純白のレゾン

雨水林檎

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大人の事情

01

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 私の実父は病死だったと、大人になってから向島の両親に聞いたことがある。おそらく若い頃に亡くなったのだろう、私の記憶の奥底をさらってもその顔どころか姿も知らないから。写真も残ってはいないらしく、それで自分のルーツを知ることをあきらめた。
 私に残されたのはこの手首の傷だけだ。流石にいつもは目立たないようにわざと大きな腕時計をしているがしかしその腕時計を今日は忘れてしまった。

「おい砂和、長袖暑くねえのか。今日、夏日だよ」
「そうですね、学校のエアコンも掃除してないからつけられないしですしね」
「お前もしかして半袖って服知らない? 昔から真夏になってもいつも長袖着て」
「別に半袖のシャツくらい持ってますよ、今日は言うほど暑くありません」
「お前、それじゃあ俺が暑がりみたいじゃねえか」
「違います?」

 青海が汚れた去年のうちわを持って職員室の机の上でダラダラしている。試験は終わったが平常授業の時間割、ダラダラする暇などないのでは……。

 私の授業の準備は出来た、もうすぐチャイムもなるだろうと立ち上がったその時だった。
 慌てた顔した青海、私は自分に何が起きたのかわからなかった。両手で抱えていた資料類をぶちまけて、そのまま私は床に崩れ落ちる。そこから先を覚えていない。

 ***

「まだ起き上がるな、砂和」
「そんなこと言っても……青海先生の授業は……」
「自習にして来た、正直教科書進みすぎてたからなぁ。それよりお前何、やっぱり暑かったんだろ? 汗止まんないし熱中症だぞ、それ」
「次の時間は授業に……」
「無理すんな。このまま横になって過ごして、放課後無垢呼ぶから今日は一緒に帰れば? またひっくり返られても周りがビビるんだよ。お前とうとう死んだかと思ったぞ」

 授業中の、保健室。養護教諭はたまたま今日留守にしているからと、付き添った青海が購買の自販機で買って来たらしいスポーツドリンクをくれた。しかし水滴のついたそれは、力の入らないこの手ではなかなか蓋が開けられない。

「もう、いいよ砂和。貸してみ」
「……すみません」

 青海は私を抱き寄せて蓋を開けたペットボトルを、口に。少し口に含むだけでその冷たさを実感する。今日はそんなに暑かったのか? 目をやったベッド脇のスツールに腰掛けた青海はさかんにうちわを扇いでいる……やはり暑いらしい。

「いつも涼しい顔してるけど、お前さては暑さが感覚的にわからないんだろう? 猛暑だった去年も真夏にネクタイしてたよな、狂気の沙汰だわ」
「そう言えば、今日して来た私のネクタイが見当たらないのですが……」
「ああ、外して俺持ってる。もう一個ワイシャツのボタン外すか、熱こもってるし」

 最早、されるがままになっていた。珍しく青海は笑いもせずに何かと私の世話を焼いてくれている。意外と面倒見は良いのだな、そう思ってぼんやり見つめていると、無言のままお互い数秒間目があった。

「砂和」
「青海先生……?」

 青海は何か言おうとくちびるを動かしたその時だ、ノックもせずに保健室のドアを開けたものがいる。乱暴に、その反動で軋むドアの音。

「無垢だ……」
「え? 授業中だぞ」
「でもこの足音は、多分」

 仕切りのカーテンの隙間からホラー映画のように勢いの良い手が見えて、危うくカーテンが破けそうだった。その手は確認もせずに乱暴に開けて、勢いよく飛び込んできたのはやっぱり無垢。何もそんなに慌てた顔をしなくても。

「おいおい無垢授業サボんなー」
「あんたが自習にしたんだろ! 課題のプリントはもう終わったよ。ところで砂和さん大丈夫かよ?」
「無垢、大丈夫だから教室戻りなさい」
「砂和さん……もう、突然倒れたって死んだかと思った」

 誰も彼も私を突然殺そうとする。そこまで私はいつも死にそうなのか? 青海はタオルで私の汗をぬぐいながら真面目な顔をして無垢に伝える。

「無垢、お前授業終わったら荷物持ってもう一回保健室来い。砂和連れて今日は寄り道しないで帰れ。それまでは良い子で授業受けてな」
「でも青海の課題終わったし」
「呼び捨てんな、自習してろ。次の授業でお前当てるぞ」
「……わかったよ。放課後くるから」

 名残惜しそうな顔をした、無垢はあきらめたかのように何度も振り向いて静かに保健室を後にする。静かな足音が廊下をゆっくりと歩いて行く。

「あいつも言うこと聞くんだな」
「無垢は良い子ですよ、昔から」

 それきり沈黙した青海、私も目を閉じたら眠れただろうがそこで青海が何か言いたげに私の左手首に触れる。傷痕をなぞったその指が何を言いたいのかなんてわかっていた。

「砂和、言いたいことあるなら口で言えよ」
「言ってますよ、私」
「その、なんだ……悩みとかさ、そう言うのは」

 いつもとはすっかり違ってあまりに愁傷な声で話しかける青海が柄でもなくて、思わず私は笑ってしまう。

「は、な、……何笑ってんだお前!」
「いえ、この傷痕のことでしょう? 別に人生に悩んで自分で切ったとか、そう言うのではありません。たまに癖で引っ掻いてしまいますが、自ら死のうなんて思ったことはないんですよ」
「じゃあ、なんで……」

 思えばこのことを誰かに口で語るのは初めてかもしれない。体験した私だって全て理解しているわけではないのだ。それは微かな記憶と向島の両親から聞いたこと。

「いわゆる母子の無理心中未遂です、この世に疲れて幼い私を道連れにしようとした母が包丁でバッサリと。私はよく覚えてはいないのですがここまで傷痕が残るなんてきっと深い傷だったのでしょうね。私の実父は早くに亡くなっていたそうで、生き延びてしまった私は母も亡くしてその後施設で育ちました。それだけのことです……私はただ巻き込まれただけでどうしようも出来なかった。大人の事情って言うんですか、全くもって迷惑な話です」

 私の言葉で青海はすっかり黙りきってしまった。しまったな、こんな話をするべきではなかったな。たかだか私の事情で誰かを悩ませるのは嫌なんだ。だからいつもあえて他人と距離を置こうと思っていたのに……わかっている、それがきっと正解なのだろう、実際私のことをそこまで理解したい人間なんていないだろうし。

「砂和」
「なんですか」
「辛かったな」

 そのひと言が、やけに重い。青海はただ言葉に困ってそれを口にしたのか、しかし元々理由を聞いてきたのは彼の方だ。そっと目を向けた瞬間に青海のたくましい指が手首から私の頬に触れて行く。

「なに……?」
「誰にも言わねえ、泣いても構わないぞ」
「なんですか、生徒の悩み相談と一緒にしないでくださいよ、私はそんな子供では……」
「人間の中身に大人も子供ねえ。ただお前は辛い思いをしたんだろう? 教師である前におれは人間だし、それはお前も」
「青海先生」

 見つめたら彼は意外と大きな目をしていた、今までその顔をこんな間近で見ることはなかったから。青海は今、教師ではなく、一人の人間として私と向き合おうとしている。目を離してはいけないのは青海じゃない、私の方だ。

「泣きはしませんけど、その……ありがとうございます」
「ああ、また今度飲みに行こうな。その時こそ俺はお前を泣かしてやるんだ」
「いつも通りきっと先に青海先生の方が酔い潰れますよ?」
「いや、俺だって最近はなかなかのものなんだぞ」

 その時授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。間も無く廊下も騒がしくなるのだろう。青海は小さく笑いながらため息をついて、私の頭を子供にするようにくしゃくしゃと撫でた。

「俺は職員室戻るけど、お前はまだ寝とけよ。荷物は後から持ってきてやるから、それ持って無垢と帰れ。明日も調子悪かったら無理しないように」
「はい」
「素直でよろしい、じゃあな」

 青海はそのまま静かに保健室を出て行った。
 誰もいなくなった部屋で自然と私の頬を伝うものが。何しているんだろう、青海と過ごした数時間のことで感情がそれほど動いたわけではないのに……いや、それでも私のことは私が一番わからない。

「……ふ、もう、私はなんて情けない人間なのかな」

 いまだに見知らぬ過去が私を離さない。けれどそれでも、私はいつだって誰かに救われていた。
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