木漏れ日は暖まるには弱過ぎる

パンデモニウムのシン

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スカヴェンジャー ──木漏れ日は暖まるには弱過ぎる── ①前編

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『木漏れ日は暖まるには弱過ぎる』





 スカヴェンジャーは眠らない。
 血と死肉の匂いに惹かれて無知蒙昧にただただ生きる為に歩いていた。
 いつだってスカヴェンジャーは屑を拾い、死肉を漁る。
 いつだってスカヴェンジャーはみんなの嫌われ者。
 そりゃあそうさ。
 自分の手は汚さずにいつだって横から掻っ攫うだけだから。
 ハイエナ野郎──もしくは人は俺をスカヴェンジャーと呼ぶ。




「あー月なんて大嫌いだ。絶対にいつか撃ち落としてやる」
 夜空に煌々と浮かぶ月に向かって指で銃をつくり、親指で照準を合わせた。
「……バンッ」
 無論落ちるわけがなく、それがどうかしたのかとでも言うように月の奴は余裕綽々で怪しく光り輝き、健在ぶりをアピールする。今は撃ち落せない。当然だ。
「なんてなーははっ」
 自嘲気味に笑った男はすぅと目を閉じた。闇と同化している男の姿を照らす月が雲に隠れてしまえば、彼の姿は全く見えなくなるだろう。
 男は感覚で辺りの気配を探る。獣の様に神経を集中させて、自分を中心としたフィールドの質と量を把握していく。
「ふぅー……」息を吐くと同時に目を開き「やっぱり間違いねー」と呟いた。
 そして──。
 合図はじとっと冷たく湿った空気に微かに混じった女性の悲鳴だった。夜気に溶け込んだそれは『そうなるであろう』と耳を澄ませていた者にしか届かぬ程に、か細く小さな悲鳴だった。
「ビンゴ」
 ニヤリと口元を釣り上げた男は民家の塀の陰から姿を現した。
 あらら、やっぱりかー俺の勘は合ったちゃうのよね。なんて思いながら指を鳴らして、シメシメといった感じで悲鳴の聞こえた家に近づいていく。
 年齢はどうみても二十代前半で、白の緩いシャツと色の浅い細めのジーンズ姿。 印象的なのは金色に染めた髪と夜空に浮かぶ月と同種のギラついた双眸だった。まるで肉食獣を思わせる程に攻撃的な目つき──別段、本人は怒っているわけでもなく単に人相が悪いだけのことだった。
「行きますかー」
 明るい調子で漏れた言葉は友人とカラオケにでも行こうかという程にお気楽な調子だった。
地上では微風だが、夜空に浮かぶグレーの雲の動きが異様に早かった。上の方では風の勢いが強いのだろう。ここもそんな感じ。周りの民家はとても静かに寝入っているのに、この家だけ動きが加速しているのだ。異質な空間、俺にはわかる。空気がやけに重たかった。しぶとく取れない鍋底の焦げつきの様なべったりとした何かが空間に纏わりついていた。
 一見は綺麗な縦長の二階建て住居でしかない。入り口にはファミリー向けの自動車と子供の三輪車。ありふれた風景だが、この空間では逆にそれが浮いていた。
 住居に入ろうと男は扉に手をかけ、キィと音を鳴らして簡単に開いた。俺なら内側から鍵をかけるが──こいつは素人の犯行か?
 そんならやりやすいってなもんよ。
 ギラついた双眸の男──宇佐木(うさき)はゆっくりと真っ暗な玄関へと入り、静かに扉を閉めた。ついでに鍵もかけた。
「……」
 シンとして無音。神経を研ぎ澄ませれば、普段は聴こえない様な冷蔵庫か何かのモーター音の様なものだけが僅かに耳に届いている。新築なのか掃除の行き届いた綺麗な家だった。整理整頓がなされ基本的には物自体が少ない廊下や部屋だった。
 宇佐木は他人の生活をこうして覗き見る機会が多くそしてその度いつも思っていた。自分とどうしてここまで違う人間、家族が存在するのだろうと。この人間達は一体どのようにして家族というものを構築し、家庭といった環境を過ごしているのか。
 知るか──宇佐木は頭を振って目の前に集中した。
 廊下の端の階段を上がり、すぐにあった扉に手をかけ中の様子を探る。
「──」
 ぬいぐるみやら子供用のおもちゃが床に置いてある。壁際のベッドからは静かな寝息が一つ。
 ここはまだ『手付かず』の状態のようだ。
 すぅと気配を殺しながら扉を閉めて、来た階段を通り過ぎてもう一つの部屋を開けた。ひゅーと風が吹いていた。窓が開け放たれて薄手のカーテンが波打つように揺れている。部屋は物置然としていて、廊下や部屋が片付いている分ここには物が大量に溢れていた。何着あるのか分からない女性物のコートや靴が綺麗に並べられ、趣味なのか男性用の高価そうな帽子がいくつも並べられていた。
 物置や衣装部屋を見ればその家庭の裕福具合が分かる。宇佐木的にはこの家はまあギリギリ合格点といったところだ。
 物置の奥の窓が夜に開けっ放しというのは、おかしい。つまりは侵入者はここから入り子供部屋を通り過ぎて一階に向かったということだろう。
 少しの違和感を感じる──正体は分からないので忘れる。
「どうすっかな」
 いつもなら──様子を伺う。先に入ったであろう輩が多人数ならやり過ごし、いなくなってから残りをいただく。もしくは住人をふん縛っていたり殺していたりするなら、隙を見て横から金品を掻っ攫っていく。成功よりも身の安全がまず第一なのは当然だ。死んでしまえば盗みを働くことも稼ぐこともできなくなってしまう。だから敵──この場合、商売敵か──が多そうなら隠れなくてはいけない。
 だって超怖ぇしー死にたくないしー。宇佐木は正直にそう思った。
 相手が一人なら鉢合わせたら合わせたで対策はある。いつもならこの様な『雰囲気』の時、宇佐木は身を隠すことに徹していた。
 『雰囲気』『勘』宇佐木はそれで生きていた。まだこの住居で見た人間は子供だけで、自分以外の侵入者がいるかどうかは現段階では分からない。
 だが空気が語っている。宇佐木にはそれが分かった。こういう時、いつもそうなのだ。首筋、特にうなじ辺りから耳の付け根にピリピリとした電気みたいなものが奔り、胃がズンと重たくなる。説明のしようのない感覚だが今がまさにそれだった。
 隠れるなら物置の服の中──。
 すべてが終わってから出る。それが最善だが、宇佐木はちらりと子供部屋に目をやった。忌々しそうに。よく見たら可愛らしい熊のプレートがかかった扉を睨みつけた。
「……ちっ」
 ゆっくりと階段を降りていく。ギッと自分の重みで階段が軋み、そんな僅かな音でも今は命取りだった。その一音だけで一階に降りたてた宇佐木は、音もなく廊下を滑るように壁づたいで奥へと進む。リビングとキッチンがあるのだろうと予想する。
 現れたのは濁りガラスが半分入った木製の扉。中は真っ暗だが奥にテレビでもついているのか、ぼうっと動く光があった。扉は取っ手を下に下げると開くタイプで、音もなく開け、中へと入ることができた。
 ────いる。
 何者かが一般家庭にしては広過ぎるリビングの中央にいるのが見えた。座り込んでいるのかソファー越しには頭しか見えないその奥では小さな音量でテレビが流れている。明かりはそれだけ。
 商売敵はどうやら一人のようである。宇佐木は自分の心臓の音が早くなるのを感じていた。もともと荒事は避けるタイプである。ここでいらぬ相手とやり合うこと自体が愚かに思える。確かにリスクを侵すことで取り分を独占することができる。だが、宇佐木の優先順位はいつも自分の命だ。
 当たり前だ、死にたくないし!
 だが時折、宇佐木はこんな風に意思とは違う行動へとでてしまう自分に腹が立った。
 ガキなんてどうでもいいじゃねぇか……。
 心と裏腹に足がゆっくりソファーへと近づいていく。
「……」
 荒い息遣いが聴こえてきた。よく見ると後ろ姿の頭が僅かに動いている。さらに近づくとその頭の向こう側、テレビの横に倒れた足が見えた。男の足。上半身は闇に消えていてよく見えないが、おそらくここの主人だろう。
 荒い息遣いはさらに激しくなる。その息遣いから男だと分かる。
 ……なるほど──と宇佐木は思い至った。
 ここの奥さん、つまりはさっきの子供の母親が犯されているのだろうと。今までこの仕事を繰り返ししてきた宇佐木はそんな光景には嫌というくらい遭遇している。だが、宇佐木はいつもそれを──ラッキー! としか思わなかった。
 なぜなら同業者は隙だらけで、今なら殺り放題である。
 今日の武器はスタンガンに彫刻刀。彫刻刀は掘るタイプのものではく、先がナイフのようになっている。軽く扱い易いのがいい、何より敵に奪われても刀身が短過ぎるのでそこまで脅威にならない。あくまで後ろからざっくりと首に刺したりするための不意打ち用の武器だった。もしも、やり合いになってしまったその時の本命はスタンガン。
 基本的には不意打ち──それを念頭に置き宇佐木は行動を確立して自分のフローを頭に思い描いた。
 ……もう一歩近づいたら右の彫刻刀を首に突き立て、左手のスタンガンも念の為に背中に圧しあてる。
 右、左……。この二秒にも満たない動作をするだけで目の前の男を殺すことができる。幸い男は行為に夢中なのかこちらには全く気がついていない。
 一歩近づき、宇佐木の心は深々と冷たくなった。人を殺す前はいつもこの感覚に陥る。なにも考えられない。考えることを放棄し、行動のみに徹することができる。
 人殺しもきっと向いてるよお前──いつだったか、ああ、あいつに言われた言葉か。
 珍しく雑念がよぎったが、やることに変わりはない。
 距離が整い彫刻刀を振り上げ──絶対に殺れる! そう確信した瞬間、宇佐木の『勘』が警笛を吹き鳴らした。同時に宇佐木は信じられないものを見て目を見開いた。
「っ……」
 倒れていたのは確かに女だった。顔が血に塗れ、腹の上の心臓の横くらいに大きな血溜まりがあり、そこに男の手が突き立てられていた。その手を上にあげ、ぬらりと光る赤いそれを男は『口』に運ぶ。
 ────。
 食っている……! 悟り、宇佐木は彫刻刀を『食事』をしている男の首筋に突き立てた。びくんっと男の体が跳ね、一秒の間も置かずに電流を流し込んだ。握る強さで電力の強弱が変わるスタンガンをフルでぶち当てた。
 暗闇が瞬間的に明滅してそのせいで目の前の男の背中がやけに大きいなということが理解できた。若干の焦げ臭さを感じてスタンガンを離し、右手の彫刻刀を抜くと大量の血が吹き出した。すぐさま男は横にばたりと倒れる。
 数秒その様子を眺めて安心したところでスタンガンをジーンズのポケットへと仕舞った。改めて女の死体を見た。
「……っ」
 宇佐木は息を飲んだ。
 なんだこれは。本当にこいつは人を食っていたのか?
 見たこともないような凄惨な殺人現場だった。
 女は仰向けに倒れて、目は開いたままだった。口からは僅かに血を流しているだけで顔こそ綺麗なものだったが、首から下はただただ赤に染め上げられ臓物が覗き、腸などが床に散乱していた。
「マジかよ……」
 思わず声が漏れた。
 いくらスカヴェンジャーと呼ばれる自分でも本当に死肉を食らったりしないと宇佐木は思った。
 スカヴェンジャーとはハイエナやジャッカルの様な肉食獣を指し、彼らは基本的に自分で狩りはせず、ライオンやチーターが狩った獲物を横から奪い取ったり、なんらかの理由で死んでしまった動物の死肉を喰らう。
 宇佐木がスカヴェンジャーと呼ばれる所以はその仕事ぶりにあった。彼は奪う。横取る。同業者、主に強盗が侵入した後にその成果を、報酬をとにかく奪っていく。
 本人曰く「楽だから」だ。
「うわー……きっついなー」
 またも思わず声が漏れてしまう。しかし、宇佐木は気を取り直して仕事に取り掛からねばならない。念のためうつ伏せに倒れている男の生死の確認と所持品などを物色するために肩を掴んでひっくり返した。
「……なっ……」
 宇佐木は心臓を鷲掴みにされかの様に息が詰まり体を硬直させた。驚愕、いや単なる恐怖という感情だった。
「こいつは……なんだ……?」
 仰向けになった男の顔は異形だった。太すぎる首の上についている顔は、よく見るとかなり大きいなと感じる。ここまで首と顔が大きな人間に会ったことがあるだろうかと宇佐木は思った。
 それよりも──なによりもだ。
 口の周りを血で赤く染めてそこから覗く犬歯が異様に鋭い。いや、そんなことよりもだ。なによりも他のどこよりも目につくのは──額の左右から伸びる十センチ程の突起物。どう見てもこれは角のようにしか見えない。
 まるで鬼。昔話に出てくるような鬼そのものでしかないように宇佐木は感じた。
 呆然としてしまっている自分に気がついて、すぐに鬼の様な男の衣服を探り出した。鬼の様な男だろうがなんだろうが普段とやることは変わらない。そうだ、何をびびっているんだ俺は。んなこたぁどうでもいい、とりあえず仕事だ。仕事!
 宇佐木の思考回路はそこまで複雑にはできていなかった。鬼男のコートをガサゴソとまさぐり、そして突然のことだった。
 不意に目の前が暗くなった。
「え」
 どんと鈍い音がした。視界が激しく揺れる。続いて衝撃が全身にはしった。
 次にガシャンと何かの割れる音が響く。
「ぐあ……」
 それが自分が吹っ飛ばされて食器棚にぶち当てられたのだと気がつくのに宇佐木は数秒を要した。
 目の前がぐらぐらして、頭に落ちてきた食器が当たって割れた。痛い。超絶痛い。
 警笛のうなじがピリピリとしてまるで電気がはしっているような感覚がある。
 ──これはマズイ……!
 宇佐木はすぐに立ち上がり目の前を見るとそこには巨大な黒い影がムクリと起き上がっている姿があった。
「まさか……」
 生きているはずがない。致命傷のはず、しかもスタンガンもくらわせてやったってのに!
「てめぇ……っ!」
 凄もうと声を上げたがおそらく起き上がり様に殴りつけられた様で、肺に空気が入らずしっかりと声が出なかった。
「ふーううっ……!!」
 恐ろしく低い声が鬼の口から漏れた。そして、その開かれた真っ赤な双眸を宇佐木は見た。そして直感した。こいつは本当に人間ではない、と。
 瞬間的に宇佐木はその類稀なる危機回避思考で転がる様にしてリビングの扉まで移動し、扉を開け滑り込む様にして部屋をでた。
 逃げる! もう頭はそのことで一杯だった。
 開いていた玄関からすぐに脱出し逃げ切る。
 ん……? 開いていた? 奴が二階から侵入したならなんで玄関は開いていたんだ? どうでもいい疑問が浮かび今はそんな場合ではないと頭を振り、宇佐木は次の行動のフローを頭で再生し、それが十分に可能なことを理解した。ただし、相手が普通の人間ならば。
 どんっと大きな音がして背後の扉が吹っ飛んでくる。堪らず足を早め、階段を横切ろうとしたところで宇佐木の脳裏に子供部屋のことがちらりと浮かんだ。
 ……ちくしょう!
 宇佐木は行き過ぎた体を少し反転させて階段をだんだんと大きく踏みしめて二段飛ばしで上がった。背後のすぐ近くの距離で低い唸り声が聞こえ、相手も方向転換したことが見ずとも気配で分かった。
 なにをしているんだよ俺は!
 宇佐木はまた自分を殴りつけたくなった。だが、足は止まらず子供部屋へ向かい、勢い良く扉を開け放った。その勢いで扉についていた熊のプレートが落ちたようで、やけにけたたましいカランカランとした音が廊下に響き、視界の先のベッドで子供がむくりと起きるの見た。
 目を擦りながらこちらを見る小学生だろう男の子がいた。
 てめぇの父親と母親は死んで今は危ないからついて来いなどとは説明するわけにもいかず、宇佐木は素早い動作で八畳程の部屋を駆けて子供を問答無用で抱き上げた。
「……お父さん?」
 勘違いされたのか寝ぼけているのるか、とにかくすぐに暴れはしなかったので、このまま抱えて先程の物置部屋から脱出──振り返ると、そこに鬼がいた。
 速ぇ……!
 宇佐木は逃げ足と速さにには自信があった。相手が普通の人間ならば今の感覚なら絶対に物置部屋から逃げられたはずだった。しかし現実には、入り口でその大き過ぎる体を子供部屋へと無理やりねじ込んでいる鬼がいる。
 逃げられない──と思うやいなや背後の窓へと走り出した。入り口の方でも大きな気配がこちらへと駆け出すのを感じた。窓の鍵を開けている余裕はない。宇佐木は子供を抱きかかえたまま、窓ガラスをぶち破り、二階から飛んだ。
 下は確か……! 庭には茂みがあり、背の低い腰くらいまでの植物が塀のように壁の周りにあったはずと高をくくった。案の定そこに宇佐木と子供は落下し、その拍子で子供を離してしまったが芝生の上に転がり、大事はなさそうだった。
「がっ……!」
 宇佐木自身は運悪く茂みの横の庭石に全身をぶち当ててしまい悶絶しながら 芝生を転がる。
「ぐぅ……」
 痛さのあまり意識が遠くなり、閉じかけた視界の端で子供が起き上がるのを見て、ほっとしている自分をまた殴りつけたくなったが──そんな場合ではなく今まさに自分は危機的状況に瀕していて、意識まで失いそうで、そして途端に宇佐木の意識は闇へと落ちた。
 意識が無くなる少し前に家の方がぼうと赤く光った様に宇佐木は感じていた。だが、彼の意識はそこで途絶えてしまった。
 宇佐木はいつも思っていた。気絶と寝るのと死ぬのと何が違うっつーんだ?と全部意識が途絶えているんだから同じじゃんかとよく高校生の時に彼は友人に言っていた。
 次起きるか起きないかだけで意識が途絶える瞬間の感覚はどれも同じだろう。そりゃあ死ぬ時は痛さとかあるかもしれないが、それ抜きにすれば意識を失うというところは全く同じ感覚じゃないか。寝るも死ぬも同じだ。そんな風に思っていたからだろうか宇佐木は意識を失うということがとてつもなく怖かった。
 だからスカヴェンジャーは眠らない。






***********************






 六塵の楽欲ぎようよくおほしといへども、皆しつべし。



 暗転。







 警察署の前に二人の人間がいた。
「彼がいるのはここですか?」
 やけに通った声だなと羽田警部補はそう思い、長身の『神父』を見た。
 まだ残暑の残る季節。長袖の司祭服を身に纏った目立つ風貌の男は、どこか得体が知れないと羽田は感じていた。
 肩に切り揃えた金髪には右と左の側頭部に白いメッシュが幾筋も綺麗に入っていた。染めたものではなくどう見ても白髪にしか見えない。しかし、そう歳でもないはずだ。まだ三十くらいにしか羽田には見えない。そして、その金と白はむしろ綺麗に織り交ぜあって彼の美しさを際立たせている。老けなど微塵も感じさせない程に──そう、その神父はやけに『美しい』男だった。作り物のような顔立ち。真っ直ぐな眉と大きな瞳に小さな顔。
 この警察署には似つかわしくなさ過ぎると羽田警部補は思った。
 ぼーっと神父を眺めていた警部補は、ふとその青い瞳に見据えられているのに気がついた。ジッとその蒼玉に捉えられた警部補は返答を急かされているように感じ慌てて答えた。
「あ、ああ……例の男はここにいる。さっきまで寝ていたが無理やり起こして取り調べをしていた」
「なるほどなるほど。事件の重要参考人ですからねぇ」
 神父は頷き、そしてコホンと咳払いして警部補に告げた。
「特権を行使します。今すぐ彼に会わせていただきたい。……もちろん他は外していただきます」
 にこりと笑顔で神父が言い、羽田は顔を引きつらせた。
 この男は一体何者なのだ。ただ一介の警部補には神父の存在が謎でしかなかった。
 ただ、上から彼の言うことはすべて聞きいれることとだけ命令されていた。
「大丈夫ですよ。刑事さん。私は平和主義者です」
 警察の階級など分からない人間からすれば羽田のような男は皆刑事さんなんだろう。そんなどうでもいいことを思いながら彼は神父を案内した。
 例の男、宇佐木光矢(こうや)を昨晩、火災現場から保護──からの連行になり、今は取り調べ室に繋いでいる。さっきまで寝ていたが無理矢理叩き起こしてなんとか話せる状態にはなっているとのことだった。
 警察署内の廊下を歩きながら羽田は説明を始めた。
「宇佐木。宇佐木光矢。通称スカヴェンジャー。別名は強盗殺し。証拠はないですが奴が殺したであろう人間はおそらく十人は超えます。すべて立証されれば死刑は免れません」
 神父は溜息をついた。
「おそらくとか……そんなことで人殺しだとか言っちゃいけませんよ」
 そして朗らかに笑いながら神父は返した。
「はぁ…」
 返答に困った羽田は頬を掻いて言葉を続けた。
「とにかく強盗殺しは基本的に奴の犯行であることが多い。……いや、多過ぎるんですよ何十件もある。この夏だけでも四件もあるんです!」
「……多過ぎる。多過ぎるんですねぇ。……なるほどなるほど」
 顎に手をやり、ふーんと言って神父は少し考え事した。そしてすぐに解決した!とでも言うようにぱっと顔をあげた。
「まあ会わなきゃ分かりませんね! やはり早く会うことにしましょう!」
「……は、はぁ」
 なんだか警部補は関わってはいけない人種に会ってしまったような心持ちになってしまった。上からの特権の行使といい目の前の男に確認せずにはいられなくなった。
「え、と……ソーリス神父でしたっけ? あなたは……一体どこの組織の何者なのですか?」
「secret(シークレット)」
 ネイティブな発音で言われ、しーっという感じで口に人差し指を当てて微笑み返された。女性ならば不意をくらえば一気に虜にされてしまいそうなその美貌の笑顔に羽田はただただ辟易とした。
 程なくして取調室に着いた。簡素で殺風景な扉と、その隣に帽子をかぶった警官が一人。羽田を見ると頭に手を当てて敬礼をする。
 巫山戯てか真面目かソーリスも同じようにニコニコしながら敬礼をした。
「では羽田警部補は外で待っていてください」
「……一応、調書作成で書記が中にいるのだが」
「その人にも出るようお伝えお願いいたします」
 ソーリスの笑顔には有無を言わさない何かがあった。威圧感などでは無く、もっと逆に心地良ささえあるような『お願い』のようだった。お願いなら聞かなきゃいけないなあ。何故だが、上からの特権行使など忘れて羽田は思ってしまった。
 すぐに中にいた書記の男が訝しげに出てきて、入れ違いでソーリスは「どもー」と軽く言いながら入室した。取調室に入ったソーリスは真ん中に置かれた簡素な机の反対側に座った目つきの悪い男とガチリと目が合った。
 ソーリスの美しい金髪とは別種の雑に塗りたくったような金色。血統書付きの犬と雑種犬の様な違いだった。ギラついた瞳がソーリスを射抜いていた。
「なんだ、てめぇ。……神父か? 俺はまだ死んでねぇよ」
 宇佐木は神父を見てそう言った。
「あっはっは。なにも神父は死んだ人間ばかりを相手にするわけではないですよスカヴェンジャー」
 スカヴェンジャーと呼ばれ、宇佐木の眉間の皺が倍ほどに濃くなった。
 スカヴェンジャー。──ソーリスは宇佐木を見ながらすぐにハイエナを想像していた。いや、むしろ目の前の彼は犬に近いような気がする。見た目的にも。そんな風に感じたソーリスは思わず言った。
「通り名はハイエナで、名前はウサギみたいなのにその実は犬ということですか。なるほど」
「わけわかんねー。ウサギ言うな殺すぞ」
 宇佐木は小学生の時に上級生からウサギと言われ、からかわれたことがあった。
「っていうかお前なんなんだよ」
 宇佐木に言われ、ハッとして「ああ、これは失礼。いくらなんでも失礼過ぎましたね」両手を上げて頭を横に振り大仰な動作をするが、それに反しまったく失礼だとも思っていない様に軽く笑って神父は言った。
「私はソーリスと言います。神父と呼んでいただいても結構です」
「へぇ。……その神父さんが俺になんの用だよ」
「いや、なに事件のことをお聞きしたい。そして──」
 あなたのことも──。今まで笑顔だったソーリスの表情から急に温度が消えた。凍てついた氷の様な瞳が一瞬だけ宇佐木の心に寒々しい何かを吹きつけてきたように感じた。すぐに笑顔に戻りソーリスは言った。
「宇佐木光矢あなたに仕事を手伝ってもらいます」
「は?」
 何を言っているんだこいつは──という表情の宇佐木は思わずポカンと口を開けてしまった。
「無論、拒否権はありませんよ宇佐木」
「い、いや……俺はてめぇが何を言ってるのかが分からねぇって言ってんだよ。仕事ってなんだ? 俺はこれから取り調べを受けるってさっきの刑事が言ってたぞ」
 コホンと一つ咳をし「その取り調べというのは無くなりました。なのであなたは気兼ねなく私の手伝いができるのです」とニコニコ笑顔で言う神父に宇佐木は机に手をついて立ち上がって声を荒げた。
「てめぇ俺をからかってんのか!? なんだ最近の警察はこんなこともやんのかよ! 暇だなぁオイ!」
「あっはっは。宇佐木。これは別に嫌がらせというわけではないのですよ。いいですか? あなたは警察に身柄を拘束され、これから取り調べをされる──予定だった。だが、警察よりも上の権限を持つ者達があなたに目をつけた。一旦、取り調べをするよりも先にやることがあるからそちらを優先すべきだということになったのですよ」
「警察よりも上の……? それはどこなんだよ?」
「secret(シークレット)」
「いやいや! だいたい、俺になにをさせるつもりなんだよ!?」
「それについては──もうだいたい見当がついているんじゃないですかスカヴェンジャー」
 またあの眼だ。先ほど一瞬だけ見せた凍てついた瞳だった。ソーリスのその瞳に捉えられていると宇佐木はどこか落ち着かず、寒々しい気分になった。暗く冷たいどんよりとした感情が頭をもたげてくる。
「俺には……なんのことだか……」
 宇佐木はなんとかして顔をふいと横に逸らすのがやっとだった。ソーリスは逃すまいと真正面に陣取って宇佐木と視線を合わせた。
「……っ」
 ぎくりとして宇佐木は固まった。それはもはや何かを隠していいますとでも言っているような態度になってしまっていた。
「私は普段は神父なんぞやっていますがね。あなたのお仕事は実に興味深いんですよ」
 どうみても外国人。ヨーロッパ系であろうソーリスの口から漏れるのはとてもしっかりとした流暢な日本語で、宇佐木は今更ながらその不自然の無さに違和感を感じた。
 初めからだった。彼がまるで日本語を話せると知っていたかのような安心感が初めからあったのだ。
「きょ、興味深いって……なんだよ」
 宇佐木は相手の言葉を反芻することしかできない。
「だって、凄いじゃないですか」
 本当に凄いと思っているのか握り拳を握りながらソーリスはまたも大仰な動作で、何故か「ああ」なんて言いながら虚空を見つめ言った。
「だって、あなたは事件が起こることが分かるんでしょう?」
 宇佐木は黙ったまま少し俯いた。
「……なに言ってんだよ」
 辛うじて搾り出したかのような反論にすぐにソーリスは返した。
「あなたの資料には目通させていただきましたが、強盗事件が起こる度にあなたは場所を特定して事件に介入している。場所に法則性はなく様々な場所で、しかも何十件も連続して──これはどう考えても何らかの方法で、事前に事件が起こるということの情報を得ているのではないですか? でなければ説明がつかないと私は思うのですが」
「たまたまだ」
「警察はいずれ取り調べでそこを言及するでしょう。だが……あなたが今のような返答を続けていれば、行きつく先は強盗犯との共犯だと疑われるでしょうね。あなたは強盗犯とまず初めに手を組んで、いつも最後の最後で裏切っているのだと」
「……はっ」
 つまらないことでも聞いたように宇佐木は短く笑ってまたソッポを向いた。
「いいのですかあなたは? 他の強盗犯と共犯などと思われて罪が重くなってしまうのですよ」
「知るかよ。どのみち死刑なんだろ? 知ったこちゃねぇな」
 ふぅとソーリスは溜息をついて、やれやれと肩をすくめた。
「わかりませんねぇ。ひどくリスキーですよ。あなたのお仕事は。一度でも捕まってしまえばもう終わりではないですか。……事件が起こるのが分かるのであれば、あなたは警察にでもなれば出世まっしぐら間違いないですよ」
「……」
「強盗など相手にせず正義の味方にでもなれば良かったのです。その方が主もお喜びになられます」
 主──神だとでもいうのか。宇佐木は頭に血が登るのを感じた。
 だんっと激しく机の上を宇佐木の両手が叩いた。思わず立ち上がり、ぎらりとした瞳でソーリスを睨みつけて今までで一番低い声で宇佐木は言った。
「正義の味方も神様もこの世にはいねぇ。……誰もそんなものにはなれない」
「そうでしょうか。あなたのその技? とでも言うのですかね? それならば可能ではないですか?」
「……しつこい奴だ。……俺には事件が起こるだなんて分からない」
「あなたも強情ですね」
「だが──」と宇佐木は言葉を続けた。
「事件が起こっていること……なら…分かる」
 ハッとしてソーリスは宇佐木を見た。宇佐木はばつが悪そうに視線をさらに外した。宇佐木は話すつもりなど本当は毛頭もなかった。だが、自分でも何故だか分からないが宇佐木は口を割ってしまった。
「……──なるほど」
 ソーリスは少しだけ目の前の男に同情の視線を向けた。
 正義の味方はいない。誰もそんなものにはなれない。それは事件が起こる前にその場にいることができない者──つまり自分にあてた言葉だったのではないか?そんな想像をしていた。
「宇佐木。ではあなたは事件が起こっているであろう場所が分かり、それを探しだし犯行に及んでいた……ということでいいですね?」
 宇佐木は半ば諦めたように投げやり気味に「そうだよ」とだけ答えた。
「それはどんな感じで分かるのですか? 匂いとか、雰囲気だとかですか?」
「……色だ」
「色……ですか?」
「そうだ。物や人や建物には色が絡まっている。俺にはそれが見える。何か妙なことが起こっている場所の色は濁った暗い感じの色になってんだよ。……赤でも青でも緑でも、とにかくどんな色でも濁って色が重たくなっているところは何かがある」
「それは──」
 ソーリスは口元に手をあてて、出かけた言葉を制した。
 とんでもない──と彼は口にしそうになったのだ。内心ソーリスは驚きながらも、それを表面には出さないように努めた。
「なるほど。あなたがスカヴェンジャーと呼ばれる所以はそれですか。事件後にしか駆けつけられず、強盗の上前をはねることしかできない」
「難しい日本語知ってるな神父さんよ。……というわけで、アレだ。俺のこの色が見えるっていうのはロクに役に立たねぇんだよ。つまりあんたの手伝い──がなんだかは知らないが、俺のこれは半端も半端だ。だからさっさと帰ってくれよ」
 もうこれ以上関わらないでくれとでも言うように宇佐木は机に突っ伏した。
対してソーリスは──。
「……いえ、宇佐木光矢。あなただ。あなたしかいない。この私を手伝えるのは!」
 眼を見開き両の手を広げて高らかに言ったのだった。





**************





「はい、アーン」
「あーん……」
 そこは高等学校の敷地内。教室の建物に囲まれた中庭での昼食時の風景だった。
 天気は良く雲ひとつない快晴。だが暑くはない。風通りが良く、秋が向こう側からやって来ているかの様な涼しげな風が時折校舎をすり抜けて吹いていた。
 女子生徒が両隣に座り合って中庭の木の下でレジャーシートを広げている。そして控えめに言っても豪勢な(しかも量の多い)お弁当を食べていた。いや、食べさせられていた。一人の女生徒がにこにこと楽しそうに笑みをこぼして、もう一人の難しそうな顔をした女生徒の口に次々とご飯を運んでいる。
「く、九川さん……もう、もうたべ、食べられないかも……」
 気が弱そうにどもりながら話す少女は満腹を訴え、お腹をおさえた。
「えー! もうっ、なにを言っているんですか。アキちゃんのアキは食欲の秋でしょう? 」
「ち、ちが……う。漢字はそうだけ、ど……」
「はいはい、アーン」
 全くアキと呼ばれた少女の訴えが聞こえていないかの様に九川と呼ばれた彼女は箸をアキの口の前に持っていく。箸には大きめのカボチャが乗っけられていて、どうせならもう少し小さくしてくれないだろうかとアキは抗議を入れそうになったが、諦めて大きく口を開けてパクリと食べた。
「うーん! いい食べっぷりですねアキちゃん」
「わ、私はいいから……九川さんも食べて」
「私は大丈夫。アキちゃんにこうして食べさせてあげているだけで満たされた気分になるんですから」
「そ、そうなの……?」
「ええ、そうなのよ。ふふふ」
 二人にはおよそ距離感というものがなかった。ぴったりと寄り添い合っていて、それはもうとてもとても仲良しといった介入不可な雰囲気を辺りに漂わせていた。周りには他に休憩中の生徒や行き交う生徒がぽつぽつと歩いてはいたが、二人だけの世界──本当に二人はお互いの姿しか捉えていなかった。
「もうそろそろ本当に秋になってきたんじゃないかしら」
ふと九川は空を見上げて遠い目をしてそう言った。
「そ、そうだね……。秋は、九川さん……好きかな?」
「ふふ。大好きに決まっているじゃないですか。なんせアキちゃんの秋なんですから」
「あ、ありがとう……」
 九川に真っ直ぐにそう言われると何故だか顔を下げてアキは俯いた。
 大人しそうな外見。意思の弱そうな瞳に、小動物のような小柄さ。染めたことなど一度もないであろう肩までの黒い髪と、周りにいる女生徒の着こなし方から比べると控えめなスカート丈。誰が見てもアキは大人しく真面目そうな女生徒。
 対して九川は意思が強そうな切れ長の瞳に、アキと同じ黒髪でも後ろは長く腰まであり、前髪はおでこの半分あたりで短め真っ直ぐに揃えられていた。身長が高く、こうして座っていてもアキと九川は親子のようなサイズ感だった。
 アキの長い前髪が伏せ目がちな目に被さり、九川は鬱陶しそうにそれを手で撫で上げた。
「駄目ですよアキちゃん。あなたみたいな綺麗な子が顔を髪で隠しては」
「わっ、わっ、は、恥ずかしいから前髪上げないでっ」
 バタバタと手を振って抗議はするが無理に九川の手を跳ね除けようとはしない。そこに分かりやすい程に主従があった。アキはすべて九川のされるがままだった。
「もう私のように前髪切ってしまいましょうか?」
「き、切らないで……私、外歩けなくなっちゃうよ……」
「どうして? 私と同じは嫌?」
「い、嫌じゃない……九川さんはき、綺麗だ、だから……私はその全然で……恥ずかしいから」
「恥ずかしい?」
「だ、だって……男子が……お前は顔あげるなとかこっち見んな、とか……言って、きて……それで……」
 アキの言葉に九川はふぅと一息溜息ををついて「あらあら」とそれだけ言った。そして、すぐにアキの頭を抱きかかえるようにして髪の毛を撫で上げた。
「まだ、あの子達にそんなことを言われていたのねアキちゃん。私それ聞いていないんですけど」
「ご、ごめんなさい……そ、その隠していたわけ、じゃ……ないんです。た、ただ……最近はそんなにな、なかったし」
 悪いことがバレてしまった子供の様にアキは弁解した。それを親のようにはっきりとした物言いで九川は言った。
「もう、駄目じゃないですかっ。いつだってアキちゃんは我慢しちゃうんですから」
「ご、ごめんなさい……」
シュンとして小さな子犬のようになってアキは謝った。
「まあ、いいでしょう。……それじゃあ行きましょうか」
「え、も、もう休憩終わり、かな……?」
「いえ、まだ十五分程あります。それだけあれば──」
 あの子達を懲らしめるのには十分でしょう?
 九川の表情はひどく恍惚としていた。




 まるで木偶。
 虚ろな目をした男子生徒がその女生徒二人の姿を眺めていた。瞳に九川とアキを映しはしているけれど、その網膜で得た情報は脳へ到達はしていない。そんな風に見えた。
「う……」
 短く呻いて、座っていた体を起こし次の動作を行う。
 そこへ声があがった。
「おーい、浅野!」
 ぼぉっとした男子生徒を浅野と呼んで、後ろから肩を叩いて声をかける者がいた。
 浅野は瞬き一つせず、首だけで後ろを振り返り言った。
「高宮……くん」
 高宮と呼ばれた男子生徒は明るい表情でにこりと笑い、浅野へと言葉を続けた。
「浅野、最近なんかあったのか? 皆、お前が元気ないって言ってるし部活にも出てないらしいじゃん」
「……別に……大丈夫です」
 浅野は疲れた様な顔でそう言い、高宮に背中を向けようとする。
「お、おいっ。なんかあるんなら言えよ浅野」
 高宮はクラスの皆から最近様子のおかしい浅野を見てくれと頼まれていた。
 浅野が歩き出そうとしたので高宮は
「ちょっと待てって浅野っ!」
 肩を掴んで逃すまいとした。そして今度は少しキツめに言った。
「お前と話したこと俺はねぇけど皆心配してるぞ! 最近、誰とも話さないしどうしたんだよ! イジメにでもあってんのか!?」
 高宮は男子からも女子かも人気があり、サッカー部の主将で成績も顔も悪くはない。対して浅野はどちらかと言えば地味な見た目に眼鏡をかけていて、いつもいるグループも文系の大人しい人間が多かった。
同じクラスだったが今まで浅野と話したことはなかった──なかったが、こいつはこんなに肌が白かっただろうかと思うくらいに浅野は顔面蒼白だった。
 そして、態度が妙だった。目を合わせず、話をしない──クラスの皆が言った通りだと高宮は感じていた。
「大丈夫………だから、やめて……高宮くん……」
 ぼそぼそとそれだけ言うと浅野はまた高宮から逃れようと、今度は少し体をよじって逃げようとした。
「ちょ、お、おいっ! 話を聞けよ!」
 思わず高宮は浅野を自分の方へと強く引き寄せてしまった。とすん、軽い音がした。なんだか空気が抜ける様なそんなが音がしたなと高宮は思った。
「え」
 なんだか間抜けなくらい簡単に──浅野の体はバラバラと崩れて砂塵と化して消えてしまった。





**************





「んで……なんで、こんなことになってんだよっ」
「だから言ったじゃないですか宇佐木。私達は交流を深めるべきだ──と」
「いや、だからって……いきなり居酒屋かよ!」
 宇佐木とソーリスはよくある場末の居酒屋に来ていた。小さなテーブルがたくさんあり、大勢の客──ほとんどがサラリーマンがいるような明るい雰囲気の居酒屋だった。値段は比較的すべて安く、だがチェーン店ではないので料理の味も酒も勝負していますとった意気込みの感じられる元気な居酒屋だと宇佐木は判断を下していた。彼は呑むのは好きだった。
 すでに宇佐木はビールをジョッキで四杯飲み終わったところだった。焼き鳥の串を一通り全部頼んで食べ終えて、ビールを飲み少し落ちついたところで宇佐木はやっと口を開いた。その間、ソーリスはその宇佐木の食べっぷり飲みっぷりをただニコニコと眺めていた。ソーリスの右手にはおちょこが握られていて、中身は日本酒だった。どこをどう見ても外国人で、しかも神父の司祭服を着た彼が居酒屋でおこちょ片手に日本酒をやっている。さらに同席しているのは金髪のガラの悪そうな男ときた。
 彼らはなんだか周りから浮く程に目立っていた。ソーリスは視線を全く気にせずに、宇佐木もそういった周りの反応はどうでもいい程に気にならない性質だった。
「お前、神父のくせに酒なんて飲んでいいのかよ」
「我が主は飲酒を禁じてなどいませんよ。むしろ推奨している程です」
「嘘くせー……しかも日本酒ってお前」
「日本酒はいいですねぇ。透き通るように喉にすぅっと入っていく。甘みのあるのも辛いのも好きですが、どれも芳醇な味わいがなんとも格別です」
 てめえ本当に外人かとツッコミをもう宇佐木は面倒なのでやめていた。
「日本酒は昔から好きなんですよ。特にここの日本酒は美味しい。ねぇ?」
 丁度、テーブルに空いた皿を片付けに来ていたアルバイトの若い女性にソーリスは同意を求めた。
「え、あ、そうなんです。うち日本酒に特に力いれてるんで!」
 少し驚きながらもそう返して、ソーリスはそれに太陽の様な笑顔を送る。それだけで──落ちた。たったそれだけのことで、その女性は側から誰が見ても分かる程にソーリスにぽぅと見惚れて動きが止まってしまった。
「げ……」
 その様子に宇佐木は思わず嫌そうな顔でそう漏らした。
「あらあらお嬢さん、奥でお店の方が呼んでいますよ」
「あ、あ、はいっ」
 ソーリスに言われて、はっとした彼女は顔を真っ赤にして慌てて店の奥へと戻っていき、姿が見えなくなったところで派手にグラスの割れる音が響いた。たぶん慌てていたためにグラスを持った他の店員とぶつかりでもしたのだろう。
「お前は神父か!? それともナンパ師かなんかか!?」
「いやいや宇佐木。何を勘違いしているのです。いやーここの日本酒は本当に美味しい」
 ぐい、とおちょこを飲み干す。
 ビールをジョッキで四杯飲んで顔が真っ赤な宇佐木に対して、ソーリスの顔色は白いままだった。日本酒を入れているとっくりには一合以上は入っているはずで宇佐木の記憶ではそれももう三本目だったはずだ。酒には弱くはないはずだが、もともと外国人の方が確か先天的にアルコールに対して強いとかテレビで言ってたの聞いたことあるし、そうそう俺は全然弱くはない。と宇佐木は目の前の酒豪に無意識に対抗していた。
「おーい姉ちゃんっ、黒霧!」
 宇佐木は先程の女性が近くをウロウロしていたので焼酎を頼んだ。
「よく呑みますね」
 言うソーリス。
「呑める時に呑んどかないとな」
「そうですね」
 にこにこしながらソーリスもおちょこを飲み干し、宇佐木に合わせるように彼も別の焼酎を頼んだ。宇佐木も聞いたことがないような知らない焼酎を何故かソーリスは当たり前のように頼んだ。
「てめぇ、本当はただの酒観光で日本に来た日本大好きな外人だろ」
「はっはは。ニホンダイスキネー! ってやつですか」
 わざと訛った日本語を披露するソーリス。ここまでされると最早、宇佐木は逆にこいつは英語だったり他の国の言葉が話せないんじゃないかとさえ思えてきた。
「お前どこの国出身なんだよ」
「英語圏内ですよ。ところで宇佐木」
「なんだよ」
「私のことは、お前──ではなく。ソーリスか、神父でお願いします」
「……」
 にこにことソーリスは笑みのままだったが何かしらの見えない圧力に宇佐木は少し体が固まった。
 ──これだ。ソーリスと話していると時折あるこの感覚。抗い難い強制力のようなものが彼の言葉や視線から発せられているような気がしていた。
 そこに先ほどの女性店員が二人の焼酎をグラスで持って来ていた。
 宇佐木はそのまま口をつけ飲み、ソーリスは焼酎が薄まるのが嫌なのか氷を箸で横の取り皿に出していた。
「やはりなんでもストレートで飲むのがいい」
「……」
 神父の酒好き発言はどうでもいいので宇佐木は流し、それよりも少し前から気になっていたことを聞いた。
「そーいやよ……全然どうでもいいんだけどよ……全然全く俺はなんとも思っちゃいないんだがよ」
 とそこまで前置きしてから宇佐木は聞き辛そうに少し黙り、焼酎をクイっと飲んで決心して言った。
「俺があの家の二階から飛んだ時に抱えてたガキは……どうなったよ」
 ああ、あの子ですかと言ってからソーリスも焼酎をすぅと喉に流し込むように飲んでから続けた。
「あなたのおかげで助かりましたよ。保護され、今は父親と一緒に実家の方へと戻ったらしいですよ」
「父親……無事だったのか」
 母親の無残な亡骸が宇佐木の脳裏に過ぎる。とても忘れられそうにない光景だった。真っ赤な体──そこから伸びる体の部位や、宇佐木にはよく分からない臓器、そしてそれを口にする──巨体の鬼のような男。思わず宇佐木は頭を振り、グラスの焼酎を一気に飲み干した。
「そんな一気に飲んでは体に悪いですよ宇佐木」
 先生の様に言ってからソーリスは少し神妙な顔をして言った。
「……父親はどうやら真っ先に逃げて外で震えていたようです。……とてつもなく怯えていたと聞きましたが火事の後に消防隊員に発見されていて無傷でしたよ。宇佐木は彼に会ったのですか?」
「ん? ……いや──あれ?」
 宇佐木はリビングで母親の死体の奥。テレビの前で倒れていた男を思い出していた。
「男が倒れていた。てっきり、それが父親かと思っていた。……ってことは玄関が開いてたのは父親がそこから逃げ出したからか」
 あの家に侵入した時の違和感がなんだったのか宇佐木は少し気になっていたが──これだ。これだった。鬼の男の侵入経路は二階からだったはずなのに玄関が何故か開いていた。なるほどそれが違和感の正体。少しスッキリしたが、その後に宇佐木は子供と妻を放って逃げた父親にムカムカと腹が立ってきていた。いや、あんな化け物が来ちゃ仕方がない──……のだろうか。ところで──。
「じゃあもう一人倒れていたあれは……別の家族か?」
「いえ、あそこで死んでいたのは私の仲間です」
「は?」
 無感情になんともないように言ってからソーリスは焼酎のグラスを先ほど宇佐木がやった様に一気に飲み干した。
「……一気に飲むのはよくないんじゃ?」
「そうでしたね……」
「仲間って牧師の?」
「ああ……いえ、secret的な方の仲間ですよ」
 だから一体お前は何者なんだよ!と宇佐木は言いかけたが、またsecretと言われたらゲンナリとした気分になりそうだし、なにより遠目でちらちらとこちらを窺っている先程の女性店員が本当に今度こそその決め台詞?に墜ちてしまいそうなのが癪なので黙った。
「では。そろそろ仕事の話をしましょうか」
 そう言ってソーリスは飲み干したグラスを脇にやってから真っ直ぐに真剣な顔で宇佐木を見た。反射的に宇佐木もテーブルについていた肘だけはあげた。
「……やっとかよ」
 なんの説明もなしに胡散臭い外国人に連れて来られた場所はいきなり居酒屋で──訳が分からないがとにかくビールと焼き鳥は旨い。というところだった宇佐木はついに本題に入れることができた。
「あの化け物のこと、とりあえず聞かせろよ」
「ああ、あれですか。あれは私達が探していた獲物ですよ」
「獲物? あいつは殺人犯かなんかで警察に追われているってことか?」
 宇佐木の言葉にソーリスは首を振る。
「いえいえ宇佐木も見たでしょう。彼は人間ではない」
 人間ではない。改めてそう言われたならばしっくりはくるが全く現実感が湧かない。
「人間じゃねぇって……なら、なんだよ。ははっ、鬼とかでも言うのかよ」
「そう。彼は鬼。正確には鬼に成り果てた者です」
「……っ」
 現実ですと牧師は最後に続けた。
「……ははっ。アホらしい」
「おや。鬼とそれに喰われた者を見たのですよね宇佐木は。どうして信じないのですか?」
「信じるも信じないもねぇよ。ただアホらしいって言ったんだよ」
「アホらしい……鬼がですか?」
 ソーリスは訝しげに宇佐木へと問う。
「いや、それが現実だとして、その現実がアホらしいって言ったんだよ」
「ふぅん。……まあ、よくは分かりませんが。あなたが信じるも信じないもアホらしいと思おうが、とにかくこれをあなたは受け入れなければなりません。──なぜなら」
「なぜなら?」
「あなたにその鬼を探してもらいたいからですよ宇佐木」
「お、俺に?」思わず声が上擦った。
 そして、瞬間的にまた鬼の形相が脳裏に浮かんだ。じりりとうなじが焦げつく様に熱くなり電気が奔るのが分かった。──直感的に宇佐木の体はそれを拒んだ。
「いやいやっ! 鬼を俺に探させるだって? そんなことっ……俺はごめんだぞ! あんな化け物の前に二度といかねぇ! 殺されかけたんだぜ!?」
 鬼男の起き上がり様に振られた手に当たっただけで壁の端の食器棚にぶち当たった宇佐木。あれが本当に殺すつもりで正面から殴られたものだったら──おそらく一撃で頭は割れているに違いない。即死だ。
「……っていうかあんなの警察に任せとけばいいじゃねぇか……なんで俺やあんたなんだ? ん? あんたも鬼を探すのか?」
「勿論。私の仕事はそれなのですから私が率先して探すのは当然でしょう? 宇佐木、あなたは警察と言いましたが警察にアレは倒せません。だから私がここに呼ばれているのですよ」
「呼ばれてって……」
「まあ、そうですよね。一からやはり言わねばなりませんよね。呑みながらだらだらと適当に話せたらなんて思ったのですが。いやいや、なんでも楽をしようとする私の悪い癖なのです許してください宇佐木」
「いや、え? いや、なんなんだよ。もうとにかく分かるように言えよ!」
「そうですね。まず私の身分をある程度明かしましょう。すべては無理です。事情があります。私達の機関はとにかく機密を遵守する。必ず秘匿し外部に漏れないようにするのです。だから私のことはある警察以上の世界的な秘密結社に遣わされた鬼退治をする牧師と思ってください」
「ぐぅ」
 思わず宇佐木は呻いてテーブルへと突っ伏した。胡散臭い外国人がさらにこれとない程に胡散臭くなったからだ。
「話を聞きなさい宇佐木。あなたの命に関わる話ですよ。あなたは私に従うしかない。……でなければこの国の法ではあなたは死刑になるでしょう。──そうですね。やる気を出させるために先に言っておきましょうか。宇佐木、あなたはこの私の仕事を手伝いさえすれば、無罪放免です。──どうですか?」
「む、無罪放免って……可能なのか、そんなことが」
「約束します」
 そこで宇佐木は少し難しい顔をして下を向き言った。
「あんたは俺のやったことをどう思ってんだよ。無罪になってもいいと思ってんのかよ?」
「強盗殺しのことですか? さあ、我が主は別に悪人を殺すなとは言っていませんしねぇ。まあ子供も助けたしいいんじゃないですか?」
 どこの神だよ!?あんたの信奉してんのは!?そう宇佐木は思った。
「だが俺が殺したのは一人や二人じゃない」
「だからなんなのですか? 懺悔は私は聞きませんよ宇佐木。殺した強盗にやむ負えぬ事情でたまたま魔が差して強盗をしてしまったほとんど善人に近い人間がいたんじゃないか? とかそんなことを考えたりして苦しくなったり葛藤したりしているのですか?」
「……っ」
 それは宇佐木も一度は、いや一度以上考えたことがある想像だった。強盗だって全員が全員本当の悪だろうかと。生活に困り、魔がさして初めて後悔しながらやってしまった者を宇佐木は殺してしまっているかもしれない──とそんな想像をしてしまう。
「今ここで正義の話や倫理観の話を私はするつもりはありません。ただ別に私は牧師ですが……あなたの思うところの正義を持つ者ではありません。だから別に気にしないでくださいね宇佐木」
「……」
 にこにこといつもに笑顔でソーリスは言って話を続けた。
「とにかくです。鬼は存在し私は依頼され、この地にパートナーとやってきた。パートナーはキーグスという男です。真面目でおセンチなところが玉に瑕でしたが……まあいい奴でした」
「そいつが、さっき言ってたあの家で死んでいた奴か?」
「ええ。キーグスはあなたの力とはまた別のものですが、鬼を探し出せる特殊な能力を持っていた。……恐らくですがキーグスは私とあの日別れてから鬼に襲われている住居に出くわしてしまい……その正義感から一人で飛び込んでしまったのでしょう」
 ──あれ程一人では絶対に行くなと言ったのにとソーリスは言い、初めて悔しそうな顔を宇佐木に見せた。
「仲良かったのかよ……? そいつと昔からの仲間だったのか?」
「いえ、最近組んだばかりです。……私は彼の考え方が好きではなかった。とにかく人命優先。なにをつけても死人は出したくない。悪人だろうがなんだろうが絶対に死なせない。……機密の秘匿も私達の機関の優先事項はすべて後回し。面倒ごとはごめんです。私はさっさと次のパートナーと組みたかった。……ですが──」
 そこでソーリスは一息置いてから言った。
「……私はあいつを嫌いではありませんでした」
 そう言ったソーリスの顔がひどく悲しげだったからだろうか、宇佐木は柄にもないことを言った。酔いのせいかもしれない。きっとそうだ。
「いい奴だったんだろ」
「ええ……こんな仕事には向いていないと私は常日頃思っていました。……さっさと辞めさせておけば良かった。……そしたら死ぬことなんてなかっただろうに」
 私のせいですと、そう言いソーリスは続けた。
「だから私は次のパートナーを絶対に死なせない。絶対にです。宇佐木。あなたは私のパートナーになってもらいます。無罪が報酬です。いかがですか?」
「……」
 宇佐木は少し考えたが、考えること自体が馬鹿らしくなっていた。目の前のソーリスが一体何者なのかもどういう人間がなのかも、何を考えているのかも一切解りはしない。でも宇佐木は一つだけ真実に思っていた。
 ──こいつが悪人だろうが俺を騙してようが、なんだかこいつを嫌いにはなれない。
 宇佐木の行動理念はそれに尽きた。嫌いな奴とは一秒もいたくない。
「いいぜ。やってやるよ。──ソーリス」
 初めて宇佐木は彼の名を呼んだ。
「ありがとうございます。宇佐木。……あなたをパートナーとし、私はこの地で鬼を探します。仕事は仕事ですが……。キーグスの仇を討つこと──今はそれが目的です」
仲間の仇を討つ。それがこの男の目的。そこに偽りはないと宇佐木は感じた。
「宇佐木。あなたの身は私が守りますので心配しないでください」
「鬼はどうやって……倒す?」
「探すのがキーグス担当で、もっぱら私の方が武闘派なんですよ」
 ニコニコしながら握り拳をだして宇佐木に見せた。
「……」
 宇佐木の単純な感想は──弱そうであった。女みたいに細い腕に、拳も宇佐木の様にゴツゴツとしてはいなくて、とても華奢だ。身長は高いが、どこから見ても細過ぎるし全然強そうじゃない。大丈夫なのか?宇佐木は数秒で鬼退治に不安を生じた。
「お前……強そうには見えねーけど」
「あっはっは。そうでしょうね。大丈夫ですよ宇佐木。私は強いですから任せておいてください。……そして一つだけ私に約束してください」
「約束?」
「ええ」
「ああ構わないけど。なんだよ」
「頼みますから一人では絶対に危ない真似はしないでくだい」
 そのソーリスの言葉は今までのどの言葉よりも強く胸に刺さった。
 しばらく無言で次に頼んだ酒を飲んだ。そして、そろそろ戻りましょうか。そう言ったソーリスに連れられて宇佐木はだいぶ千鳥足で店を出た。
 店を出る時にあの女性店員にソーリスは握手を求められ、彼は店の全オッサンから羨望の視線を集める中、握手ではなく──ハグをした。
「うおおおおおおっ」
 何故だか店のいたる所からよく分からない雄叫びの様な声が聴こえた。女性店員は美人だったので看板娘的な存在でオッサン達のアイドルだったのかもしれない。それを難なくかっさらったソーリス。しかも去り際に「アディオース」とウィンクをした。そんなことができるのはこの男くらいだと宇佐木はクラクラしながら思っていた。
「宇佐木、大丈夫ですか? 歩けますか?」
「歩けるわい」
「なにを怒っているのです」
「呆れてるんだ!」
「なにをですか?」
 小首を傾げてソーリスはニコニコと笑った。ソーリスは全く酔っていない。宇佐木は少し敗北感を感じていた。
「ああ、あの女性にハグをしたことですか? あっはは、ハグなんて普通ですよ宇佐木。あなたにもしましょうか? ほら?」
「もう頼むから死んでくれ」
「はっはっは。宇佐木は面白いですねぇ」
「面白くない。……っつーかぁ俺はどこに行くんだ?」
 フラフラと足を進めていたものの宇佐木はそういえば行き先を聞いてはいなかった。
「どこって私が今借りているホテルですよ。宇佐木は私のパートナーになりました」
 パートナー。鬼を見つけるための一時的な繋がり。宇佐木は自由のために。そしてソーリスは仲間の仇を討つために。
「ですが、一応は警察に捕まっていることになっている人間です。悪いですが私はあなたを監視していなければなりません」
「……ああ」
 それはそうだろうと宇佐木は納得した。
「だから私と同じホテルで潜伏していただきます。部屋は同じですが我慢してください」
「ああ」
「だから同じベッドで寝ることも我慢してください」
「ああ……。ってなんで同じベッドで寝る必要がある?」
 ジト目でソーリスを見ると「だって寝ている間に逃げるかもしれじゃないですか」と言った。
「逃げねぇよ」
 ただで警察から逃げきれると思っている程、宇佐木も馬鹿ではない。宇佐木は日本の警察をまったく舐めていなかったし、むしろ恐いと思っている程だった。だからこそ彼は今まで捕まらなかった。しっかりと用心していたからだ。
「信用していますよ宇佐木」
「……」
 神父は会ったばかりの犯罪者に本当に信頼しているかの様に眼を向けた。宇佐木はたまらず顔を逸らした。信用や信頼といったものに対する条件反射だった。
「……まあ、とにかく向かいましょうか」
 言いソーリスは人通りの多い駅前から住宅街に歩みを進める。夜の街──車通りの多い先程のエリアと比べて、少し歩くだけで寝静まった住宅街があった。人通りが少なく、酔った宇佐木は急に酔いが覚める感覚に襲われた。──サーという風が通り抜け街路樹を揺らす音が心地よい。秋に差し掛かる空気。冷たさと暑さが混ざり合った風が肌をさわさわと撫であげていく。人肌の温度の風だ──宇佐木はよく分からない感想を持った。酔っていた頭が急に覚める。
 そして、感じた。
「……っ」
 うなじがジリジリとする。ああ、いつものアレだ。
「宇佐木。どうしました?」
 歩みを止めた宇佐木。前にいたソーリスが振り返り見た。
「青か……ぼんやりと重たい黒が混じってるな……手遅れか」
「……?」
 宇佐木がぶつぶつと道路の向かい側にある建物を見て口を開いていた。感情のない人形の様に宇佐木はそれを眺め、そしてハッとして視線を大きく外した。
「……っ、なんでもねぇ」
 絞り出す様に言った宇佐木にソーリスは近づきながら声をかけた。
「なんでもないことはないでしょう。ひどい顔です。……なにか見ましたね宇佐木。その──例の『色』が見えたのですか? ……あそこから?」
「うるせぇよ。何も見えてねぇ。行くぞ」
「宇佐木。あなたが見たモノ感じたものモノは私にも共有していただきます。これは命令です。あそこから何か感じたのですね?」
「……やめとけ」
「宇佐木はあの家で何が起こっているか分かるのですか?」
「……」
 宇佐木はただ睨む様にソーリスを見るだけで何も言わなかった。
 ソーリスは「着いてきなさい」と言い、その宇佐木の見ていた家へと近づいた。
 ──鬼がいる可能性を考え、ソーリスは武装を確認する。胸に僅かに手を当てただけ。それだけで彼は緊急時に対応するための己の武器を確認することができた。
 小さな家だった。玄関は両脇から手入れの行き届いていない雑草が伸びていて、家の外壁も蔦がたくさん絡まりほとんどが緑で埋まっていた。昔ながらの木造住宅。人が住んでいる気配はあるが、どこか寂れた感じの住居。窓から明かりが漏れているので住人はいるはずだ。
 ソーリスは後ろに宇佐木が着いてきているのを確認し、玄関の脇から横の小さな庭──と言っても人が一人通れる程の狭い通路の様な──を横切り勝手口を見つけた。手をかけると触っただけで簡単に開いた。
「……宇佐木は私の近くに」
「……やめとけ」
 小さな声。肩を下げ俯いている宇佐木は少し震えている様に見えた。顔色は窺い知れない。ソーリスはそれを見て思った。
 ──鬼がいるのか──さらに警戒を強めて住居へと侵入する。ソーリスの右手は左胸にずっと当てられていた。
 カビ臭い──次に人の生活臭とゴミの匂いが混じった様な匂いが鼻腔を刺した。木造の住居の床はギシギシと音が鳴る。警戒するソーリスの歩みは慎重だったが、後ろの宇佐木は無警戒に歩を進めている。ギシギシと宇佐木が歩く度に大きく音が鳴った。
「うさ……」
 宇佐木と名を呼び足音を注意しようとした時──ソーリスはそれを見た。ああ──なるほど。そうでしたか。神父はひどく納得した。
「……あなたは──……」
 溜息交じりにソーリスはそれを見ながら続けた。
「色の種類で中で何が行われているのかまで分かるのですね」
「……ああ」
 小さな家だった。数歩歩いただけで廊下から居間に着いた。二人が見たものはテレビの明かりに照らされた三つの首吊り死体だった。





**************




「あら高宮君。どうしたの青い顔して」
 九川は職員室から出てきたところを息を切らせて走ってきた高宮に呼び止められていた。校舎の中を随分と走ったのか高宮は汗だくで額から雫がぽたぽたと廊下に垂れていた。
「校舎は走ってはダメよ高宮君」
 少しそれを汚いものを見る様な目で見てから九川は気にせずに歩き出しながら言葉を発した。
「私頼まれごとをしているの」
「あのな、お前は一体いくつの部や先生の手伝いをしているんだ……?」
 呆れて言った高宮は正直うんざりしていた。九川を探して、まずは彼女が所属している委員会に行った。放課後に彼女はそこにいると先生から聞いていたからだ。だが、実際に行ってみると九川はいなかった。周りの人間に聞いてみると、九川は委員会の仕事や話し合いをだいたいはすぐに終わらせて、他の部の手伝いや頼まれごとをしているとのことだった。同じ委員会の人間に「サボりか?」と尋ねる高宮に「まさか」と委員会の者は皆口を揃えて首を振った。ある女子は言った。「九川さんは万能だから皆から頼られて大変なんだよ。だから、キミも探しに来たんでしょう?」その通りだった。藁にもすがる思いで、学校一の天才と呼ばれる九川に相談したかった。同じクラスであるし頼りになると評判だったからだ。あとはかなりの美人であり、高宮には少しだけ下心もあったが今はそんなことまったくどうでもいい程に彼は冷静ではなかった。
 頼っては来たものの、やっと見つけはしたものの──高宮は九川のことをあまり知らなかった。だから職員室前からさっさと歩みを進めて行ってしまおうとする九川をなんと呼び止めればいいか迷った。そしてもう直球でいくことにした。
「九川、相談があるんだ少しだけいいか?」
 黒くて長い髪をさらさらと廊下に泳がせながら、すいすいと歩を進める彼女の目はただ前だけを向いていた。
「見ての通り私は忙しいのだけれど、少しだけならいいわよ」
「うお」
 元来、面倒見の良い性格なのか。高宮は思わず変な声をあげた。
「うお……魚の相談なの? 私には荷が重いと思うわ」
「違う。……あのさ」
 そこで高宮は思わずゴクリと喉を鳴らしてしまった。心臓がドキドキと早まり少し手先が震えてしまう。また顏から血の気が引いていくのが分かる。高宮にとって、『アレ』はそれだけの衝撃だった。
 人が一人。消えてしまった。
 あの日、昼休みに浅野と話した高宮は、彼の肩を掴んで引き寄せた。たったそれだけのことしかしなかったはずだ。だというのに浅野の体は砂粒のように崩れて風に吹かれて無くなってしまった。なんの残骸も跡も嘘の様に残らなかった。綺麗さっぱり微塵も、彼の衣服さえもまるで初めからなかったかの様にその瞬間、消失してしまったのだ。
「同じクラスの浅野の……こと……なんだけど」
「ああ、浅野君。彼、最近学校来ないわね」
「あいつさ、なんか最近変だったじゃん?」
「そうだったかしら」
「そうだよっ。……誰とも話そうとしないし、いつも遊んでたメンツとも口を聞かなかったらしい。休み時間になると何も食べずにすぐに中庭の方に行っちまう。……お前もいつも中庭で石原といるじゃん? 浅野もいつも近くにいたろ?」
 石原とはアキのこと。石原秋子。あの大人しい彼女を九川以外は石原と呼び、秋子と呼ぶのは彼女の両親だけ。ちなみにアキと呼ぶのは、いや呼んでいいのは私だけ、と九川は内心で思いつつ、高宮にここで初めて顔を向けた。
 切れ長の瞳に見据えられて、高宮は嬉しい様な怖い様な少しだけたじろいだ。
「私はアキちゃんしか見えていないし他は目に入っていなかったわ。言われてみれば確かに周りに何かいたわね」
「ああ……そう」
 九川が石原と異様な程に仲良しなのは有名な話だったので高宮はそれは流して話を続けた。
「俺さ、あいつが来なくなるその最後の日に、実はあいつと話をしていたんだよ。……あの中庭で」
「ふぅん。……浅野君は何か言っていた?」
「い、いや……なんだか、かまってほしくなさそうで……俺は何か悩みでもあるのか?って聞いたんだけど答えなくてさ」
「どうしたのかしらね? イジメ?」
「だと思ったりもしたんだが答えようとしなくて、あいつさっさとさっきのお前みたく行っちゃおうとするから」
「するから?」
「……か、肩を掴んで……そしたら、あいつ──」
 そこで一度、高宮は肩を落として、ふーと深呼吸をする様に息を吐いた。あの日から高宮はろくに眠れなかった。二、三日のことだったが、もう限界だった。頼りになる誰か──大人を何故だか彼は除外した。話を信じてもらえなさそうだと思春期らしい思い込みだったかもしれない。かといって仲の良い馬鹿な友達達には言えなかった。そこで九川。九川しかいなかったのだ。
「浅野は俺が引っ張ると、崩れて消えてしまったんだ」
「……そう」
 九川はなんともないようにそう答えると高宮から視線を外した。
「信じてないのかよ!? 本当に、本当に浅野はっ……」
「大丈夫、信じているわ高宮君。私、あなたの言ったことを信じている」
 後ろ向きで表情は高宮から見えはしなかったが、彼女はそう答えた。その言葉は決して馬鹿にしたりだとか適当にあしらったものではなかった。
「あ、浅野は一体どうしちまったと思う!? 俺の……俺のせいなのかな!?」
「……何故、あなたのせいだと?」
 キョトンとした顔で九川は振り返った。
「だって俺が嫌がるあいつを問い詰めてっ……だからっ……」
「あのね高宮君。人は自分でそんな風に姿を消したりなんかできないわよ。まるで漫画かなにかみたいじゃない」
「で、でも……」
「ああ、ごめんなさい。別に信じていないわけじゃないの。ただ私だったら、そんなとんでもないことに出くわしたなら、すぐにでも警察に行こうと思うけれど、あなたがそうしなかったのはひょっとして浅野君が消えたのは自分のせいだななんて思ったから?」
「うっ……」
 図星だった。
「い、いや、本当はすぐに先生を呼びに行こうと思ったんだぜ? でも、まず信用してもらえないと思った。……なによりも人が消えて、いや死んだのかもしれないのに先生とか言っている場合じゃないんじゃないか、だったら警察を──でも、なんて言う? 引っ張ったら崩れました? 引っ張ったのは誰だ? 俺だ。──ひょっとして真っ先に疑われるのは自分じゃないかって思ったら……」
「あなた…普段は女子の前で格好つけているけど結構、小心者なのね」
「うっ……」
 二回目の呻き。高宮は頼み込むように九川に言った。
「なあ、九川はどうすればいいと思う? やっぱり警察か? ……それとも、黙っていたほうがいいのかな」
「なにを馬鹿な。すぐに警察よ。高宮君は嘘つき呼ばわりだとか色々大変な目に合うかもしれないけど、それは仕方ないんじゃないかしら」
「そ、そんな……万が一、俺が犯人扱いされたら、どうするんだよ……」
「あのね高宮君。あなた結局、自分のことしか考えてないわね」
「うっ……」
 三度目の呻きに高宮は今度は体全体を強張らせていた。
 九川がいつに増して汚い物でも見る様な目つきになっていた。ゴミクズを見る目──男子の中にはその目が好きだとか言う者もいたが、高宮には理解できなかった。彼は優しくされたい派だった。
「浅野君はどうなったのか分からない。だったらまず助けることから考えないといけないんじゃないの? 原因が分からない以上、私達学生にできることなんてたかが知れている。だから警察に頼るしか現状はないんじゃないかしら。……あなたが警察に連絡したくないのは自分が疑われるのが嫌だからでしょう? 浅野君のことなんて全然心配していないじゃない」
「ぜ、全然なんてことない……よ……」
 否定は弱々しく高宮は自身の惰弱さと矮小さに今すぐに九川の前から身を消したくなった。それこそあの浅野の様に。もしかして浅野の奴も俺に問い詰められてこんな気分だったのだろうか? だったら次、消えるのは俺の番なのか?
「まあ、いいわ」
 瞬時にして目の前から威圧感が霧散した。本当にどうでもいいとでも言う様に九川はまた背を向けて歩き出した。
「な、なあっ! 助けてくれないのかよ九川は!? せめて、一緒に……警察に……」
「警察くらい一人で行きなさいよ。……それとも高宮君は女の子と一緒じゃなきゃ警察にも行けないの?」
「お前、委員会の会長だろ!? 生徒が困ってたら少しはさ……助けてやってもいいじゃないか!」
「だから相談にのっていたじゃない」
 まさに逆ギレというやつだなと九川は呆れてスタスタと歩きだした。
「お前こそ浅野のことなんかどうでもいいと思ってんだろ!?」
「……」
「石原以外はどうでもいいって思ってんだろ!?」
 ぴたりとその言葉に足を止め──溜息──九川は黒髪を翻しながら振り返る。
「ええ、そうよ。あなただって本当は浅野君のことなんてどうでもいいと思ってるんでしょう?」
「そうだよ! 浅野なんてどうでもいいよ! クラスの連中に頼まれたから話を聞きに行ってやっただけなのに、あの野郎っ! 俺に迷惑かけてんじゃねぇよ!」
 一気に高宮はそう捲し立てると、ハッとして我にかえって、ソレを見た。
 九川の笑顔──。石原といる時以外は絶対に見せないと言われている九川の笑顔。本当に嬉しそうに、優しささえ感じる楽しそうな微笑。高宮はそれに見惚れた。目を軽く細めて口元の薄い桃色の唇が笑みをつくる。それだけのことで人はここまで印象が変わるのだろうか。九川の笑顔には妙な色気があった。
「ふふ……初めからそう言えばいいじゃない高宮君」
「え?」
「自分が助かりたいから私を探していたんでしょう? 浅野君には迷惑をかけられたわよねぇ?」
「え、あ、ああ……そうだよ……」
「ふふふ……それでいいじゃない。私、正直に心の底からの本音を言う人が好きなのよ」
 ドキリと高宮の心臓は大きく跳ねた。ゆっくりと九川が自分へと笑顔で近づいてくる。この距離で彼女の笑顔を見たのはきっと俺だけだ──という勝手な想像が高宮をやけに興奮させた。
「あなたは自分が助かりたい。それ以外にも私を探していた理由があるでしょう? ほら、はっきり言いなさいよ」
 先程までの無感情に僅かに棘があった九川の言葉とは打って変わって、音一つ一つに彼女の吐息が乗っかっているかの様に艶っぽい言葉。高宮の脳は痺れにも似たものを感じていた。
「く、九川さんと……話したいと……」
「ふふふ……そうなの。私と話したかったのね高宮君は。でも……話しをするだけで良かったのかしら? あんな浅野とかいう根暗のどうでもいい奴のことなんかを話すだけであなたは満足だったのかしら?」
 先程は浅野を心配しない自分を貶していなかっただろうか?普通はそんな違和感を覚えるはずだったが今の高宮にはそこまでの余裕はない。
「い、いや……俺は九川さんともっと……仲良く……」
「仲良く?」
 ふぅーと九川の吐息が首にかかったような気がして、高宮の体は硬直した。
「仲良くなにをしたいのか言いなさいよ」
「仲良く……九川さんと……したいです」
「なにをしたいの?」
 いつの間にか九川の体が密着していた。高宮の頭は痺れが治らない。九川の黒髪がさわさわと風に揺れて自分の腕を刺激していく。距離感がゼロになった九川の体温と柔らかさに最早、混乱の極致にあった。
「なにをしたいの?」
 急かすように同じ問いをかけられ、高宮は答えた。
「──そう。そんなことがしたいの。いいわ……ふふふ。だったら、着いてらっしゃいな」
 指先で顎を誘うが如く撫で上げられ、高宮の理性はそこで崩壊した 





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 窓から眺める月を遮る暗雲に少しだけ視線を下げると眼下に広がる無数のビルや住宅の明かりがあった。その一つ一つの明かりにぼんやりと色鉛筆で塗りたくった様に色が滲んでいる。これが彼──宇佐木光矢の見える『色』だった。
 だいたいの色にプラス黒の滲みで異変が起こっている合図になっているようでそこまで複雑ではない。黒の滲みさえなければそこは全くの安全地帯なのだ。青の色は人間のマイナスのイメージが膨らんでいる時にそこに絡んでくる。自殺者の家は青色が全体に塗りたくられ、上から黒が滲む。それで宇佐木は確信する──手遅れだと。
「こうやって、一つ一つの家の色が全部マシな色してりゃ、俺だって多少は普通に生きられたのかもしれねぇ」
「……悲惨ですね。そいうものが見えてしまうというのは」
 そう言いながらソーリスは赤ワインを口へと流し込んだ。ソーリスは毎日飲むことが習慣なのか、ホテルの部屋の冷蔵庫の中にはビール、シャンパン、白ワイン。冷蔵庫の前には赤ワイン、ウイスキー、日本酒、焼酎と所狭しに置かれていた。こいつはきっとアル中なんだろうなと宇佐木は少しだけ哀れんでいた。
「まあ、昔からだ。生まれつきだったしな。色が見えるのは。だから慣れっこだ」
「そうですか」 
 返事してワインを飲みきり、また次をなみなみと注ぐ。そしてソーリスは宇佐木と向かい側に腰を下ろして尋ねた。
「この辺でハッキリとさせておきたいので聞いておきます」
「……なんでもどうぞ」
 宇佐木はもうこの男にはなにも隠し事はしないと思っていた。ソーリスにはどこか人の殻を打ち破る力があるのか宇佐木は人生で初めての妙な感覚に陥っていた。こいつになら何を話してもいいし、何を知ってもらってもいい。
 ──本当に俺はどうしちまったんだ?
「あなたの能力です。まず分かったのが家などの無機質からも色が発せられているということですよね? 人間からは?」
「人にも色は絡んでるぜ。あんたは緑だ。でも少しだけ青と黄色も含んでる。色んな目に遭ってきた人間がなる組み合わせだ」
 実は別の色も混じっているがそれを宇佐木は隠してしまった。
「……なるほど。あなた本当になんで強盗なんてものになったんでしょうね? 私ならその能力で億万長者になれる自信がありますよ」
「……言ったろ? いい能力じゃねぇよ。なんの役にも立たねぇ」
 ふぅん、と言ってソーリスはワインを一気に飲んだ。気のせいか昨日よりも飲むペースが早い。
「どうしたんだソーリス。機嫌でも悪いのか?」
「あはは。いえいえ、そうではありませんよ。赤ワインは軽いなぁと。昨日あなたと呑んだ焼酎に比べたら軽すぎて……赤ワインでもフルボディのガツンとくるやつを買えばよかったなと思いましてね」
「酒飲みの感覚が分からん!」
「あっはっは」
 ソーリスは楽しそうに笑った。なんだか最初会った時よりも彼のことを分かったようなそんな気に宇佐木はなっていた。
「では一度見た色と種類は変わらないということですね」
「ああ、そうだな色の属性は決まってる。変わったりなんてしない」
「では鬼は何色でしたか?」
「……」
 宇佐木は黙ったが覚えている。赤だ──とんでもなく濃淡の濃いべったりとした赤。丁度、ソーリスの飲んでいるような赤ワインの色の様だった。
「あんたの赤ワインの色が鬼の色だ。そこに黒が滲んでる。」
「赤ですか。割とありそうな色ですが、赤は一体どういう意味の色なのですか?」
 ──言うのか俺は。宇佐木は少しだけ躊躇したが、だがこいつにすべて言ってしまおうと彼はそういう気になっていた。
「赤は人殺しの色だ」
「人殺しの……色……ですか」
 ソーリスはそう言って「ふふふ」と薄く笑い言った。
「なるほど、私は鬼と同じ色をしていたんですね。カテゴリ分けなら同じ分類でしたしか」
「……さっきも言ったがあんたは緑だ。青と黄色が混じってる。……でも全体に赤が霞んで見える。……これは後悔しながら殺したという色だ」
「──」
 ソーリスは宇佐木の目をまじまじと眺めて、やがて目を瞑った。──本当にこいつはトンデモナイ──ソーリスの率直な感想はそれだった。宇佐木の力に単に驚愕した。自分の本性が暴かれたことなどはどうでもよかった。
「後悔などしてはいないつもりなんですがね。……やれやれ人の深層心理というものは全く分からない。私は後悔していたんですかね?」
「知らねぇよ。……ただ、色はそこにあるだけだ。嘘はつかねぇ」
 宇佐木の言葉にソーリスは頷いた。
「ならそうなんでしょう。……あなたの『色』の力、少しずつ分かってきました」
「そうかい。他になにが知りたい?」
「そうですねぇ。ではあなたの目の範囲ですかね。ここから見える家の色が見えるようでしたが、家の中の人間や歩いている人間はどうですか?」
「家の中までは無理さ。遠くだったり、建物で隠れて見えないのも無理だ。あくまで俺の目が捉えて見えているものだけが見えるのさ。丁度──」
 そう言って宇佐木は窓の外を指差した。
「あそこに淡い黄色の家がある。中の人間が人殺しで赤かったとしても俺には分からない。あ、ちなみに黄色は焦りの色だ」
「焦りねぇ……」
 ソーリスは自分にもある色の正体を知り、まじまじと自分の体を眺めた。
「あんたみたいな男でも何かに焦ることがあるんだな」
 宇佐木は軽口のつもりだったが、思いのほかソーリスが無反応だった。少しだけ気まずくなって宇佐木は言った。
「まあ、俺も赤だしな。こんな俺の能力なんて面白くもなんともねぇだろ? だからあんまりアテにすんじゃねぇよ」
「いえいえ、今聞いてみてさらに思いましたよ宇佐木。あなたの能力なしでは今回の鬼退治は成し得ないでしょう。私はそう確信しました。絶対的にあなたの力が必要です」
「酔っ払いにそんなこと言われてもなぁ……」
「なにを言いますか。私はこの程度では酔いませんよ。昨日一緒に飲んで分かったでしょう?」
「……それよりもさ、どうやって鬼を探すんだ? さっきも言ったが俺のこの力は鬼を視界に捉えなくちゃいけない。鬼の赤は特別だ。見れば必ず分かるが……。そのうち鬼が誰かを殺して、それで家に黒の滲みでも現れりゃ家を遠目で見ても見つけることはできるが……」
 鬼を実際に宇佐木の目で捉えれるならソーリスとてその近くにいる。そこまでいけば宇佐木の力は役には立たない。
「あなたには今やってもらっているように夜はこうやって街を上から眺めてもらいます。そうすれば異常があれば外からでも分かるのでしょう? あとは今日のように昼間は私と一緒に街を散策してもらいます。これは新たに何かの異常、もしくは手がかりを発見するためです。最高の目を持っていても出歩かなければ役にはたたないでしょう?」
「それで俺は今日さんざっぱら外を歩かされたのか……」
 げんなりして宇佐木は言った。今日は朝からずっと街のいたるところをソーリスと共に周っていた。側から見れば観光に来た外人とその友人といった具合だった。途中、昨日の自殺の件で羽田警部補に呼ばれて色々とソーリスが話し込んでいたが宇佐木は暇を持て余していた。
「警察署に行った以外はあんたの飲み歩きに付き合わされてるだけかと思ったぜ」
 ソーリスは行く先々で酒を飲んだ。朝から昼間から。時間など関係なく彼は水でも飲むように酒を飲んでいた。
「あっはっは。お酒は私にとって水のようなものです。摂取しないと死んでしまうのです。仕方がない」
「それアル中の発言だよね!?」
「ははははっ。良いツッコミです。宇佐木は面白い。……本当に私はあなたをアテにしているのですよ。だから頼みます鬼を見つけましょう」
 ソーリスはそう言い宇佐木の肩に手を置いた。
「……」
 宇佐木の心はひどく冷えた。どうしてだかとてつもない虚無感に襲われた。
「人に触られるのは嫌いですか?」
「好きじゃない。分かってたのならやめてくれ」
「……」
 ソーリスは少しだけ悲しげに手を引いた。宇佐木はなんだかばつが悪くなり聞いた。
「……どうして俺が人に触られるのが嫌いだと気がついた?」
「あなたの距離感ですかね? 人に触れられたくない人間は三人分のスペースがいつも保たれている。……あなたにハグができる日がくればいいのですが」
「そんな日はこなくていい!」
「あなたはいつの間にかツッコミ担当になってしまいましたねぇ。となると私はボケというわけですか? おかしいですね? 私の方が頭はいいはずなのですが」
「うるせぇよ!」
 なんだかんだでいいコンビの誕生であった。
「では、親交を深めるために二人でお風呂でも入りましょうか!」
「なんでだよ!」
「日本は一緒にお風呂に入る文化があるじゃないですか。銭湯というのでしょう? わたしはまだ入ったことがないのですよ」
「銭湯は銭湯であって、ここはホテルの狭い風呂だ。二人で入るものじゃない」
「そんなものですか? 日本のテレビドラマで小さな家のお風呂でも父親の背中を流す少年のシーンを観ましたよ? やはりそういう風習があると思うのですが」
「それは家族でならまだあり得るが赤の他人では普通はしない!」
「あらあら、赤の他人だなんて宇佐木は冷たいことを言ってくれる。……まあ、いいでしょう。お風呂はもう少し仲良くなってからにしましょうか」
 ──風呂を諦めない!?
 宇佐木は戦慄していた。 
「ところで宇佐木は……今日もちゃんと寝ないのですか?」
「……寝てるさ」
「いえ、そういう意味では。ちゃんとベッドで寝ないのですか、とそういう意味です。あなたのそれはただ床で座っているだけで、浅い眠りが訪れるのを待っているだけに見える」
「寝るのは……」
 ──死ぬのと変わらないから眠りたくないんだよ──そんな子供じみた戯言を口にするのは躊躇われた。いつしか宇佐木は自ら眠ることを拒否していた。眠ってしまうと、もう二度と目覚めないのではないか。寝ている最中に誰かに刺されて死ぬのではないか? 思えば初めて──人を殺した時から宇佐木はそのような妄想とも幻想ともつかぬ考えに囚われ眠れないでいた。自分のように悪行をなしたものが安らぎを得て眠れることなどあるわけがない。そういったどこか自虐めいた後悔や苦悩が宇佐木を眠りから遠ざけていた。眠れないことは宇佐木の精神を静かに蝕んで行っているはずだが──本人はまだ気がついていない。
「眠れないんだ。気にしないでくれ」
「私はこう見えても鈍感でね。よく神経質に思われますが……」
「誰もあんたを神経質なんて思わないよソーリス」
「傷つきますねぇ。……まあ、だからですかね。私はあまり後悔をしない。例え罪なき人間を殺したとしてもです」
「……」
 宇佐木はその言葉の意味を理解するにはまだ『人殺しとしての』経験が浅すぎた。ソーリスは──きっと宇佐木の上をいく程の、悪人なのかもしれない。ソーリスは静かに囁くように言葉を続けた。まるで何かの詩のようにそれは宇佐木の耳に届いた。
「あなたは結局のところなにもかも後悔をしているのでしょう。だから眠れないのではないですか? 強盗も殺人も──あなたにはむいていない」
「……っ」
 宇佐木の体がびくりと少しだけ跳ねた。
 ──人殺しもきっと向いてるよお前──あいつの言葉がソーリスのその言葉と重なりあって耳道を振動していく。いや、脳にダイレクトに響いている。幻聴なのだろう。
「知ったふうな口をきくな」
 神父を睨みつけ、宇佐木は椅子を降りて壁を背にして座り込んだ。
「せめて椅子で眠れないのですか?」
「……壁を背にしているのが落ち着くんだ」
 ──これなら後ろから刺されることはないから。
 スカヴェンジャーは眠らない。眠らないから不意をついて殺されない。そもそもスカヴェンジャーは生死のやりとりに参加などしない。
 屍肉を喰らい生きていく。
 戦うのも殺すのも自分ではない。
 だから誰も殺さない──はずだというのに俺は何人殺してきた。
 いくらなんでも殺し過ぎた。
 復讐だと言ったところで許されざる悪徳であるのには間違いはない。
 いくらなんでも──本当に殺し過ぎた。
「宇佐木。あなたは、そんな生き方をして生きていくべきではない」
「……寝るよ。寝るから。あんたも寝ろ」
 宇佐木は無理矢理に目を閉じた。
「おやすみ宇佐木」
 ソーリスの気配が隣の部屋へと行くまで彼は目を閉じて、そして気配が無くなると同時に目を開けて、窓の外を眺めた。昨日の夜と同じように家々にかかる『色』を眺めて夜を過ごすことにした。別に鬼の気配を探しているというわけではない。
 寝るのが嫌な宇佐木はだいたいはこうして夜を過ごしている。夜はテレビを見たり映画を見たり本を読んだ。でも、やっぱり一番気がまぎれるのは、こうして『色』を見ている時だった。自分にしか見えないこの『色』──それを見ている時だけ宇佐木は確かに生きているという実感を持てたのだ。
 死ぬのが嫌で眠らない。生きているのを実感したくて『色』を見る。
 それが宇佐木光矢の生き方だった。





**************





 九川は第一に人間が嫌いだった。
 嘘をつき虚勢を張る。他人を陥れ矮小にして狡猾。自分本位。どいつもこつも責任逃れか言い訳ばかり。だから逆に。逆に──ではあるが正直な人間は認めることができた。この場合の正直というのは欲望に忠実という意味だった。
 九川はまるで自分が欲深くないと言い張る人間の『演技』全般を忌避していた。そして妬ましさや羨ましさ。葛藤。欲望。そんなものを抱いて苦しんだ挙句の叫びが堪らなく好きだった。先刻の高宮のような。それこそが人間としての当然の行動だからだ。自分が一番可愛いと。それが小さき人間の思考だ。今の世のようになんでも満たされ安全が確保されていなければ、どいつもこいつも演技などする暇や余裕などきっとないはずなのに。まずは誰も彼も生きる為に必死であったはずなのに。その生への執着こそが人間の真の美であるというのに。今の世は誰も死なない為に生きてはいない。それが九川にはどうしようもなく度し難かった。
「あなたが本当のことを言ってくれて私はスッとした気分になったのよ」
 相手の余裕を無くしてから、本音を吐かせるというのは彼女の常套手段だった。ここにそんな技にかかった哀れな羽虫がいた。羽虫に毒牙をかけるべき蜘蛛──九川が動いた。
「あら、高宮君。動けないの?」
「く……くがわ……」
 高宮の唇は僅かに動き、それだけを発した。ぺろりと高宮の首筋に舌を這わせて九川は加虐的な目で言った。
「いいのよ。ここまできたのだから好きにしても」
「お、お前は……一体……」
 高宮はやっとのことでそれだけを搾り出す様に喋り、動かない体を無理矢理に前後へと動かして緊縛から逃れようとした。
 緊縛。いや、高宮の体は何にも縛られてはいなかった。
 狭く薄暗い資料室。カビ臭さで充満したそこにいたのは九川と壁際に追い詰められて動けぬ高宮──そして石原秋子。アキがいた。
「アキに見られていては恥ずかしいのかしら? あらあら。意外とウブというか童貞臭いというか……高宮君ってもっと遊んでるかと思ったわ。ねぇアキ?」
「……」
 石原秋子は無表情に高宮を見ていた。なんの感情も感じられなかった。ただ遠くの景色を眺めるようなそんな澄んだ瞳。
 あれ……石原ってこんなに綺麗だったっけ?高宮はその遠い目をした彼女に少しだけ見惚れた。
「私達は二人同時でも構わないのよ。高宮君」
 ──そんな場合ではなかった。高宮の思考は今は得体の知れない恐怖に支配されていた。
「ふーん、高宮君って昇って名前だったのね。興味が無さ過ぎて今の今まで知らなかったわ」
 自分の瞳をゼロ距離で覗き込む九川がそんな事を言った。
 生徒手帳でも見られたか?そんな様子はない。そういうえば九川。こいつの名前なんて言うんだっけか。
「九川……とにかく……」
 俺から離れて体を動くようにしてくれ──とそこまで言葉が出ない。これは、こいつがやっているのか?ここに来たのはほんの数分前──高宮は爆発してしまいそうな程に高鳴る心臓を抑えつけながら九川に手を引かれてこの資料室まで来た。鍵は九川が持っていて慣れた手つきで開けた。そこに石原秋子がいた。彼女は始めは視線を逸らした。
 大きな期待が石原がいたことで萎んでいってしまった高宮は、九川に「どうしてここに石原が?」と聞いて彼女は「見ていてもらわないと。だって私とアキは凄く仲良しなんだから。なんでもお互いで共有しているのよ」と言った。
 さらにそこでよく分からない蠱惑的な言葉を九川は紡ぐ。
「高宮君はどっちがタイプ?」
「え」
 そこで初めて気がついた。いつの間にか部屋の壁際にまで自分が歩いていたことを。壁を背にして九川と壁に挟まれていた。密着した距離感は九川の匂いと温かさを感じさせ、高宮の思考は先程の絶頂をまた迎え、そしてもう我慢できなかった。
 石原がいても知ったことか。こいつは大人しいし、後でどうとでもなりそうな気がするし、なによりも今すぐに九川を──犯したい。
 高宮はそれしか考えられなくなった。いや、俺は初めからそれしか考えていなかったじゃないか。高嶺の花と誰もが諦めている九川に、やっと浅野の消失を理由に声がかけられることを本当は心底喜んでいたんじゃないのか。
 初めから俺の目的は九川に声をかけること。いや、こいつを自分のものにしてしまうことが──本当の目的。そして今は、こいつを犯った後にあそこで見ている石原も犯ってやるという思考に支配されている。
誘惑的な九川とはとんでもなく楽しめるだろう。石原は逃げるかもしれない。泣き叫ぶこいつを無理矢理に押さえつけるのも悪くはない。
「とてもいい顔をしているわ。あなた……」
 九川は高宮の頬を撫でた。そして口づけをするように唇を近づけた。ギリギリ触れ得ない唇と唇。
「……お……い」
 あまりにも訪れない唇に自分からもう九川を押し倒そうとして──間抜けにも高宮はやっと気がついたのだった。体の自由が効かないことを。
 これはなんだろうと始めは思った。悪夢の中でよくある金縛りにでもなったようなアレに非常に近かった。体が動かないことで全身に変な力が加わり、首が攣りそうになった。
 怪しい笑みの九川を見て、何故だか高宮は分かった。
 こいつの仕業だと。だから先程までは犯してやるとまで意気込んでいた彼も今では蛇に睨まれた蛙の様に動けず怯えているしかなかった。
「なんなんだ……よ、お前は……」
「あら、お言葉ね高宮昇君。私はあなたをさっきよりもとても気に入っているのよ。あの正直な言葉は痺れたわ。だから浅野君のように虫ケラみたく、あなたを扱ってはいないのよ」
「あさ……の」
 浅野はお前に──?
 瞬時に全身が恐怖に包まれた。高宮は必死に不可視の緊縛から逃れようと力を込めるが無駄に終わった。
「大丈夫よ逃げなくとも。あなたは私がもっと素敵にしてあげる」
 高宮は声をあげることができなかった。





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 毎晩、宇佐木は夜の街の『色』を眺めて鬼を探した。
 ソーリスは街の全景を眺められるように毎日、転々とホテルを移動した。高い所から見る方が効率がいい。だから泊まるところは必然的に高い階層のあるホテルになった。
 宇佐木は今まで生きてきて泊まったこともないような高級な所に泊まることになったが特に感慨はなかった。ただ、高い所から見れば確かに手っ取り早いなぁと思っただけだった。元々、彼は贅沢に興味はなかった。
 毎晩、宇佐木は夜に色を眺めて過ごした。そしてソーリスはそれに酒を飲みながら付き合い、宇佐木に適当に絡んでいた。
「ぼぅっと眺めているだけなのも暇でしょう? ほら、あなたはビールを飲みますか?」
 こんな調子だった。
 宇佐木の感覚で色は夜の方が分かりやすい。結局この能力は宇佐木自身の視覚に捉えられたものの状態を見るものなので、視界に入らなければ意味はないのだ。周りが暗い方が家に絡んだ色が分かりやすい。だから昼間はソーリスと巡回した。鬼が一度、出現したこの街を。
「鬼はしばらくは遠くには行かないでしょう」何の根拠かソーリスはそう言った。
 そうして、その言葉の通り四日目の夜に異変はすぐに見つかった。ソーリスと丁度、窓辺で話していた時だった。宇佐木の瞳孔が猫のように急に大きくなったのを神父は見ていた。
「あれ……!」
 宇佐木が指差す方向。三十階から見下ろすその先の遠くの住宅街の方角──。
「どこですか?」
 当然ソーリスには見えない。ぼんやりと赤みを帯びた色が宇佐木の目には映っていた。そして、そこには黒いシミがじわじわとその赤を侵食していく様子が見てとれた。その色の変色は殺人が終わろうとしている証。
「間に合わねぇ……!」
「行きますよ宇佐木!」
 言うやいなやソーリスはウィスキーを飲み干して駆けだした。それに宇佐木も慌ててついて行く。ホテルの廊下を駆け、エレベーターに乗り込み一気に一階まで降りてロビーを抜けてタクシーに乗り込んだ。
「宇佐木、場所は分かりますね」
「ああ。さんざんと街を散策させられたからな」
 宇佐木は運転手に場所を告げた。住所ではなく目印になる建物、橋や道路の名前などで伝えた。運転手は愛想がなく無言で車を出した。ただ、二人の緊張感を汲み取ったのか割と急いでくれてはいるようだった。街のネオンがスライドして横を駆けていく中、宇佐木は隣のソーリスを見た。
「……」
 あの目をしていた。背筋が寒くなるような威圧を感じさせるあの氷の様な瞳。この男の本当の顔──。いつもの酒を飲みながら細めた目で宇佐木に笑いかけてくるあの男と同一人物とは思えなかった。
「宇佐木」
「なんだよ」
「やはり、あなたは凄い」
「あ?」
「キーグスはたまたま出会ってしまいましたが……本来ならばこんなにすぐに見つけられるような種類のものではないのですよ。……私の今回の仕事──日本での滞在期間は言ったでしょうか?」
「いや聞いてねぇ」
「半年です」
「……」
「私は幸運です。あなたに出会えたことが」
「……」
 ソーリスはいつもの笑顔で宇佐木を見た。宇佐木はその顔の方がこいつらしくてイイとそう思った。柄にもなく。宇佐木はソーリスにずっとその顔でいろよと言いたくなった。だが、すぐにソーリスは窓の外を眺めて、窓ガラスに映ったその顔はやはり氷の瞳を宿していた。
「キーグスの無念を晴らす時ですね」
 決意表明ととれるその言葉を聞いて宇佐木も夜の街をただ眺めた。
 車で二十分程の所だった。二人はタクシーを降りて、辺りを見渡した。
 特におかしなところはない。街灯が少ないのか少し薄暗い住宅街だなとソーリスの感覚ではただそう思っただけだった。だが宇佐木には全く別種の世界が映る。申し訳程度に遊具の置かれた変哲も無い公園──その隣の家に溢れていた。
 赤赤赤──しかし今や赤はほとんどが黒の滲みに沈んでいる。宇佐木の感覚ではもう事後だという証拠に他ならなかった。滲みに染まればあとは残り物だけ。スカヴェンジャーはよく知っていた。
「間に合わなかった……」
「あなたは、まだ私に伝えていない感覚があるようですね。間に合わなかったとは? 色は時間や中の様子で変化するのですか」
「……隠していたわけじゃない。ただ伝え難いんだよ。……そうだな。赤全部に黒の滲みがかかれば、赤がやりたいことを終えた後ってことさ」
「赤がやりたいことを終えたあとですか。……なるほど。それで、この赤は? あなたは人殺しの赤と鬼の赤が違うと言っていましたね」
「いるさ。ここに」
「本当にあなたは凄い。……宇佐木は私の後ろを離れないでついてきてください」
 大きな公園の隣に隣接している住居はその反対側の住宅とは道路を挟んでいるし、後ろの家とは庭を隔てて離れている。
「……」
 職業病だろうか。強盗に入られやすそうな家だなとまず初めに宇佐木は思った。やはり単純に隣家との距離は重要な要素となる。鬼がそれを理解してこの家を選んだとは思えないが。
 三階建ての建物。コンクリートが剥き出しのお洒落な今風の家だった。表札が二つある。二世帯住宅というやつだろうか。宇佐木にはよく分からなかった。入り口には車が二つあり、一つはワゴン車。その隣には子供用の小さな駒付きの自転車。
「……っ」
 宇佐木はそれにイラついた。なんでこんな家ばかり狙いやがる。
「そういえば……まだ話して大丈夫か?」
 家の門の前まで来たところで宇佐木はソーリスに念のため尋ねた。
「何か聞くべきことがあるならここで聞いてください。この先はゆっく話ができないかもしれない」
言ったソーリスに宇佐木はあの日を思い出していた。
「……鬼は火を使うのか?」
「火?」
 訝しげにソーリスは振り返った。
「いや、前に俺が鬼を見た家は最後に火事になったんだろ? 鬼の奴がやったんじゃ?」
「ああ……あれですか。大丈夫ですよ。あれはキーグスです」
「キーグスって、あんたの仲間が?」
「ええ、あり得ない話でしょうが、もしも私が死ぬようなことがあれば、あなたは真っ先に逃げてください。……私もキーグスと同じようになります」
「……どういうことだよ。分かるようにに言えよ」
「私達は機密を漏らすわけにはいかない。死んだ時にこの胸の爆薬が自然と作動するようになっているのです。死体さえ残さないようにね」
「……なんだよそりゃ」
「はた迷惑な話でしょうが。こればかりは本当に申し訳ないのです。私にもどうすることもできない。……でも、安心してください。私は死なない」
「ソーリス……お前が死なないのはいいよ。……でも、もし俺があの時にあのガキを連れていかなけりゃ、鬼の奴にやられなかったとしてもあのガキは火事で死んだんじゃないのか? あんたの仲間が燃えたせいでよ」
「……そうでしょうね」
「そうでしょうねって、おいおい」
「なんとでも言ってください宇佐木。私達は人命よりも機密を遵守するロクデナシ集団というわけですよ。でも……宇佐木は本当によく分からない人ですね。あなたは強盗なのですか? 人殺しなのですか? 正義の味方なのですか?」
「……っ」
 宇佐木は言葉に詰まった。自分でも何を言いたかったのか分からなかった。
「まあ、ここから先は地獄です。あなたの本性も私の本性も暴かれるでしょう」
 ソーリスはそう言って地獄の釜の蓋──家の扉を開けた。鍵は掛かっていない。いや、扉はとてつもない力で壊されたのか、留め金が飛び出て取手が歪んでいた。
「行きますよ」
 ソーリスは胸に手を当てて中へと入って行った。
 宇佐木は左のポケットのスタンガンと尻の方のポケットに入れてあるナイフを確認した。いつもの彫刻刀ではなく、所謂バタフライナイフと呼ばれる代物だ。普段はあまり使わないが街を散策中に見つけて手に入れていた。
「あなたに戦闘をさせる気はありませんよ」
 ソーリスはそんな宇佐木の様子が分かったのかそれだけ言って、さらに中へと進んで言った。
 廊下は薄暗く、二階の上の方から漏れてくる明かりだけで辛うじて見えるだけの明度を保っていた。大きな玄関には靴がたくさん置かれていた。子供の靴。大人の靴。サンダル。女性の靴。十何足もあった。一人二足もあればそんなものだ。大所帯というのだけは分かった。
 玄関を上がってすぐに吹き抜けを上へ伸びる螺旋階段があった。洒落た作りで、階段の足場には小さな石がたくさん埋め込まれており、ここもコンクリートと簡素な鉄の手すりだけだった。隣にエレベーターがあった。家の作りからも分かるが、そこそこ裕福な家庭なのだろう。老人の移動手段にと三階建てくらいならあってもおかしくはない。
 ソーリスは迷わずその螺旋階段を二階に上がろうとした。宇佐木は何故だか廊下の奥の色が気になって一人先に行った。
 廊下を曲がった先には──死体があった。老夫婦が折り重なるように倒れていた。お互い胸と背から血を流し綺麗にかばい合うように死んでいた。妻を夫が庇いここで殺された──そんな勝手な想像を宇佐木はして、ソーリスの元に戻った。
「色で何があるのか分かるのでしょう? ……余計なものを見て神経をすり減らしてどうするのです?」
「……なんともねぇよ。行くぞ」
 強がりを言う宇佐木にソーリスは「あなたのそんなところ可愛いですよ」などと言いながら階段を上がって行った。
「っ」
その瞬間だった。ソーリスはどういうわけか階段から素早く跳躍した。
「宇佐木!!」
「……え?」
 ソーリスが彼の名を呼ぶと同時だった。階段の手すりに手をかけようとしていた宇佐木の視界が高速で真横にブレた。宇佐木には何が起こったのか分からない。
「こちらに!」
「うぐ……」
 ソーリスとは何メートルか離れていたはずだったが、気がつけば彼の左腕に体ごと抱え込まれていた。宇佐木は自分を子猫か子犬のようだと思った。
 宇佐木の今までいた所に激しく何かがぶち当たった。
「……!」
 どちゃりというそんな腐った果実が地面に落ちる様な瑞々しい音だった。それは手すりから階段へと尺取虫が這うように落ちた。赤い潰されたりんごの様な塊はソーリスに抱えられていなければ宇佐木に直撃していただろう。
「お、おい……アレは……?」
「人間の上半身の開きに見えますね。左右に肋骨があります」
「……」
 この牧師は冷静に何を言ってるんだと宇佐木は彼の顔を覗き込んだ。
「──」
 やはり、あの氷の表情をソーリスは張り付かせていた。
「鬼はこちらに気がついて誘っているようですね。上にいます」
「上か……」
「宇佐木はここで待っていてもいいですよ」
「……行くよ」
「そうですか」
 牧師は止めなかった。どこか宇佐木が必ずそう言うと分かっていたようだった。彼自身に至っては自分が何故そう答えたのかは分からない。分からないが行くしかない。そんな気がした。
「とりあえず降ろせよ……」
「ああ、そうでしたね」
 二人は鬼の元へと螺旋階段を上がっていく。
 鬼が誘う──?あれだけ凶暴なくせに、そんな人間染みた真似までするというのか。宇佐木はその鬼の知性や策略を感じさせる行動に怖気を感じた。とんでもない怪力で知恵まであるバケモノに……ソーリスは勝てるのか?
 速度を落とすことなく階段を上がりきったソーリスの後ろで宇佐木は自分の呼吸が早くなるのを感じていた。恐怖からくるものだった。
 自分はスカヴェンジャーだ。すべてが終わった後に横から獲物を掻っ攫うだけ。こういったとんでもない事態、危険な荒事に自ら首を突っ込むタイプではなかったはずだ。だが──今は、そう。成り行きでここにいる──のか?俺……なにしてんだっけ?
 不意に宇佐木光矢は自分が何故ここにいるのか分からなくなった。なんのため俺はここにる?警察に捕まりソーリスの命令に従わざるを得なくなったから?自分の罪を消すため?いや、罪は消せない。消すのはあくまで社会的な前科だけだ。囚われの身から自由になるために俺はこうしているのか?だったらさっき階段の下で待つように言われた時にそうしておけば良かったではないか──わざわざ危険を冒して鬼の前に姿を現す必要などないはずで──。
 一体俺はどうしたいんだ?
 階段を上がりきった宇佐木の目に真っ先に飛び込んできたのは壁際で抱き合う少年少女。リビングの真ん中の一つだけついた蛍光灯に二人は照らされていた。
 兄弟だろうか。小学生くらいの姉の方がこちらを見るなり泣き叫びながら助けを求めた。
「た、助けてぇ……!」
「……っ!」
「宇佐木!」
 体が言うことを聞かなかった。ソーリスの声はしっかり耳に届いていた、はずだというのに体はその二人に全力で向かって行った。
「馬鹿はやめなさい! 宇佐木!」
 いつの間にポケットのバタフライナイフを抜き放っていた。折りたたみ式のそれを宇佐木は慣れた手つきでポケットから抜くと同時に戦闘態勢にさせた。刀身が鈍くギラリと煌くのと同時に、もそりと視界の隅でナニか黒いモノが動いた気がした。
 走りながらも首はそのままに目だけで横を見ると──。そこには赤い血溜まり。思わず息を飲むが足は止めない。そして真っ赤な『色』と黒い染みを纏ったヤツがいた。宇佐木は一瞬見ただけでそれが以前会ったあの鬼だと理解できた。血溜まりの中で鬼はいくつかの死体を弄んでいた。二、三人なのだろうが無残に成り果て過ぎたそれは何体のあるのかさえ分からなかった。
 宇佐木は速度を緩めずに子供の前まで辿り着いた。
「……はあ、はあ」
息切れしながら子供になんと声をかけたらいいか分からず、宇佐木はとりあえず呆然とした。
何をしている? 俺は?
 四歳程の男の子の方が震えながら足にしがみ付いてきた。涙と鼻水でぐしょぐしょの顔は暗がりでも分かる程に蒼白。声をあげることさえできず、ただ「ひっ、ひっ」とひきつけを起こしながら尋常じゃない程に震えていた。目の前で父母が惨殺されるこの状況──恐怖を夢だと言えたらいいのにと宇佐木は思った。
「あぁ……!」
 女の子が短い悲鳴をあげていた。
 やば……! 宇佐木は現状を思い出し、はっとして振り返りながら叫んだ。
「ソーリス!」
 目の前が一瞬真っ暗になった──すでに眼前が真っ黒な巨体に覆われていた。ふぅぅぅと肉食獣の様な短い唸りが鼓膜を震わせる。宇佐木は体を一瞬ぎくりと硬直させた。
「……っ」
 鬼は一度見てはいても、やはりとてつもなく恐怖を煽る凶悪な面相をしていた。まさしく鬼。顔を血で真っ赤にして、とてつもなく図太い首に大きな頭がのっかっている様は人間離れしていた。そしてそこから生える長い角が彼を鬼たらしめていた。
 突如、暗闇に閃光と銃声が奔った。ドンドンドンと三度、宇佐木はそれを合図に硬直が解けて二人の子供を両手で抱えて転がるように横っ飛びした。
 入れ違う様に宇佐木達のいた場所に鬼は前のめりになって激しく倒れこんだ。
「まったく……! 宇佐木……あなたは何をしているんですか!?」
「……すまん」
 素直に謝った宇佐木は子供を両手に抱えたまま立ち上がりソーリスの元へと移動した。
 珍しく焦りの表情を宿したソーリスは少し怒った口調で言った。
「……宇佐木言ったでしょう。勝手に突っ走らないでください。私はもう二度とパートナーを失うのはごめんなのです」
「悪かったよ」
「悪かったでは済みませんよ。……まったく。……まあいいでしょう」
 そう言ったソーリスは右手に持っていた大口径の黒い拳銃を構え直して倒れて蠢く鬼へと再度向けた。黒光りするソレは神父にはとても似つかわしくない獲物──武器だった。
「ずいぶんとデカイ銃だな」
 思わず口をついた。宇佐木はあまり拳銃には詳しくはないが大口径のデザートイーグルというのに似ていると思った。いや、それにしてはサイズがずいぶんと大きし形も違う様な気がする。
 あの司祭服の胸に入れてあったのだろうか?宇佐木は職業柄、拳銃を仕込んでいそうな膨らみなどには敏感だ。確かにソーリスは危険を感じた時に胸に手を当ててはいたが、あれだけの大口径の拳銃を入れていたとは到底思えなかった。
「その銃で……倒せるのか?」
 宇佐木は唸り声をあげながら立ち上がろうとする鬼を見ながらソーリスへ尋ねた。唸り声がする度に両足にしがみつく子供の力が強まる気がした。
「倒しますよ。私の銃は魔を屠るためのものですから」
 言うやいなやドンドンドンドンと四発ソーリスは続けざまに鬼を背後から撃った。
「おおおおおっっ……!!!」
 堪らず鬼は咆哮をあげながら立ち上がって一気にこちらへと駆けてくる。
「下がってください!! ……キーグスの仇です! 絶対に倒しますよ!」
 逃げるどころソーリスも鬼に向かって突進した。
「お、おい!」
 宇佐木の声は届かない。ドンドンドンとソーリスはまた三発撃ち、それが鬼の胸や腕に当たるが鬼は速度を緩めない。
 このままじゃ弾き飛ばされる……!
 ソーリスに鬼の体が当たると思った瞬間、彼はスライディングする様な要領で鬼の足元をすり抜けていき背中側に瞬時に回り込んだ。
「愚鈍な巨体が……無様に脳漿撒き散らしながら死になさい」
 ゼロ距離で鬼の後頭部に大口径を当ててソーリスは発砲した。
「ぐううううあああああああ!!!」
 大絶叫をあげながら鬼はなおも豪腕を振り回し、痛みから逃れようとする。
 ソーリスはそれに当たるまいと軽やかにバックステップで距離をとった。宇佐木は神父の尋常ならざる身のこなしに目を剥いていた。
なんて……動きをしやがる。宇佐木は驚愕した。
 だが鬼の生命力はとてつもなく、あれだけの銃弾を体に打ち込まれているにもかかわらずまだ動き続けている。撃ちこまれた頭も血は流れているものの行動不能に陥るまでには至ってはいない。むしろ鬼は自身の生命の危機にその力をさらに倍増させてさえいるように感じる。
「おいおい……大丈夫なのかよソーリス……」
 そもそも拳銃で倒せるのなら警察に任せるべきじゃないのか?本当に大丈夫なのか?宇佐木の頭に疑念が浮かび、それは言葉となる。
「ソーリス……! このままじゃ……こいつ死なないんじゃないのか!?」
「宇佐木。言ったでしょう? 私の銃……ハーティは魔を葬るのです。……絶対にできます。私ならば絶対に。宇佐木、あなたも信じてくれますね?」
「あ、ああ。お前は……だって、そうできると……戦闘が専門だって言ってたしな……」
「ええ、そうです。私はキーグスの仇をとるのです。だから、頼みます。宇佐木、私を信じてください」
 ソーリスは頼み込むように神妙な顔で宇佐木に言った。
 今にも鬼が体勢を立て直してソーリスへと攻撃を仕掛けようとしているその時にこんな話をしている場合ではないはずなのに、何故だかその言葉に宇佐木は答えないといけないような気がした。
「お前がそいつを簡単にぶっ倒せるって俺は思ってんだよ! さっさとやっちまえよ!」
「ありがとうございます!」
 神父はどこから出したのかウィスキーボトルを一気にあおり言った。
「堕ちるがいい」
 左手の甲に銃身を乗せて構え鬼へと発砲した。
「おおおおおおォォォ!」
 鬼の絶叫。
 宇佐木はそのソーリスの持っていた銃が先程と少し形の違う別の銃に見えた。
 いや──色もまったく違うじゃないか──。
 黒くはなく、銀色でさらにもっと大きな銃身をしている。側面には紋様が刻まれており、造りが丁寧な銃だった。
 二丁持っていたのか? 一体どこに?そんなことはどうでもいい、鬼は──?
「これで終わりです」
 言ったソーリスはもう一度、その銀の大銃を鬼へと撃った。
 「……っ!」
 断末魔はなかった。──いや、発せなかったのだ。まるで嘘のようだ。まったく、あっけない程に──鬼の巨大な頭が一瞬にして木っ端微塵に消えて無くなっていた。体には握り拳ほどの大穴が開いている。
 体の大穴は一発目?では二発で仕留めたってことか?一つ目の銃とは段違いのとんでもない破壊力の銃だと宇佐木は思った。
 鬼は絶叫さえあげることなくその巨体を崩した。
 静寂が訪れ、数秒後に宇佐木は忘れていた呼吸を再開して声をやっと発することができた。
「やった……のか……?」
「ええ、やりましたよ宇佐木」
「あはは……ははは……」
 思わず笑いが起き、宇佐木はその場へとへたり込んだ。両脇の子供二人は放心したように固まっている。
「おいおいソーリス、そんな強い銃があるなら最初から使ってくれよ」
「……最初から使えたら苦労はしませんよ」
「どういうことだ?」
 そう聞いた宇佐木はソーリスの手からすでに銃が無いことに気がついた。
「あれ? あの馬鹿でかい銀の銃は?」
「あれですか? ここですよ」
 ソーリスは自分の胸をコンコンと親指で指して言った。
「胸の中に?」
「ええ、あなたの特殊な能力のように私にもこのような力があるのです。……恐れを具現化する力が」
「恐れ……を?」
「ええ、私は銃をひどく恐れている。だから自分の最も恐いものでもって敵を撃つのです。自分が最も恐れているものは最強でしょう? だからそれを具現化する」
「どうして……そんなことが? ……俺の『色』みたいに勝手にできるように?」
「いえいえ、私はあなたのような先天的な天才とは違う。後天的にこの『武器』を持たされているエージェントなのですよ」
「武器……」
「そう武器です。あなたのそれは見ることができる特殊能力で、たまたま戦闘向きではありませんが私の場合は戦闘に特化した恐れを具現化する能力を付与されているのですよ」
「そんなことができるのか今の科学では……」
「……科学というか……魔法の領域なんですかね? よくは知らされてはいませんが、現在の科学ではまだ解明されていない未知の能力らしいんですけどね。そんなものを私は体に埋め込まれているんですよ」
ははは、と少しおどけてソーリスは言った。
「大丈夫なのか、それ……?」
「さあ、今のところは大丈夫ですけどね。まあ、扱い辛いのが難点ですがね。この私の武器『ハーティ』は私の心の恐れを具現化する。分かりやすく言えば私の想像力や精神を形にする能力と言ってもいいです。……つまり、具現化する時に私はそれが真実に最強であるという自信を持たなければならない。もし、自信をあまり持てずにその恐れがたいしたことないのではないかと、私が疑いを持ってしまえば──私の武器は最弱になる。非常に……扱い辛い武器なのですよ」
「……じゃあ、さっきの銀の大きい銃は……」
「ええ、あなたに私を信じてもらったのと、あとは──ウィスキーの力ですかね」
 ははは、とソーリスは珍しく大きく腹を押さえて快活に笑った。
「ええ……。マジかよそれ……」
 宇佐木は大きく脱力してさらに腰が抜けてしまい、しばらく立ち上がることができなかった。
 そして、隣の女の子がぽそりと呟いていた。
「お母さんとお父さんは……?」
「……」
 宇佐木は疲れてただ目を瞑った。その代わり、両手を二人の子供の頭の上に置いた。
 鬼退治──ソーリスと宇佐木で成し終えた初めての夜だった。





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「あんた……連日、なんだかんだと事件を持ち込んでくるな。本当に何者なんだよ」
 だいぶとウンザリ気味にというか嫌味っぽくというかそんな感じで羽田警部補は伸びた顎の無精髭を触りながら言った。白いワイシャツがヨレヨレになっていて、ネクタイも緩めに締められていた。もともと綺麗な風体とは言い難い男臭い羽田はなんだか二日酔いで寝起きの中年を彷彿とさせた。目の下にはくまがが色濃く浮き上がっていて、あまり寝ていないのがうかがえた。
「刑事さん、何も私達が事件を起こしているわけじゃないんですよ。ですから刑事さんが寝られないのも私のせいではないのですよ」
 対して美しい──という言葉がしっくりとくる神父は、にこにことしながら向かい側の机の椅子に腰掛けた。
 警察署の二階、事務の机が並んでいる広い部屋で普段、羽田はデスクワークと待機の時は大方ここにいた。他の署員も数十名程いて、少しだけ好奇の目をソーリスへと向けていた。主に女性署員ではあるが。
 ソーリスは今は宇佐木は連れてはおらず、単身で羽田警部補に会いに来ていた。羽田に聞きたいことがあった。宇佐木がいては少し都合が悪かった。
「いやいや、先日の自殺者の発見も今回の猟奇殺人も見つけてくれて非常に助かってるよ」
 全然そんな風に思ってはいないが、とりあえず社交辞令で羽田はそう言った。
 今回の事件で最も厄介なのが公にできない二人が事件を発見し解決してしまったことで、羽田はその説明を求められるわ、それは話すなと上司からは圧をかけられるわ、まさに精神的にてんやわんやしていた。
もともとソーリスに対しては命令もあり敬語を使ってはいたが、今やそんなことに頭が回らない程に追い詰められていた。
「というか宇佐木は野放しにして……本当に大丈夫なのか? 君も分かってはいるだろうが、あいつは何人も殺している凶悪な殺人犯なんだぞ?」
 これ以上の面倒ごとはゴメンだぞと言いたそうに羽田は言った。
「問題ありません」
 それだけ言ってソーリスは「それよりも」と強制的に話を断ち切り、羽田に用件を述べる。
「頼んであったものは用意できましたか? 拝見したいのですが」
「あんたは俺の上司でもなんでもないのに……なんで俺はこんなことまでさせられているんだろうな?」
 もはや敬語を使わないどころか抗議まで始めだした羽田は溜息まじりで机の上のファイルをごそごそとめくりだて、その中の一つを差し出した。
「宇佐木光矢の過去の記録だ。どの道、今回の事件でもそのうち必要になってはきただろうが……あんたのところはこれを見てどうするっていうんだ?」
「ああ、これですか? これは私が個人的に見ておきたかっただけです」
「な」
 ファイルを開けて資料に目を通しながらソーリスはあっさりと言い、その言葉に羽田は呆然としていた。
そしてすぐに貴様は俺をなんだと思っているんだと猛抗議しようとしたが、ソーリスの言葉に遮られた。
「宇佐木の両親は過去に強盗に殺されている……のですね」
「え? あ、ああ……そうだ、そうだがそれがどうかしたのか? というか何故俺はこんなものを調べさせられて」
「いやいや、本当に助かりましたよ刑事さん! では、また!」
「ちょ、お、おい……」
 感謝の言葉を述べてソーリスはそそくさと逃げるように退室した。
後には出て行ったソーリスが閉めた扉をまじまじと見ている羽田警部補だけが残り、そんな彼は周りの自分を見ている署員達に言った。
「何を見ている?」
 八つ当たりの怒気を含んだその言葉に今度こそ彼の周りからは誰もいなくなったのだった。
「ちっ……」
 舌打ちとともに羽田は気を取り直して宇佐木とソーリスが見つけた一家心中のファイルを取って目を通した。
 亡くなったのは夫婦とその妻の方の母親。三人は首吊り状態で発見された。状況から推察するに無理心中であろうということになっている。ただの心中ではなく無理心中というには理由があった。
 まず初めに亭主、細井卓男、年齢は五十二歳が妻に縄をかけて首を吊らせた。争った形跡はなく妻は恐らく抵抗しなかったのだろう。納得してのことだったのだろうか。
 ただその妻、細井道子五十一歳の母の中尾シゲ八十三歳には抵抗した様子があり、彼女の爪には細井卓男の皮膚に引っ掻いた痕跡があった。
 そして二人を吊った後に亭主は自分の首も吊り──二日後に宇佐木光矢とあの神父に発見された。
「なんでよりによって……あいつらが発見するかな……」
 羽田はそう愚痴た。発見者の証言を報告書にまとめることができない。本当にやり辛い。なにせ、いないことになっている二人の人物。上層部は理解してもマスコミなどに突かれたらどうしたものか。
 しかし、今はそんなことを気にはしていられない。
 そして今回何よりも謎なのが、遺体の足元に置かれた二つの一眼レフカメラ。
 妻と夫の足元にそれぞれ置かれていた。
 一眼レフカメラの中身はすでに現像されていて、その羽田の手元のファイルにある。
 一つには風景ばかり。もう一つのカメラには息子、細井翔(かける)がほとんどの被写体であった。
「……」
 羽田は無言でデスクの引き出しからもう一つのファイルを出した。
 ──『連続行方不明無関心事件』
 そのファイルに書かれたそれを見て巫山戯た事件名だと羽田は鼻で笑った。
 しかし、それはその名の通りであるので仕方がない。
 誰も彼もが確かに無関心なのだ。人がいなくなったことに対して。
 そしてこの一家心中の細井家もそうだった。息子の細井翔が行方不明になっても捜索願いも出さずに、まるで息子などいなかったかのような反応を見せた一家だった。
 羽田は一ヶ月ほど前に直接、生きている頃の彼らと対面して話していたのでよく覚えている。
 息子──ああ、息子はいましがね──あれ、どこに行ったかな?──。
 実の父親はそう言って慌てたように部屋にあった一眼レフカメラを持ち出してきて、そこの液晶に映る息子の姿を見せて、ああ、これが息子なんです。息子なんです。高校で写真部をしてましてね。……おかしいなあ。と首を傾げていたのを羽田は覚えている。
 正直に羽田はその時、父親は認知症なのだろうと思ってあまり相手にしなかった。だが、母親の方ももう一つのカメラを抱えていた。
 そして彼女は言った。
 ──もう風景ばかり。これ誰が撮ったのかしら──。
 羽田はなるほどと思った。確か認知症は連鎖するという記事を読んだことがあり、これはそれなのだろうとその時は思考を停止させた。
 しかし、よく覚えている。そこで怒鳴り散らしていた老婆の姿を。
 ──あんたら、なんで子供のことを忘れとるんじゃ!ふざけるんやないよ!翔が可哀想じゃ!あんたらは親の資格ないよ!──
 ずっとそんなことを叫んでいた。老婆だけが息子のことを忘れていなかったのだ。
 そしてその一家が一ヶ月後、一家心中をした。息子は行方知れずのまま。
 一家心中こそこの家族くらいだが、行方不明は他にもあった。そして『同じく』捜索願いが出されていない。しかも『同じ』学校の生徒が複数。さらに家族の反応も酷似していた。
 故にこれは一つの事件として扱われるようになったのだ。
 この行方不明の連鎖と記憶を無くしている人間の連鎖。きっとなにかがあるに違いない。
 羽田はただただ思っていた。異常だと。集団催眠もしくは組織ぐるみの何かしらの集団エスケープ。子供達をどこに送っているかは知らないが。
 警察は行方不明の高校生に関して今は本腰を入れていて、はっきり言って余裕などない。人員など足りなさ過ぎて、殆どの職員がブラック企業以上に働いている。それが警察という組織だ。
 羽田とて独り身であるからまだいいが家族を持っている職員は本当に大変だろう。
 そんなてんやわんやしている時にあのニコニコした神父が来たらそりゃあ日和見の羽田とてイラつくのも当然だった。
しかも殺人犯の宇佐木光矢を野放しにしているのだ。正直、正気の沙汰ではない。
「ふぅー……」
 羽田は一旦気を落ち着けるためにいつ淹れたかも分からぬコーヒーを口に含み目を閉じた。
 そして一計した。
 すべての行方不明者数名は例の学校の生徒。ならばそこに何かあるかもしれない。
 何も掴めていない今、とにかくそこに行ってみるのもいいだろう。
 きっとあの学校には何かが──ある。




**************




 宇佐木はわりと驚いていた。
 早朝である。学生達の登校の時間。何人かの学生達が行き交う坂道を宇佐木は逆行するように歩いていた。
 まさか、だった──こんなにも早く自由に街を歩けるとは思いもしなかった。
 発端は今朝。起きてすぐにソーリスに今日の朝は別行動をしましょうと言われたのが始まりだった。宇佐木は始めは何を言っているんだろうと理解度の低い寝起きの頭でソーリスの言っていることがよくは分からなかったが、どうやら朝に単独でやりたい仕事があるとのことで宇佐木は別行動を命じられたのだった。訝しくは思ったが宇佐木は特に何も聞かずに「ああ」と短く返事をしていた。
 昼十五時にホテルの前にある公園、噴水の前で待ち合わせということだけで、それまでは街を歩いて鬼の痕跡を捜索しておいてくれと言われた。
 昨晩──。
「これで終わりではありません」
 ソーリスはそう言った。
 今回の事件──鬼は一匹とは限らないのだと。あの後、ホテルに帰ってからそう告げられた。特になんの感慨もない抑揚のない声でソーリスはそれだけを言って珍しく酒も飲まずに寝た。宇佐木もこれで終わりなどとは全く思っていなかったので不思議と驚きはしなかった。彼も何故だかあれで終わったようには思えなかったのだ。
 そして彼は探索を再開した。捜索と言っても宇佐木の場合は前を見ながら歩くだけであるので特に何かするわけでもなく当てもなくブラブラと歩くだけである。
 もしや、と宇佐木は一つだけ勘繰りを入れた。もしかして自分は今監視をつけられているのではないか。結局はソーリスも警察の人間で、これも自分の動向を探るための一つの罠なのではないか?
 ……ないか。……回りくどすぎる。と宇佐木は思ったのでその疑いは歩いている間にすぐに頭の中から煙のように霧散した。
「……」
 それにしてもと宇佐木は辺りをキョロキョロと見回すようにして鬼の痕跡を探りながらに思っていた。
 元気に喋りながら歩く学生達。その中には参考書を読みながら無言で歩く者もいれば、なんだか元気のないようなただ眠いのか一人でとぼとぼ歩く者もいる。どれも皆、昔の自分のように見える。数年前まではそこにあった当たり前なのに今は随分と遠くに感じた。
 いつだったか、あんなにも当たり前だった風景をこんなにも遠くに、そして絶対にもう帰らない日だと感じるようになったのは。
 これからどうしようと宇佐木は考えていた。実際、鬼を探すといってもただ歩くしかない。本当は隠れ家に戻って色々入り用なものを持ってきたかったのだが。あの隠れ家なら警察にも見つかってはいないだろう。
 そこに行こうと思った時に、またもや懐疑の念が生まれた。ソーリスが自分を罠に嵌めて俺の隠れ家を──……アホらしい。
 あの神父がそんな小さな嘘をつくとは思えなかった。それに一度、一緒に鬼と向かい合って分かった。あいつは俺に嘘はつかないし、この俺の力を本当にアテにしてくれている。そんなあいつが俺を罠に嵌めようとしているとは到底思えない。
 宇佐木はそんな風に考えをまとめ、隠れ家へ行こうと決めた。勿論、道すがらではあるが街を見て回って鬼を探すことは続けていた。
 学生達の行く道を逆行する金髪のギラついた目をした男。白いシャツに緩いジーンズは仕事に行くようには到底見えない。
 誰かが、ああはなりたくないよなと言った気がした。宇佐木の被害妄想が生んだ空耳なのかもしれない。
うるせってんだよ。俺も忙しいんだよ。なんたって俺は今、鬼を探してるんだ。何のためかって?何のために?そりゃあ──。
「……」
 自由のため、か?ソーリスに命令されて、やむを得ずか?今、もう逃げちまえばいいんじゃないのか?どうして俺は逃げない?
 うるせえ。うるせえ。
 危険を冒して鬼を探して本当に警察が自由の身にしてくれるのだろうか?いや、まったく信用できない。
 では──ソーリスは? あいつが俺を自由の身にすると言っていた。それなら信用できるのか?宇佐木光矢は人を信用することができるのか?
 そもそもあいつは何者なんだよ?
 うるせえ。うるせえ。うるせえ。
 宇佐木光矢はなんのために鬼を探す──?
 何のために、強盗を殺してスカヴェンジャーなどと呼ばれていた?
「うるせえぇ!」
 いつの間にか足を止めて宇佐木は無意識の内に大声を発していた。
「……」
 ──……なにしてんだ俺は。道で叫びだすなんてそんな馬鹿みたいなことを俺は今までやったことあっただろうか。
「ねぇよな……ははは」
 独りごちながら宇佐木は再度歩き出した。周りの若干の冷やかな視線などもうどうでも良かった。
 宇佐木は少しだけ辺りの『色』を見分けるのを忘れていた。なんとなく精神的に追い詰められていたからだろうか、だからそのとんでもないモノが目の前を通り過ぎるのを宇佐木はしばらく何も考えずに眺めていた。
「え」
 そして、宇佐木はまた足を止めていた。
 ソレを見て、全身にゾワゾワとしたものが奔るのを感じていた。いつものうなじ辺りに感じる電気のような痺れの比ではなかった。全身を百足が這いずり回るような悪寒。不吉な何かに撫で回されているようなそんな気持ちの悪さ。目の前のソレを見ていると宇佐木は呼吸がひどく荒くなった。それ程に──黒かった。黒い染みがその女を完全に飲み込んでいた。
「……っ」
 音が出るほどにゴクリと唾を飲み込んだ。気がついた。
 色が確かに、いや僅かだが赤が──。こいつは……もしかして。
 宇佐木はまじまじと色以外の彼女を見ていた。目の前のその女は誰が見ても普通の大人しそうな女子高生。そして大人しさの象徴の様な黒縁の眼鏡をかけ、さらに大人しさを上塗りするような長い前髪で目を少しだけ隠していた。ただ一人、無表情で歩いていて自分のことを凝視している金髪の男にはまったく気がついていなかった。宇佐木はその女子校生の顔をしっかりと網膜へ、脳へと焼きつけた。そしてすぐに何事もなかったかのように呼吸を整えながら歩きだした。自分を落ち着かせるように深く息を吸い込んでは──吐いて、『ソレ』からとにかく離れていった。
 落ち着け俺。落ち着け。
 そんな風に心で何度か思っているうちに宇佐木は平静を取り戻してきた。そして、先程の女子高生が背後を見ても視界にいないことを確認して、近くを歩いていた男子学生に宇佐木は声をかけた。
「おい、お前んとこの高校の名前なんていうんだよ」
 宇佐木は男子学生から高校の名前を聞き出して、すぐに自分のヤサ──つまりは隠れ家に行った。鍵は電気メーターの上という無用心さだが案の定、管理人すらもまあまあ怪しげな中国人がやっている賃貸の部屋は警察には見つかってはいなかった。宇佐木は目当てのモノを部屋にあった黒いリュックへと詰めて待ち合わせに間に合うように部屋を出た。
 ソーリスの待つ公園に向かう時には宇佐木は周りの『色』は見ていなかった。──もう見る必要がなかった。
「おや、早かったですね宇佐木」
 公園の噴水の前のベンチで本を読んでいるソーリスがいた。公園の時計を見ると待ち合わせの時間の三十分も前だった。宇佐木もやることがないので早くに着いてしまっていた。
「街は回れましたか?」
「まあな」
 返事そこそこに宇佐木はソーリスの読んでいる本を見て言った。
「何の本だよ?」
「ああ、これですか」
 ソーリスはそう言って白いカバーの表紙を見せた。
 ──異端なる男達。表紙は実写の男二人が顔を近づけあっていて何とも妙な雰囲気を醸し出していた。宇佐木はどう見てもそうとしか見えなかったので思わず尋ねた。
「エロ小説に見えんだけど」
 しかも男同士の。
「面白いですよ」
 ニコニコと笑顔でソーリスはそれを胸の内ポケットへと仕舞った。
「……」
 宇佐木の頭に過去の記憶──と言っても数日前の出来事──がフラッシュバックし反芻された。
 「同じベットで寝ましょうか宇佐木」ある時、ソーリスはそう言った。そしてまたある時には「宇佐木、よろしければ肩を流しましょうか? やっぱり日本でお風呂を一緒に入るのはデフォルトなのでは? いやそうでしょうね。入るべきなのでしょうね。ええ入ることにしましょうか宇佐……嘘ですよ、そんな怖い顔をしないでくださいよ宇佐木」風呂に入っている宇佐木にソーリスはそう言った。そして時折というか、もはや四六時中「宇佐木あなたは可愛いですね。犬のようにコロコロしていて、その金髪の頭もワシャワシャと撫で回したくなりますよ」そんなことをこの男はよく寝る前などに宇佐木のいる部屋にやってきて言っていた。
 ……完璧じゃないか……。宇佐木はそう思った。思ってしまった。
 何故、今まで気がつかなかったのか?何個かの記憶を再生し終わってから宇佐木はおずおずと聞いた。いや、聞かずにはいられなかった。
「あんた……ホモなのか?」
「まさか、違いますよ」
 何だか気のせいか空気が重たくなっているような気がする中、動じずにソーリスはニコニコしたまま答え、そしてすぐに続けた。
「私はバイです」
「同じだ!」
「違いますよ。何を言うのですか。それを同じだというのは世界的に大きな問題を生みますよ宇佐木」
「俺はそんなワールドワイドな話をしてないっ」
「いえいえ愛は世界ですよ宇佐木」
「わけがわからん」
「バイと言っても色々ですよ宇佐木。私は確かに男も好きですが今までにお付き合いしたのは女性の方が多いのです」
 多い──ということは男性とも付き合ったことがあるのか、と宇佐木は未知なる世界におののいていた。
「それに宇佐木は私のタイプではないので安心してください」
 タイプだったらどうなっていたのか──。
「手を出したとしても、せいぜい味見程度ですよ」
「安心できねぇよ!」
 宇佐木はこの男と同じホテルに帰ることにかなりの気まずさを感じていたが、今はそんな場合ではなかった。
「バイだとか、そんなどうでもいいことを言っている場合じゃないんだよ。そういえば……」
「はっはっは。宇佐木、バイと場合をかけているのですか! さすがですね、はははは」
「いいから聞けえええ!」
 宇佐木は爆笑するソーリスを無視して先程見た少女のことを端的に話し始めた。次第にソーリスの顔から笑顔が消えていった。
「──……鬼の色が感染った少女?」
 色が感染る。ソーリスに説明する時にそう宇佐木は表現していた。
「ちょっと待ってください宇佐木。私は色が他の人に感染るなんて話を初めて聞きましたよ」
「あれ? 言ってなかったか?」
「ええ。そんな感じで色のことでまだ話していないことがあるなら今のうちに言っておいてください」
「も、もうないと……思う」
「本当ですか?」
「ああ」
 たぶん、と宇佐木は思ったが口にはしなかった。ソーリスの顔が完全にあの氷の表情を宿していたからだ。
「宇佐木、その鬼の色がついた少女の感じをもう一度教えてください。あなたの感覚は常人には伝わり難いところがありますので、何度も聞くかもしれませんが気を悪くしないでください」
「別に構わない。……そうだな。とにかく、まず黒かった。全体的に殺人の黒がこびりついていた。黒が絡んでいるのは現在殺しているか、もしくはそれに関わっているかだ」
「現在、殺しているか……関わっているか。確かあなたはこの間、家を見て黒の染みがあると中で殺人が行われている──と言っていましたよね」
「ああ、そうだな」
「人に黒の色があると殺人に関係しているというは絶対に……そうなのですか? それはどこかで確証を得ているのですか」
「経験上──としか言えないが確実だ」
「信じましょう」
「……あっさりだな」
「今さら疑っても仕方がありませんよ。……それに、先程も言ったようにあなたの感覚は独特過ぎる──が、今のところ外してはいない。四の五の言わずに私はあなたを信じて鬼に辿り着きます。すでに一度、見つけているのです。……今さらですよ宇佐木」
「ああ……そうだな」
「そして、それに赤がかかっていると言っていましたね宇佐木。その赤が、鬼の色だと? 確か、赤は殺人者の色だと。黒との違いは──進行形かどうかですか?」
「うーん……そうだな黒は殺人を行なっているか関わっている色で、赤はその、なんだ……そうだなこの言葉が一番しっくりくるが『属性』だ。まあ、しっくりくるとは言ったが、『称号』でもいいかもしれない。赤は人を殺したという証だ。一度でも殺人をすればずっとついてまわる」
「それは、永遠に?」
「ああ永遠に。赤は消えない……何をしても」
 ──そう、何をしてもこの色は消えることはない。かつての宇佐木はこの色を消したいと、そう思ったこともあった。だが消えない。こびりついて、焦げついて焼けついた焼印の如くこの赤は永遠にその者から離れることはない。
 宇佐木は何やら考えこんでいるソーリスに構わず言葉を続けた。
「そして鬼の赤は特別だった。だから一度でも見れば判別はつく。これはもう言ってたよな? だからあの子についてた赤は鬼の赤で間違いない。そして、色はずっと自分と違う属性を持つものといると段々と感染ってくる」
「感染る……では、その子も鬼になるのですか宇佐木」
「そいつは違う。……あくまで感染った鬼の赤だと俺には分かる。感染った色は半透明のようになってそいつの周りにあるんだよ」
「……本当にあなたの色の力はややこしい感覚ですね」
「仕方ないだろ……そういう風になっちまってるんだから」
 実際に何故、宇佐木の力がこんな風になっているのかは宇佐木自身にも分かりはしない。生まれてからずっと当たり前のように見えているだけなのだ。
「だが、さすがですね宇佐木。二匹目の鬼どころか、その元凶に関わっていそうな人間を見つけるとは」
「ってことはやっぱり、あの子は鬼と関係があるのか?」
「そう考えるのが当然でしょう。鬼を生み出すもの──もしくは鬼そのもの」
 鬼そのもの──あの恐ろしい凶悪な鬼と少女はどう見ても似ても似つかない。宇佐木はそこで当たり前の疑問を口にした。逆にどうして今の今まで聞いてなかったのだろうかという程のレベルだ。
「なあ、鬼って何体いるんだよ? っていうか、そもそもなんなんだよあいつらは」
「……一体葬った後に出る質問とは思えないですね。あなたは何も気にしない人間なのかと思ったら、なんだ。単に恐ろしく鈍いというだけだったのですね」
「うるせぇよ。単に現実感が無さ過ぎてなかなか当たり前の考えができなかっただけだ」
「そんなものですか。……まあ、いいでしょう。鬼というのは人外です」
「人外……人ではないということか? そりゃあそうだろう」
「そりゃあそうです。以上っ」
「……アホか。んな説明があるか! そんなんで分かるか!? っていうかそもそも鬼はどこからやってくるんだよ!?」
「鬼は人の心にいますよ宇佐木」
「いやいや、そういう話ではなくて!」
「いえ、そういう話なのですよ宇佐木」
 そう言ったソーリスの顔は真剣そのものだった。
「鬼はあなたの中にもいます。そして私の中にも、あなたなら──分かるでしょう?」
「……何が言いたい? まさか……」
 宇佐木はソーリスが言いにくそうにしていることが解った。
 鬼は──。
「人なのか? ……元々は人だってのか?」
「ええ。勿論。鬼なんて生物は元来この世には存在しません。人がああなっているだけです。……それが鬼と呼ばれているだけなのですよ」
「なんなんだよ? なんで人が?」
 俺も──鬼になる──のか?
 宇佐木は自分にまとわりつく赤を見て、背筋が凍った。人を殺すたびに赤は濃くなっていく。これがもっと赤に紅に朱に染まれば──俺は。
「宇佐木。人間は勝手に鬼に堕ちることはできません。……だからそんな悲しい顔で自分の色を見なくていいのですよ」
「……」
 この神父はなんでもお見通しなのだ。宇佐木の後悔も怖れも。
「鬼に至るには悪意ある第三者の介入無くしてはあり得ません。……ですので、あなたが鬼になるなんてことはありません。心配しないでください……少なくとも私がそんなことさせません」
 こいつは──俺に気をつかってるのか?宇佐木はなんだか恥ずかしくなっていた。
「別に……俺は心配なんてしてねぇよ」
「ならばいいのです」そう言いベンチから立ち上がった神父は宇佐木を笑顔で見た。太陽のような笑顔だ。こいつは──赤い癖に。人を殺しているはずなのに。なんて笑顔で人を見るんだろう。だが、宇佐木の心はその笑顔で少し落ち着いた。
「宇佐木。鬼を作り出している人間がいます」
「作り出す……? 鬼を?」
「ええ。その少女かは分かりませんが……。我々の機関で鬼は自然発生しないというのは既知の事実なのです。──『術者』と呼ばれる類の人間が必ず近くにいるはず。……そしてその者が何を目的としているかは知りませんが鬼を放っている……私は日本に来る前にそう知らされています」
「……知らされている? そういや、そもそもなんであんたは鬼の存在を知った? 何故、あの警察署に?」
 ソーリスは初めから鬼がいることを知っていた?そういえば、宇佐木が初めて鬼と対面した次の日にはソーリスは警察署に来ていた。いくらなんでも早過ぎる派遣だ。
「ああ、あなたは私がすぐに会いに来たのを不審に思っているのですね。それは簡単です。私達の機関は鬼が現れることを事前に知っていたのですよ」
「知っていたって……なら、最初から止めろよ」
「そうできたらいいのですが……。あなたの色の能力のようなものを持つ者が私達の仲間にもいましてね。『未来予知』の力です。予知されるのは事件が起きる数時間前なので未然に防ぐことが難しく、どうしても後手に回ってしまう」
「予知……俺のなんかより全然すげえじゃねぇか」
「いえいえ、私が言うのもあれですが彼女の能力はひどく限定されているのです。……放っておくと人類の脅威になる──レベルのことしか予知できない。……だから何十万人規模で死ぬ大災害だったとしても人類が絶えるようなものに発展する可能性がない限り彼女は予知できないのです。……まさに人類の守り手ではあるのですが。……目の前の人を救いたいのに、何故私は大きな災厄しか視えないの──と彼女はいつも嘆いていました」
「悩みもスケールでけぇなー」
 自分が小さ過ぎるような気がして宇佐木は若干グレた。
「っていうか」
 宇佐木はすぐにハッとして言った。
「じゃあ……今回のこの鬼の事件って、放っておけば世界規模で危ないことになるってことか?」
「ええ、そうなります。今はまだ小さい規模ですが彼女に予知されたということはそういうことです」
「おいおい……そ、そんなに危機的な状況なのに派遣されてきたのは、あんた一人なのかよ!? 大丈夫なのか?」
「心配しないでください宇佐木。現状は私一人でも解決可能です。そう判断されたということは間違いありません。私達はプロなのです。今までの事件も彼女の『予知』を元にすべて解決に導いてきた。その彼女は言いました。今回の事件が人類の危機に至るには何十年も先のことだと。今はまだ小さな芽のはず──だから私はその芽を今のうちに摘まねばならないのですよ」
「……人類を守る機関」
 こいつは──。
「ソーリスあんたは……本当に正義のヒーローだったってわけか?」
「……宇佐木は私の赤を見たのでしょう? 私はヒーローなどと呼ばれていい人間ではないのですよ。この仕事をしているのも成り行きです」
「……」
 珍しく少しだけソーリスが嫌そうな顔をしたように宇佐木には見えた。だからか宇佐木はそれ以上は言わずに話を進めた。
「──で、どうするんだ? あの女の子の学校なら分かるぞ」
「そうですね。通っている学校が分かるのなら、あなたに見ててもらえればまたすぐに発見できるでしょう」
「じゃあ、下校時間あたりに門の前で張っておけばいずれ出てくるか」
「……少し目立つでしょうが仕方がないですね」
 時刻はまだ高校の授業が終わるには少し早かったが、宇佐木とソーリスはその高校へと向かうことにした。
 宇佐木のその目でその少女を見て、そして彼女の正体を探る。
 鬼を見つけて──倒す。
 宇佐木はまた何故、自分がこんなことをしているのかと考えたが──やめた。
 考えても分からない。
 だいたい自分がどうしてこんな風に生きているのかなんてことも分からないのだから。
 俺ってなんでここにいるんだっけ?
 スカヴェンジャーはいつだって死肉を探し彷徨うだけだ。





**************





 木漏れ日の夢。

 長雨があった。
いつから降っていたかも忘れてしまう程に長くて辛いもので──恵の雨というのも過ぎたるは猶及ばざるが如し。雨は多くの災害も産んでしまう程のものとなった。地滑り、洪水、農作物の不作による飢饉──流れゆく景色の中でそんなものを眺めてきた。
 冷たい雨は体を氷のようにした。冷え切った体を暖めようとその村に滞在して、とにかく多少は雨の防げる大きな木の根に腰をおろした。
 今の私は村の者に声をかけるわけにもいかなかった。何日もそうしていると、たまに声をかけてくる人間がいた。さらに雨の中幾日もそうしていると托鉢だと思ったのか物乞いだと思ったのか、食べ物を置いていく年寄りがいた。子供は近くまできて珍しいのかただ私を眺めていた。
 そんなことをされてしまうと仕方がないなとでも私は思ったのか、雨を止まそうと立ち上がって──そうなればいいなと願ったのだった。
 するとたちまちに雨は止み、村の人間から感謝された。
 私は村の者に、ならばもう少しここにいても構わないかと聞いた。彼らは快く了承してくれた。
 雨の上がりの太陽の暖かさが心地良かった。いや、人々の感謝が嬉しかったのか……心までもが充足していく感覚があった。人から感謝されるというのは悪くはなかった。
 ずっとこの暖かさが続けばいいのに──ずっと満たされていればいいのに。


 厭離。


 そんなことは絶対に不可能だ。
 すぐに体は冷え切る。冷たく震え、裏切りに怯える。
 一時だけの束の間の木漏れ日の暖かさになんの意味がある。
 少しだけいいなと思ってしまっただけのこと。

 六塵の楽欲ぎようよくおほしといへども、皆しつべし。

 だから、村の者は根絶やしにした。
 女子供容赦無く、一切を鏖殺した。



「……」



 妙な夢を見た。
夢を見るなんて──九川はベッドから起きると同時に思わず薄く笑ってしまった。馬鹿みたいじゃない。黒く艶やかな髪をかき上げて立ち上がる。
 簡素で物の少ない七、八畳程の部屋。フローリングに白い壁と天井。そこにあるのは大きな全身が映せる鏡と今寝ていたベッドに白いクローゼットが一つ。それ以外の物は何一つ目に入らない。
 九川は必要な物しか手元に置かない主義だった。だから夢も──もう今の自分にとっては不要でしかない。今の自分を自分たらしめるものだけが存在していれば、それだけで存在を証明するには十分だ。
「まったく本当になんなのかしらね」
 なんていいながら部屋を出て階段を降りると暖かな朝の光と、そこには九川の二人の両親がテーブルについていた。小綺麗な食卓には朝ごはんがあった。トーストに目玉焼きとコーヒーが置かれていた。
「ああ、おはよう礼子」
「おはようございます。お母さんお父さん」
 礼子(れいこ)──九川の下の名だった。九川はこの名が大嫌いだった。あまりにも普通。字も音も読みもすべてが嫌いで学校の者にも絶対に呼ばせなかった。だからそう呼ぶのはこの両親だけだった。
「礼子、コーヒーがいいかしら? 紅茶?」
 母親のその言葉に九川はすぐさま返答する。毎朝同じことを聞いてくるので仕方がない。
「もうお父さんがコーヒーをいただいているので私もそれでいいです」
「あら、今から紅茶を淹れてもいいのよ?」
「気にしないでお母さん。私はお父さんと同じコーヒーが飲みたいわ」
「あら、そうなの?」
 十何年間で九川は両親の性質を理解していた。自分がそうしたいと希望を口にすれば彼らは必ずそれを良いことだとした。自主性を尊重しようとしているのか。とにかく自分達がそう育てているから九川は学内でも成績トップで美しく自慢の我が子に成ったのだと彼らは思っているに違いなかった。両親は九川の完成された個人を見て、自分達の育て方は間違っていなかったのだと思っていた。だから彼らは彼女がそうしたいと言ったのなら必ずそれに従う。なぜならそれが正しい教育プログラムだと信じているからだ。
「……お母さんお父さん」
 故に九川は時折、よくこんな唐突な我儘を言う。
「友達と自宅で勉強会をしたいの。集中するために泊りがけでしたいと思っています。ご飯なんかも自分達で用意します。だから二、三日旅行にでも行ってくれないかしら? お父さんも有給使わなきゃって言っていましたよね?」
 完成された娘の素晴らしい提案に両親の返答は決まりきっていた。



 朝。
 夜。
 その流転が私を狂わせ、私の過去を置き去りにする。
 でも私の存在は変わらない。私は私でその何者でもない。

 でも、大切に思うものや狂おしく愛するものはやはり存在する。

「九川さん」
 いつもの朝の待ち合わせの場所に彼女はいた。
 石原秋子はアキ。イシハラやアキコなんて普通の音は気にくわない。
 アキは私のアキだからその他のなんでもない。
 いつもの時間に必ず私を迎えてくれて、いつも綺麗な可愛い顔でぎこちなく笑ってこちらを見てくれる。
純正。純真無垢。王道かつ清廉。白き処女。
「おはようアキ。今日もとても可愛いですね」
「う、えっ……あ、ありがとうございます」
 毎日言っているにも関わらず、必ず彼女は顔を紅潮させてしまう。とてつもない破壊力。私は今すぐ彼女を自分のモノにしたいという欲望を抑えるのに毎朝必死だ。
「アキ、今日も部活に行くのかしら?」
「あ、そ、そうですね……やっぱり毎日部活に出ないとすぐに感覚を忘れてしまうみたいなんです」
 アキは少し気まずそうにそう返してから耳にかかっていた髪を所在無さげに弄んでいた。
「……」
 九川はそんなアキの様子にここ最近少し嫉妬の炎を燃やしていた。もともと帰宅部で何の部活にも入っていなかったアキだったがここ最近、美術に一目惚れというのをしたらしく、なんだか絵に興味を持ち始めたのだ。対し九川はアキといる時間だけに興味があった。だからそのアキが、自分以外のことに興味を持ったことに些かショックではあった。
 しかし、九川はアキを好きだ。だから彼女を否定もしない。彼女がしたいことはさせてあげたいし、その内容をすべて把握したい。何故、絵が好きなのか。何故、それに興味を惹かれているのか。何故、自分と会う時間を割いてまで美術に没頭しているか。
 彼女のすべてが知りたかった。
「それでアキの満足いく絵は描けたの?」
「そんなすぐには描けないですよ」
 アキはいつもそう言った。
 美術部に入って二ヶ月──あいつが来てから二ヶ月。まだアキはその絵の完成には到達していないようだった。
「それであの先生は結局どうなの?」
 九川は少しだけ声に棘を含ませて聞いた。それはわざとである。その棘のある声色にあからさまに慌てるのだからアキは可愛い、と九川は思っていた。
「え、えええ……べ、別に、見た目と違って優しいし……みんな尊敬していると思うよ」
 九川は当初本当に苛立っていた。その者の存在が自分達の生活を変えてしまったからだ。
 九川とアキは二人並んで登校する。朝のいつもの風景だ。
 学校の人気者で有名な九川は道で幾人もの生徒に「おはよう九川さん」と言われ、彼女はそれに「おはよう。~~さん」と名を必ず添えて返した。アキはただ隣で俯いて歩いていて、いつも声をかけられるのは九川だけであった。
 だが──ここ最近は違った。
 丁度この辺で……。九川がそう警戒した瞬間奴が現れた。
 ──来たなこの泥棒猫め。九川はそう思った。
「よう。委員長さんに、石原。おはよう」
 金髪のそいつは現れたのだった。そしてそいつは笑顔が下手なのかいつも仏頂面で言うのだ。
「お前ら本当に仲良いな。石原下向いて歩き過ぎだぞ。転ぶぞ」
「……おはようございます宇佐木先生。アキはこう見えて前を見ているので大丈夫ですよ」
「そうなのか九川? 前髪で目が見えないからわかんねーな。石原お前髪あげた方がいいんじゃないか? その方が似合うと思うぞ」
 こいつ……! 九川は殺気を漂わせた。
「い、え、あ……わ、私は髪はこ、これで……」
 なんでモジモジしているのアキ──さらに九川は殺気を膨らませた。これだ──これが──ここ最近の九川の苛立ちの要因だった。
 宇佐木光矢──こいつが現れてから!
 敵意を込めた目で九川は宇佐木を見た。
「……?」
 ん? という顔で返された。
 教養のなさそうな表情と髪にヨロヨロの白いシャツはしっかりとズボンにインされておらず飲み会帰りの会社員みたいになっている。それでも当初よりはだいぶマシにはなった。最初こいつはずっとジーンズだった。さすがに注意されたのか途中からスーツにはなったがノーネクタイ、シャツ出しは当たり前で髪の色はずっと金髪だ。いくら美術の講師とはいえウチのような私学の学校で金髪の先生など前代未聞のことだった。
 この宇佐木という男はどうやら美術の界隈ではそこそこ名があるらしく学校側が是非にと誘ったのだという。
 とても信じられはしないが確かにこの男の描く絵は見たものを虜にする何かがあった。九川とてそれを見て一瞬だけ時を忘れた程だった。パースも筆使いもすべてでたらめ──だというのにただ色使いだけは神がかっていた。その配色のセンスはきっと人智を超えている。九川は宇佐木の絵をそう評価していた。
 そしてアキはその宇佐木の絵に──惚れてしまった。
 初めてこの男が講師として訪れたその日に彼女は言った。
「九川さん……ごめんなさい。私、美術部に入ろうと思うの。……いいですか?」
 なんだか泣きそうに言われた。九川は了承するしかなかった。彼女の好きにはさせてやりたい。
「いつも一緒に通ってんのなお前ら。帰りも一緒か?もしあれだったら九川も部活見に来て石原が終わるまで待っててもいいぞ?ついでに見学していけよ」
「その手にはのりませんよ宇佐木先生。私もいつの間に美術部に入っているというオチはあり得ませんよ。私、絵には興味がないのです」
「はっはっは、見抜かれてたか」
 九川は宇佐木の軽口にイライラしていた。
 アキはこいつの絵に心酔しているし、あんまり攻撃的はなれない──どうしたものかと頭を悩ませていた。アキの好きにはさせてやりたい。常に九川の頭にはそれがあった。
「じゃあな、二人とも。石原はまた部活でな。絵また見せてくれよ」
「は、はい!」
 なんでそんなやる気ある声だすのよ──私の時はそんな声だしたことないくせに。
「……」
「九川さん……?」
 宇佐木が校舎の奥へと消えていくのを細めで眺めている九川にアキは訝しげに声をかけた。ここ最近、なんだかずっと機嫌が悪い気がしていてアキは少し戸惑っていた。自分が原因とは清廉無垢な彼女は気がつけない。天然と置き換えてもいい。
「アキはここ最近楽しそうですね」
「え……う、うん……」
 少し怒気が含まれていた九川の声にアキはたじろいだ。
「やっぱり美術部が楽しいのですか?」
「え、う、うん……」
「私といるのとどっちが楽しいのですか」
「あ……」
 そこで少し泣きそうにしている九川の顔を見て、アキは分かってしまった。とてつもなく強くて、とてつもなく寂しがりな彼女が寂しがっていたことを。
「九川さんといるのが一番楽しいし、私は九川さんのことが大好きです」
 アキはこういう時、まっすぐに言葉を言うことができる。
 だがらこそ──九川はこの少女がすべてなのだ。
 ──これこそが──木漏れ日。
 永遠なる木漏れ日。





**************





「おはようございます宇佐木『先生』」
「……おう」
 職員室前、目の前にはいつもの笑顔で彼がいた。いつもの司祭服のままで。
 ソーリス。
 神父。
 そう呼べと彼に言われてから二ヶ月が経った。
 宇佐木と普通に呼び、先生のところだけ強調するあたりこいつのいやらしさを感じた。
 一見して金髪の二人は校舎には不釣り合いだった。だがその金の質は全く違う。ソーリスの金は純正。美しく側頭部に白髪が光る。宇佐木の金は塗りたくったような雑な色。雑種のそれ。
「いやー、宇佐木の先生姿も板についてきましたね。ふふふ」
「うるせぇな殺すぞ」
「あららら、先生なんですから殺すぞなんて言ったら駄目ですよ」
「うるせぇ殺す」
「あはははは」
 神父はそうカラカラと笑って、予鈴の音に「あら、もうこんな時間ですか」なんて言いながら宇佐木に背を向けた。こいつももはやしっかりと先生だった。
「私が道徳や世界史、英語なんて教えるとは思いもしませんでしたよ」
 ソーリスの幾筋か髪に入る白髪が光っていた。
「……今さらだな」
 うんざりして宇佐木は返した。そうだ──俺達はなんでこんなことを。宇佐木は二ヶ月前のことを思い出していた。
 ──二ヶ月前。
 鬼の色を宿した少女を追って学校にソーリスとやって来た後の出来事。
「教師になって潜伏!?」
 電話先にソーリスは珍しく素っ頓狂な声をあげていた。あのだいたいは冷静なソーリスがそんな声をあげるような提案を『機関』が提示してきたのだ。
「いくらなんでもそれは……」
 電話先の『彼女』は言った。
「大丈夫ですよー。すべての手配はこちらがします。鬼の所在がその学校であるのは確定。でもどの人間が関係しているか確証が得れない現状のまま数週間の時が過ぎている。……となれば、関係者として潜伏するかしか策はないじゃないですか~」
 宇佐木にも受話器越しにそう言う女性の陽気な声が聞こえた。ソーリスはそれに「し、しかし……」と返すがもはや上司にそう言われればどうしようもないのか、拒否権はないようだった。
「ソーリスは英語と日本語ができるし、神父キャラで学校にもまあ馴染めるでしょう」
「キャラってなんですか……」
「そのもう一人の日本で得た味方の……ウサキとかいう人は何か特技はあるのかしら? ぴょんぴょん跳ねるのかしら? ふふふ」
 電話越しの女がそう言って、ソーリスはこちらを見てきた。
「跳ねはしませんが……跳ねっ返りといえばそうですが……」
「誰が跳ねっ返りだ!」
 言いながらその時俺はただただ激しく首を横に振ったのだった。
 だが──気がつけば宇佐木は美術部の講師。
 ソーリスは英語教師兼道徳の講師だった。
「まったく宇佐木の絵が上手かったのには驚かされましたよ」
 ソーリスはこの二ヶ月に何度も言った言葉を再度言った。
「……うまかねぇよ」
 宇佐木の返す言葉もいつも同じだった。
 宇佐木は中学時代──美術部だった。絵を描くのがとにかく好きで構図なんて無視した綺麗な『色』を並べて描くのが楽しかった。自分の見ている汚い人々の赤や黒の色ではなく──美しい色の配色をただ塗りたくった『世界』を構築するのが好きだった。現実逃避だったのかもしれない。
 だが──同じ美術部の先輩に「下手くそ」と言われ殴ってあっさり退部となった。
 宇佐木には才能があったのは間違いない。人と違う『色』を常に見ている影響かもしれないが、彼の配色センスは誰をも惹きつけるものがあった。だから先輩のその「下手くそ」という言葉も明らかな嫉妬だったのだ。宇佐木は自分が輝ける舞台から退場してしまった。それからなんとなく高校に進み、なんとなく喧嘩して高校中退。そして今に至る。
「俺だってまた絵を描くなんて思わなかった」
 宇佐木は本当にそう思っていた。しかも高校生に教える立場──ヘタウマの極みである宇佐木が教えられることなど皆無。だから宇佐木は絵を見て「ここの色は少し明るい方がいいんじゃないか」とか色のことしか言わない。
 それでもこの二ヶ月どうにかなっていた。それどころか宇佐木を信頼する生徒がほとんどだった。それ程に宇佐木の絵はインパクトがあったのだ。
「宇佐木には本当はこういう生活があっていたのかもしれませんね。私は最近そう思いますよ」
 ソーリスは太陽のような笑顔でそんなことをいつも言った。
「あんただって、えらい人気じゃないか」
 ソーリスは男女ともに人気があった。話は面白い。しかもこの見た目だ。人を惹きつけないわけがなかった。授業以外の時間にソーリスを訪ねてくる生徒が絶えたことがない程だった。だいたいは女生徒なので、宇佐木はいつもなんだかよく分からない心配をしていた。
「なんですか宇佐木。妬いてるのですか?」
「死ね」
「あはは。冗談ですよ。今日、久々に飲みに行きましょうか宇佐木」
「二日前にガッツリ呑んだと思うが……」
 現に二日前にソーリスと居酒屋を四軒梯子していた。帰宅したのは朝だった。
「もう二日も経つのですか。では今日空けておいてくださいね」
 ニコニコと呑兵衛はそう言った。
「……奢りならまあいいか」
 そう言う宇佐木も酒もソーリスとの会話は嫌いではない。
「そうこなくっちゃですね! ではまた後で」
 ソーリスは機嫌よく授業へと向かっていった。
「……」
 俺達はそもそもなんでこんなことしてるんだ?
 宇佐木はふといつも通り原点回帰する。
 ──そうだ。鬼を探すため──。結局、あの鬼の色を移された少女。彼女の存在だけしか分からない状態にあった。宇佐木の美術部に所属する彼女。
 石原秋子──アキ。鬼の赤を宿す少女。殺人と鬼の赤は日に日に濃くなっていくように思える。──だが、それだけ。 この二ヶ月、他にはなんの手がかりもない。そして鬼が起こしたような事件も起きてはいない。進展はあれからゼロだったのだ。
「一体、これからどうなるんだ」
 宇佐木は独りごちた。
 それでも、どうなるかなんてもう宇佐木はどうでもいいくらい、なんだか。

 今が楽しかった。

 認められる自分。
 楽しい同僚。
 充実する毎日。
 これ以上──彼は手に入ったことなどなかった。スカヴェンジャーとして強盗殺しをしていたあの時のことなど、まるで遠い過去のようだ。たった二ヶ月のことだというのに。だけど、それでも彼は完全に幸福だとはどうしても思えなかった。やはり過去がそう思わせる。いつだって人間は過去にすべてを引きずられていく。
 やはり彼は死肉を探し彷徨うしかないのだ。
「兄貴────」
 宇佐木の呟きを聴くものはいなかった。だがすべての事象は見るものがいるのであれば語られるべきものとして、それは一つの物語として存在する。宇佐木の記憶は『視る者』を元に再生された。
 聞かせなさいな、あなたの話。そう誰かが囁いた。そんな気がした。
 これは過去の記憶。
「親父とお袋を殺した強盗に復讐してやる。正義の味方になるんだ!」
 そう兄は光矢に意気込んで言った。光矢はその兄の言う通りに、『色』を見分けて殺人強盗が行われている家を探した。ただ能力のことは兄にも言ってはいなかった。
 何年かしたある日、ついに念願の──悪を見つけた。中学生の時だ。高校生の兄とその民家へ乗り込んだ。強盗殺人。駆けつけた時はすでに部屋は荒らされ住人の老夫婦が死んでいた。
 フラッシュバック。記憶に照らし出されるたのは自分達の両親の亡骸。親は強盗に刺し殺され、別の部屋で寝ていた自分達だけ助かったあの夜。一夜にして俺達は不幸になった。だから──警察には知らせずに自分達で『やっつけよう』とした。自分達の両親を殺した強盗ではないだろうが、それでもその時の二人にはその『悪』こそが倒す意味のあるものだった。
 兄は少しだけ興奮していた。弟が『偶然』発見した──と思い込んでいる──この現場で、ついに積年の恨みを晴らせるかもしれないのだ。
 小さい頃から親戚の家に預けられたのもすべて強盗のせいだ。
 両親と楽しくクリスマスを迎えられないのも強盗のせいだ。
 誕生日を祝えないのも頭を撫でてもらえないのも全部強盗のせいだ。
 だから──。
 兄はその強盗を後ろから思い切り持ってきていた木刀で殴った。でも──振り返った強盗が反撃してきて、そのまま兄と取っ組み合いになって──俺は持っていたナイフで。
 兄は、殺すつもりはなかったらしい。
 じゃあさ、どうしろってんだよ……。
「お前は人殺しも向いているよ」
「え」
「あのさ、なんでお前はここで強盗がいて殺人が行われてるって分かったんだ?」
 すべてが終わった後、兄が俺を見る目を変えた。
 二人で正義の味方になるはずだったんだ。
 両親を殺した奴じゃなくても同じような強殺野郎ならなんでも良かったはずなんだ。そんなものを倒すことで俺達兄弟は復讐を果たせるはずだったんだ。なのに──なんで。
 兄はそのまま別の家に引き取られた。そこから会ってはいない。あの日、俺が強盗を殺してからはロクに会話をしなかった。俺がしてしまったこと。そのせいで、兄貴と俺は正義の味方になりそびれた。そう、なれたはずだったのに。殺してはいけなかったのか?でもあの時、俺が助けなかったら──兄貴は。
 その過去が俺をずっと苛める。
 だから俺は本当に親父とお袋を殺した強盗を殺すまでは続けてやると思っていた。なんの意味もないことなのに。
 スカヴェンジャーなんて呼ばれて、そのくせ本当の目的は復讐だなんて。
 死肉を喰らう彼ら、本物のスカヴェンジャーに失礼だ。
「はっ──」
 宇佐木はいつの間にか止めていた息を吐いて、すぐに大きく吸った。
 軽い酸欠。俺はナニヲ思い出していた?
 どうして、そんなことを──今さら兄貴のことなんて。
 ────どうでもいいはずはないでしょう?────
「……?」
 どこからか声が聞こえた気がした。
「……」
 耳を澄ましてみても近くの教室から朝のホームルームを開始する挨拶が聞こえてくるだけで、それ以外の 音は今は聴こえない。
「気のせいか……?」
 宇佐木は自分も急いで教室に向かわなければと歩きだした。受け持ちのクラスなどないが、朝のホームルームには参加することになっていた。
 授業。宇佐木は一時間ごとに教室を移動し、ある時は教室で美術の教科書を持って話すこともあった。正直、教室での授業は苦手だった。まず美術の歴史や技法などに全く興味がなかった。だから、宇佐木はほとんど適当な話をしていた。他の時間で十分に頭も使って勉強ばかりしているだろうから、自分の授業くらいはゆっくりさせてやろうと言えば聞こえがいいのか悪いのか分からないが、それでも宇佐木はそのおかげか生徒から人気があった。
 話は主に生徒に「なんか困ったことないかー? あるなら言え」と彼なりの悩み相談のつもりだった。
「絵をやるにも心に余裕がないとできないだろ? だからなんか心配事とかあったら今ここで言え」
 宇佐木の適当な言い回し。それでも分かりやすい高校生──特に体育会系と不良達の心はがっしりと掴んでいた。
 そんな中で一際、彼に食いついていた女子がいた。
 石原秋子──。眼鏡の奥の伏せ目がちの目は長い前髪で半分以上見えない。大人しそうな外見に似合わず宇佐木の授業では活発に手を上げて誰よりも質問した。
「宇佐木先生は絵のお勉強はどこでされたんですか?」
「お、お勉強? ……いやー、そんなんしたかなー? フィーリング? フィーリングだよ」
「先生は高校生の時に家族とうまくいってましたか?」
「家族ぅ? いやー……親戚の家だったし、ほとんど帰ってなかったしなぁ。あっはっはっは」
「宇佐木先生は誰かお付き合いされている人はいるんですか?」
「おつ、お付き合い!? いや、いやいや……」
 元気な男子達の声で「ソーリス先生と付き合ってんじゃね? すっげぇ仲良いし」と野次が飛び、それに女子の高い「キャー」という声が上に被さった。
「俺はノーマルだ!」
「じゃあソーリス先生はノーマルではないと?」
「いやいや、冷静に分析するな石原」
 なんだかんだでこんな感じで、宇佐木の授業?は評判が良かった。
 一日は恐ろしく早い。今までこんなに一日の速度が早く感じることが宇佐木の人生であっただろうかという程だった。それくらい充実しているということなのかもしれない。宇佐木自身もなんだかここ最近楽しくて仕方がないという実感がやはりあった。
 あっという間に放課後になり、宇佐木は美術部に向かった。
 赤い夕日が差し込む美術部にいたのは──石原秋子だった。
 真剣にキャンパスに向かい合い宇佐木が来たことに気がついていなかった。動かない筆。手を上げたまま静止し、絵を睨みつけている。
よく見れば、こいつ結構美人なのに──。宇佐木は眼鏡と髪に隠された石原秋子の素顔をそこで初めて知った気がした。絵に向かい合う石原。そこにこいつのすべてがある気がした。いつだって真剣で真面目に物事を考えて、何故なのかと追求する。
 それが石原秋子。
 宇佐木は声をかけずにひたすら後ろから石原が描くのを待っていた。邪魔はできない気がした。彼女も息を止めて集中しているように気がしていたからだ。
「先生みたいに早く描けないんです」
「なんだ気がついていたのか」
「うわっっっ!!」
 彼女の全身がびくりと猫みたいに跳ね上がった。すぐさま石原は宇佐木を凝視した。
「せ、せ、せ、せ先生!? いつからそこに!?」
「ああ……悪い。邪魔できないと思って……」
 どうやら先程のは独り言だったらしい。胸に手を当てて目を見開いている石原。顔は真っ赤でどこか泣きそうに見えた。
「石原。別に早く描く必要なんてないぞ。考えて描けばいい。俺は──初めから描くものが決まっているだけだ」
「描くものが決まっている……んですか? それは普通じゃないですか? 何を描くか決まっているなんて」
「そうか? じゃあなんで石原は今筆が動かない?」
「え? ……描きたいものをどう表現すればいいか……それが分からないから」
「描きたいものも表現の仕方も俺は決まっている。……だからさっさと描いているだけで、それが凄いだとかそんなことはない。石原は石原の速さで表現の仕方を考えればいい」
「でも、考えて分からなくてずっと動けなかったら?」
「そん時は適当に描いてみればいい。それで答えが見つかる時もあれば、あー違うなーって時もある。まあ、なんにせよ絵をしているだけでお前は成長してんだから心配とかすんな! いいから描け!」
「……」
 石原はきょとんとした。無理もない。宇佐木自身も何を言ってんだと思っていた。
 しかし──。
「……はぁ……。だから先生って凄いんですよね」
「うぇ?」
 宇佐木は思わず変な声をあげた。羨望の瞳でこちらを眺める石原の瞳。どこか潤んでいるようにも見える。なんだかやけに艶っぽい視線──大人し目な見た目に反して石原の体型はどこか大人びている。平均よりも大き目の胸も尻もいつも目についてしまう。いや、そんな風に感じること自体どうかしている。宇佐木は頭を振った。
「そ、そういや他の皆は?」
 宇佐木はなんだか堪らず辺りを見回した。石原以外は部活の人間が誰もいない。
「先生、今日は部活はおやすみですよ。先生が昨日言っていたじゃないですか」
「え……あ、そうだったな」
 じゃあ石原はなんでいるんだ。……それは愚問だった。彼女は放課後に常にここにいた。
「今日くらい休んでもいいんだぞ石原」
「休んでも何もすることがないです」
「そ、そうか……」
 それはそれで問題な気もするが。
 かちこちと時計が時を刻む音だけが響いていた。俯く石原。どうしたらいいか分からない宇佐木。
 だからいつも、こう言った。
「じゃあ──なんか描くか」
「……はい!」
 そう言うと石原はいつもは見せない満面の笑みで頷くのだった。




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「──……?」
 これはなんだ。羽田警部補ははっとして足を止めた。最初に目に飛び込んできたのは朱色に染まった空だった。とてつもない違和感とどこからきたのか不明の虚脱感。
 じくりと痛んだこめかみを指で抑えて数秒考え込んだ。
 どこだここは……。
 とりあえず辺りを見渡すとどうやらどこかの中学か高校の門の前のようだった。数名の生徒が下校している様子を見ているとそれは高校生ぐらいだと分かった。
 分かったが──そもそも私は何故こんなところに?前後の記憶が曖昧だった。霞がかかったようにそれはなかなかはっきりとしない。まるで朝起きた時にさっきまで見ていた夢を思い出せない時のような歯痒さがあった。
 一番最後の記憶を朧げな頭から掘り返して、なんとか解答に行き着いた。
「たしか……」
 私は行方不明者の多いこの高校に話を聞きに行こうとしていたのだ。
 しかしどうも記憶が警察署を出たところあたりから途切れている。
 記憶がない……覚えていない……。
 羽田は妙な共通点を見出していた。あの自殺していた家族と同じだ──とそう感じた。
 彼らも自分の息子のことを忘れていたし、他の行方不明者の家族も似たような反応だった。
 そしてこの自分のこの体験。おかしいとしか言いようがない。
「ねぇーあの人、またあそこでボーっとしてるよーもう最近しょっちゅうじゃない?」
「しぃーっ、聞こえちゃうってばー……」
 最悪にもそんなことをこちらを見ながら通り過ぎていく女子高生がいる。羽田は自分もどうやらこの事件になんらかの形で関わり、そして『囚われ』てしまったのだと感じた。
「あー……こりゃ俺には荷が重いか……」
 なんて半ば諦めてかそんなことを言いながら羽田は歩きだそうとした。
「……?」
 ズボンを何かに引っ張られていて足が進まなかった。これ以上怖いことは勘弁してくれよと思いながら首を後ろに向けると足元に少年がいた。
「やあ、おじさんっ」
 元気よくいきなり外国人の少年に挨拶をされた。子供特有の黒い艶のある髪にくりくりとした目が人形のように大きく羽田を見ていた。ブカブカの紺のコートがどこか少年に似つかわしくはなく、顔立ちよりもその雰囲気全体で日本人ではないように感じるから不思議だなと羽田はよく分からない印象を少年から受けた。
「……?」
 羽田は唖然として声が出せずにいた。少年はぷーと頬っぺたを膨らませた。
「もうっ。挨拶をされたら返さないとダメなんですよっ。まったくこれだから日本人って……」
「あ、ああ……こんにちは」
「はい、よくできました」
 パンと両手を胸の前で叩いて満面の笑みで可愛らしい顔を向けてくる。
 なんなんだ、と面倒臭そうに羽田は周りに親がいないかキョロキョロと探し始めた。
「僕は一人だよ。おじさん」
 ふぅーと大きく溜息をついた羽田は諦めて少年と言葉を交わすことにした。羽田は子供がとても苦手だった。
「……おじさんに何か用かな?」
 笑顔を作ったつもりだったが自信はなかった。とりあえず子供が泣く様子はなかったのでセーフだろうと羽田そうは思った。
「僕もこの高校に用事があったんだけどねー」
「そうなのか」
 親類でもいるのかと適当に相槌をうち羽田は早く離れようと思っていた。
「ちょっと入り辛くて。そんな時におじさんが出てきてさ。良かったら中のこと聞かせてほしいなーって」
「あー……それは」
 なにも覚えていないし、そもそもこのよく分からない子供ともう話していたくはなかった。羽田は適当に「それじゃあ、おじさん忙しいからっ」と言って駆け出そうとし──。
「大丈夫だよおじさん。何も覚えていなくても」
「え?」
「おじさんの中身に直接訊くから──」
 そう言った少年が動いた気がした。
「な」
 ジジジと電気が体に流れてきたような感覚があった。
 少年が自分の手を掴んだと思った瞬間、頭の中が揉みくちゃに掻き回されているような感覚に陥った。
「あ、あ、あ」
 自然と羽田の口からはだらしのない呻きだけが漏れた。羽田は半分寝ているような、それでいて頭の中はクリアになっているような曖昧な状態になり、体は一ミリも動かせなかった。
 見たこともない高校内部を歩き回る映像──これは?
 知らない生徒や先生達と話す自分。こんな記憶は羽田は知らない。
 そこに黒髪の少女がいた。
「──!」
 羽田の体がビクリと跳ねた。
 それは恐怖によるものだった。
「そうそう。怖いってことはな。覚えてるもんなんだよオッサン」
 先程までの少年の口調ではなかった。
「なるほど……こりゃあマズイかもだな」
 少年は大人びた顔でニヤリと笑い顎に手を当てた。




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「だから私はもうここではなにも起きないのではないかと思うのですよ宇佐木」
 何杯目かのビールを呑みながらソーリスはそう推測を述べた。
「もう何も起きない……」
 焼き鳥を齧りながら反芻する宇佐木も平凡な日常を過ごすうちになんとなくそんな気はしていた。鬼はもう、いないのではないか──。あの日から何も起きない。
 ソーリスと宇佐木は約束通りワイワイと喧しいいつもの居酒屋で飲んでいた。どうでもいい世間話。変わった生徒の話。宇佐木の評判の話。だいたい二人がする話は『表向き』の仕事の話ばかり。だからソーリスが本来の自分達の目的に関わった話をしたのは久しぶりだった。宇佐木はそう思っていた。
「私と宇佐木が鬼を倒したことで他の鬼や術者がもう行動を起こすのはマズイと感じたのかもしれません」
「っていうか、あんたが鬼を倒したのを知ったのなら他の場所に逃げたんじゃねぇの?」
 いや、そんなはずはないと言いながら宇佐木は思った。なぜなら石原の色はどんどん深くなるばかりで──。赤く紅く朱く。鬼の深くどろどろとしたあの赤を思い出すだけで宇佐木は喉に迫り上がるものを感じた。
「かもしれませんね。でも私の組織から特に何かしらの鬼が起こしたような事件の報告もない。──完全に動きが止まったのですよね……これをどう見るか」
「そもそもさ」
 宇佐木は言いながらソーリスに負けじとビールジョッキを傾け喉に流しこんだ。一応今のところソーリスと同じペースを保っている。……どうせ負けるけどな!
「そもそも……なにが目的なんだ鬼は? 術者……だっけか? 鬼を操っている奴もいるかもしれないんだろ? そいつら何がしたかったんだ? ソーリスがきてビビって鬼に人を襲わせるのをやめた。そういう話でいいのかこれ?」
「あなたらしく簡単に言うとそういうことになりますかね」
「シンプルイズベストだ!」
「まあ私も簡単なのは嫌いではありませんよ。……鬼の目的は殺すこと喰らうこと──だけです。これこそまさにシンプルですよね。鬼はただ人を殺し喰らうだけの存在です。だから、術者はそれによって何かしらの益を得る人物だったのでしょう」
「……恨みか? 殺された家族との接点が」
「いや、それはないでしょう」
 宇佐木の意見をあっさりとソーリスは否定した。
「鬼に人の判別は不可能ですよ。術者が上手く誘導したとしても……いえ、それは考え難いですね。恨みがあるなら鬼など使わずとも術者が殺せばいい。鬼を喚べるほどのものです。それくらいは造作もないでしょう」
「……じゃあ一体何が目的なんだろうな」
「さあ、ですがそれもどうやら我々がいるうちは中断しているようです。ですから、まあいいのではないでしょうかね」
「いいって……おいおい」
 ソーリスはここ最近いつもこれだった。宇佐木が本来の目的の話を切り出すと「まあまあ今は何も起こってはいませんし」とか「私達がここにいればなにも起きないのではないでしょうかね」なんて、かなり呑気なのだった。なんだか宇佐木の方が焦っている。
「ソーリスあんた、このままでもいいのか? 鬼の動きがないとあんたはずっと先生やってんのかよ」
「ええ、そうなるでしょうね」
 なんともないように言うソーリス。
「あんた……今の状態って、その……なんだ。好きなのか?」
 宇佐木の言い難そうな問いに、ソーリスは一瞬きょとんとして目を丸くした。そしてすぐに柔らかい笑顔を見せた。
「勿論ですよ宇佐木。私は今がずっと続けばいい。……そう思っています」
「……」
 初めてソーリスと会った時にも思った。太陽の様な笑顔だと。でも今は違った。本当に心の底から幸せそうな、ただ単に明るいだけではない真の笑顔をしていた。力の抜けた偽りのない柔らかさがそこにはあった。
「あんた仕事、嫌いだったんだろ?」
「……お仕事は……好きなのかと聞かれればそうとは言えません。……かといって嫌いというのではなく──逃れられない。そう私は逃れられないのですよ宇佐木」
 逃れられない。例のソーリスのいる秘密結社とやらからだろう。機関やら協会だとかソーリスは言うが宇佐木には結局のところなんなのかよく分からない。機密が漏れる危険があれば死体を燃やしてまで隠匿しようとする奴ら。だが、世界の危機を救おうとするなんだか凄い集団のいる組織──というだけの認識だ。
「まあ私はとにかく今がなるべく長く続いてくれればいいと思っています。……あなたもそうではないのですか宇佐木」
「俺は……そうだな。こんなの初めてだからよくわかんねーけど、まあ……なんだ」
「素直じゃないですねぇ」
「うるせ」
 ────……。
 石原の赤がどんどん濃くなっていることを宇佐木はソーリスに伝えていない。何故なのかと言われれば──分からない。石原は普段まったく普通で問題がない。だから俺が見ていれば……。いや、違う──彼女の今を壊したくない。いや、これも違うな。結局、宇佐木もソーリスと同じなのかもしれない。彼自身も今を気に入っている。だから、この日常を壊したくないのだ。
 石原はやはり鬼に関係はしている。宇佐木には色でそれが分かる。だが、石原にそのことを聞くのも、ソーリスに色がどんどん濃くなっていることを言うのも宇佐木はこの数ヶ月しなかった。
 誰もが今を──壊したくない。だから、亀裂の音が少しでも聞こえてくれば人は怯えてしまう。宇佐木にはその石原の色が、今の自分の世界を壊してしまう亀裂の象徴に見えていた。
「……」
 ソーリスが宇佐木の瞳の奥を覗き込んでいた。
 その後少しして、日が変わる少し前にソーリスが「今日は早めに帰りましょうか」などと珍しく言ったのでお開きとなった。会計を済ませ、外に出て宇佐木は体をぶるると震わせた。いやに冷えていた。季節はもう冬へとさしかかっていた。酒で火照った体は一瞬で冷えて、芯から震えがきたのだ
「寒くなりましたね。今日はもう帰りましょう宇佐木。……私のホテルに来ますか?」
「いかねー。毎回誘う目的はなんなんですかね!?」
「いや、それ聞きますか宇佐木。お酒で間違いが起こることはよくあることですよ」
「起こるか!」
「あははははは」
 穏やかな友人との会話。美味しいお酒にご飯。楽しく絵が描ける。こんなに幸せなんてそれこそこっちが『おかしい』のでは────。
 そんな風に思ってはダメだ。それを当たり前だと享受しているうちは当たり前のものも、それが『おかしい』だなんて思ってしまっては。
 酔っ払い二人が帰り道にさしかかったところで、亀裂に大きなヒビが生じた。宇佐木はばりんと割れる様な音がしたような気がした。
 目に何かが映る。
 眼前に漆黒が佇んでいた。
「────」
 どうしてだか声が出なかった。
 その目の前の漆黒に気がつかずにソーリスは宇佐木に笑いかけてきている。まるで宇佐木にしか見えないとでもいうかのように。
 ソレは堂々といつもの制服姿のまま、黒い髪をなびかせていた。ただの女生徒でしかない彼女を見て宇佐木は足を止めて固まってしまったのだ。
 九川──。石原と仲の良い綺麗な黒髪の少女。身長が高くスラリとしている。
「────」
 街から音が消えた。
 どうして今まで気がつかなかったのだろうと宇佐木は思った。
 どうして今までそう思えなかったのだろうと宇佐木は不思議に感じた。
 石原は基本的にというか絶対的に友達のいない生徒。
 おそらく美術部でも宇佐木としか会話していないのだ。
 石原は孤高か? いや、違うな。一人だけ話をする生徒がいただろう。いや、それも違うな。
 美術部以外は常にそいつと一緒にいたじゃないか──いや、違う!
『そいつとしかいなかった!』
 宇佐木は遂にずらされた認識を回避した。そして当たり前の解答へと辿り着いた。
 石原に感染った赤──その色の原点は──九川ではないか?
 どうしてこの数ヶ月気がつけなかった?
 鬼の色を宿した石原の動向をソーリスと徹底的に見張ろうと言っていたにも関わらず、どうして石原と常に一緒にいた九川に対してはソーリスは一切、何も言わなかった?
 そして何故、宇佐木自身もそのことを全く不思議には思わずソーリスに何も伝えることができなかったのか?。
「仕方がありませんわよ先生」
 止まった夜の世界でいつの間にか長い黒髪の少女が宇佐木の目の前にいた。
「九川……だよな?」
「ええ。そうですよ宇佐木先生」
 宇佐木はどきりとした。その妖しげな少女の瞳に毒を感じ、すぐに隣のソーリスを見──。ソーリスはいつの間にか体をくの字に曲げて倒れていた。
「え」
「……に……逃げなさいっ! ……宇佐木っ。ぐっあっ」
 九川の足がソーリスの横腹に刺さった。酔いが途端に回ったわけではない。ただ周りの速度に宇佐木の脳はついていけなかった。すべての現象が宇佐木の目で追えずに進行していた。いつの間にか目の前に九川がいてソーリスを足で踏みつけていた。あまりの痛みに悶絶してソーリスは立ち上がれないでいる。今の今まで自分の数メートル先にいたというのに、全くコマ落ちもいいところだった。
 そんな中、九川は小悪魔の様な笑みで宇佐木の顔に自分の顔を極端に寄せて囁いた。
「先生。今まで気がつけなかったでしょう?」
「え……? なにが?」
「私が鬼を使ってるって」
「やっぱり……九川……お前が? でも、どうして今に……なって」
「ええ、どうしてでしょうねぇ?」
 惚けて頬っぺたに人差し指を当てながら彼女は緊張感の感じられない声で言った。しっかりとソーリスを踏みつけたまま。
「だって、お二人とも物凄く楽しそうなんですもの。お邪魔かと思いまして」
「いや……でも、お前は────」
 宇佐木はまじまじと九川の全身をその眼で見た。
「ひぅっ……」
 思わず宇佐木は恐怖から妙な音が喉から漏れた。 
 馬鹿な。そう思った。
 こいつ──何も……! 色が、ないっ。宇佐木の目には映るはずの色が九川には無かった。
 無色──そんな人間は今まで見たことがなかった。どんな人間にも必ず何かしらの色がついているもので、なんの色もついていないなんて、それこそ機械でできていなければありえない。
 でも、九川に色はなかった。
 宇佐木は胃から酒をぶちまけてしまいそうな気持ち悪さに襲われた。宇佐木にとってはとてつもなく異様に映るはずの色無しの少女──だというのにそれに今の今まで気がつけなかった。
 九川とは石原といる時に何度も話をしているはずだ。
「だから、先生。それは仕方がありませんわよ。私が認識できないようにしていたんですから」
「────っ」
 心を読んでいるのか?
「そうですよ先生。あなたとそこの神父がどういう人間で、なんの目的で学校に入り込んでいるかも、私の可愛い前鬼を仕留めてくださったことも、ぜーんぶ分かっているんですよ」
「に、げて……くださいっ。宇佐木!」
 九川の足に押さえつけられ身動きのとれないソーリスは胸元から銃をなんとか出現させていた。
「あらあら大きな銃だこと神父様。それで私をお撃ちなさるのかしら? くすくす。いいですよ。やってみてくださいな」
 九川は神父を嘲笑い足をどけた。すぐさま立ち上がってソーリスは銀色の大きな銃『ハーティ』を構えた。笑みのままの九川の頭にソーリスは銃を突きつける。九川は馬鹿にしたような笑みでただそれを見ていた。
「宇佐木! 私が時間を稼いでいるうちに早く!」
「ソーリス……!」
 いつもの余裕の笑顔などソーリスには微塵もなかった。いきなりの不意打ちと黒幕の登場にいくらソーリスといえど焦らずにはいられなかった。その焦りが──。
「先生ぃー私を撃つのは構いませんが? 本当にそんな小さな銃で私が撃てますの?」
 宇佐木は我が目を疑った。
「なっ……」
 思わず声を発してしまう程だった。
 ソーリスの銃が見る見るうちに小さくなっていったのだ。ソーリス自身もその握り拳程に小さくなった銃を信じられないように凝視していた。
「あらあら、小さくなっちゃいましたね。せ・ん・せ・い?」
 ハーティはソーリス自身の恐れを具現化しているのだとか。銃を怖ろしく強いと思うソーリス自身の心を形にしているものだと彼は以前そう言った。
「先生。そんなに震えていて私が撃てるんですか? くすくす」
「ソ、ソーリス!?」
 小銃を両手で握りしめたまま、ソーリスは体を震わせていた。大きく目を見開かせ、カタカタと歯の音を鳴らす。そんな彼を宇佐木は見たことがなかった。
「あははは。本当は臆病な神父さんなのよね? だからいつも戦いの前にはお酒をたくさん飲んで、毎日夜が怖くなってお酒を飲んで、ここ最近はお友達と楽しく過ごせて昔のことを忘れらましたか先生? 本当は、今まで殺した相手の声が耳から離れない……そんなデリケートな神父様なんですよね先生は。くすくす」
「……まれ」
「なんですか? 震えて超小声で聞こえないんですけど」
「だまれええええ!!」
 瞬間──ソーリスの腕の中の小銃は大きな白銀の銃へと光を放ちながら変形した。
 そしてソーリスは──。
 撃てなかった。
「ダメよ先生。そんなに力んでは。優しくしてくれないといけませんわ? くすくす」
 九川にそっと銃身を触られただけでハーティはガラス細工のように粉々の光の粒になった。
「あっ……」
 放てず行き所の無くなった衝動は霧散し、同時にソーリスはがくんと膝を折り放心した。
「あらら、神父さん自信無くしちゃいましたね。……さて、宇佐木先生。やっとお話ができますね?」
「話……だと?」
 常軌を逸した九川とソーリスのやり取りに完全に固まっていた宇佐木は何とか言葉を反芻して返した。
「ええ」
 黒髪をなびかせてソーリスの脇を通り、九川は宇佐木の前まで来てため息をつきながら言った。
「本当は先生方を殺したくはないんですけどね。少しの間どうするか考えていたんですけれど……アキちゃんもさすがに先生が死ねば、やや少し悲しむかもしれないし。ええ、ほんの少しのはずですが。……だから、しばらく保留にしていたのですけれど、やっぱり邪魔なので殺そうという結論に至りました。マル。そういうわけです先生。だから別に先生が憎いわけでもなんでもないんで許してくださいね?」
「いやいや……なにがマルか」
 巫山戯ているのかマジなのか分からない。その癖、瞬きした次の瞬間に殺されそうな危うさもある。そんな九川に宇佐木は戦慄するしかなかった。そもそもソーリスが手も足も出なかったのだ。きっとこいつも鬼と同じ化け物なのだろう。
「失礼ですね宇佐木先生は。誰が化け物ですか」
「……お前は何者だ。……何が目的だ」
「私は人間ですよ。れっきとした。……目的ですか。目的はそうですね。アキちゃんと永遠に一緒にいることですかね」
「アキ……石原と……?」
 宇佐木は全身が赤黒い色に覆われた石原を思い出し叫んだ。
「九川! お前が石原を巻き込んでるのか!?」
「……」
 その叫びを聞いて、すぅと九川の両目が細くなったのを宇佐木は感じた。そして瞬間、心の臓を宇佐木は鷲掴みにされた。虫を見るような目で九川はただ宇佐木を見て口を開いた。それだけで、宇佐木は呼吸ができずに貼り付けにされたかのように動けない。
「ぐっ……!」
「──お前ごときがアキちゃんの何がわかる? お前ごときが、何様の分際で! アキちゃんが少しお前に優しくしてるからって調子にのらないでくださいよ? お前がアキちゃんの苦しみや痛みを分かってやれるのか? お前が来てからアキちゃんは変わった! 私だけで良かった彼女の世界に余計なことをしてくれた! お前は八つ裂きにしても足りない! 今殺されずにいることを幸運に思いなさい!」
 豹変し一気に捲し立てて九川ははっと我に帰った。
「……宇佐木先生。ソーリス先生。あなた達は鬼を止めたいのでしょう?」
「……勿論だ」
 答える宇佐木に、にこりと頷いて九川は言った。
「では勝負をしましょう」
「勝負だと?」
 もう勝敗は決していて今からただ殺されるだけだと思っていた宇佐木は驚いた。
「……こんな簡単には殺しませんよ先生。私は目的のために鬼を使い人を殺す。私とアキちゃんのために。あなた達はそれを止めたい。でしたらしっかりと全力で戦いましょう」
「何故、石原とお前は人を殺すことで目的が達せられるんだよ!?」
「先生、疑問は次お伝えしますわ。死ぬ前にならなんでも教えてあげられます。では日時は明日の夜ゼロ時、体育館で。逃げてもいいですし来なくても構いませんよ。ただ、その場合私とアキちゃんの邪魔はもう二度としないでください。あと助っ人を連れてくるのも自由です。私も鬼があと三体いますから」
「三……体……?」
 九川が右の手の平を空に向けた。
「──?」
 初めは意図が分からなかった。しかし、その手の先のビルの上に黒く蠢く大きな巨体を宇佐木の目が捉えた。
 鬼。すぐに九川は逆の左手をまた反対の建物あたりに向けた。そこにも何やら影で蠢く大きな黒い塊があった。
「あと一体はあなた達の後ろの道に待機させてあります」
 ──囲まれていた──。
 絶望という文字が宇佐木の脳裏に現れる。
「今ここであなた方を殺すのは簡単ですが。それはしません。だから時間をあげると言っているのです。ただ、あそこでヘコたれている神父はもう使えないかもしれないですからね。宇佐木先生だけで来ちゃ死にに来るだけですよ。せいぜい逃げたほうがいいんじゃないですか? くすくす」
「……お前らの目的を知るまでは俺は逃げない」
「へえー。先生以外と愚か者なんですね。くすくす。じゃあ、また明日ですね先生」
 跪いているソーリスには一瞥もくれず九川は夜の闇へと消えて行った。
 途端に周りの夜の音が戻った気がした。深夜の静かな街の外気がなんだか宇佐木には久しぶりに感じた。
「ソーリスっ」
 すぐさま近くまでいって肩を貸して立ち上がらせた。
「……っ」
 そこで宇佐木が見たのは燃えるように滾った青い眼だった。
「宇佐木。明日は私が一人で行きます。あなたは逃げてください」
「馬鹿言うな」
「馬鹿はあなたです宇佐木。鬼が三体もいればあなたは足手まといです」
「いいや、馬鹿はお前だソーリス。鬼が三体にさらに九川までどうやっても勝てないじゃないか。死にに行くつもりかソーリス」
「……私一人でならどうにかできます。あなたが行ってどうなるというのですか。あなたの役目はナビゲーターです。あなたは学校と鬼を探し当てた。それだけでもう十分なのです」
「……まだだ。俺はまだなにもしちゃいない」
「宇佐木!」
「……」
 ソーリスのそんな険しく怒った顔を見たのは宇佐木はこれで二回目だった。一回目は先ほど九川に叫んでいた時なので、今日初めて見たことになる。それ程に彼が今までそんな表情になることはなかった。いつも太陽の様な笑みで宇佐木を見ていた。そんなソーリスが焦りと困惑から余裕なく声を荒げていることは宇佐木にも分かった。ソーリスのハーティは彼自身の心を表しているのではないか?
 だとしたらもうソーリスの武器は──九川には──。
「なあ……あいつ何者だ? あんたには検討ついてるのかソーリス」
「私にも分かりませんよ宇佐木。ただ……並々ならぬ術者……だということは確かです。幻惑と何かしらの術も使うのでしょう。私とあなたが学校での認識をズラされていたこと……他にも奇妙な点がいくつかあります……。私達はいつの間にか彼女の術中にはまっていた。それだけの事実はあります」
「……ただの女子高生……じゃないってことだよな」
「ただの女子高生に鬼を三体も扱えはしませんよ」
「なあ、あんたのところの組織に連絡して応援でも呼んだほうがいいんじゃないのか?」
「……連絡はします。でも応援が必要なのであれば──予言でさっさと派遣されてきています。そうならないのは私でまだ解決が可能だということです」
「それ、本当に信じて大丈夫なのかよ!? あんたが死ぬことも予言だってか!?」
「……だったら、それも運命だということです」
 ソーリスは凍てついた青で白みかけた空を睨みつけた。






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