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しおりを挟む立ち上がると、朝よりは具合が良くなっているような気がした。
たぶん熱も下がってる。
カーテンを閉めながら、灰色の雲に覆われている空を見上げた。
……那波、傘持ってったかな…
『……あの日もこんなふうに、雨が降ってきたよね』
沙也香も偶然、外を見ていたらしい。
「あぁ、うん…慌てたよな」
急に降ってきた、通り雨。
売店の軒下に避難して、びっくりしたと言って互いに笑いあった。
ついてないと呟くと、でもきっと忘れられない思い出になるよと沙也香は言った。
周りには誰も人がいなくて、繋いでいた手は少しだけ濡れていて。
そこで、俺たちは初めてキスをした。
「………」
『……なんか、恥ずかしいね』
電話口で吹きだす沙也香。
「ほんとだよ」
俺も笑った。
「俺、あの時すごい緊張しててさ、」
『そうそう、歯が当たって』
「そしたら笑われるし」
『だって、おかしかったんだもん』
思い出して、また二人で笑う。
散々だった初デートにファーストキス。
でもあの時彼女が言ったとおり、確かに忘れられない思い出になった。
どきどきしたり、恥ずかしかったり、嬉しかったり。
今とは違う場所にいた頃の、たくさんの思い出。
『……浩介くん、』
ぽつりと彼女は言った。
『あたし…あたしね、あの時のこと、ずっと後悔してた』
「……え?」
『今更だし、勝手だってわかってるけど…』
彼女が言わんとしている事が、なんとなくわかった。
だから敢えて明るく言った。
「……ほんと、勝手だよ。あの時俺、すごいショックだったし」
『………』
そっと触れた窓の桟は、氷のように冷たい。
「……けど、もう昔の事じゃん。気にしてないよ」
『……うん』
あの日飲み会で再会しなかったら、きっとこんなふうに話す事もなかった。
思い出す事もなかったのかもしれない。
もうそれくらい、自分のなかでは過去の出来事になっていた。
あの頃は、あんなに辛かったのに…。
でもこうして話したことで、沙也香が気にしてくれていたことがわかって少し嬉しかった。
だから、軽い気持ちで訊いた。
「それであの後、どうなったの?」
『……え?』
「好きな人ができたって言ってたじゃん。その人と」
『………つきあったよ。すぐ別れたけど…』
沙也香の声が暗くなる。
「……そっか」
『………サイテーな人だった。あんな人に騙されて、あたしほんとに馬鹿みたい…』
「……沙也香?」
感極まったのか、沙也香はまくしたてるように言った。
『ねえ、なんで浩介くんはあんな人と仲良くしてたの?』
沙也香はそれからずっと一人で喋っていた。
俺は電話を持ったたままぼうっと突っ立っていて、相槌さえ打てなかった。
意味がわからなかった。
沙也香が途中で泣き出しても、何も言えなかった。
汗が急に冷えていくのがわかる。
そんな筈ないと思った。
そんな事あるわけない。
そう思うのに。
彼女の言葉によって記憶のなかの過去の断片が蘇り、まったく別の形を成していく。
まるでパズルみたいに。
俺は那波のことを知らなかった。
何も、わかってなかった。
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