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序章 紅烏登場
河豚善
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料理茶屋『河豚善』は、黒河豚の駒三が悪どい稼ぎで得た多額の資金を投じたものである。
その建物は密集地にあるこじんまりした周りの店とは違い、非常に大きく豪華絢爛だ。
当時としては珍しい三階建ての茶屋は、現代で言うならばちょっとした高層ビルであり、ひときわ目立つ。
建物の周囲に塀を巡らせているのもこの辺りでは珍しい。
料理は看板のふぐ料理だけではなく、新鮮な鯛など高級食材を使ったもの、当時の深川では名物でもあった鰻料理などもあった。
各地より集めた一流の料理人が腕を振るう贅を尽くした料理の数々は、舌の肥えた食通たちをも唸らせた。
そのためまだ新興であるにもかかわらず、すでに一流料亭として各界著名人たちに知れ渡りつつあった。
もちろんここは岡場所であるので、売り物は料理だけではない。
芸者を呼んで遊ぶことはもちろんだが、それ以外にも飯盛り女、配膳する仲居など、女将以下すべての女には値があり、その気になれば奥座敷に連れ込むことができる。
そんな『河豚善』の最大の売りが、『花鳥』と称した上顧客のみに供される厳選された専属の女たちだ。
彼女たちは没落した商家や武家などの娘たちから選ばれた、特に器量が良く若い娘たちである。
もちろん黒河豚一家の汚い手口に絡めとられ苦界に堕とされたわけだが、貧しい庶民や貧農出身の娘たちとは違って、教養があり品も良いことが裕福な旦那衆に好まれた。
そんな旦那衆であっても、新しく『花鳥』に選ばれ、まだ男を知らない生娘を抱くのは容易ではない。
『花鳥』を水揚げするには、相当な社会的地位と一財産が必要なのである。
それほど大切な玉である『花鳥』の初物を、黒河豚の駒三は町奉行の岡田にまとめて五人も水揚げさせようというのだ。
これはもちろん、町奉行の碌でかなう遊びではない。
不法な賭場での女狩りをはじめ、黒河豚一家の非道な行いをお目こぼしする対価なのだ。
さらに本来非合法な遊郭である岡場所への幕府の介入をを緩和する目的もある。
駒三にとってもこの『河豚善』への投資は決して安くない。絶対に失敗できない事業なのである。
日の高い昼過ぎごろ。
(玄関と裏木戸以外は塀で囲われている。源内先生の下見どおりだな。これはまるで城攻めだ。さて・・)
黒頭巾組の一員として今夜水揚げする岡田の警護に駆り出されている源三郎は、まだ客の少ない『河豚善』の楼内を検分することにした。
玄関を入るとすぐに大きく広い階段がある。
一階には一見客のための席もあるが、主に板場や仲居など従業員の控え場や、帳場など事務所的に使用している部分が多いため、上客はすぐに二階に通すようになっている。
二階は広い座敷をいくつもに仕切っている。ここで料理を楽しみ、さらに奥の間で女を抱くこともできるわけだ。
座敷の周囲は広い回廊になっていて、周囲を見渡すことが出来る。
この回廊の奥に三階へ通じる階段がある。
源三郎が階段を上ろうとすると、その場にいた手代風の男に制止された。
「申し訳ございません。ここから先は『花鳥』の間ですので、先生といえどお通しするわけにはいきません」
男は商人のような風体をしているが、目つきの鋭さはやくざのものである。
このように従業員や客や通行人に紛れて、建物の内外に多くの警護のためのやくざが配備されている。
戦闘になれば、一気に伏兵がなだれ込み一対百の戦になるだろう。
「ああ、そうかすまねえな。ここから先は上客と黒河豚の親分しか上がれねえってことだな」
「すみません先生、ここでは大旦那とお呼びください。まあそういうことです」
大旦那という言葉に源三郎は思わず苦笑したが、言った男も失笑を隠せてはいなかった。
源三郎はそのまま引き返して一階に降り、表玄関から外に出た。
「おお三浦殿、早いな」
『河豚善』の外で源三郎に声を掛けてきたのは、黒頭巾組の組頭・佐藤平右衛門である。
「佐藤さんこそ。今夜の警護の段取りはどうなってる?」
「前回と変わらんさ。奉行の屋敷から俺たちと黒河豚一家が警護する、ただ今回は警護の数が違う。黒河豚の親分が大勢の助っ人を手配したからな。そいつらは道々に潜んでいるから、またあの紅烏が現れても今夜はまさに袋の鼠だろうよ」
「ふーん、そうか」
すると突然、今出て来たばかりの『河豚善』から慌ただしい声が聞こえた。
勢いよく走り出て来る男が居る。見るとそれは蝮の松吉であった。
源三郎が声を掛ける。
「おい、松吉。どうした?」
「ああ、先生方。てえへんです。店の玄関にこんな物が・・矢文でござんすよ」
松吉が両手に持っていたのは紅い矢羽根の付いた矢と書状だ。
平右衛門がそれを手に取って見る。
書状には『紅烏今宵参上仕る』とだけ書かれてあった。
「矢文とはまた古風なことだな。松吉、とりあえず親分に知らせてこい」
「へい」
言うなり松吉は走り出した。
「しかし紅烏は今夜は直接こっちに来るということか?それとも何かの策かね?」
平右衛門が言う。
もちろん策である。
この矢文はつい先ほど、源三郎自らの手で玄関口に突き刺しておいたものだからだ。
その建物は密集地にあるこじんまりした周りの店とは違い、非常に大きく豪華絢爛だ。
当時としては珍しい三階建ての茶屋は、現代で言うならばちょっとした高層ビルであり、ひときわ目立つ。
建物の周囲に塀を巡らせているのもこの辺りでは珍しい。
料理は看板のふぐ料理だけではなく、新鮮な鯛など高級食材を使ったもの、当時の深川では名物でもあった鰻料理などもあった。
各地より集めた一流の料理人が腕を振るう贅を尽くした料理の数々は、舌の肥えた食通たちをも唸らせた。
そのためまだ新興であるにもかかわらず、すでに一流料亭として各界著名人たちに知れ渡りつつあった。
もちろんここは岡場所であるので、売り物は料理だけではない。
芸者を呼んで遊ぶことはもちろんだが、それ以外にも飯盛り女、配膳する仲居など、女将以下すべての女には値があり、その気になれば奥座敷に連れ込むことができる。
そんな『河豚善』の最大の売りが、『花鳥』と称した上顧客のみに供される厳選された専属の女たちだ。
彼女たちは没落した商家や武家などの娘たちから選ばれた、特に器量が良く若い娘たちである。
もちろん黒河豚一家の汚い手口に絡めとられ苦界に堕とされたわけだが、貧しい庶民や貧農出身の娘たちとは違って、教養があり品も良いことが裕福な旦那衆に好まれた。
そんな旦那衆であっても、新しく『花鳥』に選ばれ、まだ男を知らない生娘を抱くのは容易ではない。
『花鳥』を水揚げするには、相当な社会的地位と一財産が必要なのである。
それほど大切な玉である『花鳥』の初物を、黒河豚の駒三は町奉行の岡田にまとめて五人も水揚げさせようというのだ。
これはもちろん、町奉行の碌でかなう遊びではない。
不法な賭場での女狩りをはじめ、黒河豚一家の非道な行いをお目こぼしする対価なのだ。
さらに本来非合法な遊郭である岡場所への幕府の介入をを緩和する目的もある。
駒三にとってもこの『河豚善』への投資は決して安くない。絶対に失敗できない事業なのである。
日の高い昼過ぎごろ。
(玄関と裏木戸以外は塀で囲われている。源内先生の下見どおりだな。これはまるで城攻めだ。さて・・)
黒頭巾組の一員として今夜水揚げする岡田の警護に駆り出されている源三郎は、まだ客の少ない『河豚善』の楼内を検分することにした。
玄関を入るとすぐに大きく広い階段がある。
一階には一見客のための席もあるが、主に板場や仲居など従業員の控え場や、帳場など事務所的に使用している部分が多いため、上客はすぐに二階に通すようになっている。
二階は広い座敷をいくつもに仕切っている。ここで料理を楽しみ、さらに奥の間で女を抱くこともできるわけだ。
座敷の周囲は広い回廊になっていて、周囲を見渡すことが出来る。
この回廊の奥に三階へ通じる階段がある。
源三郎が階段を上ろうとすると、その場にいた手代風の男に制止された。
「申し訳ございません。ここから先は『花鳥』の間ですので、先生といえどお通しするわけにはいきません」
男は商人のような風体をしているが、目つきの鋭さはやくざのものである。
このように従業員や客や通行人に紛れて、建物の内外に多くの警護のためのやくざが配備されている。
戦闘になれば、一気に伏兵がなだれ込み一対百の戦になるだろう。
「ああ、そうかすまねえな。ここから先は上客と黒河豚の親分しか上がれねえってことだな」
「すみません先生、ここでは大旦那とお呼びください。まあそういうことです」
大旦那という言葉に源三郎は思わず苦笑したが、言った男も失笑を隠せてはいなかった。
源三郎はそのまま引き返して一階に降り、表玄関から外に出た。
「おお三浦殿、早いな」
『河豚善』の外で源三郎に声を掛けてきたのは、黒頭巾組の組頭・佐藤平右衛門である。
「佐藤さんこそ。今夜の警護の段取りはどうなってる?」
「前回と変わらんさ。奉行の屋敷から俺たちと黒河豚一家が警護する、ただ今回は警護の数が違う。黒河豚の親分が大勢の助っ人を手配したからな。そいつらは道々に潜んでいるから、またあの紅烏が現れても今夜はまさに袋の鼠だろうよ」
「ふーん、そうか」
すると突然、今出て来たばかりの『河豚善』から慌ただしい声が聞こえた。
勢いよく走り出て来る男が居る。見るとそれは蝮の松吉であった。
源三郎が声を掛ける。
「おい、松吉。どうした?」
「ああ、先生方。てえへんです。店の玄関にこんな物が・・矢文でござんすよ」
松吉が両手に持っていたのは紅い矢羽根の付いた矢と書状だ。
平右衛門がそれを手に取って見る。
書状には『紅烏今宵参上仕る』とだけ書かれてあった。
「矢文とはまた古風なことだな。松吉、とりあえず親分に知らせてこい」
「へい」
言うなり松吉は走り出した。
「しかし紅烏は今夜は直接こっちに来るということか?それとも何かの策かね?」
平右衛門が言う。
もちろん策である。
この矢文はつい先ほど、源三郎自らの手で玄関口に突き刺しておいたものだからだ。
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