終のすみか

斎宮たまき/斎宮環

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第15話 終のすみか

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 朝靄にけぶる庭の一角で、小さな緑の芽がひとつ、土の割れ目から顔を出していた。かつて祖父母の聴診器を埋めたあの場所――ガラクタと雑草にまみれた庭の片隅で、季節の訪れを告げるようにひっそりと息を吹き返している。

 私、桐原実花はその芽を見つめながら、膝を抱えて座っていた。震える手で芽の周りの土を優しく払う。母が朝の水やりに使うジョウロのそっとした重さ。冷たい水滴が手に伝わるたび、胸の奥の痛みが溶けていくようだった。

「こんな小さな命が…」
 声はかすれていたが、確かに自分の声だった。闇に溺れていた夜、孤独に震えていた日々、誰にも理解されずに過ごした十数年――そのすべてが、この一片の緑に収斂していく気がした。

 庭先に足跡が近づく。母がそっと背後に立ち、私の肩をぽんと叩いた。母の目には、昔のような厳しさではなく、やわらかな光が宿っている。

「あなた…よく頑張ったね」
 母の声は震え、その一言に涙がこぼれた。私は振り向かずに、芽を見つめたまま小さく頷く。

 それからゆっくりと立ち上がり、私たちは並んで庭の小径を歩いた。枯れかけたマリーゴールドも、ごくわずかに蕾をつけている。壊れた植木鉢の破片はまだ土の上に散らばっているが、そこに新しい花壇を作るためのスコップが寄り添って置かれていた。

「ここに…植えよう」
 私はそう言って、ポケットから取り出した小さなビニールポットを差し出す。その中には、以前オーディションで手にした小さな種が入っている。名前も忘れかけていたが、確か“希望”と書かれていた気がした。

 母は驚いたように見つめ、そっとポットを受け取る。二人で協力しながら、芽のそばに新しい穴を掘り、種を静かに土に置いた。土をかぶせ、水をかける。ぽたり、ぽたりと落ちる水滴が、乾いた庭に命を与えていく。

 しばらくして、私は母の横顔を見上げた。母も小さな笑みを浮かべ、目尻に皺を寄せている。その皺は痛みの歴史だが、同時に時間と共に刻まれた優しさの証でもあった。

「実花…これからは、あなた自身のために生きてほしい」
 母の言葉に、私は深く息を吐いた。ずっと誰かの期待や呪縛に縛られてきた私が、初めて自分の声で返した。

「はい。ここが、私の終のすみか…生きる場所です」

 夏の陽光が庭を照らし、背後の一軒家に長い影を落とす。雑草とがらくたの庭は、まだ完全には整っていない。だが、確かな息吹がそこかしこに芽吹く小さな園には、これまで味わった絶望とも閉塞とも違う、新しい物語の始まりが満ちていた。

 終わりの場所は、同時に始まりの場所でもある。母と娘、二人だけの小さな庭で、水音と笑い声が初めて重なり合う。終のすみかは、死に場所ではなく、生きるための拠りどころ。そう気づいた瞬間、私の心には優しい風が吹き抜けた。

 ──終──
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