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松葉 弦奈 編
転生なんてお断り その3
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私が物心ついたとき、すでに母親は居なかった。
他の子にはみんな母親が居るのに、私だけ居ないことが不思議で、何度か父に理由を聞いたことがある。
しかし、そのたびにはぐらかされて、結局何故なのかは分からなかった。
その理由を知ったのは、私が中学生になった頃。
私が、父に反発するようになった頃のことだった。
自室の中。ヘッドホンをして閉じこもった頭の中。
外の外から来る声をシャットアウトして生きるひとりだけの世界は、何かに気を遣う必要もなく唯一落ち着いて過ごせる空間だった。
人ひとり分の、静かな空間。私以外、誰も居ない空間。
好きな音楽があるわけでは無いが、音は欲しくて適当に曲を流す。
何という歌手の曲なのかも分からずに聴き流しながら、うつらうつらと微睡に身を委ねて。
コンコン、とノックの音がする。外の外から聞こえる音。
「弦奈。その、夕飯が出来たんだが・・・」
申し訳なさそうに、扉の隙間から声が入り込む。
隙間風よりも存在感のない声が私の首筋を撫ぜて、1メートルほどの距離を経て温度を失った言葉に身震いするように、私の体は跳ね起きた。
・・・いつの間にか、眠っていたらしい。耳元に手を当てると耳門を守っていたはずのヘッドホンは見当たらず、首元に落ちていた。
「・・・要らない。」
「そ、そうか。ゴメン。・・・置いておくから、腹が減ったら食べるんだぞ?」
まるで怖がるかのような震えた声で、カチャリと食器の音を立てた声の主は、父は、私の部屋の前から離れた。
そんな日々が、もう何年も続いている。だが私に罪悪感など毛頭無く、ただ母など元から居ないかのように振る舞う父に対しての嫌悪感だけが、塵が床に降り積もるように重なっていく。
「ねぇ、パパ。どうしてツルナにはママが居ないの?」
小学1年生の頃、夕飯中、私はふと父にそう尋ねた。
生まれてこのかた母の顔すら見たことのなかった私は、その頃になってようやく周囲の家庭との違いに気づいたのだ。
他の子にはいる母親という存在が何なのか、何故自分には無いのか、最初は単なる好奇心のような無垢で歪な感情で問いた。
父はしばらく固まった後、苦しそうな表情で言った。
「・・・ママは居るよ。でも、今はとても遠い所へ行ってしまったんだ。」
そうじゃない。私が聞きたいのはそんな苦しい誤魔化しじゃない。そう言い返すには、私はまだ幼かった。
そうして有耶無耶にされた疑問からは、そのうち根拠のない憶測が湧いてくる。
母とは別れたのではないか。父は母を捨てたのではないか。それとも、母が父と私を捨てたのだろうか。
どのみち、そんなネガティブな憶測にロクなものは無かった。
「・・・どうして、ママは居ないの?」
10年の時を経て、再びその疑問が口をついて溢れる。
何を思ったのかリビングにコッソリと顔を出すと、父は酒に酔って眠っていた。
ふと、リビングの傍らにある部屋に目を向ける。
母の部屋。父はそう言っていた。
(ママ・・・)
母が居るわけでも無いのに、私は恋しさからか部屋の中に入った。
ハンガーでかけられたコート、綺麗に整えられたベッド、ひとりの女の子だった名残を感じさせる控えめなサイズのぬいぐるみ。父からのプレゼントであろうセンスのカケラもないネックレスは、それでも日々享受する愛を確かめるように化粧台の上で寝そべっていた。
誰も住んでいない部屋なのに妙な生活感がある。
顔も知らない愛おしい女性が、確かにここに居たのだ。
その足跡を探すように、私は部屋を見回した。
机。作業机。
手芸が趣味だったのだろうか。ソーイングセットの一部は形を成そうとしていた毛糸の塊に寄り添うように、机上に転がっている。
「・・・手帳?」
机の上に目をやったときに、視界の端に捉えた一冊の手帳。
今日のひとこと。タイトルと思える場所にはそう書いてある。
「『大好きな人ができた。この気持ちを忘れないために、めんどいけど日記スタート。』
1ページ目から惚気って・・・」
母の気持ちの昂ぶり、落胆。意中の相手に一喜一憂する女の子の心がそこには載っていた。軽い興味本位だったが、まるで母の思い出話を本人の口から聞いているような気がして、つい読み進めてしまう。
「クリスマスがもうすぐ。そろそろ気持ちを届けなきゃ・・・へえ、クリスマスに付き合い始めたんだ。」
そしてちょうど、次のページ。
「フラれた・・・って、こいつパパじゃ無かったのかよ・・・」
道理で今の父に似合わないキザな男だと感じていたところだ。だが、少しその意外性が楽しかったので落胆はある。
次のページ。
『隣の席の人に泣いてるの見られた。
・・・ねぇ、この人誰だと思う?』
「・・・もしかして、この人がパパ?」
『さあ、どうでしょう。続き読んでみて。
・・・いきなり告白された。』
「ふふっ、雑っ!絶対パパじゃん。」
『ねぇー。ロマンもセンスのカケラもない、捻りのひとつ無いシンプルな告白だった。好きですー!って。・・・でもね、カッコよく見えちゃったんだ。』
「へー。良いじゃん、なんか。」
『でもね?付き合ってみたけど、鈍感だし臆病だし、そのくせサプライズ好きなのにセンスもない。』
「・・・どうやって結婚まで行ったの、こんなダメ男。」
『うーん、気の迷い?』
「気の迷いで生まれた娘の気にもなってよ・・・」
『ふふっ。だけど・・・もし気の迷いだったなら、迷って良かったなぁって、思うよ。』
「・・・どうして?」
『良い歳して私をお姫様みたいに大事にしてくれるのは、お父さんだけだったから。』
「・・・ふーん。」
更にページをめくろうとしたとき、そのページが何かでくっついて、すぐには開けなかった。まるで母が、ここで私の手を止めようとしているかのように。柔らかく、優しく、しかし明確に拒む。
『・・・続き、読む?』
他の子にはみんな母親が居るのに、私だけ居ないことが不思議で、何度か父に理由を聞いたことがある。
しかし、そのたびにはぐらかされて、結局何故なのかは分からなかった。
その理由を知ったのは、私が中学生になった頃。
私が、父に反発するようになった頃のことだった。
自室の中。ヘッドホンをして閉じこもった頭の中。
外の外から来る声をシャットアウトして生きるひとりだけの世界は、何かに気を遣う必要もなく唯一落ち着いて過ごせる空間だった。
人ひとり分の、静かな空間。私以外、誰も居ない空間。
好きな音楽があるわけでは無いが、音は欲しくて適当に曲を流す。
何という歌手の曲なのかも分からずに聴き流しながら、うつらうつらと微睡に身を委ねて。
コンコン、とノックの音がする。外の外から聞こえる音。
「弦奈。その、夕飯が出来たんだが・・・」
申し訳なさそうに、扉の隙間から声が入り込む。
隙間風よりも存在感のない声が私の首筋を撫ぜて、1メートルほどの距離を経て温度を失った言葉に身震いするように、私の体は跳ね起きた。
・・・いつの間にか、眠っていたらしい。耳元に手を当てると耳門を守っていたはずのヘッドホンは見当たらず、首元に落ちていた。
「・・・要らない。」
「そ、そうか。ゴメン。・・・置いておくから、腹が減ったら食べるんだぞ?」
まるで怖がるかのような震えた声で、カチャリと食器の音を立てた声の主は、父は、私の部屋の前から離れた。
そんな日々が、もう何年も続いている。だが私に罪悪感など毛頭無く、ただ母など元から居ないかのように振る舞う父に対しての嫌悪感だけが、塵が床に降り積もるように重なっていく。
「ねぇ、パパ。どうしてツルナにはママが居ないの?」
小学1年生の頃、夕飯中、私はふと父にそう尋ねた。
生まれてこのかた母の顔すら見たことのなかった私は、その頃になってようやく周囲の家庭との違いに気づいたのだ。
他の子にはいる母親という存在が何なのか、何故自分には無いのか、最初は単なる好奇心のような無垢で歪な感情で問いた。
父はしばらく固まった後、苦しそうな表情で言った。
「・・・ママは居るよ。でも、今はとても遠い所へ行ってしまったんだ。」
そうじゃない。私が聞きたいのはそんな苦しい誤魔化しじゃない。そう言い返すには、私はまだ幼かった。
そうして有耶無耶にされた疑問からは、そのうち根拠のない憶測が湧いてくる。
母とは別れたのではないか。父は母を捨てたのではないか。それとも、母が父と私を捨てたのだろうか。
どのみち、そんなネガティブな憶測にロクなものは無かった。
「・・・どうして、ママは居ないの?」
10年の時を経て、再びその疑問が口をついて溢れる。
何を思ったのかリビングにコッソリと顔を出すと、父は酒に酔って眠っていた。
ふと、リビングの傍らにある部屋に目を向ける。
母の部屋。父はそう言っていた。
(ママ・・・)
母が居るわけでも無いのに、私は恋しさからか部屋の中に入った。
ハンガーでかけられたコート、綺麗に整えられたベッド、ひとりの女の子だった名残を感じさせる控えめなサイズのぬいぐるみ。父からのプレゼントであろうセンスのカケラもないネックレスは、それでも日々享受する愛を確かめるように化粧台の上で寝そべっていた。
誰も住んでいない部屋なのに妙な生活感がある。
顔も知らない愛おしい女性が、確かにここに居たのだ。
その足跡を探すように、私は部屋を見回した。
机。作業机。
手芸が趣味だったのだろうか。ソーイングセットの一部は形を成そうとしていた毛糸の塊に寄り添うように、机上に転がっている。
「・・・手帳?」
机の上に目をやったときに、視界の端に捉えた一冊の手帳。
今日のひとこと。タイトルと思える場所にはそう書いてある。
「『大好きな人ができた。この気持ちを忘れないために、めんどいけど日記スタート。』
1ページ目から惚気って・・・」
母の気持ちの昂ぶり、落胆。意中の相手に一喜一憂する女の子の心がそこには載っていた。軽い興味本位だったが、まるで母の思い出話を本人の口から聞いているような気がして、つい読み進めてしまう。
「クリスマスがもうすぐ。そろそろ気持ちを届けなきゃ・・・へえ、クリスマスに付き合い始めたんだ。」
そしてちょうど、次のページ。
「フラれた・・・って、こいつパパじゃ無かったのかよ・・・」
道理で今の父に似合わないキザな男だと感じていたところだ。だが、少しその意外性が楽しかったので落胆はある。
次のページ。
『隣の席の人に泣いてるの見られた。
・・・ねぇ、この人誰だと思う?』
「・・・もしかして、この人がパパ?」
『さあ、どうでしょう。続き読んでみて。
・・・いきなり告白された。』
「ふふっ、雑っ!絶対パパじゃん。」
『ねぇー。ロマンもセンスのカケラもない、捻りのひとつ無いシンプルな告白だった。好きですー!って。・・・でもね、カッコよく見えちゃったんだ。』
「へー。良いじゃん、なんか。」
『でもね?付き合ってみたけど、鈍感だし臆病だし、そのくせサプライズ好きなのにセンスもない。』
「・・・どうやって結婚まで行ったの、こんなダメ男。」
『うーん、気の迷い?』
「気の迷いで生まれた娘の気にもなってよ・・・」
『ふふっ。だけど・・・もし気の迷いだったなら、迷って良かったなぁって、思うよ。』
「・・・どうして?」
『良い歳して私をお姫様みたいに大事にしてくれるのは、お父さんだけだったから。』
「・・・ふーん。」
更にページをめくろうとしたとき、そのページが何かでくっついて、すぐには開けなかった。まるで母が、ここで私の手を止めようとしているかのように。柔らかく、優しく、しかし明確に拒む。
『・・・続き、読む?』
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