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第三話 高熱
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前日の夜、清月は単身北国にまで旅立っていった。なんでも古い知人に清月の抱える土地の一部の売買について相談しに行くのだと言う。空音にはすぐに帰って来るよと言い残し、彼は迎えに来たタクシーに乗って出かける。清月の抱える資産のことは詳しく知らないが、生活に困っていたりはしないようだ。夕飯は磯井の用意した雑炊を食べて、風呂に入って自室に戻る。いつもよりも食事は食べられたし健康的に一日を過ごせた気がしたのだが、なんだか身体が怠くて仕方がない。まだ慣れない土地に来て一か月もたっていない、少し疲れがでたのだろう。そう思って空音はベッドに横になった。
「……う、……っ、ん……」
深夜、あまりの寝苦しさに空音は目を覚ました。酷い寒気がして身体が震えて仕方がない。もう冬はとっくに終わったというのに、なぜこんなに寒いのだろう。必死に上掛けにくるまって、ただ空音は震えるばかり。それでも嫌な汗が背中を伝う。
もしかしたら熱でもあるのではないだろうか。その考えに思い至ったのはもう夜明けも近い頃で、朦朧としながら空音は薬類の入ってあるポーチの中にある電子体温計を取り出した。普段から頻繁に熱が出るので念のため薬と一緒に持ち歩いていたのだ。
横になって熱を測り始めた頃には身体が嫌な火照り方をしていたので、多分きっと熱があるのだろうと想像は出来た。
「あ……」
電子音が鳴って体温計を取り出す。予想以上の熱の高さに空音は思わず戸惑いの声を漏らした。こんなに熱が高いなんて思わなかった、いつの間にここまでひどい風邪をひいてしまったのだろうか。持っていた解熱剤を持ってふらつきながら廊下に出る。そして台所で薬を飲み再び部屋に戻り横になった。薬が効くといいのだが。
翌朝、目が覚めると酷い咳が止まらなくなっていた。喉が焼けるように痛くて咳のせいで息が苦しい。
「ゴホッ、ゲホゲホッ、ゼィ、ゼー……ゴホ、ゴホッ!」
以前入院した時、医師に言われたことがある。空音の気管支は生まれつき弱く、風邪をひくと炎症を起こしやすいのだと。だからよく咳のひどい風邪をひくことがある。病院に行くことが出来れば良いのだが、お金もないし、この土地では地理にも疎いため、誰かに頼み病院にわざわざ連れて行ってもらうことには抵抗があった。そんな面倒はかけられない。
と、なれば結局横になって眠っているしかない。夜中に飲んだ解熱剤もきかなかったのか熱も相変わらず高いようで目の前がぼんやりとにじんでいる。
「ゲホッゲホッ! ハァ、ハァッ……ゴフゴフッ! ゼホッ! ゼー……ッ」
朝食の時間だと呼びに来た磯井は、すぐに空音の異変に気が付いた。熱と咳で起き上がることも出来ないのを察すると、すぐに冷却まくらやスポーツドリンク、震える身体を温めるための毛布を用意してくれた。
「お食事は……」
「ゴホッ、ご、めんなさ……いまは、たべられない……」
「承知しました。いつでも食べることが出来るように用意しておきますので、気分が良くなられましたらお申し付けください」
磯井の用意してくれた毛布にくるまり、空音は震えながら咳き込む。咳をするたびに身体が熱くなり、熱は上がり続けている。重苦しい頭痛が頭をしめつけて、息は相変わらず苦しい。食欲は全くわかなくて、ぞくぞくと強い寒気と多量の発汗の繰り返しに身体がひどく消耗しているのがわかった。
昼過ぎになっても、体調は回復することはなかった。むしろひどくなっているのか、朦朧とした頭は何も考えられず高熱はずっと続いていて、空音は咳き込みながら速い呼吸を必死に繰り返すままだった。
息が苦しい、咳が酷く絡んだ痰を吐き出すとそこには赤い血が混じっている。炎症を起こしているのか、喉が酷く腫れていて多少の飲み物を飲むのも痛み辛かった。
一日中熱にうなされて結局、夕方になっても熱は下がらないままだった。磯井が何度か様子を見に来てくれたが熱と咳に喘ぎ苦しんでいる空音を見ては、黙って難しい表情を浮かべるばかりだ。
「ゲホッ……あの……清月さんはいつ、おかえりになるんですか……」
「明日の昼過ぎだと聞いております」
「それまでに、ねつ、さがるかな……ゴホ、ゴホッ、ゼフッ!」
「水分をよくおとりください、汗もかかれているようですし」
「ゴフッ、ケフッ! の、のどが、いたくて、のみこめない……」
「……」
磯井は困った顔をして何も言わなかった。
その日の夜は浅い眠りについては咳で起こされ、さらに高熱にうなされてろくに眠ることが出来なかった。朝になり空音はお手洗いに起きてふらふらとしながら洗面台の鏡に映った自分の顔を見れば、顔色も悪くたった一日ですっかりやつれたように見える。それでも未だ熱は下がらずに、部屋に戻る途中も視界がぐらぐらと歪んでいた。
「お加減はいかがですか?」
「熱が、下がらなくて……ゴホッ」
「お食事、少しでもいただきませんか?」
「ごめんなさい、むり……です」
「でも、昨日から全く……」
「……ッ、ゲホッゴホ、ゴホッ! ゼフッ! ゼー、ゼェッ……」
何も食べられる状態ではない。そんな様子の空音を察して、黙って磯井は出て行った。咳が止まらない、息をするのも必死だ。空音は汗ばんだ手のひらでぎゅっと布団を握り締める。このまま、また入院なんてことになったら困る、でも空音はもうすでにこの身体が限界が近いのを感じていた。
***
遠くで車が止まった音がして目を覚ました。まるで気を失っていたかのように記憶がない。空音はぼんやりと目を開ける。途端、激しい咳が止まらなくなって布団の中で体を折り曲げた。
「ゲホゲホゴホッ! ゲホッ! ゼホッ、ゴヒュ! うぅ……」
動いた衝撃で咳だけじゃなく強い頭痛がする。熱のせいか身体中の痛みに堪えきれず、ただ震えていると空音の部屋のドアをノックする音がした。しかし身体を起こすことが出来ずに視線だけむけると、そこにいたのは外出から帰宅した清月だった。
「せい、げつさ……ゴホッゴホッ! ケフッ、ゴフッ……」
「咳が酷いな……磯井に聞いてね、様子を見に来たんだ」
そして清月はそっと空音の頬に触れる。まだ熱の下がらない汗ばんだ熱い頬に、彼は気がつき眉をひそめた。
「熱も高いし苦しいだろう? こんな時に家を空けてしまって悪かったね」
「ずっと、熱と咳がおさまら、なくて……」
「それは辛かっただろうね、食事も全く食べていないんだって?」
空音は黙ってうなずく。清月はその様子に愛おしいものを見るような目をして優しく空音の額の汗を拭った。
「汗が酷い、着替えさせてあげようか。濡れたままの身体では気持ちが悪いだろう?」
清月は磯井に声をかけて熱い湯とタオルに新しい空音の寝間着を持ってくるように命じる。磯井がやって来る間、清月は空音を抱きかかえて片手で寝間着のボタンを外しだした。ボタンが一つ外れるごとにげっそりと痩せて骨ばった胸元があらわになって行く。それを見て清月は、ほう、とため息を漏らす。
「こんなに痩せてしまって……呼吸するだけで浮いた骨が激しく上下している。息が苦しいのかい?」
空音は言葉を発することが出来ず必死にうなずく。苦しげなその表情を見て、清月の口元が緩んだ。小さな笑みをたたえて彼はぎゅっと空音を抱きしめる。
「ああ、今にも身体が壊れてしまいそうじゃないか。まいったな……こんなに弱ってしまった君を見ることになるなんてね」
しかしそれは絶望の調子ではなかった。彼はまるでどこかこの状況を楽しんでいるような、しかし空音は苦しさのあまりそんな清月に気が付いていない。
磯井が指示されたものを用意してやって来た。清月は空音の上着を脱がせて湯に浸したタオルで執拗にその身体を拭って行く。痩せ飛び出した骨格一つ一つをゆっくりと撫でさするように。
「……ゴホ、ゼフッ、ケフ……」
「もう少し我慢して、今汗を拭いているからね」
一方で空音は甘い清月の言葉を熱もあるせいかどこかうっとりとした心地で聞いていた。この行為はただひたすらに彼の優しさからだと信じてやまない。清月の思惑も知らぬまま。
着替え終わり空音は再びベッドに横たわった。しかし依然熱は下がらず、咳も酷い。あまりに苦しげな空音を見かねてそばにいた磯井が清月に遠慮がちに医師を呼ぶことを提案する。
「隣町の久瀬先生なら遅くまで診察しているので、お願いすれば来てくださると思います。もう二日も高熱が続いているんです。このままでは……」
「……」
空音の身体を考えれば当然のことだった。このまま放っておけば悪化して取り返しのつかないことになるかもしれない。しかし清月はどこか不満そうに、しかし半ば渋々久瀬医師を呼ぶことを了承する。
「こんばんは」
久瀬がやって来たのは夕方を過ぎた頃だった。医院での診察を終えてわざわざ自転車で清月の屋敷までやって来た。三十代後半の眼鏡をかけて黒髪の真面目そうな白衣姿、彼は磯井に二階に案内されて空音の部屋まで。
「ゲホッゴフッゴフッ! ゼホッゴホ!」
空音の咳の音を聞いて久瀬は鋭い目をして眼鏡を抑えた。そしてそっと空音の首筋に触れる。
「熱はいつから?」
「昨日の朝には、もう」
磯井の言葉に眉を寄せて、聴診器を取り出した。寝間着のボタンを外している間も咳が止まらない空音を見て、厳しい顔をする。
「熱も高いし咳もひどい、少し胸の音を聴きますね」
診察を一通り終えた久瀬は部屋の入口で一部始終を見守っていた清月を呼ぶ。
「風邪をこじらせていますね。気管支も炎症を起こしているようだし、このままではさらに悪化して肺炎を起こしかねない。熱のせいで脱水症状も進んでいる。危険な状態にあると考えて良いと思います。可能ならば今すぐ病院に搬送して入院させたほうが……」
そばにいた磯井の顔がショックで青ざめた。しかし清月は表情すら変えず、久瀬に言葉を返す。
「在宅で出来る治療をしてください。点滴や注射など出来ることはあるでしょう? 私はそのためにあなたを呼んだんだ」
「出来ることはします、でも」
「ここで治療をしてくれと言っているんだ。あなたも医師ならば今出来ることをしていただきたい」
久瀬はそれでも何か言いたげな表情をしていたが清月の強い調子に反論することはせず、黙って治療の準備をし始めた。磯井はおろおろと戸惑い、清月は腕を組んで壁に寄りかかり久瀬の動作をみている。空音は意識を失ってしまったかのようにぴくりともせず、目を閉じてされるがままになっていた。
久瀬の診察が終わり、磯井が玄関まで送って行く。荷物を自転車に積み込んだ久瀬は磯井にそっと忠告をする。
「ここで出来る限りの治療はしました。もう少しすれば熱も多少は下がって来ると思います。しかし意識が戻らなくなったり、呼吸に異変が見られた場合は急いで救急車を呼んでください。それに……あの身体はあまりに痩せすぎですよ。今後数日は油断しないで、僕はまた明日来ますので、くれぐれもお大事に」
「はい、ありがとうございました。先生」
空音の部屋ではじっと清月が考えこんでいる様子だった。そっと空音の額の汗を拭い、くちびるに触れる。熱い肌と呼吸、未だ熱の下がる様子はない。清月は思い出していた、かつてこの部屋にいたもう一人の青年のことを。
***
それから数日、空音の体調は少しずつ回復し始めた。熱は下がり、咳も治まりつつある。その間清月はずっと空音につきっきりで世話をしていた。
目を覚ますたびにじっと清月が見つめている。それは空音にとって初めての経験で、ここまで誰かの心配や愛情を感じたことは彼の人生で今までなかった。
今まで彼を育ててきた人の中で祖母が一番彼にとって適格な保護者ではあったのだが、少し厳しいところがあってさすがに空音が寝込んでいても寝ずの看病まではしてくれなかった。いつも体調を崩すと自己管理がなっていないからだと言い、その言葉が彼にとって寂しいものであったのは言うまでもない。
「具合はどうだい? 空音」
「呼吸がだいぶ楽になりました、熱も下がって来たみたいで」
「それはよかった、でもまだ無理をしたらいけないよ。また後で身体を拭いてあげようね」
楽園にも近い、ここは空音のための幸せな空間。自分の存在を肯定してくれる清月と言う存在が空音にとってどれだけ大きなものであったか、空音の心はさらに求める。この身全て清月のものになりたい、と。
「空音さま、お食事はもうよろしいのですか?」
少しずつ食事も食べられるようになって来た空音だったが、それでも磯井が用意してくれた皿半分の薄いおかゆすら残してしまう。体力が落ち食欲がわかないのも一因ではあったが、本当のところは太るのが怖かったのだ。ここ数日で空音はさらに痩せてしまった。体力はがくりと落ち、顔色も悪く身体はやつれていて栄養をとったほうがいいのは明らかだったが、痩せた身体を好む清月の心を思うとこの身体をもってしてもあまり食べることに意欲的にはなれなかった。捨てられたくない、嫌われたくない。清月のためにもっと痩せたい。
***
「よう、空音! 見舞いに来たぞ」
さらに数日がたち、水島が遊びにやって来た。清月はちょうど所用で留守にしていて空音の部屋で二人きりになる。
「お前が寝込んでいるって聞いてなあ、心配になって会いに来たんだ。ほら、これでも食え、駅前の和菓子店で売っていたわらびもち。のどごしが良くてこれなら食べられるんじゃないのか?」
「あ、お菓子は……ちょっと」
「なんだ、甘いものは嫌いか? それにしてもずいぶんと痩せてしまったじゃないか。なんでも食べないと体力が戻らないぞ、好き嫌いをするなよ」
「ごめんなさい……食べられません」
小さくてもこんなに甘そうで太りやすそうなものを食べるわけにはいかない。今の空音にとって太ることは居場所を失うことにもつながる。それにまだ食欲が戻ったわけではなく、軽い食べ物でも胸につかえるような吐き気があって総じて食べることには抵抗があった。
「お前なあ……まさかその身体でまだ痩せたいとでも思っているんじゃないだろうな? すっかりやつれてしまって、そんな身体じゃ立ち上がっただけでふらついたりするんじゃないのか」
「体力は落ちましたけど、少しずつ自然と戻って行きますから」
「じゃ、そのためには食べないと」
「ごめんなさい、無理なんです」
かたくなな態度を示す空音に、結局、水島の方が負けてしまった。買ってきた菓子は水島が食べて、空音はベッドに再び横になりため息をつく。
「大丈夫なのか、お前」
「熱は下がりましたよ」
「とはいえ随分と顔色が悪い。一度きちんと病院に行ったほうがいいんじゃないか」
「お医者さんには来てもらいました。もらった薬もちゃんと飲んでます」
「そうは言っても、なあ……」
水島はぐしゃぐしゃと空音の髪を撫でまわした。清月の繊細な手と違って、たくましく力強い大きな手だ。
「お前を見ているとあいつを思い出すよ」
「あいつ?」
「この家にお前が来る前にも跡継ぎ候補がいたんだ」
「え……」
「この部屋ももとは藤篠があいつのために用意したものなんだ。わざわざ古い和室をリフォームまでしてな」
自分の前にも清月には大切な人がいたのか、その水島の言葉は病み上がりの空音には激しくショックを受ける事実だった。
「そ、その方はどこに……? その方が跡継ぎになられるのなら僕はいらなかったんじゃないんですか」
「……死んだよ、お前が来る一年位前かな。名前は楓(かえで)、お前によく似た痩せて病弱な青年だった」
「……う、……っ、ん……」
深夜、あまりの寝苦しさに空音は目を覚ました。酷い寒気がして身体が震えて仕方がない。もう冬はとっくに終わったというのに、なぜこんなに寒いのだろう。必死に上掛けにくるまって、ただ空音は震えるばかり。それでも嫌な汗が背中を伝う。
もしかしたら熱でもあるのではないだろうか。その考えに思い至ったのはもう夜明けも近い頃で、朦朧としながら空音は薬類の入ってあるポーチの中にある電子体温計を取り出した。普段から頻繁に熱が出るので念のため薬と一緒に持ち歩いていたのだ。
横になって熱を測り始めた頃には身体が嫌な火照り方をしていたので、多分きっと熱があるのだろうと想像は出来た。
「あ……」
電子音が鳴って体温計を取り出す。予想以上の熱の高さに空音は思わず戸惑いの声を漏らした。こんなに熱が高いなんて思わなかった、いつの間にここまでひどい風邪をひいてしまったのだろうか。持っていた解熱剤を持ってふらつきながら廊下に出る。そして台所で薬を飲み再び部屋に戻り横になった。薬が効くといいのだが。
翌朝、目が覚めると酷い咳が止まらなくなっていた。喉が焼けるように痛くて咳のせいで息が苦しい。
「ゴホッ、ゲホゲホッ、ゼィ、ゼー……ゴホ、ゴホッ!」
以前入院した時、医師に言われたことがある。空音の気管支は生まれつき弱く、風邪をひくと炎症を起こしやすいのだと。だからよく咳のひどい風邪をひくことがある。病院に行くことが出来れば良いのだが、お金もないし、この土地では地理にも疎いため、誰かに頼み病院にわざわざ連れて行ってもらうことには抵抗があった。そんな面倒はかけられない。
と、なれば結局横になって眠っているしかない。夜中に飲んだ解熱剤もきかなかったのか熱も相変わらず高いようで目の前がぼんやりとにじんでいる。
「ゲホッゲホッ! ハァ、ハァッ……ゴフゴフッ! ゼホッ! ゼー……ッ」
朝食の時間だと呼びに来た磯井は、すぐに空音の異変に気が付いた。熱と咳で起き上がることも出来ないのを察すると、すぐに冷却まくらやスポーツドリンク、震える身体を温めるための毛布を用意してくれた。
「お食事は……」
「ゴホッ、ご、めんなさ……いまは、たべられない……」
「承知しました。いつでも食べることが出来るように用意しておきますので、気分が良くなられましたらお申し付けください」
磯井の用意してくれた毛布にくるまり、空音は震えながら咳き込む。咳をするたびに身体が熱くなり、熱は上がり続けている。重苦しい頭痛が頭をしめつけて、息は相変わらず苦しい。食欲は全くわかなくて、ぞくぞくと強い寒気と多量の発汗の繰り返しに身体がひどく消耗しているのがわかった。
昼過ぎになっても、体調は回復することはなかった。むしろひどくなっているのか、朦朧とした頭は何も考えられず高熱はずっと続いていて、空音は咳き込みながら速い呼吸を必死に繰り返すままだった。
息が苦しい、咳が酷く絡んだ痰を吐き出すとそこには赤い血が混じっている。炎症を起こしているのか、喉が酷く腫れていて多少の飲み物を飲むのも痛み辛かった。
一日中熱にうなされて結局、夕方になっても熱は下がらないままだった。磯井が何度か様子を見に来てくれたが熱と咳に喘ぎ苦しんでいる空音を見ては、黙って難しい表情を浮かべるばかりだ。
「ゲホッ……あの……清月さんはいつ、おかえりになるんですか……」
「明日の昼過ぎだと聞いております」
「それまでに、ねつ、さがるかな……ゴホ、ゴホッ、ゼフッ!」
「水分をよくおとりください、汗もかかれているようですし」
「ゴフッ、ケフッ! の、のどが、いたくて、のみこめない……」
「……」
磯井は困った顔をして何も言わなかった。
その日の夜は浅い眠りについては咳で起こされ、さらに高熱にうなされてろくに眠ることが出来なかった。朝になり空音はお手洗いに起きてふらふらとしながら洗面台の鏡に映った自分の顔を見れば、顔色も悪くたった一日ですっかりやつれたように見える。それでも未だ熱は下がらずに、部屋に戻る途中も視界がぐらぐらと歪んでいた。
「お加減はいかがですか?」
「熱が、下がらなくて……ゴホッ」
「お食事、少しでもいただきませんか?」
「ごめんなさい、むり……です」
「でも、昨日から全く……」
「……ッ、ゲホッゴホ、ゴホッ! ゼフッ! ゼー、ゼェッ……」
何も食べられる状態ではない。そんな様子の空音を察して、黙って磯井は出て行った。咳が止まらない、息をするのも必死だ。空音は汗ばんだ手のひらでぎゅっと布団を握り締める。このまま、また入院なんてことになったら困る、でも空音はもうすでにこの身体が限界が近いのを感じていた。
***
遠くで車が止まった音がして目を覚ました。まるで気を失っていたかのように記憶がない。空音はぼんやりと目を開ける。途端、激しい咳が止まらなくなって布団の中で体を折り曲げた。
「ゲホゲホゴホッ! ゲホッ! ゼホッ、ゴヒュ! うぅ……」
動いた衝撃で咳だけじゃなく強い頭痛がする。熱のせいか身体中の痛みに堪えきれず、ただ震えていると空音の部屋のドアをノックする音がした。しかし身体を起こすことが出来ずに視線だけむけると、そこにいたのは外出から帰宅した清月だった。
「せい、げつさ……ゴホッゴホッ! ケフッ、ゴフッ……」
「咳が酷いな……磯井に聞いてね、様子を見に来たんだ」
そして清月はそっと空音の頬に触れる。まだ熱の下がらない汗ばんだ熱い頬に、彼は気がつき眉をひそめた。
「熱も高いし苦しいだろう? こんな時に家を空けてしまって悪かったね」
「ずっと、熱と咳がおさまら、なくて……」
「それは辛かっただろうね、食事も全く食べていないんだって?」
空音は黙ってうなずく。清月はその様子に愛おしいものを見るような目をして優しく空音の額の汗を拭った。
「汗が酷い、着替えさせてあげようか。濡れたままの身体では気持ちが悪いだろう?」
清月は磯井に声をかけて熱い湯とタオルに新しい空音の寝間着を持ってくるように命じる。磯井がやって来る間、清月は空音を抱きかかえて片手で寝間着のボタンを外しだした。ボタンが一つ外れるごとにげっそりと痩せて骨ばった胸元があらわになって行く。それを見て清月は、ほう、とため息を漏らす。
「こんなに痩せてしまって……呼吸するだけで浮いた骨が激しく上下している。息が苦しいのかい?」
空音は言葉を発することが出来ず必死にうなずく。苦しげなその表情を見て、清月の口元が緩んだ。小さな笑みをたたえて彼はぎゅっと空音を抱きしめる。
「ああ、今にも身体が壊れてしまいそうじゃないか。まいったな……こんなに弱ってしまった君を見ることになるなんてね」
しかしそれは絶望の調子ではなかった。彼はまるでどこかこの状況を楽しんでいるような、しかし空音は苦しさのあまりそんな清月に気が付いていない。
磯井が指示されたものを用意してやって来た。清月は空音の上着を脱がせて湯に浸したタオルで執拗にその身体を拭って行く。痩せ飛び出した骨格一つ一つをゆっくりと撫でさするように。
「……ゴホ、ゼフッ、ケフ……」
「もう少し我慢して、今汗を拭いているからね」
一方で空音は甘い清月の言葉を熱もあるせいかどこかうっとりとした心地で聞いていた。この行為はただひたすらに彼の優しさからだと信じてやまない。清月の思惑も知らぬまま。
着替え終わり空音は再びベッドに横たわった。しかし依然熱は下がらず、咳も酷い。あまりに苦しげな空音を見かねてそばにいた磯井が清月に遠慮がちに医師を呼ぶことを提案する。
「隣町の久瀬先生なら遅くまで診察しているので、お願いすれば来てくださると思います。もう二日も高熱が続いているんです。このままでは……」
「……」
空音の身体を考えれば当然のことだった。このまま放っておけば悪化して取り返しのつかないことになるかもしれない。しかし清月はどこか不満そうに、しかし半ば渋々久瀬医師を呼ぶことを了承する。
「こんばんは」
久瀬がやって来たのは夕方を過ぎた頃だった。医院での診察を終えてわざわざ自転車で清月の屋敷までやって来た。三十代後半の眼鏡をかけて黒髪の真面目そうな白衣姿、彼は磯井に二階に案内されて空音の部屋まで。
「ゲホッゴフッゴフッ! ゼホッゴホ!」
空音の咳の音を聞いて久瀬は鋭い目をして眼鏡を抑えた。そしてそっと空音の首筋に触れる。
「熱はいつから?」
「昨日の朝には、もう」
磯井の言葉に眉を寄せて、聴診器を取り出した。寝間着のボタンを外している間も咳が止まらない空音を見て、厳しい顔をする。
「熱も高いし咳もひどい、少し胸の音を聴きますね」
診察を一通り終えた久瀬は部屋の入口で一部始終を見守っていた清月を呼ぶ。
「風邪をこじらせていますね。気管支も炎症を起こしているようだし、このままではさらに悪化して肺炎を起こしかねない。熱のせいで脱水症状も進んでいる。危険な状態にあると考えて良いと思います。可能ならば今すぐ病院に搬送して入院させたほうが……」
そばにいた磯井の顔がショックで青ざめた。しかし清月は表情すら変えず、久瀬に言葉を返す。
「在宅で出来る治療をしてください。点滴や注射など出来ることはあるでしょう? 私はそのためにあなたを呼んだんだ」
「出来ることはします、でも」
「ここで治療をしてくれと言っているんだ。あなたも医師ならば今出来ることをしていただきたい」
久瀬はそれでも何か言いたげな表情をしていたが清月の強い調子に反論することはせず、黙って治療の準備をし始めた。磯井はおろおろと戸惑い、清月は腕を組んで壁に寄りかかり久瀬の動作をみている。空音は意識を失ってしまったかのようにぴくりともせず、目を閉じてされるがままになっていた。
久瀬の診察が終わり、磯井が玄関まで送って行く。荷物を自転車に積み込んだ久瀬は磯井にそっと忠告をする。
「ここで出来る限りの治療はしました。もう少しすれば熱も多少は下がって来ると思います。しかし意識が戻らなくなったり、呼吸に異変が見られた場合は急いで救急車を呼んでください。それに……あの身体はあまりに痩せすぎですよ。今後数日は油断しないで、僕はまた明日来ますので、くれぐれもお大事に」
「はい、ありがとうございました。先生」
空音の部屋ではじっと清月が考えこんでいる様子だった。そっと空音の額の汗を拭い、くちびるに触れる。熱い肌と呼吸、未だ熱の下がる様子はない。清月は思い出していた、かつてこの部屋にいたもう一人の青年のことを。
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「具合はどうだい? 空音」
「呼吸がだいぶ楽になりました、熱も下がって来たみたいで」
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「空音さま、お食事はもうよろしいのですか?」
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***
「よう、空音! 見舞いに来たぞ」
さらに数日がたち、水島が遊びにやって来た。清月はちょうど所用で留守にしていて空音の部屋で二人きりになる。
「お前が寝込んでいるって聞いてなあ、心配になって会いに来たんだ。ほら、これでも食え、駅前の和菓子店で売っていたわらびもち。のどごしが良くてこれなら食べられるんじゃないのか?」
「あ、お菓子は……ちょっと」
「なんだ、甘いものは嫌いか? それにしてもずいぶんと痩せてしまったじゃないか。なんでも食べないと体力が戻らないぞ、好き嫌いをするなよ」
「ごめんなさい……食べられません」
小さくてもこんなに甘そうで太りやすそうなものを食べるわけにはいかない。今の空音にとって太ることは居場所を失うことにもつながる。それにまだ食欲が戻ったわけではなく、軽い食べ物でも胸につかえるような吐き気があって総じて食べることには抵抗があった。
「お前なあ……まさかその身体でまだ痩せたいとでも思っているんじゃないだろうな? すっかりやつれてしまって、そんな身体じゃ立ち上がっただけでふらついたりするんじゃないのか」
「体力は落ちましたけど、少しずつ自然と戻って行きますから」
「じゃ、そのためには食べないと」
「ごめんなさい、無理なんです」
かたくなな態度を示す空音に、結局、水島の方が負けてしまった。買ってきた菓子は水島が食べて、空音はベッドに再び横になりため息をつく。
「大丈夫なのか、お前」
「熱は下がりましたよ」
「とはいえ随分と顔色が悪い。一度きちんと病院に行ったほうがいいんじゃないか」
「お医者さんには来てもらいました。もらった薬もちゃんと飲んでます」
「そうは言っても、なあ……」
水島はぐしゃぐしゃと空音の髪を撫でまわした。清月の繊細な手と違って、たくましく力強い大きな手だ。
「お前を見ているとあいつを思い出すよ」
「あいつ?」
「この家にお前が来る前にも跡継ぎ候補がいたんだ」
「え……」
「この部屋ももとは藤篠があいつのために用意したものなんだ。わざわざ古い和室をリフォームまでしてな」
自分の前にも清月には大切な人がいたのか、その水島の言葉は病み上がりの空音には激しくショックを受ける事実だった。
「そ、その方はどこに……? その方が跡継ぎになられるのなら僕はいらなかったんじゃないんですか」
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昔の恋人が帰ってきた、だからその人の故郷に行く、と。いくらガキの俺でも分かる。俺は捨てられたってことだ。
身に余る不幸せ
雨水林檎
BL
虐げられた人生を生きなおそうとする拒食の青年。
生まれつき心臓に欠陥のある探偵。
全ての終わりを見届ける覚悟をした金融業の男。
救われなかった人生の不幸せについての物語。
※体調不良描写があります※ブロマンス小説
運命じゃない人
万里
BL
旭は、7年間連れ添った相手から突然別れを告げられる。「運命の番に出会ったんだ」と語る彼の言葉は、旭の心を深く傷つけた。積み重ねた日々も未来の約束も、その一言で崩れ去り、番を解消される。残された部屋には彼の痕跡はなく、孤独と喪失感だけが残った。
理解しようと努めるも、涙は止まらず、食事も眠りもままならない。やがて「番に捨てられたΩは死ぬ」という言葉が頭を支配し、旭は絶望の中で自らの手首を切る。意識が遠のき、次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。
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