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友達
仲間
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教室を飛び出した勢いのまま学校をあとにした私は、とぼとぼと一人で道を歩いていた。
家の鍵を入れていたバッグも持たずに来てしまったので帰ることもできない。だけど、教室に戻ることもできない。
「どうしよう……」
夏を予感させる日射しが全身を焼く。
そういえば、今日は真夏日だって朝の天気予報で言ってたような……。ああ、どうして何もかもうまくいかないんだろう。
雲ひとつない抜けるような青空の下で、私はがっくりと肩を落とした。
行く当てもなく、ただ爪先を追いかけるようにして歩き続けていると、校舎は少しずつ遠くなっていく。
一度逃げてしまえば、二度目、三度目はもっと簡単だと過去の経験から分かっていた。けれど、戻るためにはどれくらいの勇気と覚悟が必要なのかは分からない。
だって、私はあのときからずっと逃げたままだから……。
「おーい!」
暑さにやられたのか、とうとう幻聴まで聞こえて始めたのか。私、かなりヤバいな……。
「深山さん、待ってよー!」
「……ん?」
その声は幻聴などではなく、誰かが私を呼んでいるのだと気付いて振り返ると、五十メートルくらい遠くで柴崎くんが大きく手を振っていた。
「柴崎くん?」
どうしてここに?
柴崎くんが私に向かって走り出すと、その姿はぐんぐんと私に迫ってきた。
そして、あっという間に目の前にやってきた柴崎くんは、わずかに息を弾ませながら、私が教室に置き去りにしたバッグを差し出した。
「追いついてよかった。はいこれ」
そっか。柴崎くんはこれを届けに来ただけなんだ。
「さっきのはドッキリだよ」とか「誤解は全部解けて元通りだから安心して」とか……そんな展開をほんのちょっと期待してしまった。
そんなことあるわけないのに。世界はもうとっくにひっくり返ってしまったんだから。
「ありがとう。じゃあ……」
私はバッグを受け取ろうとした。でも柴崎くんが手を離してくれない。
「あ、あの……」
「……教室、戻れないよな」
強い日差しを背に受けているせいでその表情はよく見えなかったけれど、どこか切ない声に、ぎゅっと胸が締め付けられた。
そうだ。柴崎くんはさっき私を庇ってくれたんだった。あんな空気の中で声を上げるなんて、すごく勇気がいることだったはず。それに、こうやって追いかけてきてくれた。
柴崎くんがみんなに何か言われてなければいいんだけど……。
それだけが心配だったけれど、柴崎くんの優しさは、素直に嬉しかった。
「大丈夫」
せめてものお礼の気持ちをこめて、私は笑ってみせた。
もうこれ以上、私のせいで柴崎くんに迷惑をかけちゃいけない。
「今日はこのままサボっちゃうけど、明日は行くよ。紗英もみちるも、ちゃんと話せば分かってくれるはずだし。柴崎くんも早く学校に戻ったほうが――」
そのとき、柴崎くんが私の手をつかんだ。頭上から降り注ぐ太陽の熱とは違う、意思を持った熱が、汗のベタつきとともに私の肌に貼りついて、染み込んでくる。
「し、柴崎くん?」
「そんなふうに笑わないでって、俺言ったよな」
「え?」
いつもの優しい柴崎くんとは違う鋭い目でにらまれて、私は思わず体を強張らせる。
「来て」
ぐいっと引っ張られて、私はつんのめるようにして歩き出した。前を行く柴崎くんの背中は、どこに行くのかという質問を拒んでいるみたいで、私はただついていくことしかできなかった。
******
柴崎くんに連れていかれたのは、学校から十五分くらい離れたところにある公園だった。
ぐるりと囲むように木が植えられていて全体的に木陰になっているから、じりじりと上がり続ける気温の中でも涼しくて過ごしやすい。
ブランコ、鉄棒、ジャングルジム、動物のかたちをしたスプリング式の遊具が三つ、それにベンチがぽつぽつと設置されている、わりと大きな公園なのに人気はなかった。
「ここ、俺がガキのころはもっと人が来てたんだけどさ、駅の近くに図書館とかカフェとかもある公園が新しくできたから、みんなそっちに行くようになっちゃったんだよね」
入口の自動販売機で買ってくれたペットボトルのお茶を差し出しながら、柴崎くんが説明してくれた。礼を言って受け取ると、冷たいペットボトルがまとった水滴に指先が濡れた。
「ごめん、強引に連れてきちゃって」
「ううん。それは平気だけど……柴崎くんも学校サボっちゃって大丈夫?」
「俺のことは気にしなくていいよ」
私に謝る柴崎くんは、いつもの優しくて温かい感じを取り戻していた。でもさっきの柴崎くんは、なんだかすごく迫力があったな……。
「今から深山さんにめっちゃ聞きにくいこと聞くんだけど、ムカついたら殴ってもいいから」
「な、殴ったりしないよ!」
柴崎くんはいつもどういう目で私を見ているのか不安になってしまう。
「……深山さんってさ、昔いじめられてたりした?」
体の内側に触れられたみたいに背筋がぞくりとして鳥肌が立ち、濡れた指先からじわじわと体温が奪われていく。感覚が少し遠くなって、柴崎くんの声も、目に映る景色も、肌を撫でる風も、薄い膜を通して届いてくるみたいだった。
「もしかして、深山さんがこっちに引越してきたのもそのせい……とか?」
柴崎くんが重ねて質問してくる。
「そ、れは」
誤魔化さなくちゃ。どうにかして話をそらして、大丈夫だって――。
「ほら、それ」
柴崎くんの目がまた少し鋭くなる。
「深山さんのその笑いかた、嫌いなんだよ」
笑ってなんか、と言いかけてハッとする。柴崎くんの言うとおり私は笑っていた。顔の筋肉が、私の意思とは関係なく勝手に笑顔を作っている。
なんで……? ていうか、嫌いって……。
強い言葉で否定されて胸にちくりと痛みが走った。
「あ……ごめん。嫌いっていうか、嫌なこと思い出しちゃうんだ」
「嫌なこと?」
「俺、六つ上に姉ちゃんがいるんだけど、その姉ちゃんも高校のとき、いじめられてたから。深山さんの笑顔ってさ、あのときの姉ちゃんの笑いかたにそっくりなんだよ。だから、入学してからずっと気になってた」
うつむいた柴崎くんの向こうに、顔も知らないお姉さんが一瞬見えたような気がして、私は息をのんだ。
柴崎くんがさっき私を庇ってくれたこと、こうやって追いかけてきてくれたこと、他人である私を気にかけて、お姉さんがいじめに遭っていたという話までしてくれたことを考えれば、私も正直に打ち明けるべきなのでは、という気がした。
「あの……」
けれど、私がずっと誤魔化して、隠して、目を逸らし続けていたものを「いじめ」という、たった三文字で表現するのを、どうしても口が拒んでしまう。
あの苦しかった時間と記憶と心の傷を、余すところなく正確に表現できる言葉なんてこの世には存在しないのに。だけど、その言葉でしか伝えられないのがもどかしくてたまらない。
「ごめん。無神経だったよな」
柴崎くんが立ち上がる。白いシャツが木漏れ日を反射して、私は思わず目を細めた。
「小さいとき、姉ちゃんとここに一緒に遊びに来てたんだ。俺はジャングルジムに登るのが好きだったんだけど、姉さんは高いところが苦手で絶対登らなかった」
私にそんな話をしながら、柴崎くんはするするとジャングルジムに登り始めた。二メートルほどの高さしかないから、てっぺんにたどり着くのはあっという間。
柴崎くんは、くるりと体を反転させると私に手を振った。
「見てて」
私がおずおずと手を振り返した瞬間、柴崎くんが鉄骨を蹴って、ふわりと飛んだ。
喉の奥で悲鳴が炸裂する。
太陽の光を受けて輝く白いシャツがたなびいて、落下するまでの軌跡を描く。
ほんの一瞬。けれど、まるで永遠みたいだった。
私はただ目を丸くして、口を開けたまま、それを見つめていた。
ざざざっ、とスニーカーが地面を擦る音とともに、柴崎くんが着地する。しゃがみこんでうつむいた姿勢のまま動かないから、どこか痛めたのかもしれない。
「柴崎くん、大丈夫⁉」
私が慌てて駆け寄ると、柴崎くんはそのまま地面に座り込んだ。
「姉ちゃんはさ、高校二年のとき、いきなりこうやって飛んだんだよ」
「え?」
飛んだって、どういう……?
ふと、ある考えが浮かんで、私は思わず柴崎くんの肩に触れた。
まさか。まさか……。
「教室の窓から飛び降りたんだ。ジャングルジムも登れないくせに」
はっ、と柴崎くんは吐き出すように笑った。
「それで……お姉さんは?」
「落ちたのがちょうど花壇の上で、教室も二階だったから骨折だけで済んだよ」
「そう、なんだ」
よかったね、とはとても言えなかった。
『飛べよ』
『ほら』
『飛べ』
がしゃがしゃと鳴る金網の音。歪んだ弧を描く口元から漂ってくるミントのにおい。吹き付ける風の感触。遠くから聞こえてくる野球部のかけ声や吹奏楽部の演奏。学校のチャイム。オレンジ色の空。
生々しい記憶がじわじわ蘇ってくる。
しがみつくように柴崎くんの白いシャツをぎゅっと握ると、小さなしわができた。
「深山さん、大丈夫?」
震える私の手に、柴崎くんがそっと手を重ねてくれた。それはとても温かくて、優しくて、私がいつも見ていた柴崎くんのようだった。
だけど……この温かさの向こうに、私とよく似た傷があるんだ。
「あれ」
そこに突然、聞き覚えのない声が割りこんできた。
公園の入り口に男の子がいた。木々の影に隠れて顔はよく見えないけれど、眼鏡をかけて、私たちと同じ高校の制服を身に着けている。
「もしかして、お邪魔だった?」
「バカ言うなよ。深山さんに失礼だろ、宏樹」
宏樹……?
なんだか聞き覚えがあるような……。それに、柴崎くんの口調もだいぶ親し気だし、友達なのかな。
風が吹いて影が揺れた。木漏れ日が男の子の顔を照らす。
「あっ」
私は思わず立ち上がった。
「……井村くん⁉」
井村宏樹くん。そこに立っているのは、教室にできた空席の主だった。
家の鍵を入れていたバッグも持たずに来てしまったので帰ることもできない。だけど、教室に戻ることもできない。
「どうしよう……」
夏を予感させる日射しが全身を焼く。
そういえば、今日は真夏日だって朝の天気予報で言ってたような……。ああ、どうして何もかもうまくいかないんだろう。
雲ひとつない抜けるような青空の下で、私はがっくりと肩を落とした。
行く当てもなく、ただ爪先を追いかけるようにして歩き続けていると、校舎は少しずつ遠くなっていく。
一度逃げてしまえば、二度目、三度目はもっと簡単だと過去の経験から分かっていた。けれど、戻るためにはどれくらいの勇気と覚悟が必要なのかは分からない。
だって、私はあのときからずっと逃げたままだから……。
「おーい!」
暑さにやられたのか、とうとう幻聴まで聞こえて始めたのか。私、かなりヤバいな……。
「深山さん、待ってよー!」
「……ん?」
その声は幻聴などではなく、誰かが私を呼んでいるのだと気付いて振り返ると、五十メートルくらい遠くで柴崎くんが大きく手を振っていた。
「柴崎くん?」
どうしてここに?
柴崎くんが私に向かって走り出すと、その姿はぐんぐんと私に迫ってきた。
そして、あっという間に目の前にやってきた柴崎くんは、わずかに息を弾ませながら、私が教室に置き去りにしたバッグを差し出した。
「追いついてよかった。はいこれ」
そっか。柴崎くんはこれを届けに来ただけなんだ。
「さっきのはドッキリだよ」とか「誤解は全部解けて元通りだから安心して」とか……そんな展開をほんのちょっと期待してしまった。
そんなことあるわけないのに。世界はもうとっくにひっくり返ってしまったんだから。
「ありがとう。じゃあ……」
私はバッグを受け取ろうとした。でも柴崎くんが手を離してくれない。
「あ、あの……」
「……教室、戻れないよな」
強い日差しを背に受けているせいでその表情はよく見えなかったけれど、どこか切ない声に、ぎゅっと胸が締め付けられた。
そうだ。柴崎くんはさっき私を庇ってくれたんだった。あんな空気の中で声を上げるなんて、すごく勇気がいることだったはず。それに、こうやって追いかけてきてくれた。
柴崎くんがみんなに何か言われてなければいいんだけど……。
それだけが心配だったけれど、柴崎くんの優しさは、素直に嬉しかった。
「大丈夫」
せめてものお礼の気持ちをこめて、私は笑ってみせた。
もうこれ以上、私のせいで柴崎くんに迷惑をかけちゃいけない。
「今日はこのままサボっちゃうけど、明日は行くよ。紗英もみちるも、ちゃんと話せば分かってくれるはずだし。柴崎くんも早く学校に戻ったほうが――」
そのとき、柴崎くんが私の手をつかんだ。頭上から降り注ぐ太陽の熱とは違う、意思を持った熱が、汗のベタつきとともに私の肌に貼りついて、染み込んでくる。
「し、柴崎くん?」
「そんなふうに笑わないでって、俺言ったよな」
「え?」
いつもの優しい柴崎くんとは違う鋭い目でにらまれて、私は思わず体を強張らせる。
「来て」
ぐいっと引っ張られて、私はつんのめるようにして歩き出した。前を行く柴崎くんの背中は、どこに行くのかという質問を拒んでいるみたいで、私はただついていくことしかできなかった。
******
柴崎くんに連れていかれたのは、学校から十五分くらい離れたところにある公園だった。
ぐるりと囲むように木が植えられていて全体的に木陰になっているから、じりじりと上がり続ける気温の中でも涼しくて過ごしやすい。
ブランコ、鉄棒、ジャングルジム、動物のかたちをしたスプリング式の遊具が三つ、それにベンチがぽつぽつと設置されている、わりと大きな公園なのに人気はなかった。
「ここ、俺がガキのころはもっと人が来てたんだけどさ、駅の近くに図書館とかカフェとかもある公園が新しくできたから、みんなそっちに行くようになっちゃったんだよね」
入口の自動販売機で買ってくれたペットボトルのお茶を差し出しながら、柴崎くんが説明してくれた。礼を言って受け取ると、冷たいペットボトルがまとった水滴に指先が濡れた。
「ごめん、強引に連れてきちゃって」
「ううん。それは平気だけど……柴崎くんも学校サボっちゃって大丈夫?」
「俺のことは気にしなくていいよ」
私に謝る柴崎くんは、いつもの優しくて温かい感じを取り戻していた。でもさっきの柴崎くんは、なんだかすごく迫力があったな……。
「今から深山さんにめっちゃ聞きにくいこと聞くんだけど、ムカついたら殴ってもいいから」
「な、殴ったりしないよ!」
柴崎くんはいつもどういう目で私を見ているのか不安になってしまう。
「……深山さんってさ、昔いじめられてたりした?」
体の内側に触れられたみたいに背筋がぞくりとして鳥肌が立ち、濡れた指先からじわじわと体温が奪われていく。感覚が少し遠くなって、柴崎くんの声も、目に映る景色も、肌を撫でる風も、薄い膜を通して届いてくるみたいだった。
「もしかして、深山さんがこっちに引越してきたのもそのせい……とか?」
柴崎くんが重ねて質問してくる。
「そ、れは」
誤魔化さなくちゃ。どうにかして話をそらして、大丈夫だって――。
「ほら、それ」
柴崎くんの目がまた少し鋭くなる。
「深山さんのその笑いかた、嫌いなんだよ」
笑ってなんか、と言いかけてハッとする。柴崎くんの言うとおり私は笑っていた。顔の筋肉が、私の意思とは関係なく勝手に笑顔を作っている。
なんで……? ていうか、嫌いって……。
強い言葉で否定されて胸にちくりと痛みが走った。
「あ……ごめん。嫌いっていうか、嫌なこと思い出しちゃうんだ」
「嫌なこと?」
「俺、六つ上に姉ちゃんがいるんだけど、その姉ちゃんも高校のとき、いじめられてたから。深山さんの笑顔ってさ、あのときの姉ちゃんの笑いかたにそっくりなんだよ。だから、入学してからずっと気になってた」
うつむいた柴崎くんの向こうに、顔も知らないお姉さんが一瞬見えたような気がして、私は息をのんだ。
柴崎くんがさっき私を庇ってくれたこと、こうやって追いかけてきてくれたこと、他人である私を気にかけて、お姉さんがいじめに遭っていたという話までしてくれたことを考えれば、私も正直に打ち明けるべきなのでは、という気がした。
「あの……」
けれど、私がずっと誤魔化して、隠して、目を逸らし続けていたものを「いじめ」という、たった三文字で表現するのを、どうしても口が拒んでしまう。
あの苦しかった時間と記憶と心の傷を、余すところなく正確に表現できる言葉なんてこの世には存在しないのに。だけど、その言葉でしか伝えられないのがもどかしくてたまらない。
「ごめん。無神経だったよな」
柴崎くんが立ち上がる。白いシャツが木漏れ日を反射して、私は思わず目を細めた。
「小さいとき、姉ちゃんとここに一緒に遊びに来てたんだ。俺はジャングルジムに登るのが好きだったんだけど、姉さんは高いところが苦手で絶対登らなかった」
私にそんな話をしながら、柴崎くんはするするとジャングルジムに登り始めた。二メートルほどの高さしかないから、てっぺんにたどり着くのはあっという間。
柴崎くんは、くるりと体を反転させると私に手を振った。
「見てて」
私がおずおずと手を振り返した瞬間、柴崎くんが鉄骨を蹴って、ふわりと飛んだ。
喉の奥で悲鳴が炸裂する。
太陽の光を受けて輝く白いシャツがたなびいて、落下するまでの軌跡を描く。
ほんの一瞬。けれど、まるで永遠みたいだった。
私はただ目を丸くして、口を開けたまま、それを見つめていた。
ざざざっ、とスニーカーが地面を擦る音とともに、柴崎くんが着地する。しゃがみこんでうつむいた姿勢のまま動かないから、どこか痛めたのかもしれない。
「柴崎くん、大丈夫⁉」
私が慌てて駆け寄ると、柴崎くんはそのまま地面に座り込んだ。
「姉ちゃんはさ、高校二年のとき、いきなりこうやって飛んだんだよ」
「え?」
飛んだって、どういう……?
ふと、ある考えが浮かんで、私は思わず柴崎くんの肩に触れた。
まさか。まさか……。
「教室の窓から飛び降りたんだ。ジャングルジムも登れないくせに」
はっ、と柴崎くんは吐き出すように笑った。
「それで……お姉さんは?」
「落ちたのがちょうど花壇の上で、教室も二階だったから骨折だけで済んだよ」
「そう、なんだ」
よかったね、とはとても言えなかった。
『飛べよ』
『ほら』
『飛べ』
がしゃがしゃと鳴る金網の音。歪んだ弧を描く口元から漂ってくるミントのにおい。吹き付ける風の感触。遠くから聞こえてくる野球部のかけ声や吹奏楽部の演奏。学校のチャイム。オレンジ色の空。
生々しい記憶がじわじわ蘇ってくる。
しがみつくように柴崎くんの白いシャツをぎゅっと握ると、小さなしわができた。
「深山さん、大丈夫?」
震える私の手に、柴崎くんがそっと手を重ねてくれた。それはとても温かくて、優しくて、私がいつも見ていた柴崎くんのようだった。
だけど……この温かさの向こうに、私とよく似た傷があるんだ。
「あれ」
そこに突然、聞き覚えのない声が割りこんできた。
公園の入り口に男の子がいた。木々の影に隠れて顔はよく見えないけれど、眼鏡をかけて、私たちと同じ高校の制服を身に着けている。
「もしかして、お邪魔だった?」
「バカ言うなよ。深山さんに失礼だろ、宏樹」
宏樹……?
なんだか聞き覚えがあるような……。それに、柴崎くんの口調もだいぶ親し気だし、友達なのかな。
風が吹いて影が揺れた。木漏れ日が男の子の顔を照らす。
「あっ」
私は思わず立ち上がった。
「……井村くん⁉」
井村宏樹くん。そこに立っているのは、教室にできた空席の主だった。
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