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Episode.04 恐ろしいところ

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 机の上に置いてあったハンカチを手に取り、スッと息を吸った。〝ルクリ・スア〟の香油を垂らしたハンカチは、ふわりとあの優しい匂いがする。

 それだけで、波立つ心が穏やかになるのだから不思議だ。

 視界の中でソフィが心配そうにこちらを見ていた。

 「ルクリア様?気分が優れないのであれば…。」

 「…いいえ、大丈夫です。続きを、聞かせてください。」

 こちらを気にした様子を見せながら、ディルクは続けた。

 「栄誉ある騎士の誓いを強要する貴族がいると聞きました。けして少ない人数ではないことも。そして、逆らえば自分たちに未来はありません。」

 大人しく受け入れるしかない、と。

 「ルクリア様がこちらを見たとき、友人たちの言葉が思い浮かびました。その人も、彼らが語った貴族のように自分にそれを強要しているのだと。」

 ディルクの場合は勘違いだった。けれど、実際にそれを強要している貴族は少なくないと、彼は言う。それだけ、貴族と平民の身分差は大きく、抗えないものだ。

 「実際には私の思い込みと勘違いでしたが。」

 苦笑いを浮かべるディルクにわたしは考え込む。

 貴族は強い立場にある。強い力は振りかざすものではなく、弱いものを守るためのものである。騎士の誓いを強要することは貴族の務めに反している。

 けれど、いくらそれを咎めたところで、実際に彼らの意思ではないことを証明することは難しい。あの世界ように、誰もが平等ではないのだから。平等が当たり前の意識がないものに権利擁護など理解もできないだろう、と思う。貴族にとって平民を守る必要性りえきがないのだから。

 「…あの誓いは、反故できないのですか。」

 誇りある騎士の誓い。というのならば、できないだろう。わかってはいたけれど、少しの希望をのせて尋ねる。

 「反故はできない、してはならないと決まっていますし、私は騎士としてしたくないと思います。」

 真っ直ぐな瞳でこちらを見て、それからディルクは少し笑った。

 「それに、ルクリア様はわたしが知る貴族と少し違うようですので。」

 それはそうだろう。

 わたしが知る世界は身分差なんてものがあったのは昔の話だ。差別やいじめはあったけれど、社会に公認される差別は存在しなかった。

 同時に、自ら平民を守るという意識もなければ、そもそも人と関わることすらまともにできない。

 普通の貴族どころか平民と称される彼らの方がよっぽどできた人間といえる。

 「貴女に仕えることに、異議はありません。」

 ディルクはそう言ってくれた。状況はどうあれ、彼に剣を預けたのはわたしだ。

 「これからよろしくお願いします、ディルク。」



 辛くても、逃げたくても、怖くてもわたしはここまで来てしまった。ディルクと、わたしを揺らぐ瞳で見つめるソフィとも関係を築かねばならないのだ。

 

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