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第二話
04
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(まぶしい、どこ……)
気が付けば幸知は知らない天井を仰いでいた。規則的な電子音、遠くで歩く誰かの私物についた鈴の音、電気をつけっぱなしにしているのがまぶしくて幸知の目に染みている。
(保健室よりも薬臭くて、夜明け前のように静かだ。ここは家じゃない、夢かな。しかし夢だとしてもどうして僕はここにいるのだろうか)
身体中の熱はまだ下がっていないようだった。しかし時折咳き込むも、学校にいた時のような苦しさはましになっている。ただ怠くて動くのが辛い中、汗で濡れた衣類がべたべたと肌に張り付くのが嫌だった。幸知が重い手を天井に向かって伸ばせば、腕からはいくつもの管が伸びていてそれぞれがどこかにつながれている。
(もしかしてここは、病院……?)
しかし、保健室にいた記憶までしかない。あれから何時間たっているのか、どうして幸知がひとりここにいるのか。付き添いすら誰もおらず、幸知一人が白い部屋に寝かされている。そして幸知はそこで重要なことに気が付いた。
(点滴なんか入れられて、このままでは自分の意志とは関係ないまま勝手に太らされるのではないだろうか)
ぞっとしてもう今すぐに点滴なんか外してしまいたい衝動にかられた。しかし針が血管奥までつながっているようで、外し方がわからない。
(太るのが嫌だ、ブクブクと醜く太ってしまったら、僕も母と同じような不快感を与えるものになってしまう。誰かを衝動的に怒鳴り、音をたててものを汚く食べ散らかすような。そんなのは嫌だ、絶対にいやだ……!)
「幸知くん? 目が覚めたのね」
白衣にピンクのエプロンをつけた女性が部屋に入って来て、じっと幸知を見つめて笑った。看護師のようだった、ポケットから出ているペンのふたには、先ほどから微かに聞こえていた飾りの鈴がついている。
「どこか苦しかったり痛かったりする場所はない?」
「あ、て、んてき……」
「点滴? 痛い? 外れそうかしら」
「ふ、ふとら……?」
「何?」
「……なんでも、ないです」
(大丈夫、大丈夫まだ僕は太っていない。この手の甲の骨が白くくっきりと浮いている間は)
そうして窓の外は静かに夜が明けようとしていた。
***
診察のために病衣の胸元を開ければ血管と骨がくっきりと浮いた胸元は青白く、しっとりと汗で濡れて呼吸のたびに動いている。あてられた聴診器が冷たくて気持ちが良い、そう感じるくらい未だ熱は下がってはいなかった。
「うん、雑音も減ってきているからもう少しだね。あとは熱が下がらないとねえ……」
(熱が下がっても帰りたい家ではない。そのくらいならまだ苦しくてもここにいたほうがいいな。個室は静かで、どこか浮世離れしている)
「あのさ、幸知くん。どうしてここまで痩せてしまったの? 何か悩みがあったら教えてよ、食欲はいつからないのかな」
「別に……大丈夫です。悩みはありません」
男性の若医師はじっとにこやかに幸知の目を見て離さない。その目があまりに純粋に見えて、逆に幸知はこの感情を絶対に打ち明けるわけにはいかないと思った。日々、幸せに生きているような人に同情されるのなんか嫌だ、と。
「男同士だしさ、大丈夫、どんな悩みも聞くよ。誰かに話せたら、少し楽になるんじゃないかな? つらいことを無理にため込むのはよくないよ、少しでも話すことで解決することってあるしさ」
「ないです、元気ですから」
「そう? でもさ、一回ゆっくり話をしようよ。僕が嫌なら専門の先生紹介するよ、そういった話ができる人。ここまで痩せてしまっていることは、決して身体に良いことじゃあないから」
(そういった話、専門の先生。僕の心を病気にしたいのか……でも確かに自分でだって歪んでいるのはわかっているよ)
その時、個室のドアを力強くノックする音が聞こえた。それは拳を殴りつけたようなまったくもって遠慮のない。
「お邪魔しまーす! ……あ、もしかして診察中? なら出直しまっす!」
「はは、元気の良い学生さんだね。良いよ、もう診察は終わったから」
「へへ、見舞いに来ましたー、よう、元気?」
「あ、……うん」
元気ではない。しかし彼の姿はその時の幸知の心に暗く落ち込んでいた影をすぐさに取り去っていった。
(制服姿の久賀野……しかしまだこの時間は学校の授業中ではないのか)
「君は幸知くんの同級生かな?」
「おう、親友っす!」
「わあ、そうなんだ、何だ良いお友達がいるじゃないか、幸知くん」
***
診察しに来ていた医師と看護師が去って、白く広い個室のなかには幸知と久賀野の二人になった。久賀野は落ち着かず物珍しそうに部屋をキョロキョロと見まわしている。幸知自身もしっかりと見たわけではない部屋だ。しばらくずっと熱と咳が酷くて寝込んでいたから。
「個室、快適? テレビイヤホンしないでも観て良いんだろ!」
「いや、テレビはまだ観たことがない」
「ああ、観たかったらカード買ってこなきゃなんないやつ? じゃあまだ無理だな、俺買ってこようか」
「いい、テレビ興味ないから」
「ふうん、俺が事故って入院した時は大部屋でさあ、テレビはイヤホンだったけど周りが皆、男で同世代だったからでかい声で下ネタばっかり話してめっちゃ怒られたぜ」
「そう……」
ドアの向こう、どこからか笑い声が聞こえてくる。かつての久賀野のような患者で盛り上がっている部屋からだろうか、しかし幸知は静かに過ごしたかったから個室で構わない。特に両親が見舞いに来ることもなく、一日中幸知にとっては孤独の時間ではあったが。
「なぁ、早く学校来いよな。お前いないとつまんねえ」
「どうして? 僕はそれほど楽しい話も出来ないよ」
「俺はお前がいると楽しい、それじゃあ駄目か?」
「あ、いや……その」
(そんな言葉良く出て来るものだ。久賀野は恥ずかしげもなく、純粋な目をして)
「熱下がったら退院出来るんだろ? そしたらさ、今度こそ一緒にファミレス行こうな。あ、これお見舞い、忘れてた。食えたら食って」
久賀野のくたびれた鞄からは一本のチョコ菓子が出てきた。廊下からは配膳のワゴンの音と食事の匂い、そろそろ夕飯の時間らしい。久賀野はそれを察して、パイプ椅子から立ち上がった。
「いま売れてんだよ。ビタミンチョコバー、結構美味いぜ。一本で一日分のビタミンなんだって! じゃ、また来るからな、幸知!」
そう言って久賀野はそそくさと部屋を後にした。去り際に笑顔で手を振りながらドアを閉める。
「いま幸知って、言ったな」
(親や大人以外には久しぶりに呼ばれた……)
まるでこれでは本当に友達みたいじゃないかと幸知は思った。久賀野と幸知のその関係が。
気が付けば幸知は知らない天井を仰いでいた。規則的な電子音、遠くで歩く誰かの私物についた鈴の音、電気をつけっぱなしにしているのがまぶしくて幸知の目に染みている。
(保健室よりも薬臭くて、夜明け前のように静かだ。ここは家じゃない、夢かな。しかし夢だとしてもどうして僕はここにいるのだろうか)
身体中の熱はまだ下がっていないようだった。しかし時折咳き込むも、学校にいた時のような苦しさはましになっている。ただ怠くて動くのが辛い中、汗で濡れた衣類がべたべたと肌に張り付くのが嫌だった。幸知が重い手を天井に向かって伸ばせば、腕からはいくつもの管が伸びていてそれぞれがどこかにつながれている。
(もしかしてここは、病院……?)
しかし、保健室にいた記憶までしかない。あれから何時間たっているのか、どうして幸知がひとりここにいるのか。付き添いすら誰もおらず、幸知一人が白い部屋に寝かされている。そして幸知はそこで重要なことに気が付いた。
(点滴なんか入れられて、このままでは自分の意志とは関係ないまま勝手に太らされるのではないだろうか)
ぞっとしてもう今すぐに点滴なんか外してしまいたい衝動にかられた。しかし針が血管奥までつながっているようで、外し方がわからない。
(太るのが嫌だ、ブクブクと醜く太ってしまったら、僕も母と同じような不快感を与えるものになってしまう。誰かを衝動的に怒鳴り、音をたててものを汚く食べ散らかすような。そんなのは嫌だ、絶対にいやだ……!)
「幸知くん? 目が覚めたのね」
白衣にピンクのエプロンをつけた女性が部屋に入って来て、じっと幸知を見つめて笑った。看護師のようだった、ポケットから出ているペンのふたには、先ほどから微かに聞こえていた飾りの鈴がついている。
「どこか苦しかったり痛かったりする場所はない?」
「あ、て、んてき……」
「点滴? 痛い? 外れそうかしら」
「ふ、ふとら……?」
「何?」
「……なんでも、ないです」
(大丈夫、大丈夫まだ僕は太っていない。この手の甲の骨が白くくっきりと浮いている間は)
そうして窓の外は静かに夜が明けようとしていた。
***
診察のために病衣の胸元を開ければ血管と骨がくっきりと浮いた胸元は青白く、しっとりと汗で濡れて呼吸のたびに動いている。あてられた聴診器が冷たくて気持ちが良い、そう感じるくらい未だ熱は下がってはいなかった。
「うん、雑音も減ってきているからもう少しだね。あとは熱が下がらないとねえ……」
(熱が下がっても帰りたい家ではない。そのくらいならまだ苦しくてもここにいたほうがいいな。個室は静かで、どこか浮世離れしている)
「あのさ、幸知くん。どうしてここまで痩せてしまったの? 何か悩みがあったら教えてよ、食欲はいつからないのかな」
「別に……大丈夫です。悩みはありません」
男性の若医師はじっとにこやかに幸知の目を見て離さない。その目があまりに純粋に見えて、逆に幸知はこの感情を絶対に打ち明けるわけにはいかないと思った。日々、幸せに生きているような人に同情されるのなんか嫌だ、と。
「男同士だしさ、大丈夫、どんな悩みも聞くよ。誰かに話せたら、少し楽になるんじゃないかな? つらいことを無理にため込むのはよくないよ、少しでも話すことで解決することってあるしさ」
「ないです、元気ですから」
「そう? でもさ、一回ゆっくり話をしようよ。僕が嫌なら専門の先生紹介するよ、そういった話ができる人。ここまで痩せてしまっていることは、決して身体に良いことじゃあないから」
(そういった話、専門の先生。僕の心を病気にしたいのか……でも確かに自分でだって歪んでいるのはわかっているよ)
その時、個室のドアを力強くノックする音が聞こえた。それは拳を殴りつけたようなまったくもって遠慮のない。
「お邪魔しまーす! ……あ、もしかして診察中? なら出直しまっす!」
「はは、元気の良い学生さんだね。良いよ、もう診察は終わったから」
「へへ、見舞いに来ましたー、よう、元気?」
「あ、……うん」
元気ではない。しかし彼の姿はその時の幸知の心に暗く落ち込んでいた影をすぐさに取り去っていった。
(制服姿の久賀野……しかしまだこの時間は学校の授業中ではないのか)
「君は幸知くんの同級生かな?」
「おう、親友っす!」
「わあ、そうなんだ、何だ良いお友達がいるじゃないか、幸知くん」
***
診察しに来ていた医師と看護師が去って、白く広い個室のなかには幸知と久賀野の二人になった。久賀野は落ち着かず物珍しそうに部屋をキョロキョロと見まわしている。幸知自身もしっかりと見たわけではない部屋だ。しばらくずっと熱と咳が酷くて寝込んでいたから。
「個室、快適? テレビイヤホンしないでも観て良いんだろ!」
「いや、テレビはまだ観たことがない」
「ああ、観たかったらカード買ってこなきゃなんないやつ? じゃあまだ無理だな、俺買ってこようか」
「いい、テレビ興味ないから」
「ふうん、俺が事故って入院した時は大部屋でさあ、テレビはイヤホンだったけど周りが皆、男で同世代だったからでかい声で下ネタばっかり話してめっちゃ怒られたぜ」
「そう……」
ドアの向こう、どこからか笑い声が聞こえてくる。かつての久賀野のような患者で盛り上がっている部屋からだろうか、しかし幸知は静かに過ごしたかったから個室で構わない。特に両親が見舞いに来ることもなく、一日中幸知にとっては孤独の時間ではあったが。
「なぁ、早く学校来いよな。お前いないとつまんねえ」
「どうして? 僕はそれほど楽しい話も出来ないよ」
「俺はお前がいると楽しい、それじゃあ駄目か?」
「あ、いや……その」
(そんな言葉良く出て来るものだ。久賀野は恥ずかしげもなく、純粋な目をして)
「熱下がったら退院出来るんだろ? そしたらさ、今度こそ一緒にファミレス行こうな。あ、これお見舞い、忘れてた。食えたら食って」
久賀野のくたびれた鞄からは一本のチョコ菓子が出てきた。廊下からは配膳のワゴンの音と食事の匂い、そろそろ夕飯の時間らしい。久賀野はそれを察して、パイプ椅子から立ち上がった。
「いま売れてんだよ。ビタミンチョコバー、結構美味いぜ。一本で一日分のビタミンなんだって! じゃ、また来るからな、幸知!」
そう言って久賀野はそそくさと部屋を後にした。去り際に笑顔で手を振りながらドアを閉める。
「いま幸知って、言ったな」
(親や大人以外には久しぶりに呼ばれた……)
まるでこれでは本当に友達みたいじゃないかと幸知は思った。久賀野と幸知のその関係が。
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