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通い路
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序
六月に入り、薄らと大気に湿りを感じ始めた頃であった。
昼過ぎのまだ短い日光が差し込む効果の端に、人影が一つ、見えた。俯き気味であったが、顔がこちらを向いたと思った途端、さっと面する部屋へ入ったのか消えてしまった。
何だ?面倒だなぁ。そう思いながら、その人影が入っただろう部屋へ向かう。
「何をしている」
声をかけて扉を開ける。室内を見渡すが、誰も居ない。物陰に隠れているのかと机などの下や裏を見るが、やはり誰も居ない。おかしい。
そもそも、この施設内に居る様な人影ではなかった。見た人影を思い出す。
絶対におかしい。あり得ない。
背中にじっとりと汗をかいているのが分かった。あり得ないと思えば思う程、恐怖が増した。
静まり返った部屋を一瞥し、足早に去った。
1
明治三〇年六月末、ロシア留学の辞令を受け、広瀬武夫はその準備に追われていた。今まで艦隊勤務が主であった広瀬にとって、軍令部に出仕し、デスクワークなど慣れない勤務は広瀬を悩ませた。
しかし、ハンモックナンバーが下位であった広瀬にとって、海外留学のメンバーに選ばれる事は大変嬉しく名誉な事でもあった。なので、多少の苦痛な作業などは我慢し、気合を入れて取り組んでいる。
そんな広瀬に、最近ではもう一つ、悩みが増えた。
なんとこの海軍省の建物内で幽霊が現れるというのだ。
六月に入ってから何人もの目撃者が出ている。大の男が、揃って「恐ろしい」と怯えたというではないか。
「誰かを幽霊に見間違えたんではありませんか」
広瀬は信じていなかった。目撃者の一人に問うと、見間違えるはずがない、と答えた。
「見間違えるものか。だって、あれは女だったぞ。女と男の軍人を見間違えるはずがない」
「女ですか?」
驚いた。
そして、また疑問が生まれた。
何故、女の幽霊なんだ?この男所帯で婦女子の出入りが無い海軍省の建物に、何の因縁があって女の幽霊が出没するというのだ。理由がさっぱり分からない。
やはり何かの見間違えではないか。例えば、細身の男の影と別の何かの影が重なって女の様な影に見えてしまったとか…
目撃者は、見てない奴にこの怖さは分からんだろうよ、と言って帰った。
そりゃそうだろう、と思った。
夕方が近くなり、広瀬は書類などの片付け始めた。自分には肉体労働の方が向いているな、毎日思う。
突然、叫び声がした。勿論、男の声である。
何事かと広瀬を含め部屋に残っていた数人が廊下へ出る。どうやら隣の部屋から聞こえた様だ。どうした、と声をかけて覗くと、一人の若い士官が顔を青くしている。
「出ました……」
「何が出た」
「女です。幽霊、女の幽霊です」
そんなまさか——しかし、士官の表情や声の震えは嘘を吐いている様には思えなかった。本当に見てはいけないものを見てしまい、恐怖している、余裕の無さが見える。
「その女はどこに居た?」
若い士官が指を差す。
「今、広瀬大尉が立たれている、直ぐ横です」
広瀬と一緒に様子を見に来た数名が、少し広瀬から距離を取った。
広瀬の右隣、出入り口の扉の曇り硝子から、胸から上が見えたという。ほぼ影の様で、表情などは分からなかったが、部屋の中を窺う様な雰囲気であった、と語った。
人の気配も感じなければ、足音さえも聞こえなかった。軍令部の人間ならば、革靴の音がするだろうし、黙って出入り口から覗く事もないだろう。
これは、本当に幽霊が居るのかもしれない。広瀬は少し信じ始めた。
2
七月に入り、広瀬の送別会が催された。
この送別会は、同じく留学する広瀬の兄・勝比古と合同で、また旧岡藩(大分県竹田市)出身者の親睦会も兼ねて開かれたものである。広瀬は十一日に出発予定だったのだが、前日に二十六日出発に変更になった。勝比古は、十日にイギリスへ出発予定である。
兄弟共に激励を受けた。故郷を思う懐かしい顔触れの集まり。話し言葉に混じるお国言葉が、幼少期を思い起こさせた。食事がより一層美味く感じた。
皆酒も進み、各々和やかに会話をしている。
広瀬も、勝比古とゆっくり座って話すのは久々だった。家族の事、姪の成長の事、柔道、漢詩……話が弾む。
勝比古が思い出したと膝を叩いた。
「ここ最近、軍令部で出るらしいな」
例の幽霊の話である。噂話は当然勝比古の耳にも入っていた。
「そうなんです。俺の周りに見たという人が居て、にわかには信じられないのですが……」
「同じ人でなく何人もが目撃しているのなら、ただの見間違えという訳では無いだろうなぁ」
「俺もそう思ってはいるのですが、何故女の幽霊なんでしょう?軍の建物ですから、男なら分かるのです。例えば、先の戦争で志半ばで戦死した将校とか」
広瀬の言葉に、勝比古はうーん、と考える。
「場所ではなく、人に曰くがあるんじゃないか」
「人、ですか」
なるほど、それなら合点がいく。
海軍省、軍令部に出入りしている誰かが、女に酷く当たって辛い思いをさせたんじゃないか。それを苦に自死した女が、相手の男を探してるのかもしれん。勝比古の推理はなかなか的を射ていた。
もしその推理が当たっていたら、該当者にはそれ相応の責任を負ってもらわねばならない。女の親兄弟にもだが、恐怖という精神的苦痛を与えられた軍令部の人間全員にもだ。
「けしからんですな」
「全く外れている事を願うよ」
七夕。送別会兼懇親会から一週間。
広瀬は財部彪と共に講道館に来ていた。財部はイギリスへ留学する。
この二人の激励と記念撮影の為に、講道館に通う面々が集まっていた。広瀬と財部は軍服、他の面々は紋付袴であったり洋装であったり、様々だった。二人の柔道の師、嘉納治五郎を真ん中に、写真撮影は終わった。
広瀬は財部に幽霊の話を振ってみた。
「軍令部に女の幽霊が出る理由、何か知らんか」
「知らん。知ってたら何かしらの対策打っとるわ」
そりゃそうだ。
「大方、どこぞの誰かが泣かした女だろう」
勝比古の推理の話はしなかったのだが、財部も似た推理をしている様だった。ふーん、と感心していると、お前だけではない事は確かだな、と笑われた。
3
十日。勝比古がイギリスへ向かった。
この約一週間の内に、二度、例の女の幽霊が目撃されていた。
これまでの目撃場所は様々。廊下の端、窓辺、部屋の出入り口、倉庫の前等々である。現れる時間も昼前から夕方とばらつきがある。
(やはり誰かを探しているのか?)
建物に曰くがあるならば、決まった場所に出そうなものである。しかし、場所に拘りがないのであれば、人に曰くがある、という推理が当たっているのだろう。
広瀬は考え事をしつつ海軍省へ向い、歩いていた。
前方から女学生が三人、歩いてくるのが見えた。何やら楽しそうにお喋りをしている。と、一人が真面目な顔になって、続けて二人も真面目な顔になった。広瀬との距離が近付いたので、会話の内容が聞こえてきた。
「みーちゃん、大丈夫かしら?」
「入院したって、心配だわ」
どうやら、入院してしまった級友か友人を気に掛けているらしい。三人とも心配そうな、不安そうな顔をしている。
いよいよ広瀬と女学生達の距離が目前に迫った時、女学生達がごきげんよう、と挨拶し、会釈をした。広瀬も会釈で返す。完全にすれ違った事を確認すると、女学生達はまたお喋りを再開した。
「お見舞いに行っても大丈夫かしら」
「果物なら何が食べられるかしら。おばさまに聞いてみましょ」
「お見舞いに行く前に神様にもお参りして行きましょうよ」
「そうね。それが良いわ」
どれも入院している女子を思っての言葉だった。女子の友情も良いものだな、と微笑ましく思いながら、広瀬は歩みを進めた。
軍令部で仕事を終わらせて、帰り支度を始める。
既に十七時を回っていたが、外はまだまだ明るかった。夏の日差しに焼かれた土の匂いがする。少ない手荷物をまとめて、広瀬は外へ出た。
外はじんわりと昼間の暑さが残っている。微風も、生温い。
門の方へ向かおうと歩き始めた時、
「もし」
背後から声をかけられた。
振り向くと、若い女が一人、立っていた。
まだ少女である。広瀬の鳩尾程しかない背丈。小綺麗な着物に藤色の袴。桜色の髪のリボンがよく似合っている。格好からして女学生の様だ。小さな手を体の前で軽く組んで、俯きがちに立つその姿は何とも儚げである。
どうされました、と広瀬が問う。
「あの、実は……」
少女の声はとてもか細く、消えてしまいそうであった。
「実は、父からの頼まれ事で来たのですが……その……」
俯いたままの少女がチラリと広瀬を見、また俯く。さらりと喋れないのは、内向的な性格なのか、大人の男で軍人と話す機会がない為緊張しているからだろうか。
「その……、迷って、しまいまして」
「それは心細かったでしょう。お父上の所に案内しますよ。お父上のお名前は何といいますか」
少女はまたも俯いたままである。
微風が木の葉を鳴らす。サワサワ、サワサワ。その音だけが聞こえていた。
少女の口が薄らと開いた様に見えたその時、ごうっと強い風が吹いた。木の葉が五月蝿く鳴る。砂埃が舞い、広瀬は思わず目を瞑った。
目を開けると、目の前に居たはずの少女が消えていた。目を瞑っていたのは二秒もなかった。その僅かな時間で、少女はどこへ消えたのか。
思い切り走ったとしても、建物内部に入れる程入り口が近い訳でもないし、あの小さな少女の足では無理だろう。隠れられる様な物陰も無い。それに、走り去る様な足音は全くしなかった。
(おかしいな)
そうは思ったが、もし本当にお使いで来た少女だったら、という可能性がゼロではない為、広瀬は一度仕事部屋に戻る事にした。
部屋に戻るとまだ数人残って居た。広瀬を見た一人が、忘れ物ですか、と笑って声をかける。
広瀬は先程会った少女について話した。容姿や服装についても話す。
「お父上を探している様だったんだが、誰か心当たり有るか?」
話を一通り聞いた数人の顔色が青ざめた。
一人が口を開く。
「広瀬大尉、それ、例の幽霊ですよ」
「何だと」
目撃者達が語った、幽霊の特徴とよく似ているのだそうだ。小柄で袴を履いた、リボンを結んだ女。影の様ではっきりとは見えなくても、これくらいの特徴は捉えられたという。
女学生の特徴など、大体がその様な格好になるのではないかと思った。しかし、女子の出入りが無い軍令部で、皆が皆同じ様な女学生を目撃、証言する事自体どう考えても普通ではない。それに、先程の女学生だが、突然消えた他に、お付きの者も連れずにこんな所までお使いに来るだろうか。
(おかしな事が多い。すると本当にあの子は幽霊なのか?)
広瀬が考えを巡らせ黙ってしまった所為で、残っていた数人は更に顔色を悪くした。
4
数日が経ち、財部と秋山真之と同席する機会があった。秋山はアメリカ留学の辞令を受けている。
財部がニヤリとしながら言った。
「広瀬、お前、呪われたらしいな」
「何で俺が呪われてるんだ」
意味が分からん事を言うなと諌めたのだが、財部はまだ続ける。
「知らないのか。お前、例の女の幽霊に話しかけられたそうじゃないか。目撃者の中でお前だけだぞ、話しかけられたのは」
「それが何で呪われた事になるんだ」
「父親を探している風だのに、独身で女の影もない広瀬さんが捕まったから、だよ」
秋山も参加した。軍令部内の至る所まで、この噂が広がっているのだそうだ。益々下らん、と一笑に付した。
しかし、今まで姿を現すだけで話しかける事などしなかった幽霊が、会話までしたというのは、よっぽど強い思いが有るのだろう、と秋山が言った。
強い思い。生き別れの父親であるとか、そう言う事だろうか。もしそうで有るなら、少し可哀想だな、と思った。何とか見つけてやりたいものだ。
同時に、他の目撃者が語った様な恐ろしさは、全く感じられなかった事を思い出す。怒りでも悲しみでもない、照れている様な困惑している様な、上手く形容し辛いが、どこにでも居る一般的な少女と何ら変わらぬ印象を受けた。他人と自分と何故こんなにも受ける印象が違うのか、不思議であった。
更に数日が経った。
翌日から京都・大阪へ陸軍の施設の視察に行く予定があった。財部と秋山と同行である。
視察から帰るとロシア留学に出発するまで日があまり空いていないので、更に忙しくなるだろうから、今夜食事に行かないか、と上官に誘われた。上官行きつけの料亭に連れて行ってくれると言うので、喜んで受けた。
夜になり、上官の案内で料亭に入る。
女将に通された座敷は、隣の座敷と襖で仕切られていた。男達の声が少し漏れて聞こえていた。
上官が行きつけにしているだけあって、どの料理も最高に美味い。ただ、大食漢の広瀬には少し物足りない盛り付けであった。
「どうだ、一杯」
上官が酒を勧める。
広瀬は下戸である。やんわりと断るのだが、上官はお猪口を引かない。
「ロシアに行ったら次はいつこうして食事を共に出来るか分からんのだ。一杯くらい付き合ってくれんか。それに、厄落としも兼ねて、な」
厄というのは例の幽霊に呪われたなどという下らん話の事だな、と理解した。
「貴方までそれを言いますか。分かりました。一杯だけですよ」
広瀬は上官の手からお猪口を受け取る。上官は、よしよし、と呟いて酒を注いだ。意を決して波波注がれたお猪口に口を付け、ぐいと流し込む。かぁ、と喉が熱くなるのを感じた。鼻から抜ける酒の匂いが、何とも言えない不快感を与える。
暫くして、上官が厠へ行き、座敷に広瀬一人になった。
酒を飲んでから、体が火照ってしまい、熱くて熱くて仕方がなかった。しかし、上官の手前、シャツを寛げたりだらし無い格好は憚られた。今は一人。シャツを少し寛げ、障子と窓を開け、窓枠に体をもたれ掛けて涼む。夜風が気持ち良い。
部屋に一人になると、隣室の会話が聞こえ始めた。隣室の客も酒が進んで上機嫌になって、声が大きくなってしまっているのも原因かもしれない。
「美代ちゃん、今回は危ないらしいぞ」
その言葉に、隣室で次々と感嘆の声が上がった。
「入院してひと月以上経つだろう。芳しくない様だよ」
「何回目の入院になるんだ」
「さぁ。でも、幼い頃から病弱だと聞くし、片手では足りんだろうなぁ」
声は少し小さくなったが、それでもハッキリと聞こえる。男達は、どこかの婦女子の不調を嘆いている。
そう言えば、と一人の男が声を上げる。
「美代ちゃんの想い人は結局誰なんだ」
「分からん。何だったか、助けてくれた人だって?その時にあのリボンを褒められたんだろ」
「それから毎日付けているって、奥さんが言ってたってよ。美代ちゃん、お気に入りだったんだなぁ、桜色のリボン」
ハッとした。
桜色のリボン。覚えがある。軍令部で忽然と消えた女学生が付けていた。
そして、名前である。美代ちゃん。先日、道ですれ違った女学生達が話していた、みーちゃん。美代ちゃん、みーちゃん……
桜色のリボン。美代ちゃん。みーちゃん。入院。助けてくれた人。褒められたリボン。
点と点が線で繋がった。
(少女が探しているのは、俺だ——)
5
五月中旬の事だった。
昼下がり、所用を終えた広瀬は、軍令部へ向かっていた。晴れて気持ちの良い天気だったので、散歩を兼ねてゆっくり歩いていた。
前方に袴姿の女子が立っているのが見えた。誰かと待ち合わせでもしているのだろうかと思ったが、どうにも様子がおかしい。少女との距離が少し縮まると、その先に何かが居るのが見えた。
犬であった。柴犬をひと回り大きくしたくらいの、茶色の犬だった。犬は少女を見据え、威嚇する訳でもなく媚びる訳でもなく、どっしりと立っていた。
この犬の所為で、少女は立ち往生していたのだ。
「どうしましたか」
広瀬は、静かに少女に問いかけた。少女はびくりと小さく肩を震わした。
小柄で華奢な少女だった。広瀬は大柄な方だが、それを抜きにしても小さいと思った。この小柄な少女は、よっぽど目の前の犬が怖いのだろう。犬から殆ど視線を外さず、チラリチラリと広瀬を見遣るだけで、口から漏れる小さな音は言葉になっていなかった。
犬は相変わらず少女を見据えている。首輪や綱を付けていないし、薄汚れているから野良犬らしかった。
大丈夫ですよ。と言い、犬を追い払おうと一歩前に踏み出した。
すると、大きな男が近付いた事に何かを感じた犬が、ウオンッと吠えた。
広瀬の横で、驚いた少女が短い悲鳴を上げてよろめいた。あっ、と慌てて抱き留めた。犬は走り去って行った。
「すみません。驚かせてしまいましたね」
少女が、いえ……と小さく答えて、髪を耳に掛ける様な仕草をした。その右手の甲に、細く血が垂れていた。よろめいた際、横にある生垣で引っ掻いてしまった様だった。
「これはいけない」
広瀬がその手を取ろうとすると、少女がスッと手を引いた。
俯いて頬を赤くした少女が、小さな声で、このくらい平気です、と答えた。慌てているのか混乱しているのか、
「もしもの時は、このリボンを包帯にでも出来ますから……」
突拍子もない事を口走った。
広瀬は、少女の髪に結ばれたリボンを見た。
「いけません」
しっかと少女の手首を掴み、ポケットからハンカチーフを取り出した。慣れた手つきで少女の手にそれを巻いていく。
「そんな綺麗なリボンを包帯に使うなんて、バチが当たりますよ。よく似合ってますのに。大事にしなさい」
ハンカチーフを巻き終え、これで大丈夫、とはにかんだ。
少女の頬がさっきよりも赤くなっている事に、広瀬は気付いていなかった。
では、これで……と広瀬が再び歩き始めると、少女が小さな声のままだが慌てた声を出した。
「あの、これは……」
手に巻かれたハンカチーフの事を言っていた。
「今朝下ろしたばかりで汚れてなどいませんから、安心なさい。お家に帰ったら雑巾にでも仕立て直すと良いです」
今度こそ、それではと片手を上げて挨拶代わりに、広瀬は歩みを進めた。
少女は、広瀬の姿が見えなくなるまで、ぼんやり立って見送っていたのであった。
6
広瀬は文字通り頭を抱えていた。
昨夜からずっと、少女について考えていたのである。ろくに眠らずあれこれ考えたが、答えは出なかった。一体、あの少女は俺に会って何を伝えたいのだろう。何をしたいのだろう。広瀬は女心が分からなかった。
頭を抱え、難しい顔をして京都へ向かう列車から景色を望む広瀬を、同行している秋山は訝しんだ。
「何かあったのか」
呆れた雰囲気で秋山が問うた。
広瀬と秋山は同い年で、海軍に入った年は違えど、共に柔道を嗜み、姪を溺愛してるという共通点もある。今年は一時期だが同居していた事もあった。
秋山は頭が良い。彼なら何かの方法で答えを導き出せるのではないか。今の広瀬に余裕は無かった。
「例の幽霊の事でな」
「また出たのか」
「いや、ちょっと思うところがあって……」
どう説明すべきか考え、沈黙が生まれる。秋山は急かす事はせず、小袋から煎り豆を取り出し、ポリポリと食べて待った。
ここで広瀬はある事に気付く。
道ですれ違った女学生達も、料亭の隣室に居た男達も、少女は入院したと話していた。誰も亡くなったなどとは言っていない。つまり、少女はまだ生きている。
生きているのに何故幽霊になっているんだ。
「人は死んでいなくても幽霊として現れる事は可能なのか」
秋山は少々面食らった。
「生きているのに幽霊になるってのは、それだけ思いが強いという事じゃないかな。呪いや願掛けだってそうだ
「確かにそうだな」
「その少女はきっと晴らしたい無念があるんだよ」
納得した。
少女は病気で入院中だというから、自由に動く事も儘ならないかもしれない。無念は確実にあるだろう。
その無念は、広瀬と出会った五月のあの日の出来事に答えとしてあるはずだ。しかし、思い返してもまだまだ答えには辿り着けそうにもなかった。やはり広瀬に女心は分からない。
また頭を抱えて黙った広瀬を見ながら、秋山は豆を無遠慮に食べた。
京都の陸軍の施設の視察はつつが無く終わった。明日は大阪である。
当たり前だが、視察中は少女についての悩みは考える事は無かった。宿泊先でひとっ風呂浴びて、布団に寝転んで、再び考え込む。
(そもそも名前すらよく知らん)
みーちゃん、美代ちゃんと呼ばれているのは分かっているが、正しい名前は不明である。美代なのか、美代子なのか。
何という名字で、どこに住んでいるのか。何という病院に、いつから入院しているのか。分からない事ばかりである。
そうだっ。広瀬は思いつき、布団から起き上がる。鞄から帳面と筆記具を取り出し、文机に向かう。
兄の妻・春江に調査を頼むため、文をしたためる事にしたのだ。女性特有の情報網の広さに頼って、少女の情報を少しでも得ようと考えた。
(何とか頼みます、春江さん)
神頼みに近かった。
7
二十六日に予定されていたロシアへの出発予定は、八月八日に変更された。
幸か不幸か、少女について調べる日数に少しだが余裕が出来た。
東京に戻った広瀬は、必須の仕事を終わらせると急いで兄宅へと向かった。
兄宅では夕ご飯の準備中の春江と、お人形遊びに興じている姪・馨子が居た。広瀬の大きな挨拶と姿を確認した馨子が、にこにこと無邪気に駆け寄る。それを抱き上げてあやす。
台所から春江が顔を出し、いらっしゃいと声をかけた。
「飯時にすみません」
「武夫さんもご一緒に如何。馨子も喜びますから」
春江は微笑んでそう言った。馨子も上がって、上がって、と袖を引っ張り、催促する。迷惑でなければ、と言葉に甘える事にした。
夕飯をご馳走になった広瀬は、茶も貰いながら、例の頼み事について聞いた。
「それが、どうもこの地域の子ではない様で、結局何も分からなかったの」
春江は心底申し訳なさそうに、力になれなくてごめんなさいね、と謝った。
広瀬も謝った。無茶な頼みをしたのはこちらなのだから。
春江が無邪気に遊ぶ馨子を見ながら、元気になると良いわね、とポツリと言った。
8
何も進展が無いまま八月に入った。
強い日差しが肌を焼き、蝉も一層激しく鳴いている。
また何度も少女の霊は目撃されていた。最初に少女の幽霊が目撃されたのは、確か六月だった。梅雨から真夏、季節は変わったのに、この問題は一向に変わらない。広瀬は焦っていた。
あと一週間で日本を離れるというのに、少女が誰なのかも、晴らされぬ無念も分かっていない。もし、このままロシアに発ったら、少女は軍令部内をずっと彷徨い続ける事になるのではないだろうか。そんな可哀想な事はさせらない。
広瀬は、自分のお節介と少しの正義感がこの状況を生み出してしまった事を後悔していた。
軍令部から宿へ帰る時、建物の隅で人目につかぬ様に手を合わせ、念じる。
(お嬢さん、俺はここに居ります。どうか迷わないでください)
少女に聞こえる様に、届く様に、強く強く念じた。
こんな場面を誰かに見られたら、また変な噂が蔓延するかもしれん。広瀬は周りを確認して、足早に軍令部を後にした。
夜。日が沈んで数時間経つのに、じっとりとした暑さが残っている。
とても疲れた。広瀬は謎の倦怠感と眠気に襲われていた。ここ暫く頭を使う事ばかりだったからだろうか、疲労が蓄積されて、限界が近いのかもしれない。今夜はもう寝ようか。
広瀬は、布団に横になった途端、意識を手放していた。
気が付くと、見覚えのある道に立っていた。そうだ、あの少女と出会った道だ。
(これは夢だな)
きっと少女について考え過ぎて、夢まで見る様になってしまったのだな。
往来の真ん中で腕を組み、どうするか考える。
「もし」
呼ばれて、ハッと振り向く。
そこには、あの少女が軍令部に現れた時と同じ姿で立っていた。俯きがちなのもそのままである。
「美代さん、ですね」
少女は小さく頷いた。
そして、ゆっくりと話始める。
「大変ご迷惑をかけた事は承知ですが、私——」
チラリと広瀬を見、また視線は下に落ちる。頬は薄らと赤くなる。
「あの日、ここで親切にして頂いた事のお礼を、どうしても伝えたくて。ちゃんとお礼を言えてませんでしたから……」
どうしても自分の口できちんと伝えたかったのです。美代はそう言うと、頬の赤みを強めた。
なんと健気な少女なのだろう、と広瀬は感心した。体の状態が芳しくないと言う話だのに、礼を言うためだけに生きながら幽霊となって現れたというのか。
「ご親切に……優しくして頂いて、ありがとうございました」
美代は深くお辞儀をした。
広瀬は焦る。
「こちらこそ。もっとお嬢さんを早く思い出していれば、探して回る事も無かったでしょうに」
「私が内気だからいけないのです」
一度、軍令部で会った時、恥ずかしさのあまりつい嘘をついてしまった、と言った。子供の頃より、ハキハキと喋れない、伝えたい事がきちんと主張できない、そんな性格だったのだと。
今は、とても勇気を振り絞って話してくれているに違いない。
美代が口を開く。
「こんな事を言うと、気持ち悪いと思われるでしょうけれど……あの日より以前から、お慕いしておりました」
予想外の言葉に、広瀬は驚いた。
美代はもう俯いてはいなかった。澄んだ瞳で広瀬を真っ直ぐ見つめていた。
朝、女学校へ通学する際、幾度かこの道ですれ違っていたという。確かに、今間借りしている寺に越す前は、よくこの道を通って軍令部に通っていた。ちょうど登校する学生達とすれ違っていたのは覚えているが、まさかその内の一人が美代だったとは——
「貴方の溌剌とした姿を見ると、私まで元気になって何でもできそうな気さえしましたの」
美代が微笑んだ。十代の少女らしい笑顔だった。
こんなにも純粋で真っ直ぐな思いを受けた事がない広瀬は、照れくさかった。それを誤魔化そうと、微笑み返す。
「良かった。ちゃんと伝えられて、良かった。もう思い残す事はありません」
まるでもう死んでしまう様な言い草だった。広瀬は否定した。
「いえ、何となく分かるのです。自分の事ですから……近い内に、私の寿命は尽きます」
美代の言葉は、諦めているのではなく、覚悟している様に聞こえた。
何かできる事はありませんか。広瀬の問いに、美代は頭を振る。
「十分、救って頂きましたから」
貴方が気に病む事は一切ございませんよ。美代が微笑みながら言うと、サワサワと風が吹き始めた。夏の、湿気を含んだ生温い風だった。
さようなら。
美代が風の中を歩いて行く。桜色のリボンが揺れている。不思議と、広瀬の足は根が張った様にその場から動けなかった。
ぐるり、と世界が反転した様に視界が回った。
飛び起きる。夢から醒めたのだ。
肌着が貼り付く程汗をかいていた。と、広瀬は自分が泣いている事に気付く。
少女の無念は、広瀬への謝意と淡い恋心だった。
9
八月七日。ロシアに発つ前日になった。
美代が夢に出た日以来、軍令部での幽霊の目撃情報は絶えた。幽霊の噂を話す者の数も少しずつ減っている様に感じる。人の噂も七十五日と言うから、冬になる頃には噂を話す者も居なければ、噂自体忘れられているかもしれない。
広瀬は何とか少しでも情報を得ようと当たったのだが、収穫は全く得られなかった。もしかしたら、彼女は本当にこれ以上の関係を望んでいないのかもしれない。
病に臥っている姿を見られたくないのかもしれない、と思った。年頃の女子なら尚更そう思うだろう。
広瀬は美代の捜索を諦める事にした。代わりに、間借りしている寺の住職に、もしも美代と言う名前の少女が亡くなった様な話を耳にしたら、経を読んでくれないか、と願った。
翌八日。
横浜から出港。これから暫くの船旅である。
ロシアではどんな日々が待っているであろうか。文化、風土、人。見聞を広げ、水雷の研究も進めて、人としても軍人としても成長して日本に戻ろう。
困難な事もあるだろうが、美代の勇気を見習って臨もう。
広瀬はそう決心した。
陽の光を反射した水面が眩しく、綺麗だった。
終
六月に入り、薄らと大気に湿りを感じ始めた頃であった。
昼過ぎのまだ短い日光が差し込む効果の端に、人影が一つ、見えた。俯き気味であったが、顔がこちらを向いたと思った途端、さっと面する部屋へ入ったのか消えてしまった。
何だ?面倒だなぁ。そう思いながら、その人影が入っただろう部屋へ向かう。
「何をしている」
声をかけて扉を開ける。室内を見渡すが、誰も居ない。物陰に隠れているのかと机などの下や裏を見るが、やはり誰も居ない。おかしい。
そもそも、この施設内に居る様な人影ではなかった。見た人影を思い出す。
絶対におかしい。あり得ない。
背中にじっとりと汗をかいているのが分かった。あり得ないと思えば思う程、恐怖が増した。
静まり返った部屋を一瞥し、足早に去った。
1
明治三〇年六月末、ロシア留学の辞令を受け、広瀬武夫はその準備に追われていた。今まで艦隊勤務が主であった広瀬にとって、軍令部に出仕し、デスクワークなど慣れない勤務は広瀬を悩ませた。
しかし、ハンモックナンバーが下位であった広瀬にとって、海外留学のメンバーに選ばれる事は大変嬉しく名誉な事でもあった。なので、多少の苦痛な作業などは我慢し、気合を入れて取り組んでいる。
そんな広瀬に、最近ではもう一つ、悩みが増えた。
なんとこの海軍省の建物内で幽霊が現れるというのだ。
六月に入ってから何人もの目撃者が出ている。大の男が、揃って「恐ろしい」と怯えたというではないか。
「誰かを幽霊に見間違えたんではありませんか」
広瀬は信じていなかった。目撃者の一人に問うと、見間違えるはずがない、と答えた。
「見間違えるものか。だって、あれは女だったぞ。女と男の軍人を見間違えるはずがない」
「女ですか?」
驚いた。
そして、また疑問が生まれた。
何故、女の幽霊なんだ?この男所帯で婦女子の出入りが無い海軍省の建物に、何の因縁があって女の幽霊が出没するというのだ。理由がさっぱり分からない。
やはり何かの見間違えではないか。例えば、細身の男の影と別の何かの影が重なって女の様な影に見えてしまったとか…
目撃者は、見てない奴にこの怖さは分からんだろうよ、と言って帰った。
そりゃそうだろう、と思った。
夕方が近くなり、広瀬は書類などの片付け始めた。自分には肉体労働の方が向いているな、毎日思う。
突然、叫び声がした。勿論、男の声である。
何事かと広瀬を含め部屋に残っていた数人が廊下へ出る。どうやら隣の部屋から聞こえた様だ。どうした、と声をかけて覗くと、一人の若い士官が顔を青くしている。
「出ました……」
「何が出た」
「女です。幽霊、女の幽霊です」
そんなまさか——しかし、士官の表情や声の震えは嘘を吐いている様には思えなかった。本当に見てはいけないものを見てしまい、恐怖している、余裕の無さが見える。
「その女はどこに居た?」
若い士官が指を差す。
「今、広瀬大尉が立たれている、直ぐ横です」
広瀬と一緒に様子を見に来た数名が、少し広瀬から距離を取った。
広瀬の右隣、出入り口の扉の曇り硝子から、胸から上が見えたという。ほぼ影の様で、表情などは分からなかったが、部屋の中を窺う様な雰囲気であった、と語った。
人の気配も感じなければ、足音さえも聞こえなかった。軍令部の人間ならば、革靴の音がするだろうし、黙って出入り口から覗く事もないだろう。
これは、本当に幽霊が居るのかもしれない。広瀬は少し信じ始めた。
2
七月に入り、広瀬の送別会が催された。
この送別会は、同じく留学する広瀬の兄・勝比古と合同で、また旧岡藩(大分県竹田市)出身者の親睦会も兼ねて開かれたものである。広瀬は十一日に出発予定だったのだが、前日に二十六日出発に変更になった。勝比古は、十日にイギリスへ出発予定である。
兄弟共に激励を受けた。故郷を思う懐かしい顔触れの集まり。話し言葉に混じるお国言葉が、幼少期を思い起こさせた。食事がより一層美味く感じた。
皆酒も進み、各々和やかに会話をしている。
広瀬も、勝比古とゆっくり座って話すのは久々だった。家族の事、姪の成長の事、柔道、漢詩……話が弾む。
勝比古が思い出したと膝を叩いた。
「ここ最近、軍令部で出るらしいな」
例の幽霊の話である。噂話は当然勝比古の耳にも入っていた。
「そうなんです。俺の周りに見たという人が居て、にわかには信じられないのですが……」
「同じ人でなく何人もが目撃しているのなら、ただの見間違えという訳では無いだろうなぁ」
「俺もそう思ってはいるのですが、何故女の幽霊なんでしょう?軍の建物ですから、男なら分かるのです。例えば、先の戦争で志半ばで戦死した将校とか」
広瀬の言葉に、勝比古はうーん、と考える。
「場所ではなく、人に曰くがあるんじゃないか」
「人、ですか」
なるほど、それなら合点がいく。
海軍省、軍令部に出入りしている誰かが、女に酷く当たって辛い思いをさせたんじゃないか。それを苦に自死した女が、相手の男を探してるのかもしれん。勝比古の推理はなかなか的を射ていた。
もしその推理が当たっていたら、該当者にはそれ相応の責任を負ってもらわねばならない。女の親兄弟にもだが、恐怖という精神的苦痛を与えられた軍令部の人間全員にもだ。
「けしからんですな」
「全く外れている事を願うよ」
七夕。送別会兼懇親会から一週間。
広瀬は財部彪と共に講道館に来ていた。財部はイギリスへ留学する。
この二人の激励と記念撮影の為に、講道館に通う面々が集まっていた。広瀬と財部は軍服、他の面々は紋付袴であったり洋装であったり、様々だった。二人の柔道の師、嘉納治五郎を真ん中に、写真撮影は終わった。
広瀬は財部に幽霊の話を振ってみた。
「軍令部に女の幽霊が出る理由、何か知らんか」
「知らん。知ってたら何かしらの対策打っとるわ」
そりゃそうだ。
「大方、どこぞの誰かが泣かした女だろう」
勝比古の推理の話はしなかったのだが、財部も似た推理をしている様だった。ふーん、と感心していると、お前だけではない事は確かだな、と笑われた。
3
十日。勝比古がイギリスへ向かった。
この約一週間の内に、二度、例の女の幽霊が目撃されていた。
これまでの目撃場所は様々。廊下の端、窓辺、部屋の出入り口、倉庫の前等々である。現れる時間も昼前から夕方とばらつきがある。
(やはり誰かを探しているのか?)
建物に曰くがあるならば、決まった場所に出そうなものである。しかし、場所に拘りがないのであれば、人に曰くがある、という推理が当たっているのだろう。
広瀬は考え事をしつつ海軍省へ向い、歩いていた。
前方から女学生が三人、歩いてくるのが見えた。何やら楽しそうにお喋りをしている。と、一人が真面目な顔になって、続けて二人も真面目な顔になった。広瀬との距離が近付いたので、会話の内容が聞こえてきた。
「みーちゃん、大丈夫かしら?」
「入院したって、心配だわ」
どうやら、入院してしまった級友か友人を気に掛けているらしい。三人とも心配そうな、不安そうな顔をしている。
いよいよ広瀬と女学生達の距離が目前に迫った時、女学生達がごきげんよう、と挨拶し、会釈をした。広瀬も会釈で返す。完全にすれ違った事を確認すると、女学生達はまたお喋りを再開した。
「お見舞いに行っても大丈夫かしら」
「果物なら何が食べられるかしら。おばさまに聞いてみましょ」
「お見舞いに行く前に神様にもお参りして行きましょうよ」
「そうね。それが良いわ」
どれも入院している女子を思っての言葉だった。女子の友情も良いものだな、と微笑ましく思いながら、広瀬は歩みを進めた。
軍令部で仕事を終わらせて、帰り支度を始める。
既に十七時を回っていたが、外はまだまだ明るかった。夏の日差しに焼かれた土の匂いがする。少ない手荷物をまとめて、広瀬は外へ出た。
外はじんわりと昼間の暑さが残っている。微風も、生温い。
門の方へ向かおうと歩き始めた時、
「もし」
背後から声をかけられた。
振り向くと、若い女が一人、立っていた。
まだ少女である。広瀬の鳩尾程しかない背丈。小綺麗な着物に藤色の袴。桜色の髪のリボンがよく似合っている。格好からして女学生の様だ。小さな手を体の前で軽く組んで、俯きがちに立つその姿は何とも儚げである。
どうされました、と広瀬が問う。
「あの、実は……」
少女の声はとてもか細く、消えてしまいそうであった。
「実は、父からの頼まれ事で来たのですが……その……」
俯いたままの少女がチラリと広瀬を見、また俯く。さらりと喋れないのは、内向的な性格なのか、大人の男で軍人と話す機会がない為緊張しているからだろうか。
「その……、迷って、しまいまして」
「それは心細かったでしょう。お父上の所に案内しますよ。お父上のお名前は何といいますか」
少女はまたも俯いたままである。
微風が木の葉を鳴らす。サワサワ、サワサワ。その音だけが聞こえていた。
少女の口が薄らと開いた様に見えたその時、ごうっと強い風が吹いた。木の葉が五月蝿く鳴る。砂埃が舞い、広瀬は思わず目を瞑った。
目を開けると、目の前に居たはずの少女が消えていた。目を瞑っていたのは二秒もなかった。その僅かな時間で、少女はどこへ消えたのか。
思い切り走ったとしても、建物内部に入れる程入り口が近い訳でもないし、あの小さな少女の足では無理だろう。隠れられる様な物陰も無い。それに、走り去る様な足音は全くしなかった。
(おかしいな)
そうは思ったが、もし本当にお使いで来た少女だったら、という可能性がゼロではない為、広瀬は一度仕事部屋に戻る事にした。
部屋に戻るとまだ数人残って居た。広瀬を見た一人が、忘れ物ですか、と笑って声をかける。
広瀬は先程会った少女について話した。容姿や服装についても話す。
「お父上を探している様だったんだが、誰か心当たり有るか?」
話を一通り聞いた数人の顔色が青ざめた。
一人が口を開く。
「広瀬大尉、それ、例の幽霊ですよ」
「何だと」
目撃者達が語った、幽霊の特徴とよく似ているのだそうだ。小柄で袴を履いた、リボンを結んだ女。影の様ではっきりとは見えなくても、これくらいの特徴は捉えられたという。
女学生の特徴など、大体がその様な格好になるのではないかと思った。しかし、女子の出入りが無い軍令部で、皆が皆同じ様な女学生を目撃、証言する事自体どう考えても普通ではない。それに、先程の女学生だが、突然消えた他に、お付きの者も連れずにこんな所までお使いに来るだろうか。
(おかしな事が多い。すると本当にあの子は幽霊なのか?)
広瀬が考えを巡らせ黙ってしまった所為で、残っていた数人は更に顔色を悪くした。
4
数日が経ち、財部と秋山真之と同席する機会があった。秋山はアメリカ留学の辞令を受けている。
財部がニヤリとしながら言った。
「広瀬、お前、呪われたらしいな」
「何で俺が呪われてるんだ」
意味が分からん事を言うなと諌めたのだが、財部はまだ続ける。
「知らないのか。お前、例の女の幽霊に話しかけられたそうじゃないか。目撃者の中でお前だけだぞ、話しかけられたのは」
「それが何で呪われた事になるんだ」
「父親を探している風だのに、独身で女の影もない広瀬さんが捕まったから、だよ」
秋山も参加した。軍令部内の至る所まで、この噂が広がっているのだそうだ。益々下らん、と一笑に付した。
しかし、今まで姿を現すだけで話しかける事などしなかった幽霊が、会話までしたというのは、よっぽど強い思いが有るのだろう、と秋山が言った。
強い思い。生き別れの父親であるとか、そう言う事だろうか。もしそうで有るなら、少し可哀想だな、と思った。何とか見つけてやりたいものだ。
同時に、他の目撃者が語った様な恐ろしさは、全く感じられなかった事を思い出す。怒りでも悲しみでもない、照れている様な困惑している様な、上手く形容し辛いが、どこにでも居る一般的な少女と何ら変わらぬ印象を受けた。他人と自分と何故こんなにも受ける印象が違うのか、不思議であった。
更に数日が経った。
翌日から京都・大阪へ陸軍の施設の視察に行く予定があった。財部と秋山と同行である。
視察から帰るとロシア留学に出発するまで日があまり空いていないので、更に忙しくなるだろうから、今夜食事に行かないか、と上官に誘われた。上官行きつけの料亭に連れて行ってくれると言うので、喜んで受けた。
夜になり、上官の案内で料亭に入る。
女将に通された座敷は、隣の座敷と襖で仕切られていた。男達の声が少し漏れて聞こえていた。
上官が行きつけにしているだけあって、どの料理も最高に美味い。ただ、大食漢の広瀬には少し物足りない盛り付けであった。
「どうだ、一杯」
上官が酒を勧める。
広瀬は下戸である。やんわりと断るのだが、上官はお猪口を引かない。
「ロシアに行ったら次はいつこうして食事を共に出来るか分からんのだ。一杯くらい付き合ってくれんか。それに、厄落としも兼ねて、な」
厄というのは例の幽霊に呪われたなどという下らん話の事だな、と理解した。
「貴方までそれを言いますか。分かりました。一杯だけですよ」
広瀬は上官の手からお猪口を受け取る。上官は、よしよし、と呟いて酒を注いだ。意を決して波波注がれたお猪口に口を付け、ぐいと流し込む。かぁ、と喉が熱くなるのを感じた。鼻から抜ける酒の匂いが、何とも言えない不快感を与える。
暫くして、上官が厠へ行き、座敷に広瀬一人になった。
酒を飲んでから、体が火照ってしまい、熱くて熱くて仕方がなかった。しかし、上官の手前、シャツを寛げたりだらし無い格好は憚られた。今は一人。シャツを少し寛げ、障子と窓を開け、窓枠に体をもたれ掛けて涼む。夜風が気持ち良い。
部屋に一人になると、隣室の会話が聞こえ始めた。隣室の客も酒が進んで上機嫌になって、声が大きくなってしまっているのも原因かもしれない。
「美代ちゃん、今回は危ないらしいぞ」
その言葉に、隣室で次々と感嘆の声が上がった。
「入院してひと月以上経つだろう。芳しくない様だよ」
「何回目の入院になるんだ」
「さぁ。でも、幼い頃から病弱だと聞くし、片手では足りんだろうなぁ」
声は少し小さくなったが、それでもハッキリと聞こえる。男達は、どこかの婦女子の不調を嘆いている。
そう言えば、と一人の男が声を上げる。
「美代ちゃんの想い人は結局誰なんだ」
「分からん。何だったか、助けてくれた人だって?その時にあのリボンを褒められたんだろ」
「それから毎日付けているって、奥さんが言ってたってよ。美代ちゃん、お気に入りだったんだなぁ、桜色のリボン」
ハッとした。
桜色のリボン。覚えがある。軍令部で忽然と消えた女学生が付けていた。
そして、名前である。美代ちゃん。先日、道ですれ違った女学生達が話していた、みーちゃん。美代ちゃん、みーちゃん……
桜色のリボン。美代ちゃん。みーちゃん。入院。助けてくれた人。褒められたリボン。
点と点が線で繋がった。
(少女が探しているのは、俺だ——)
5
五月中旬の事だった。
昼下がり、所用を終えた広瀬は、軍令部へ向かっていた。晴れて気持ちの良い天気だったので、散歩を兼ねてゆっくり歩いていた。
前方に袴姿の女子が立っているのが見えた。誰かと待ち合わせでもしているのだろうかと思ったが、どうにも様子がおかしい。少女との距離が少し縮まると、その先に何かが居るのが見えた。
犬であった。柴犬をひと回り大きくしたくらいの、茶色の犬だった。犬は少女を見据え、威嚇する訳でもなく媚びる訳でもなく、どっしりと立っていた。
この犬の所為で、少女は立ち往生していたのだ。
「どうしましたか」
広瀬は、静かに少女に問いかけた。少女はびくりと小さく肩を震わした。
小柄で華奢な少女だった。広瀬は大柄な方だが、それを抜きにしても小さいと思った。この小柄な少女は、よっぽど目の前の犬が怖いのだろう。犬から殆ど視線を外さず、チラリチラリと広瀬を見遣るだけで、口から漏れる小さな音は言葉になっていなかった。
犬は相変わらず少女を見据えている。首輪や綱を付けていないし、薄汚れているから野良犬らしかった。
大丈夫ですよ。と言い、犬を追い払おうと一歩前に踏み出した。
すると、大きな男が近付いた事に何かを感じた犬が、ウオンッと吠えた。
広瀬の横で、驚いた少女が短い悲鳴を上げてよろめいた。あっ、と慌てて抱き留めた。犬は走り去って行った。
「すみません。驚かせてしまいましたね」
少女が、いえ……と小さく答えて、髪を耳に掛ける様な仕草をした。その右手の甲に、細く血が垂れていた。よろめいた際、横にある生垣で引っ掻いてしまった様だった。
「これはいけない」
広瀬がその手を取ろうとすると、少女がスッと手を引いた。
俯いて頬を赤くした少女が、小さな声で、このくらい平気です、と答えた。慌てているのか混乱しているのか、
「もしもの時は、このリボンを包帯にでも出来ますから……」
突拍子もない事を口走った。
広瀬は、少女の髪に結ばれたリボンを見た。
「いけません」
しっかと少女の手首を掴み、ポケットからハンカチーフを取り出した。慣れた手つきで少女の手にそれを巻いていく。
「そんな綺麗なリボンを包帯に使うなんて、バチが当たりますよ。よく似合ってますのに。大事にしなさい」
ハンカチーフを巻き終え、これで大丈夫、とはにかんだ。
少女の頬がさっきよりも赤くなっている事に、広瀬は気付いていなかった。
では、これで……と広瀬が再び歩き始めると、少女が小さな声のままだが慌てた声を出した。
「あの、これは……」
手に巻かれたハンカチーフの事を言っていた。
「今朝下ろしたばかりで汚れてなどいませんから、安心なさい。お家に帰ったら雑巾にでも仕立て直すと良いです」
今度こそ、それではと片手を上げて挨拶代わりに、広瀬は歩みを進めた。
少女は、広瀬の姿が見えなくなるまで、ぼんやり立って見送っていたのであった。
6
広瀬は文字通り頭を抱えていた。
昨夜からずっと、少女について考えていたのである。ろくに眠らずあれこれ考えたが、答えは出なかった。一体、あの少女は俺に会って何を伝えたいのだろう。何をしたいのだろう。広瀬は女心が分からなかった。
頭を抱え、難しい顔をして京都へ向かう列車から景色を望む広瀬を、同行している秋山は訝しんだ。
「何かあったのか」
呆れた雰囲気で秋山が問うた。
広瀬と秋山は同い年で、海軍に入った年は違えど、共に柔道を嗜み、姪を溺愛してるという共通点もある。今年は一時期だが同居していた事もあった。
秋山は頭が良い。彼なら何かの方法で答えを導き出せるのではないか。今の広瀬に余裕は無かった。
「例の幽霊の事でな」
「また出たのか」
「いや、ちょっと思うところがあって……」
どう説明すべきか考え、沈黙が生まれる。秋山は急かす事はせず、小袋から煎り豆を取り出し、ポリポリと食べて待った。
ここで広瀬はある事に気付く。
道ですれ違った女学生達も、料亭の隣室に居た男達も、少女は入院したと話していた。誰も亡くなったなどとは言っていない。つまり、少女はまだ生きている。
生きているのに何故幽霊になっているんだ。
「人は死んでいなくても幽霊として現れる事は可能なのか」
秋山は少々面食らった。
「生きているのに幽霊になるってのは、それだけ思いが強いという事じゃないかな。呪いや願掛けだってそうだ
「確かにそうだな」
「その少女はきっと晴らしたい無念があるんだよ」
納得した。
少女は病気で入院中だというから、自由に動く事も儘ならないかもしれない。無念は確実にあるだろう。
その無念は、広瀬と出会った五月のあの日の出来事に答えとしてあるはずだ。しかし、思い返してもまだまだ答えには辿り着けそうにもなかった。やはり広瀬に女心は分からない。
また頭を抱えて黙った広瀬を見ながら、秋山は豆を無遠慮に食べた。
京都の陸軍の施設の視察はつつが無く終わった。明日は大阪である。
当たり前だが、視察中は少女についての悩みは考える事は無かった。宿泊先でひとっ風呂浴びて、布団に寝転んで、再び考え込む。
(そもそも名前すらよく知らん)
みーちゃん、美代ちゃんと呼ばれているのは分かっているが、正しい名前は不明である。美代なのか、美代子なのか。
何という名字で、どこに住んでいるのか。何という病院に、いつから入院しているのか。分からない事ばかりである。
そうだっ。広瀬は思いつき、布団から起き上がる。鞄から帳面と筆記具を取り出し、文机に向かう。
兄の妻・春江に調査を頼むため、文をしたためる事にしたのだ。女性特有の情報網の広さに頼って、少女の情報を少しでも得ようと考えた。
(何とか頼みます、春江さん)
神頼みに近かった。
7
二十六日に予定されていたロシアへの出発予定は、八月八日に変更された。
幸か不幸か、少女について調べる日数に少しだが余裕が出来た。
東京に戻った広瀬は、必須の仕事を終わらせると急いで兄宅へと向かった。
兄宅では夕ご飯の準備中の春江と、お人形遊びに興じている姪・馨子が居た。広瀬の大きな挨拶と姿を確認した馨子が、にこにこと無邪気に駆け寄る。それを抱き上げてあやす。
台所から春江が顔を出し、いらっしゃいと声をかけた。
「飯時にすみません」
「武夫さんもご一緒に如何。馨子も喜びますから」
春江は微笑んでそう言った。馨子も上がって、上がって、と袖を引っ張り、催促する。迷惑でなければ、と言葉に甘える事にした。
夕飯をご馳走になった広瀬は、茶も貰いながら、例の頼み事について聞いた。
「それが、どうもこの地域の子ではない様で、結局何も分からなかったの」
春江は心底申し訳なさそうに、力になれなくてごめんなさいね、と謝った。
広瀬も謝った。無茶な頼みをしたのはこちらなのだから。
春江が無邪気に遊ぶ馨子を見ながら、元気になると良いわね、とポツリと言った。
8
何も進展が無いまま八月に入った。
強い日差しが肌を焼き、蝉も一層激しく鳴いている。
また何度も少女の霊は目撃されていた。最初に少女の幽霊が目撃されたのは、確か六月だった。梅雨から真夏、季節は変わったのに、この問題は一向に変わらない。広瀬は焦っていた。
あと一週間で日本を離れるというのに、少女が誰なのかも、晴らされぬ無念も分かっていない。もし、このままロシアに発ったら、少女は軍令部内をずっと彷徨い続ける事になるのではないだろうか。そんな可哀想な事はさせらない。
広瀬は、自分のお節介と少しの正義感がこの状況を生み出してしまった事を後悔していた。
軍令部から宿へ帰る時、建物の隅で人目につかぬ様に手を合わせ、念じる。
(お嬢さん、俺はここに居ります。どうか迷わないでください)
少女に聞こえる様に、届く様に、強く強く念じた。
こんな場面を誰かに見られたら、また変な噂が蔓延するかもしれん。広瀬は周りを確認して、足早に軍令部を後にした。
夜。日が沈んで数時間経つのに、じっとりとした暑さが残っている。
とても疲れた。広瀬は謎の倦怠感と眠気に襲われていた。ここ暫く頭を使う事ばかりだったからだろうか、疲労が蓄積されて、限界が近いのかもしれない。今夜はもう寝ようか。
広瀬は、布団に横になった途端、意識を手放していた。
気が付くと、見覚えのある道に立っていた。そうだ、あの少女と出会った道だ。
(これは夢だな)
きっと少女について考え過ぎて、夢まで見る様になってしまったのだな。
往来の真ん中で腕を組み、どうするか考える。
「もし」
呼ばれて、ハッと振り向く。
そこには、あの少女が軍令部に現れた時と同じ姿で立っていた。俯きがちなのもそのままである。
「美代さん、ですね」
少女は小さく頷いた。
そして、ゆっくりと話始める。
「大変ご迷惑をかけた事は承知ですが、私——」
チラリと広瀬を見、また視線は下に落ちる。頬は薄らと赤くなる。
「あの日、ここで親切にして頂いた事のお礼を、どうしても伝えたくて。ちゃんとお礼を言えてませんでしたから……」
どうしても自分の口できちんと伝えたかったのです。美代はそう言うと、頬の赤みを強めた。
なんと健気な少女なのだろう、と広瀬は感心した。体の状態が芳しくないと言う話だのに、礼を言うためだけに生きながら幽霊となって現れたというのか。
「ご親切に……優しくして頂いて、ありがとうございました」
美代は深くお辞儀をした。
広瀬は焦る。
「こちらこそ。もっとお嬢さんを早く思い出していれば、探して回る事も無かったでしょうに」
「私が内気だからいけないのです」
一度、軍令部で会った時、恥ずかしさのあまりつい嘘をついてしまった、と言った。子供の頃より、ハキハキと喋れない、伝えたい事がきちんと主張できない、そんな性格だったのだと。
今は、とても勇気を振り絞って話してくれているに違いない。
美代が口を開く。
「こんな事を言うと、気持ち悪いと思われるでしょうけれど……あの日より以前から、お慕いしておりました」
予想外の言葉に、広瀬は驚いた。
美代はもう俯いてはいなかった。澄んだ瞳で広瀬を真っ直ぐ見つめていた。
朝、女学校へ通学する際、幾度かこの道ですれ違っていたという。確かに、今間借りしている寺に越す前は、よくこの道を通って軍令部に通っていた。ちょうど登校する学生達とすれ違っていたのは覚えているが、まさかその内の一人が美代だったとは——
「貴方の溌剌とした姿を見ると、私まで元気になって何でもできそうな気さえしましたの」
美代が微笑んだ。十代の少女らしい笑顔だった。
こんなにも純粋で真っ直ぐな思いを受けた事がない広瀬は、照れくさかった。それを誤魔化そうと、微笑み返す。
「良かった。ちゃんと伝えられて、良かった。もう思い残す事はありません」
まるでもう死んでしまう様な言い草だった。広瀬は否定した。
「いえ、何となく分かるのです。自分の事ですから……近い内に、私の寿命は尽きます」
美代の言葉は、諦めているのではなく、覚悟している様に聞こえた。
何かできる事はありませんか。広瀬の問いに、美代は頭を振る。
「十分、救って頂きましたから」
貴方が気に病む事は一切ございませんよ。美代が微笑みながら言うと、サワサワと風が吹き始めた。夏の、湿気を含んだ生温い風だった。
さようなら。
美代が風の中を歩いて行く。桜色のリボンが揺れている。不思議と、広瀬の足は根が張った様にその場から動けなかった。
ぐるり、と世界が反転した様に視界が回った。
飛び起きる。夢から醒めたのだ。
肌着が貼り付く程汗をかいていた。と、広瀬は自分が泣いている事に気付く。
少女の無念は、広瀬への謝意と淡い恋心だった。
9
八月七日。ロシアに発つ前日になった。
美代が夢に出た日以来、軍令部での幽霊の目撃情報は絶えた。幽霊の噂を話す者の数も少しずつ減っている様に感じる。人の噂も七十五日と言うから、冬になる頃には噂を話す者も居なければ、噂自体忘れられているかもしれない。
広瀬は何とか少しでも情報を得ようと当たったのだが、収穫は全く得られなかった。もしかしたら、彼女は本当にこれ以上の関係を望んでいないのかもしれない。
病に臥っている姿を見られたくないのかもしれない、と思った。年頃の女子なら尚更そう思うだろう。
広瀬は美代の捜索を諦める事にした。代わりに、間借りしている寺の住職に、もしも美代と言う名前の少女が亡くなった様な話を耳にしたら、経を読んでくれないか、と願った。
翌八日。
横浜から出港。これから暫くの船旅である。
ロシアではどんな日々が待っているであろうか。文化、風土、人。見聞を広げ、水雷の研究も進めて、人としても軍人としても成長して日本に戻ろう。
困難な事もあるだろうが、美代の勇気を見習って臨もう。
広瀬はそう決心した。
陽の光を反射した水面が眩しく、綺麗だった。
終
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彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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