1 / 1
不自由な街
しおりを挟む
忌まわしい話だ。
とある北国の小さな村でかつて病が流行した。感染力が強くかかったものはもれなく死んでゆく。その脅威を隠そうとしたこの国の権威ある者たちは直ちに人ごとその村を埋め立てる。病原体とそれに侵された人々はそのまま亡き者にされた。非常まれなる極秘事項、時代柄報道手段も少なかったためその事実を知るものは少なく、全ては内密に終わって行った。たった一人の青年がその事実を知っていたのは、その死の寸前に彼の姉から送られた一通の手紙からだ。
全ては内密に、親族の死を青年が多額の資産と引き換えに誰にも打ち明けることを禁じられたのは全てが終わってからだった。あの村はもう地図にすら存在しない。もともと小さく閉鎖的な場所にあったから外部から滅多に人も来ることはなかった。
青年、真堂統一郎(しんどうとういちろう)はその村の大地主の長男だ。周囲の期待を受けたった一人単身東京の医科大学で医者になるための勉強をしていた。戦後の貧しさは過ぎ、人々は少しずつ真実を知ろうとしてきている。そんな時代に未来を担うために上京した彼は一通の手紙以後連絡の取れない家族の身を案じて、数日かけて帰郷する。そこで彼の見たものは、埋め立てられたかつてのふるさとであった。
***
「優しいお坊ちゃんなのよ、ただ、身体が弱くてねえ」
隣の家の向島夫人はそうやって統一郎に何度もその青年の話をした。今日でもう一週間になる。親類の末の息子だと言い、一浪の末今年めでたく東京の大学に合格したのだと。しかし、病弱なためその身体は一人暮らしに耐えられそうになかった。彼女は再婚のため現夫にはその青年を下宿させたいと言い出せず、また夫も青年が来るのは嫌がっているのだという。その矛先が何故統一郎に向いたのか。いい年して結婚もせず小さな出版社で編集者をしている彼が何故、その青年を引き取れるのだと思ったのだろう。
「聞いたわよ、あなたお医者さんを目指してらしたんですって?」
「……ああまあ、でもそれはもうやめたことです。俺には向いていなかったので」
「医学の知識がある方に同居していただいたら、病弱なあの子も安心なんじゃないのかしら?」
そう来たか。
たしかに統一郎には若干の医学の知識はあったが、実家の件があってからは命の瀬戸際に関わるのがすっかり怖くなってしまって、だから医科大学も辞めたのだ。せっかく亡き両親が高い金を出して入学させてくれた大学を辞めることに罪悪感があったが、これからの人生を一人で生きて行くのは統一郎だった。編集者は医者に比べたら雀の涙ほどの給与ではあったが一人この街で静かに暮らして行くには支障はない。
「ねえ、一度会ってみてはどうかしら? あの子が良い子だってわかったらきっと貴方もその気になるかもしれないわ。お食事でも、一緒に」
「はあ」
もうどうにでもしてくれ。そもそも統一郎がその気になったってその青年が嫌がれば無理に話を進めるわけにもいかないだろう。会ってみなければわからないというのは確かにそうだ。
それからさらに一週間後、その青年が上京すると言うので週末の銀座に夫人とともに統一郎は向かうことになった。
***
「はじめまして……」
銀座の街で少し恥ずかしそうな、でもどこか嬉しさと期待をはらんでいる。統一郎はその青年に悪い印象は抱かなかった。ただ彼はひどく痩せている。顔色も青白く、病弱なのは確かなようだった。
「加納早知(かのうさち)と申します。向島さんにはいつもお世話になって、今日のこの席もわざわざ設けていただきました。あの、あなたが真堂さん、ですか?」
「そうよ、この方が真堂さん。しっかりされた方でね、かつてはお医者さんを目指してらしたそうなの」
「あの、向島さんその話は……」
「あら駄目だったかしら? でも医科大学に入学するだけでも相当の学力は必要でしょう? 頭が良いだけでも才能よ」
「別に勉強は努力さえすればどうにかなるものです。でも結局退学してしまったし、卒業した資格もなにもありませんから別に大学に行かなかったのと同じです」
「あの、真堂さん。大学生活は良いものでしたか?」
「ああ、勉強以外にも楽しみはそれなりにあったからね。東京は刺激的な街だし、日々の変化もある。それに手に入れたいと思ったものはすぐ手に入るよ」
「そうか、楽しみだな……」
そう言って笑みを隠し切れない表情で喜びを表した早知に統一郎は残酷な言葉を言えなくなってしまった。こんなに期待の春を迎えようとしている青年の夢を奪ってしまうなんて。幸いにも統一郎の家には使っていない部屋もある。古い家だが直しながら使って行けばあと数年は持つだろう。
「真堂さん! 本当? まあ、ありがとう、ありがとうねえ……」
早知と別れた後、統一郎は向島夫人に早知を引き取る件について了承の意を示した。夫人はひどく喜んで涙まで流す。それほどに早知のことが心配だったのだろう。話が決まってしまえば準備をしなければならない。男の一人暮らしの荒んだ室内を片付けて、早知を迎える準備をしなければ……。
***
春になる頃、早知が上京した。手荷物はほんの少量、これからの生活で使う最低限のものだけを持ってきたのだという。
「お世話になります、真堂さん」
「統一郎でいい。そんなに気を遣うことはないよ、今日からは自分の家なんだから気楽に過ごして」
「ここは良い街ですね、東京なのに静かだ。でも電車に乗ってしまえばすぐに都会に行くことが出来る。大学までも一時間かかりません」
「今の会社に就職をしたときに家賃が安かったから決めただけだよ。俺がこの街に来た頃はまだそんなに栄えてもいなかったし、そう考えると暮らしやすくなった」
「統一郎さんのご出身はどこなんですか?」
「まあ、北国だ」
「北国と言えば……東北の方ですか」
「ああ、でも古くて小さな村だったからね。今はもうないんだ、国が計画したダムにするって言って沈んでしまった」
本当のことは言えるはずがない。未知の感染症なんてことが知れたら人は恐怖に陥るだろう。国からは口止め料ももらっているし今後も統一郎が故郷について話すことはない。
「そうか、統一郎さんの故郷行ってみたかったな。僕の実家にもいつか遊びに来て下さい。市街からは離れた農村なんですけど、うちは果物が美味しいんです。季節によって旬は違うから、その時に一番美味しいものを僕が統一郎さんに紹介します」
「ありがとう、楽しみにしているよ」
早知は良く笑う青年だった。しかしやがて少し疲れたような表情になり、顔色も悪くため息をつくことが多くなる。まだ夕飯には早い時間だった。
「どうした、体調でも悪いのか?」
「ごめんなさい、少し、疲れちゃって……今日は早めに休ませてもらってもいいですか?」
「夕食はどうする? 急いであるもので作ってしまうことも出来るよ」
「いえ、大丈夫です。お気遣いなく」
その日の晩、早知は熱を出した。慣れない都会に疲れてしまったのだろう。寝床で額に手ぬぐいを乗せると彼はほっとした顔をする。
「ごめんなさい、お手数をおかけして」
「別にいいよ、何か欲しいものはあるか?」
「大丈夫……ねえ、統一郎さん。本当は迷惑だったでしょう、僕なんかを預かるだなんて。こうして熱も出してお手を煩わせることもあるし、そもそも他人が自宅にやって来ては自由もなくなってしまう」
赤い顔をしながら早知はじっと統一郎を見る。彼はそこまで感情が鈍いのではないようだ。たぶんきっとその辺の青年より気を遣って生きている。
「別に俺が良いと思ったから呼んだんだ。変な感情を抱くことはない」
「……すみません」
統一郎は五人姉弟だった。その末の弟に早知はよく似ている。いつもどこか周りを気にしていて、しかし統一郎には人一倍甘えていた。忘れていた感情が溢れ、思わず歯を食いしばる。
「また来るよ、おやすみ」
「おやすみなさい」
統一郎は布団の中で久しぶりに家族を思い出して泣いた。もういい年しているのに、情けないな。しかし弟も生きていたら今頃きっと早知のような青年になっていただろうと、思い出すだけで息も出来ない。涙は止まらない。
***
「統一郎さん! 聞いてください」
「どうした、楽しそうだな」
「今日大学の帰りに新しく出来た友人に学校近くの喫茶店を紹介してもらったんです! そこのコーヒーがとっても香りも良くて美味しくて。モーニングもおすすめなんですって、僕もいつか食べられるようになるかな。とにかくとってもお洒落な喫茶店だったんです、東京の人はいいですね。素敵な場所がたくさんある」
にこにこの早知の話を統一郎は微笑ましく聞いていた。大学が始まり早知は忙しい日々を送っている。しかし、喫茶店は良いがその身体が少し痩せて来たのが心配だった。日々体力を使っているのだろう。その割に食べないから痩せるのだ。
「喫茶店も良いがもう少し煮物も食べろ。半分以上残っているじゃないか」
「ああ、ごめんなさい。なんだか胸がいっぱいで……明日の朝、残りは食べます」
「早知」
「すみません、どうしても食欲がないんです。疲れたのかな、食べなきゃいけないのはわかってるんですけど」
「じゃあせめてこの半分、食べたら風呂に入って寝てしまえ。明日も学校、あるんだろう?」
「はい、頑張ります。あの、わがままいってごめんなさい」
「食べられないのはわがままじゃないよ。でも健康に対する努力はしないとな」
食欲のないのが心配だった。しかしこの頃、統一郎にとって早知と過ごす夕食の時間は楽しみの一つになっていた。無邪気に一日の楽しかったことを伝える早知と囲む食卓。それはかつての家族の時間を思い出す。
今はもう戻らないその時を思い、統一郎の心には早知に対する執着じみた愛情が浮かんできていた。でもいつかは早知もこの家を出て行くのだろう、大学を卒業したら故郷に帰るのかもしれない。それを思うとさらに切なく、感情は高まる。しかし、事件はその翌日に起きた。
「帰って来ないな……」
いつもの夕飯の時間をさらに過ぎても一向に早知が帰ってくる様子がない。まだ大学にいるのだろうか、しかし朝は特別遅くなるようなことは言っていなかった。しかも勤め人の統一郎が帰宅しても帰って来ないほど遅い時間まで、学校で何かするようなことはないだろう。友人と過ごしているのか、でもそれなら事前に報告するはずだ。時間が過ぎるときはいつもそうしてきた。
「ごめんください」
玄関には誰か来たようだ。統一郎は足早に向かう、そこにいたのは男子学生と彼に背負われたぐったりとした早知だった。
「早知!」
「同居されている真堂さんですか? 早知、帰り際に具合悪くなっちゃって、歩くことも出来ないので連れて来たんです。熱もあるみたいで……」
「引き取ろう」
男子学生から統一郎が早知を受け取り、学生は心配そうな表情をしながら帰って行った。早知の身体が熱い、熱があるのに青ざめた顔をして早知は速い呼吸を繰り返す。額にはびっしょりと汗をかいていた。
「早知……早知!」
「う……とういちろ、さん……?」
「気分が悪いか?」
「すごく寒い、凍えそうです」
そう呟く早知の身体は十分に熱かった。まだ熱が上がるのだろう、統一郎は早知を寝室に連れて行き、学生服を脱がせて寝間着に着替えさせた。そして震える早知の身体に毛布を掛けて、さらに自分の分の掛け物も。それでも早知は寒い、とうわごとの様に繰り返した。
風邪をこじらせたのだろうか、季節の変わり目は栄養不足の早知の身体には少し辛いものだったのかもしれない。
「おにいさん……」
「え?」
早知の言葉に身体をさする手が止まった。早知には兄はいないはずだ。慌てた統一郎が改めてその顔を見るとそこにいたのは早知ではない。死んだはずの末の弟だった。
「な、どうして……おまえ……」
「どうして東京になんて行ってしまったの。ぼく、ずっと寂しくて……だけど、生きているうちにまた会えると思っていたのに」
「あ、ああ!」
学業に忙しくなかなか帰郷もしなかった。たまに文は送ったが、まだ幼い弟には難しい文章だったかもしれない。そんな自分を待っていたのだと。統一郎の心は崩壊して行く。せめてもう一度でも会いに帰ったらよかった。全てが埋め立てられてしまう、その前に。
「ごめん、悪かった、俺が悪かった……っ」
「……くるしい」
「ああ、……っ」
***
不自由なその土地で十九になる年の春まで過ごした。家族は厳しい父と優しい母、姉はもうすぐ嫁に行く予定になっていて弟達はまだ幼い。幸せなその家庭は統一郎の帰るはずの場所になっていた。病が蔓延するその日までは。
統一郎は苦しんだ家族の最期を知らない。それは幸せなことだったのだろうか、きっと目にしてしまえば多分一生立ち直れなかっただろう。でも今でも失った家族のまぼろしを見て後悔しているのなら同じことか。不自由な生き方をしている。失った過去に、とらわれて……。
「統一郎さん……!」
***
ぎゅ、とその手を握られて、統一郎は我に返った。そこにいたのは弟ではない。窓の外は朝になっていて、統一郎の手を握る早知の顔色はすっかり良くなっている。全て夢だったのだろうか。
「大丈夫ですか、随分とうなされて」
「大丈夫じゃないのは、お前の方だろう……熱は?」
「だいぶ下がりました、すっかり呼吸も楽になって」
「そうか、よかったな……」
「僕のことより統一郎さんの方が心配ですよ、何かあったんですか?」
早知の心配そうな目にやはり失った家族を見た。彼らは統一郎が困った時、この目でじっと見つめて心から案じてくれたのに。
「理由は言えない。でも不自由だな、生きることは」
「でも……まだ未来がありますよ。そう考えれば少し楽にはなりませんか? 自由な未来がきっとあります。僕らはきっとそのために生きているのでしょう」
幼い弟はすっかり青年となり、ここではないどこかで幸せに暮らしている。そして統一郎は過去から一歩を踏み出して未来を、新たな人生を歩みだすのだ。そう考えただけで少し救われた気がする。きっと弟は、家族はもう苦しくはない。
「でも、確かに不自由ですね。この世界は、僕も生きることを考えないといけないです」
「お前がそばにいてくれたらいいよ……」
「そうですか、じゃあこれからもそばにいますね」
早知の頬に手を伸ばし、そして統一郎は未来を思う。ここから先なにがあるかなんてわからない、でも遥か彼方見えるそこは決して悪いところではない気がしたのだ。
二人の日々はそれからも続いた。周りから見てもそれは幸せな時間を過ごしたのだという。不自由な、この街で。
(終わり)
とある北国の小さな村でかつて病が流行した。感染力が強くかかったものはもれなく死んでゆく。その脅威を隠そうとしたこの国の権威ある者たちは直ちに人ごとその村を埋め立てる。病原体とそれに侵された人々はそのまま亡き者にされた。非常まれなる極秘事項、時代柄報道手段も少なかったためその事実を知るものは少なく、全ては内密に終わって行った。たった一人の青年がその事実を知っていたのは、その死の寸前に彼の姉から送られた一通の手紙からだ。
全ては内密に、親族の死を青年が多額の資産と引き換えに誰にも打ち明けることを禁じられたのは全てが終わってからだった。あの村はもう地図にすら存在しない。もともと小さく閉鎖的な場所にあったから外部から滅多に人も来ることはなかった。
青年、真堂統一郎(しんどうとういちろう)はその村の大地主の長男だ。周囲の期待を受けたった一人単身東京の医科大学で医者になるための勉強をしていた。戦後の貧しさは過ぎ、人々は少しずつ真実を知ろうとしてきている。そんな時代に未来を担うために上京した彼は一通の手紙以後連絡の取れない家族の身を案じて、数日かけて帰郷する。そこで彼の見たものは、埋め立てられたかつてのふるさとであった。
***
「優しいお坊ちゃんなのよ、ただ、身体が弱くてねえ」
隣の家の向島夫人はそうやって統一郎に何度もその青年の話をした。今日でもう一週間になる。親類の末の息子だと言い、一浪の末今年めでたく東京の大学に合格したのだと。しかし、病弱なためその身体は一人暮らしに耐えられそうになかった。彼女は再婚のため現夫にはその青年を下宿させたいと言い出せず、また夫も青年が来るのは嫌がっているのだという。その矛先が何故統一郎に向いたのか。いい年して結婚もせず小さな出版社で編集者をしている彼が何故、その青年を引き取れるのだと思ったのだろう。
「聞いたわよ、あなたお医者さんを目指してらしたんですって?」
「……ああまあ、でもそれはもうやめたことです。俺には向いていなかったので」
「医学の知識がある方に同居していただいたら、病弱なあの子も安心なんじゃないのかしら?」
そう来たか。
たしかに統一郎には若干の医学の知識はあったが、実家の件があってからは命の瀬戸際に関わるのがすっかり怖くなってしまって、だから医科大学も辞めたのだ。せっかく亡き両親が高い金を出して入学させてくれた大学を辞めることに罪悪感があったが、これからの人生を一人で生きて行くのは統一郎だった。編集者は医者に比べたら雀の涙ほどの給与ではあったが一人この街で静かに暮らして行くには支障はない。
「ねえ、一度会ってみてはどうかしら? あの子が良い子だってわかったらきっと貴方もその気になるかもしれないわ。お食事でも、一緒に」
「はあ」
もうどうにでもしてくれ。そもそも統一郎がその気になったってその青年が嫌がれば無理に話を進めるわけにもいかないだろう。会ってみなければわからないというのは確かにそうだ。
それからさらに一週間後、その青年が上京すると言うので週末の銀座に夫人とともに統一郎は向かうことになった。
***
「はじめまして……」
銀座の街で少し恥ずかしそうな、でもどこか嬉しさと期待をはらんでいる。統一郎はその青年に悪い印象は抱かなかった。ただ彼はひどく痩せている。顔色も青白く、病弱なのは確かなようだった。
「加納早知(かのうさち)と申します。向島さんにはいつもお世話になって、今日のこの席もわざわざ設けていただきました。あの、あなたが真堂さん、ですか?」
「そうよ、この方が真堂さん。しっかりされた方でね、かつてはお医者さんを目指してらしたそうなの」
「あの、向島さんその話は……」
「あら駄目だったかしら? でも医科大学に入学するだけでも相当の学力は必要でしょう? 頭が良いだけでも才能よ」
「別に勉強は努力さえすればどうにかなるものです。でも結局退学してしまったし、卒業した資格もなにもありませんから別に大学に行かなかったのと同じです」
「あの、真堂さん。大学生活は良いものでしたか?」
「ああ、勉強以外にも楽しみはそれなりにあったからね。東京は刺激的な街だし、日々の変化もある。それに手に入れたいと思ったものはすぐ手に入るよ」
「そうか、楽しみだな……」
そう言って笑みを隠し切れない表情で喜びを表した早知に統一郎は残酷な言葉を言えなくなってしまった。こんなに期待の春を迎えようとしている青年の夢を奪ってしまうなんて。幸いにも統一郎の家には使っていない部屋もある。古い家だが直しながら使って行けばあと数年は持つだろう。
「真堂さん! 本当? まあ、ありがとう、ありがとうねえ……」
早知と別れた後、統一郎は向島夫人に早知を引き取る件について了承の意を示した。夫人はひどく喜んで涙まで流す。それほどに早知のことが心配だったのだろう。話が決まってしまえば準備をしなければならない。男の一人暮らしの荒んだ室内を片付けて、早知を迎える準備をしなければ……。
***
春になる頃、早知が上京した。手荷物はほんの少量、これからの生活で使う最低限のものだけを持ってきたのだという。
「お世話になります、真堂さん」
「統一郎でいい。そんなに気を遣うことはないよ、今日からは自分の家なんだから気楽に過ごして」
「ここは良い街ですね、東京なのに静かだ。でも電車に乗ってしまえばすぐに都会に行くことが出来る。大学までも一時間かかりません」
「今の会社に就職をしたときに家賃が安かったから決めただけだよ。俺がこの街に来た頃はまだそんなに栄えてもいなかったし、そう考えると暮らしやすくなった」
「統一郎さんのご出身はどこなんですか?」
「まあ、北国だ」
「北国と言えば……東北の方ですか」
「ああ、でも古くて小さな村だったからね。今はもうないんだ、国が計画したダムにするって言って沈んでしまった」
本当のことは言えるはずがない。未知の感染症なんてことが知れたら人は恐怖に陥るだろう。国からは口止め料ももらっているし今後も統一郎が故郷について話すことはない。
「そうか、統一郎さんの故郷行ってみたかったな。僕の実家にもいつか遊びに来て下さい。市街からは離れた農村なんですけど、うちは果物が美味しいんです。季節によって旬は違うから、その時に一番美味しいものを僕が統一郎さんに紹介します」
「ありがとう、楽しみにしているよ」
早知は良く笑う青年だった。しかしやがて少し疲れたような表情になり、顔色も悪くため息をつくことが多くなる。まだ夕飯には早い時間だった。
「どうした、体調でも悪いのか?」
「ごめんなさい、少し、疲れちゃって……今日は早めに休ませてもらってもいいですか?」
「夕食はどうする? 急いであるもので作ってしまうことも出来るよ」
「いえ、大丈夫です。お気遣いなく」
その日の晩、早知は熱を出した。慣れない都会に疲れてしまったのだろう。寝床で額に手ぬぐいを乗せると彼はほっとした顔をする。
「ごめんなさい、お手数をおかけして」
「別にいいよ、何か欲しいものはあるか?」
「大丈夫……ねえ、統一郎さん。本当は迷惑だったでしょう、僕なんかを預かるだなんて。こうして熱も出してお手を煩わせることもあるし、そもそも他人が自宅にやって来ては自由もなくなってしまう」
赤い顔をしながら早知はじっと統一郎を見る。彼はそこまで感情が鈍いのではないようだ。たぶんきっとその辺の青年より気を遣って生きている。
「別に俺が良いと思ったから呼んだんだ。変な感情を抱くことはない」
「……すみません」
統一郎は五人姉弟だった。その末の弟に早知はよく似ている。いつもどこか周りを気にしていて、しかし統一郎には人一倍甘えていた。忘れていた感情が溢れ、思わず歯を食いしばる。
「また来るよ、おやすみ」
「おやすみなさい」
統一郎は布団の中で久しぶりに家族を思い出して泣いた。もういい年しているのに、情けないな。しかし弟も生きていたら今頃きっと早知のような青年になっていただろうと、思い出すだけで息も出来ない。涙は止まらない。
***
「統一郎さん! 聞いてください」
「どうした、楽しそうだな」
「今日大学の帰りに新しく出来た友人に学校近くの喫茶店を紹介してもらったんです! そこのコーヒーがとっても香りも良くて美味しくて。モーニングもおすすめなんですって、僕もいつか食べられるようになるかな。とにかくとってもお洒落な喫茶店だったんです、東京の人はいいですね。素敵な場所がたくさんある」
にこにこの早知の話を統一郎は微笑ましく聞いていた。大学が始まり早知は忙しい日々を送っている。しかし、喫茶店は良いがその身体が少し痩せて来たのが心配だった。日々体力を使っているのだろう。その割に食べないから痩せるのだ。
「喫茶店も良いがもう少し煮物も食べろ。半分以上残っているじゃないか」
「ああ、ごめんなさい。なんだか胸がいっぱいで……明日の朝、残りは食べます」
「早知」
「すみません、どうしても食欲がないんです。疲れたのかな、食べなきゃいけないのはわかってるんですけど」
「じゃあせめてこの半分、食べたら風呂に入って寝てしまえ。明日も学校、あるんだろう?」
「はい、頑張ります。あの、わがままいってごめんなさい」
「食べられないのはわがままじゃないよ。でも健康に対する努力はしないとな」
食欲のないのが心配だった。しかしこの頃、統一郎にとって早知と過ごす夕食の時間は楽しみの一つになっていた。無邪気に一日の楽しかったことを伝える早知と囲む食卓。それはかつての家族の時間を思い出す。
今はもう戻らないその時を思い、統一郎の心には早知に対する執着じみた愛情が浮かんできていた。でもいつかは早知もこの家を出て行くのだろう、大学を卒業したら故郷に帰るのかもしれない。それを思うとさらに切なく、感情は高まる。しかし、事件はその翌日に起きた。
「帰って来ないな……」
いつもの夕飯の時間をさらに過ぎても一向に早知が帰ってくる様子がない。まだ大学にいるのだろうか、しかし朝は特別遅くなるようなことは言っていなかった。しかも勤め人の統一郎が帰宅しても帰って来ないほど遅い時間まで、学校で何かするようなことはないだろう。友人と過ごしているのか、でもそれなら事前に報告するはずだ。時間が過ぎるときはいつもそうしてきた。
「ごめんください」
玄関には誰か来たようだ。統一郎は足早に向かう、そこにいたのは男子学生と彼に背負われたぐったりとした早知だった。
「早知!」
「同居されている真堂さんですか? 早知、帰り際に具合悪くなっちゃって、歩くことも出来ないので連れて来たんです。熱もあるみたいで……」
「引き取ろう」
男子学生から統一郎が早知を受け取り、学生は心配そうな表情をしながら帰って行った。早知の身体が熱い、熱があるのに青ざめた顔をして早知は速い呼吸を繰り返す。額にはびっしょりと汗をかいていた。
「早知……早知!」
「う……とういちろ、さん……?」
「気分が悪いか?」
「すごく寒い、凍えそうです」
そう呟く早知の身体は十分に熱かった。まだ熱が上がるのだろう、統一郎は早知を寝室に連れて行き、学生服を脱がせて寝間着に着替えさせた。そして震える早知の身体に毛布を掛けて、さらに自分の分の掛け物も。それでも早知は寒い、とうわごとの様に繰り返した。
風邪をこじらせたのだろうか、季節の変わり目は栄養不足の早知の身体には少し辛いものだったのかもしれない。
「おにいさん……」
「え?」
早知の言葉に身体をさする手が止まった。早知には兄はいないはずだ。慌てた統一郎が改めてその顔を見るとそこにいたのは早知ではない。死んだはずの末の弟だった。
「な、どうして……おまえ……」
「どうして東京になんて行ってしまったの。ぼく、ずっと寂しくて……だけど、生きているうちにまた会えると思っていたのに」
「あ、ああ!」
学業に忙しくなかなか帰郷もしなかった。たまに文は送ったが、まだ幼い弟には難しい文章だったかもしれない。そんな自分を待っていたのだと。統一郎の心は崩壊して行く。せめてもう一度でも会いに帰ったらよかった。全てが埋め立てられてしまう、その前に。
「ごめん、悪かった、俺が悪かった……っ」
「……くるしい」
「ああ、……っ」
***
不自由なその土地で十九になる年の春まで過ごした。家族は厳しい父と優しい母、姉はもうすぐ嫁に行く予定になっていて弟達はまだ幼い。幸せなその家庭は統一郎の帰るはずの場所になっていた。病が蔓延するその日までは。
統一郎は苦しんだ家族の最期を知らない。それは幸せなことだったのだろうか、きっと目にしてしまえば多分一生立ち直れなかっただろう。でも今でも失った家族のまぼろしを見て後悔しているのなら同じことか。不自由な生き方をしている。失った過去に、とらわれて……。
「統一郎さん……!」
***
ぎゅ、とその手を握られて、統一郎は我に返った。そこにいたのは弟ではない。窓の外は朝になっていて、統一郎の手を握る早知の顔色はすっかり良くなっている。全て夢だったのだろうか。
「大丈夫ですか、随分とうなされて」
「大丈夫じゃないのは、お前の方だろう……熱は?」
「だいぶ下がりました、すっかり呼吸も楽になって」
「そうか、よかったな……」
「僕のことより統一郎さんの方が心配ですよ、何かあったんですか?」
早知の心配そうな目にやはり失った家族を見た。彼らは統一郎が困った時、この目でじっと見つめて心から案じてくれたのに。
「理由は言えない。でも不自由だな、生きることは」
「でも……まだ未来がありますよ。そう考えれば少し楽にはなりませんか? 自由な未来がきっとあります。僕らはきっとそのために生きているのでしょう」
幼い弟はすっかり青年となり、ここではないどこかで幸せに暮らしている。そして統一郎は過去から一歩を踏み出して未来を、新たな人生を歩みだすのだ。そう考えただけで少し救われた気がする。きっと弟は、家族はもう苦しくはない。
「でも、確かに不自由ですね。この世界は、僕も生きることを考えないといけないです」
「お前がそばにいてくれたらいいよ……」
「そうですか、じゃあこれからもそばにいますね」
早知の頬に手を伸ばし、そして統一郎は未来を思う。ここから先なにがあるかなんてわからない、でも遥か彼方見えるそこは決して悪いところではない気がしたのだ。
二人の日々はそれからも続いた。周りから見てもそれは幸せな時間を過ごしたのだという。不自由な、この街で。
(終わり)
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
ある少年の体調不良について
雨水林檎
BL
皆に好かれるいつもにこやかな少年新島陽(にいじまはる)と幼馴染で親友の薬師寺優巳(やくしじまさみ)。高校に入学してしばらく陽は風邪をひいたことをきっかけにひどく体調を崩して行く……。
BLもしくはブロマンス小説。
体調不良描写があります。
身に余る不幸せ
雨水林檎
BL
虐げられた人生を生きなおそうとする拒食の青年。
生まれつき心臓に欠陥のある探偵。
全ての終わりを見届ける覚悟をした金融業の男。
救われなかった人生の不幸せについての物語。
※体調不良描写があります※ブロマンス小説
ねむりて。
雨水林檎
BL
村を離れた人間は皆謎の病で死んでしまう。
そんな噂のある村で育った青年は長いこと拒食に悩んでいた。
誰よりも痩せていたい、その思いだけで痩せ続ける。家族仲は最悪で居場所なんてどこにもなかった。そんな彼をやがて一人の教師が見つける。青年が特別な存在になれた瞬間だった。
※体調不良描写があります※ブロマンス小説です
悪夢の先に
紫月ゆえ
BL
人に頼ることを知らない大学生(受)が体調不良に陥ってしまう。そんな彼に手を差し伸べる恋人(攻)にも、悪夢を見たことで拒絶をしてしまうが…。
※体調不良表現あり。嘔吐表現あるので苦手な方はご注意ください。
『孤毒の解毒薬』の続編です!
西条雪(受):ぼっち学生。人と関わることに抵抗を抱いている。無自覚だが、容姿はかなり整っている。
白銀奏斗(攻):勉学、容姿、人望を兼ね備えた人気者。柔らかく穏やかな雰囲気をまとう。
病弱の花
雨水林檎
BL
痩せた身体の病弱な青年遠野空音は資産家の男、藤篠清月に望まれて単身東京に向かうことになる。清月は彼をぜひ跡継ぎにしたいのだと言う。明らかに怪しい話に乗ったのは空音が引き取られた遠縁の家に住んでいたからだった。できそこないとも言えるほど、寝込んでばかりいる空音を彼らは厄介払いしたのだ。そして空音は清月の家で同居生活を始めることになる。そんな空音の願いは一つ、誰よりも痩せていることだった。誰もが眉をひそめるようなそんな願いを、清月は何故か肯定する……。
怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人
こじらせた処女
BL
幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。
しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。
「風邪をひくことは悪いこと」
社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。
とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。
それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?
守り守られ
ほたる
BL
主治医 望月診療所の双子医師
患者 瀬咲朔
腸疾患・排泄障害・下肢不自由
看護師
ベテラン山添さん
準主人公 成海真幌 腸疾患・排泄障害・てんかん
木島 尚久 真幌の恋人同棲中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる