周りをくるくると舞った。

 キラキラと白い朝が佐理に降り注ぐ。

 中将の残していった朝の煌めきは、その日いつまでも佐理の心に溶けずに残っていた。

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