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レインバラッド ──木漏れ日は暖まるには弱過ぎる──③後編
しおりを挟む『レインバラッド』
──そういうことか。
彼女には自身の立場故にだろうか。いや、年の功とでもいうべきか。
見えない敵の狙いが幾分かは理解できた。
「まったく……どこまでいっても自分の手は汚さないつもりなのね」
構築しているのだ。人間達同士で憎み合って潰し合うシステムを。
前回の木刀の青年も、今回の爆弾魔も恐らく自分達が何に踊らされていたのかなど知りはしない。
「……度し難いほどに忌々しい」
九川礼子はイラついた口調で吐き捨てた。そのやり方にではない。その渦中に自分とアキが置かれているこの状況が腹立たしい。むしろやり方は非常に効率的で、敵でなかったら賞賛していると言ってもいい程だ。この人間達同士で憎み合って潰し合うシステムは立ち向かう側にとってはタチが悪い。そして、その攻撃の一番の矢面に恩人たるあの人が立たされてしまった。
鳥羽満月。
私とアキちゃんのことを助けてくれたお人好しの放っておけない探偵さん。
あの人は強いくせに人を見捨てられない。……助けなければすぐにでも死んでしまうでしょうね。
爆弾魔によって──いや、ロスト・カラーズとかいう連中の手によってテロの首謀者に仕立て上げられてしまった。マスコミや政府、民衆がどこまで信じるかは分からないがテレビで鳥羽満月の顔写真が大々的に放映されてしまったのだ。
「──……まあ、どの道今回のことは放ってはおけませんわ。私とアキちゃんの楽しい学園生活をどうしてくれるのかしら。……爆破テロ? ふふふ、笑わせる。くすくす」
彼女は黒髪を風になびかせて学校の屋上でフェンス越しに遠くの空を眺めながら佇んでいた。漆黒の制服はスカート丈を長くしてあり、くるぶしにまでかかっていた。他の女生徒達はかなりたくし上げているので大勢でいると非常に浮いてしまい時代錯誤な雰囲気があるものの彼女にはこの方がとても似合っていた。
長身美麗の大人っぽさはどこか高校生らしからぬ妖艶さがある。そんな彼女が一人で屋上でいるのはとてもいい絵にはなったが今は誰も見るものはいなかった。
「さあアキちゃんとのお昼の休憩時間を奪った罪を償ってもらいましょうか」
許せないのは私と彼女の日常を奪おうとすることだ。
鳥羽満月さんの写真を公開したことも勿論、許せない。
そしてそれは例の地図絡み。
「彼女は 私の写真も持っているのかしら」
もしそんなものをテレビで流されてしまったら──いくら証拠がなくとも、私や私の家族、さらにはアキちゃんにまで大いに迷惑がかかってしまう。
……アキちゃんにだけは絶対に迷惑をかけたくない。
そう。彼女、九川礼子には守らねばならない女性がいる。彼女が最も愛する存在──石原秋子。彼女のためにならなんでもしたし、これからもなんでもするだろう。今までにちょっと色々やってはいけないことまでしてはしまったが、それはまた別のお話。今は宇佐木やソーリス、鳥羽満月達に助けられて割と分別がつくようになってはいる。
人は極力殺さない。アキちゃんの心は覗かない。それだけ。他はどうでもいいというのは実のところあまり変わっていないのかもしれないが。
「戦うなとは言われてませんしね。それに……今回ばかりは見過ごせませんわ」
ふわりと九川礼子の体が宙を浮いたかと思うと一気にフェンスの上にまで舞い上がる。彼女の体はそのままとんでもない速度で飛行を開始した。勿論、自身の飛んでいる姿を目撃させないように認識をずらす術を抜け目なくかけている。前々回の事件で力を覚醒させ、生前の役小角の力を最大限に引き出せるようになった彼女にとって、この程度は走ることよりも容易かった。
下の景色をほんの十秒程高速で流しただけですぐに目的地へと辿り着いた。
──ここが、あのテロリストが立て籠もっているテレビ局。
二十二階建てのテレビ局のビルは九川も中学生の頃に見学で学校から見に来たことがあった。彼女はその十五階あたりのところで辺りの様子を探るべく宙に浮いたまま静止していた。
「……」
地上には数十台のパトカーや消防車、救急車が総動員で止まっており非常線が張られ、わらわらと蠢く多くの人々があった。
テレビ局の建物へと視線を戻す。中学生の時分。役小角の記憶がまだ蘇っていない時の自身がここを訪れていたのを思い出した。
あの頃の私と何か変わっただろうか?
ええ、そうね。とんでもない力を手に入れはした。そして精神が幾分か大人になったが根本的なものはなにも変わってはいない。
アキとも出会う前で、ただただ何も知らずに友人と談笑しながら見学していただけのいい思い出がそこにはあった。
まさか、飛んでここに再来することになるとは思いはしなかったがと少し口元を綻ばせてから彼女はその目に力をこめた。
『千里万里眼』瞬時にして九川はビルの内部の構造や人の数を把握していく。透視能力どころか、彼女にはそのビル内部の人間の見ているもの、さらには思考までも読み取ることができる。彼女が万能の術者と呼ばれる所以の最たる能力。それが千里眼をさらに超えた千里万里眼。
そして──。
「そこですか!」
九川がビルの壁へと一瞬で飛行移動していきなり右手を大きく振りかぶり、壁面を強く殴りつけた。建物を揺らす程の大きな轟音が響き、コンクリートの壁に大きな穴が空いた。がらがらと瓦礫が崩れ落ち、鉄骨が剥き出しのそこを彼女は空を滑るように入っていく。奥の天井に明る過ぎる照明がいくつかついていた。足元には何かの機材の配線だらけで、手前は薄暗くよく見えなかったが、すぐに女性の甲高い声がかかった。
「来たわね! このテロリスト!」
内部の構造故にまだ視界には捉えてはいないが九川も相手もお互いを把握していた。
──面白いじゃない。
私が来ることを想定していたか。九川は口元を釣り上げて相手の方にただ自身の力を向けた。
旋風が巻き起こり手前のベニヤ板の壁がばきばきと鳴りながら弾き飛ばされて、奥の照明の下にいる数人が見える。スタジオの舞台セット。先程までテレビで放送されていたあの風景がそのままそこにはあった。九川は千里眼を通してもう彼女の容姿は把握している。
茶色のスカートにスニーカーと上はニット素材の胸元がブイネックで少し開いた白い服で地味な見た目に丸眼鏡の女性。不細工というわけではないが美人というわけでもなく、印象の薄い顔というのが非常にしっくりとくる表現だった。しかし、どこか捻れた性格が顔に出ているような気がする。
「テロリスト? 私が? ふふ、ではあなたはなんなのかしら?」
心底可笑しそうにそう尋ねた九川に永墓も嘲笑を返した。
「あはははっ! あんたが来ることなんて神様はお見通しだってさ九川礼子。ガキの癖にテロリストの一味なんてあんたやるわねぇー。しかも魔法使いだなんてーどんな設定よ」
「……へぇ。結構、敵さんは私のことを意識なさってくれているようですね。……嬉しいですわ」
「ムカつく余裕もそこまでだから。だって、あんたはここで私に倒されるのが決まっているんだよ!」
永墓の丸眼鏡の奥の眼が光ったような気がした。九川は身構え、先程までの笑みを消して相手に集中した。
……もう私は相手を侮らない。この間の戦いのような失態は二度とおかさない。
永墓の不敵な笑みに、あの木刀の青年の無感情な顔がブレて浮かんだ。
あの時程の圧を感じはしない。それにあの木刀の青年とでも私の方が圧倒的に強かったのだ。負け惜しみではない。それは歴とした事実だ。……だというのに、あそこまで追い込まれたのは……私があの木刀の青年を圧倒できなかったは力を闘いに上手く使えていなかったからに他ならない。考えてみれば私は相手をただただ殺して蹂躙する戦いしかしてこなかった。それか数に負けて追われて殺されただけだ。たったの一度も強敵と合間見えたことなどなく、そもそも決闘を──強者との闘争をしたことがなかったのだ。ましてや特殊能力をもっているような相手と。
あれから、随分と頭の中でシミュレーションは重ねた。あの青年との戦い。他にも妙な力を持った者達との戦いを想像力が及ぶ限り空想した。
「せっかくだもの。良い練習台になってくださいな、お姉さん。くすくす」
口ではそんなことを言う九川だが決して油断せず、自分のペースで相手を翻弄すると心に刻んだ。
「ガキがぁぁ! イラッとさせんじゃないわよ!」
永墓の顔が醜く歪みその手が九川へと向けられた。
「ひぃぃ」
彼女の周りにいた人達がセットの影へと隠れて声をあげていた。彼らは知っているのだその手を向けた先で何が起こるかを──。
空間が歪む?それは千里眼を通して見た一秒先の未来。九川は素早く横っ飛びして、その歪みを避けた。瞬間今まで自分がいたところで大きな爆音が鳴り響き、爆発が起きた。
「あはは! 早い! 早いじゃない!」
すかさず永墓が手をスライドさせて九川に狙いを澄ませた。再びの爆発をするりと抜けながら九川は思考する。
……手を向けた先の空間に何か作用しているのかしら? でもこの程度ではビルを爆破することなどできないはず。
その疑問はすぐに解けることになる。
「死ぃぃぃぃねええええええええ!」
永墓の掲げた手の先の歪みが先程よりも強い。そしてまだ爆発はこない。
これは……力を溜められるということかしら?と九川は理解した。そしてそれが放たれる。
ビルを大きく揺るがす程の大音響に部屋の大半の物が端へと吹き飛ばされて、床が大きくえぐれていた。強烈な風圧によって九川以外の人間は壁で身を低くしているしかなかった。
「……ははは! これも避けるか九川礼子ぉ。……神様の言う通り未来を見ているみただなぁ。ええーずるくないー? あははは!」
一体、私の情報をどこまで得ているこの女。……やはりこいつは放ってはおけない。
爆発を天井まで飛んで避けた九川は彼女の目の前に降り立って真っ直ぐに向き合い冷静に告げる。
「あなたの能力は手を向けた先の空間を歪めて爆発させられる。……ということでいいかしら? そして、ある程度、爆発までに力を溜めれば威力も増やすことができる。……ビルを爆破した時は十分くらいは溜めたのかしら?」
「正解! でも惜しいわねぇ。五分でできたわよ! そして一つ間違いよ。別に手なんか向けなくたって!」
永墓は両の拳を握り力をこめる。九川は、マズイと感じすぐに意識を『避け』から『防御』へと切り換えた。永墓の全身から強い歪みが四方に発生される。ありったけの力で自分を守護するための術を構築する。物理的に、魔術的にも──傷は負ったもののあの絶剣の使い手の青年の剣を防ぐこともできた防御術式。
しかし、これではあの時と同じだ。防御したところでジリ貧だ。だから、攻撃に転じなくては。九川は唇をきっと結んだ。早く帰ってアキちゃんと話をする。彼女との貴重な昼休みはまだ終わってはいない。それに今頃アキは自分を探しているはずだ。
「全部潰れろぉおおおお!」
永墓がそう叫ぶと彼女の足元から衝撃波が地面を伝い、地割れのように床が割れてゆく。先程の爆破のような速度はない。だが範囲がかなり広くそれは円を描くように彼女を中心に全方位に発生していた。地割れの上に置かれているものがことごとく圧縮されるようにひしゃげ爆発していく。部屋の隅で壁に貼り付けにされたように固まる数人の叫び声が響き九川は気がついた。
「──!」
このままでは自分は攻撃を防げてもここにいる──瞬時に把握──十六人の人間は死ぬ。そんなことはどうでもいいはずだ。彼女が気にするのはこの後の自分の最愛の人、アキとの昼休みの時間のはずだから。
鳥羽満月の顔がちらついた。いつしかの彼が真顔で言った言葉がリフレインした。
──助けるのに理由がいるか?──
「ああ、もう仕方ありませんわね!」
九川は自身の防御の力を少し緩めその逃げ惑う人間達を守るために力を割いた。
一人一人を守るための防御結界を瞬時に構築する。手を左右へと広げて役小角──九川礼子は眼を瞑り集中した。
「あはははは!! やはり、他の人間を守るために力を分けたか九川礼子! 神様はお前のすることなんてすべてお見通しだ!」
そこで永墓は両の手をぐんっと前へと、九川へと向けた。瞬時に今まで円方位で展開していた力がその手の前に収束する。
「こういうこともできるのよ!」
……罠か!すべて読まれている。ならば──九川にもう迷いはなかった。初めからまどろっこしいことなどせず、こうするべきだったのだ。もっと自分の力を信じて戦わなくてならなかった。
九川も周りの人間へと分散していた力を瞬時に自分へと戻した。
「あら、わたくしも同じことができてよ?」
そして永墓眠へ瞬きの間に間を詰めて彼女の首を手で鷲掴みにした。
「私の力をすり抜けた!? そんな……! 神様は力を使っていれば九川礼子は手を出してこないって……言ってたのに!」
「神様はそう言ってましたか? 残念でしたわね!」
確かに──ああ、そうですわね。以前までの私ならば前回の戦いで散々な目に遭ったのですから、未知の術を前に警戒して肉弾戦など決してしなかったでしょうね。
……どうして私のことをそこまで、その神様というのは知っているのかしら?
九川はそのまま体を浮かせて高速で飛行し永墓の体を押して、壁にぶち当てた。
「ぐっ……! このおぉぉぉっ」
堪らずに永墓は全方位の歪みを自身から発生させた。それは彼女の周りを爆破させ彼女自身を守護した。攻撃が防御になるというのは前回の木刀の青年と同じだ。
だが、その精度はどうかしら?九川は腕に鬼の腕力を宿し相手から発せられている衝撃波に抗うように抑えつけていく。
「このぉ、クソガキぃ! こんなことで私は死なない!!」
「ええ、そうでしょうねぇ!」
九川はそのまま首を持ったまま壁に押し当て続けてその彼女の歪みの力を利用して一気に壁を破壊して外へと飛び出した。
「え」
意外そうな永墓の表情。
九川は場外へ出た方がやりやすい。鳥羽満月のせいで他の人間が気になって仕方ないのもあるし、自身の最大の奥義は外の方が発揮しやすいからだ。
十数階からの自由落下。二人はぐるぐると絡れながら地面へと向かって高速で落ちていく。
永墓の力で落下の衝撃は殺されるだろうと踏んだ九川は首を掴んでいた手の片方を離してグーを作り──思いっきりその頬を殴りつけた。
「ぎゃあっ!」
攻撃が通った。なるほど。九川は理解した。相手の弱点を。
「……い、痛い! な、なにしてくれてんのよ!!! 二人とも落ちてんのよ!?」
「だから!?」
構わずに九川は全力で永墓を殴りつけまくる。右手で、左手で。無慈悲に力強く、だが殺しはしない程度。
あらあらこんな姿、アキちゃんに見せられませんわね、などと思いながら。そして確信した。やはりこの女はあの木刀の青年程強くはないと。
彼女の起こす衝撃波は完璧ではない。それに幾分か体を守るのにタイムラグがある。攻撃に集中しようとしたり守りを展開させようとすると一瞬だけだが、そこに僅かな隙ができる。
そこをつけば肉体へとダメージが簡単に通る。
「お、ごっ、おおお、この、こ、ここのぉぉぉ! い、痛いで、しょうがああああ!」
永墓は鼻血を吹き出し、堪らず自身から歪みを発生させた。
「あらあら、じゃあ一人で落ちなさいな」
あっさりと九川は彼女から離れて後ろの宙へと跳躍した。
「この糞ガキぃぃぃこっちに来なさいぃぃ!」
「嫌ですわ。行き遅れそうですもの」
数秒後、永墓は全身から放たれた衝撃波を纏ったまま着地した。辺りに待機していたパトカーがいくつかゴロゴロと転がり、とてつもない爆発音が鳴り響いた。これはまた明日の朝刊をさぞかし賑わすだろうと九川は思ったが、今はそんなことはさしたる問題ではない。
──さて、彼女を止めなければ。でなければ私の生活が脅かされる。だが、殺さない。彼女は捕らえなければならない。九川礼子は初めからそのつもりだった。
テレビ局の入り口の前に二人は対峙していた。非常線が張られているとはいえ市街の大通りに面している。人目についてしまうことは九川には面白くはなかった。
「はぁ……はぁ……!」
永墓はぜーぜーと息を切らせ、ズレた眼鏡を正して忌々しそうに敵を睨みつけた。対して右手で肩にかかった長い黒髪を払いながら余裕の笑みで永墓へと歩みを進める九川。
「お疲れなのかしら? くすくす。美しくない顔がさらに歪んでいるわよ」
力を乱用していたせいなのかもしれない。彼女の発祥不明の力は今のところなにを原動力として発現しているのかは不明だ。
もしかしたらプレイヤーによって違いがあるのかもしれないが、前回の青年を見ている限り自身の生命力を原動力としている傾向があるように思える。確証はないが九川はそう思っていた。
着地点はパトカーが十数台にギャラリーが多く、もはやすでに二人は注目の的になっている。
人が多過ぎる。九川は自身の周りに衆目の認識をズラすための術を展開。しかしここまで目立っていれば効き目は期待できないし、カメラなどで撮られたら厄介だ。
どうするべきか──どうせ効きはしないだろうが──。
「眠りなさい」
九川は永墓と辺りの人間を眠らせ操るために術を発した。周りの警官や消防隊員、ギャラリーが一斉に声をあげることもなくバタバタと倒れていく。
しかし──。
「無駄よ!」
何かをしようとしたのが分かったのか永墓が全身から放射線状に衝撃波を放った。
……あの木刀の青年と同じだ。九川の術は彼女の全身から溢れ出る衝撃波の力を前にかき消されてしまう。
「もう私はこの力を解かないんだから、あんたが私に触れることなんて二度とできないのよ! さあ! かかってきなさいよ!」
「嫌ですわ。どうしてわざわざ私が近づかなくてはいけないのかしら? それに、このまま放っておけば、あなた勝手に死にそうだもの。くすくす」
「……くっ」
九川はもう完全に相手の力を理解していた。
永墓の攻撃にはいくつかパターンがあった。
手を向けた方向に範囲小の衝撃波を高速で飛ばせるのがまず一つ。それはあの青年の絶剣まではいかなくとも未来予知無しでは避けることが難しい程の速度。
もう一つは衝撃波を溜めることができるというもの。溜めれば溜めるほどその威力は増していき、範囲極大のとてつもない破壊力を誇る衝撃波を生み出すことも可能となる。先日の爆破テロでビルを爆破したのもこの技だ。
そして最後は現在展開中の彼女の全身から衝撃波を発生させる技。波状は円形で広がり、それに触れたものはどういう原理か全て爆発してしまう。だが、速度は遅い上に、ある程度離れてしまえば届かないので避けるのは容易だ。
この三つの動作の切り替え時に生まれるラグこそが彼女の弱点。前回の絶剣の青年との戦いでは相手の弱点を最後まで見つけることはできなかった。しかし、あの彼にもどこかこのような弱点や隙があったはずなのだ。
「……そうね! じゃあこれでどうかしら!」
なにを思ったか永墓は近くのパトカーの影で座り込んで様子を見ていた警官の方へと力を展開したまま歩いていく。永墓を中心とした数メートル以内の地面がえぐれていき、周りの地面がバリバリと地割れを起こしていく。
「──!」
こいつ……! 最初から全ての人間を人質に盾にして私と戦うつもりだったのだ。
「きゃははははっ! 向かってこないなら周りの人間が潰れていくところを眺めてなさいよー」
「ああ、もう! 面倒な奴!」
九川礼子は前回の戦いで辛酸を舐めた。絶対的に自分の方が強かったというのに、勝てなかった。相手はたった一つの超速最強の攻撃という手段だけであったにもかかわらず一人では為す術がなかった。
私は強くなる。もう──絶対に負けない。この最強の力の『本当の使い方』それが分かれば私は絶対に負けはしないのだ。
「もう、私は負けられないのよ」
九川礼子は自分が最強だと理解している。数秒先の未来も見える。なんだってできるはずなのだ。
だから──絶対に負けない。
九川は永墓が向かう先の警官を見て、ただこう思った。さっさと走って逃げなさいと。そう念じるだけで恐怖で体を硬直させていた警官はその自身の運動能力を全開にして突然脱兎の如く駆け出した。
「なっ!?」
驚愕する永墓。無理もない。警官は九川の力で火事場の馬鹿力というのを意図的に解放され、常人ならざる速度で駆け出したのだから。しかも一人ではなく周りにいた者全て。眠らされていた者も「はい!」と元気よく返事をして急に立ち上がって全員が一斉に永墓から全力で離れて行った。普段は使っていない筋力まで酷使され、おそらく一週間は筋肉痛で立ち上がれないだろう。
「この魔女めっ!」
「……魔女はお互い様でしょう。遊びは終わりよ」
冷徹にそう告げてから九川は足を少し浮かしてから地面を力強く踏みつけた。瞬間、大気を揺るがす程の振動が疾った。爆風が少し遅れて永墓の髪を揺らし、その後に視界がブレた。
「……!」
突如巨大な地盤沈下が発生し彼女らを中心とした五メートル程の足元が一気に大きく落ち込んだ。
「きゃあっ!」
悲鳴をあげる永墓。
馬鹿な!足を踏み鳴らしただけでこれを引き起こした!?人間に……そんなことできるわけが……!こんなこと神様は言ってなかった!
彼女はそう思うのがやっとだった。
そして、はっと我に返った瞬間、目の前にひどく楽しそうな九川礼子が人差し指を唇にあてて微笑んでいた。
「あら、そんな可愛らしい声もだせるのね。……これは楽しめそうだわ」
「う、うるさあああい! 無駄だって言ってるだろう!」
展開される衝撃波。構わずに九川は右ストレートで永墓のボディを打った。衝撃波を切り裂き放たれた一撃は完全に永墓へと届いていた。九川の腕から僅かに鮮血が飛び散った。衝撃波の中に腕をノーガードで突き入れたせいで彼女自身の腕もダメージを受けていた。だが、それはナイフで浅く切り傷を入れた程度。
「ぐぅっ……!」
呻く永墓。鼻で笑う九川は楽しそうでいて、どこか不思議そうに眉を困った形にして笑った。
「本当に不思議ですわ。あなた方の力は。あなた方の力量の差はなにによって違うのかしら? この間の木刀の青年が別格だったのには何か理由が? それにしても……あなたはたいしたことはないわね」
「う、うる……さい。こ、この……!」
「ああ。もういいですわよ喋らなくて。いい加減、タイムオーバーですわ。アキちゃんが心配します。では──」
そう言って九川は右で拳を作り、狙いを定め──。
「ちょ、ちょっと……! た、タンマっ……!」
バタバタと手を振りながら慌てて衝撃波を全力で展開するが、冷静さを欠いていたせいで一瞬それは遅れ、そこに無情にも降り注ぐ拳の雨。
女の子ですもの。顔は狙いませんわ。
そう心で思いながら菩薩のような笑みをたたえて拳の全てを鳩尾の下辺りへ寸分の狂いもなく連撃でぶち当てる。高速で打ち込まれた数十発は永墓の衝撃波である程度緩和されてはいるが、その一撃一撃すべてがとてつもなく重い。
「……っ」
一言も発することができないまま永墓は胃の中のものをすべてぶちまけ、そのままうつ向けに倒れ込み意識を失った。
「まったく手間をかけさせる」
はぁと溜息を吐いた九川は崩れ落ちた地面から永墓をすぐに抱き抱えて、垂直跳びで大きく跳躍した。一瞬で地上に出てから、何事も無かったかのように永墓を肩に抱えたまま来た時と同じように高速で飛行を開始した。
──……アキちゃん。
九川の頭の中はもう彼女でいっぱいだった。
一息の間で学校の屋上へと舞い戻った。彼女は千里眼で知っていた。そこに石原秋子が待っていることを。
「あら、アキちゃん。ごめんなさい。私を探していたかしら?」
突如、屋上の空中に出現した九川にそう声をかけられた彼女は驚きもせずにいつもの調子で返した。
「九川さん探したよー。お昼まだだよ? 休憩時間あと五分だけど大丈夫? っていうか……あれ? 飛んでる? それにその子は?」
呑気に重箱の弁当を両手で重たそうに抱えていた石原秋子は首を傾げて宙に浮いている九川を見ている。
ああ、しまった。空を飛んでいるところは初めて見せていますわね。
なんて私は抜けているのだろうと九川は苦笑して屋上へと降り立った。というか空を飛んでいることよりもお弁当が食べられるかどうかを先に心配しているアキは本当になんて可愛いのだろうと彼女は心を震わせた。
しかし──どうしたものかしら……。千里眼で見てはいたがアキに説明をしなければいけないということを完全に失念していた。
石原秋子のこととなると、どうにも九川は抜けていた。
アキにはすべてを話し隠し事はしないと決めはしたが、それにしても順序というものがあるだろうに。しかし、どうにも手順をおってというのが苦手だ。
なので、気にもしていない風を装いいつもの調子でいくことにした。前もこれでなんとかなったのだからきっと大丈夫だろう。九川は楽観したというよりも心底、石原秋子を信用していた。
「一緒に食べましょう」
「それは?」
石原秋子は九川の抱えていた永墓を見て言った。
「大丈夫。コレはここに置いておくからしばらくは目覚めないでしょう」
「そうなんだ」
屋上のコンクリートに直で置かれたソレを石原は別段と気にした様子もなしに何故だがレジャーシートを広げた。丁度、二人分が座れるように。
「ありがとう」
九川はそれに感謝を述べて当たり前のように座ってから彼女が並べていくお弁当を見ていた。彼女達にとってはこれがいつもの昼食風景。彼女達はいつも順番でシートと昼食を持ち合うように決めている。
今日はアキの番だ。私は見ているだけでいい。それにいくらか頑張ったのだ。アキにどうしても褒めてほしい。
「アキちゃん」
「どうしたの九川さん」
弁当の蓋を開けてから水筒の蓋に熱いお茶を注いでいってるアキの動作が止まる。後、昼休みは五分しかないのだ。他の生徒は次の授業に備えてとうに待機していて余裕などない。
「大丈夫よ。アキちゃん。ゆっくり食べましょう。次の時間はどうとでもできます」
とにかく彼女はアキとの時間を大事にする。そしてそう九川に言われてしまえばそれはどうしても実行され事実となった。だからアキは慌てずにゆっくりと用意を続けた。
「……それよりもアキちゃん。私少し疲れましたわ。……あなたに隠し事はしません。私は今敵を倒してきました。この女です。……ひどく疲れましたわ」
「そうだったんだ。敵ってなに? 私は九川さんの何を知らないの? 前に犬の人をやっつけたのと同じ?」
石原秋子は矢継ぎ早に言いながら、なにを思ったか九川の頭を撫でだした。弁当を並べることよりも疲れた九川を癒すことが何よりも急務だとでも言うように。不器用なのかその石原の手つきはひどくぎこちない。しかし、その慣れていない手つきがどうにも狂おしい程に可愛らしく九川には感じられた。
「ああ」
とてつもなく満足した顔をした九川は大きく息を吐いた。
「ありがとうございます。アキちゃん。……ええ。そうね。敵は前と同じとでもいいますか。……とりあえずお弁当いただきます。……でも、私食べてからすぐに行かなくてならない場所が」
「大丈夫ですよ。九川さん。でも……私が知らないことは私に教えられますか?」
「……」
どこか心配そうに上目遣いでそう尋ねてくる最愛の者の言葉を無下にできるわけもない。
「ええ。勿論ですわアキちゃん。今からなんでも教えてさしあげます。この美味しそうなお弁当をいただきながら。──……それと今まで別に隠していたわけではないので……」
「大丈夫。九川さんが何か頑張ってたのは私知ってるから……。でも、いつか教えてほしいなって……。……それに」
少し言い辛そうにアキは視線を下に向けた。
「私の体、のことも……」
「──」
九川は息を飲んだ。まさか、彼女はその変化に気がついてしまっている、というのか?いや、気がつけるはずはない。常人には分かるはずのない感覚なのだから。鬼を宿され寿命伸びてしまっていることなど──。
「……アキちゃん……それは……」
アキに嫌われたくはない。だから、このことはまだ──もう少し、時間をかけたかったのだ。いや、だがそれは一体いつだ。いつならば人をたくさん殺して生贄としてアキちゃんの寿命を延ばしたんだよ、などと言えるのか。ただただ怖くて先延ばしにしていただけではないのか。
「……っ」
息を飲む。悪いことがバレてしまった幼子のような顔で九川はアキを見た。アキはしまったと思った。
「……ご、ごめんなさいっ。九川さんっ。そ、そんな困った悲しい顔しないで……私大丈夫だからっ。ほ、本当に大丈夫だからっ。……ただ、なんだかよく分からないんだけど、最近変なものが見えたり……聞こえたりして……その、なんだか変わったみたいで……やっぱり、九川さんが関係してるんだよね……?」
全くもって……迂闊。ああ、なんという失態だ。自分を殺してしまいたい。
「ああ……。そうだったのアキ。……ごめんなさい……。体調や精神には何も影響がないと思って……いましたわ……」
本当に私は迂闊。確かに、半分とはいえ鬼になっているんですもの。そんな変化があってもおかしくはないではないか。今までの経験から大丈夫だろうなどと楽観視してはいたが、そもそも鬼にしたものは皆すぐに死んでしまったし、ああ、私はなんと愚かなのだ。彼女を怖がらせることになるなんて!
アキはまずいことを言ってしまったと感じ、慌ててバタバタと手を振った。
「だ、大丈夫だから! 私、本当に大丈夫だから。……でも、ちゃんとまたそのことは話して……くれる?」
九川は顔を上げて真っ直ぐにアキの顔を見た。そして心の底からの気持ちを吐露した。
「はい。ちゃんと言います。……そのことに関しては私が悪いのアキちゃん。私が勝手に自分の意思だけでアキちゃんに聞くこともせずにしてしまったことだから。……でも、少し時間を頂戴。……私言うのが……」
怖い。アキちゃんに嫌われるのが。もし、軽蔑されたら──恨まれたら。そんなことを想像してしまうと自然と瞼からボトボトと熱いものが流れてくる。
あれ──?なんだ、これ?涙?私泣いてる?そしてそれは堰を切ったように止まらなくなった。
「九川さん! だいじょうだからっ。私大丈夫だから泣かないでっ」
「ごめんなさっ……! 私が私が悪かったんです! ごめんなさい! ああああ!!」
九川はもう耐えられなかった。どんな力の強い術者の記憶がそこに根づこうと彼女の心は十代の女性のまま変わってはいないのだ。
馬鹿みたいに涙が止まらなかった。五分は泣いただろうか。いい加減、恥ずかしくなってきた九川は鼻をすすりながら顔をあげた。
石原秋子はその間、胸を貸しながらずっと九川の頭を撫でていた。
「……九川さん……なにかあったら私にも教えてね。……一緒に泣くくらいしかできないけど」
いつの間にか彼女もボロボロと泣いていた。
「……ありがとうアキちゃん」
そして、ごめんなさい。私は許されないことをしてしまった。今はまだ、彼女にそのことを伝える勇気がでない。
「ううん……。困らせてごめんね九川さん。それよりも……ほら、お弁当食べよ? ……私この海老の天ぷら頑張ったんだよ」
──天ぷら。そんな面倒なものを昼の弁当で?九川は涙目を擦りながら、息を吐いて気を落ち着けた。
今は、過去や先のことは考えずにこの幸せを噛みしめよう。そう気を取り直して、用意された箸を持ち一口頬張った。
「ああ。とても美味しいですわ」
仕方がない。世界が滅びようが知ったことか。九川礼子は石原秋子と昼食を摂ることにした。遠慮なく全てをたいらげてから次の動作に取り掛からねばならぬ。でなければ頑張って天ぷらを揚げたアキに失礼ではないか。
自分の過去の過ちや世界平和の前に彼女にとってはアキが全てだった。
そこで永墓が「うう」と呻いたので九川は常人には見えない速度で手刀を放った。今は邪魔されたくない。永墓は「ぐえ」と漏らしてからすぐに長い眠りについた。
「アキちゃん。この里芋神がかっているわ。美味しすぎてとんでもないわ」
里芋の煮転がしを頬張りながら九川はそんなことを言った。それは嘘偽りなく彼女が本心で思ったことだ。弁当の感想を一つ一つ述べていけばキリがない。鮭の塩焼きも美味しいし、ほうれん草のお浸しもシンプルなだけに腕の見せ所だが間違いなく満点だ。素朴だがすべてが美味しい。それは最愛の人が作ったからに他ならない。
「本当っ? 良かったぁ」
天使のような微笑み。アキの笑顔を見るといつも思う。どうしてそこまで心の底から笑えるのだろう。自分が彼女のように本気の笑顔を最後に作れたのはいつだろう?ああ、どうしてあなたは、そこまで私の心に深く入り込んでくるのかしら。
アキはそれ以上なにも聞かなかったし何も言わなかった。きっと先程の話のことが気になっているはずだ。私が泣いてしまって聞けなくなっているだけで、自分の体のことなのだから不安なで仕方がないはずだ。千里眼で見てしまえばどう思っているかなど分かるはず──だがアキのことだけは、もう二度と見ないと心に決めている。だから今は分からない。
それから、しばらくは無言でお互い弁当をつついていたが、食事がひと段落したところでお茶を飲んでから九川は言った。
「……アキちゃん」
アキに体の変化のことは言えないにしろ、ここまでの顛末は言っておかねばならない。なんでも教えると行った矢先に泣いてしまって有耶無耶にしてしまっては申し訳がないというものだ。
「うん」
「……食べながら軽く聞いてほしいのだけれど」
「うん」
九川はもうすべてを言ってしまおうと決めた。空を飛んでいるところも見られたし、今さらであるが。
「私は──」
自分が昔の人間の記憶を受け継いで強くなったこと。鬼を使いそれを先生達に見つかって怒られたこと。この間のテロの敵と戦ったこと、鳥羽満月に助けてもらったこと。ソーリス達の組織のこと──をだいぶ簡略化してアキを半分鬼化してしまったこと以外の真実を語った。食べながら軽くとは言いはしたが九川が話している最中、石原秋子は終始驚きっぱなしで食べるどころではなかった。
「──というわけで、私も今回の敵は見過ごせないと思っているのですけど……って大丈夫ですかアキちゃん?」
「え……え──あ、ああ。……だ、い、じょうぶ。 ……ちょ、ちょっと凄い話だなぁって、えへへ」
いくらなんでも混乱してしまうのも無理はない。九川はつけ加える。
「安心してアキちゃん。あなたは私が守るし、今までの日常は保証するわ。だから、心配しないで」
「……それは」
アキが俯く。それが言い淀み言葉を選ぶ間だと九川は理解しているのでただ待った。そして、彼女は言った。
「嫌です」
「え?」
九川は耳を疑った。嫌?彼女が拒絶を示すことは滅多にない。前にそうしたのは部活など入ることは許さないと言った時だ。宇佐木光矢の絵に心酔した彼女はあまりにも頑なで涙目で懇願してきたので了承せざるを得なかった。それが最初。今回は二度目だった。それ程までに普段の石原秋子は自分の我を通すようなことは絶対にしないのだ。
悲しそうなアキの表情に九川の心が軋む。
「だって、それは九川さんだけ辛い目に遭うってことでしょ? 今回のその女の人をやっつけたのだって」
「これくらいたいしたことないですよ?」
「九川さんさっき疲れたって言ってました」
「そ、そうだったかしら」
「そうでした。だから、九川さん無茶しないで。……私何もできないかもしれないけど……私にも手伝わせて。私はいつも九川さんに守られてばかり……きっと私の知らないところで九川さんは何度も大変な目に遭ってるんだよね?」
普段は大人しく九川の後を着いてくるだけで何も言わないというのに、妙にこういう時のアキは饒舌で頭が回る。まるで今まで言いたいことを溜め込んでいたかのように。
そんな友の気遣いに素直に今は感謝すべきなのだろう。
「ありがとうアキちゃん。……それじゃあ、これからは何があっても話すし相談するわ。それでいいかしら?」
「うん!」
本当に嬉しそうなアキの弾けるような笑顔を見て、思わず抱きしめて存分にその温もりを感じたくなったが今はそんなことをしている余裕はない。九川は溜息をつきながら側で倒れていた永墓を見た。つられてアキも目をやる。
「この人どうするの?」
「……鳥羽満月さんのところに連れて行きます」
「鳥羽……満月さんってさっき九川さんが話してくれた九川さんと私のことを助けてくれたって人だよね?」
「ええ。彼でしたらソーリス先生の組織との繋がりもあるようですし、どうすればいいか教えてくれるでしょう」
「ソーリス先生と宇佐木先生にはそ、その……相談しなくていいのかな? この人のこと」
「大丈夫よアキちゃん。ちゃんと後から相談しますわ。……なんだか先生達は先生達で忙しそうですし」
「……宇佐木先生は大丈夫かな」
「ソーリス先生がついていますから大丈夫ですよアキちゃん」
それに、私がそうはさせないわアキちゃん。九川は心でそう続けた。宇佐木が死ねばアキが悲しむことになる。彼をむざむざ死なせるようなことは決してしないように九川はたまに千里眼を使って彼らの様子を見ていた。今日はいつも通り学校には来ているが朝はあの金髪の女とソーリス先生の三人で一緒に来ている。彼らも前日のテロをしっかりと警戒はしているということだ。
その後、アキが食べ終わるのを待ってから九川は行動を開始した。アキには授業に戻るように言ったが、どうにも頑なで今日ばかりは言うことを聞かなかった。
「仕方がありませんわね。ではアキちゃんは私の背中に。少し揺れますが絶対に落ちませんので安心してください」
「うん。ご、ごめん……重くないかな」
しゃがんだ九川にぎこちなく寄り添うアキ。
「ふふ。首に手をまわして……そう」
九川は重たさなど感じてはいなかった。
これは──なんと──。
ただ密着するアキの体──特にその凶悪なボリュームの胸の膨らみ──に全神経を集中していた。……うーん、襲ってしまいそう。九川は自身の劣情を抑えることに集中した。
「じゃあ行きましょうか」
しっかりとアキのお尻を両手で支えていざ飛び立とうとしたところでアキから声がかかる。
「く、九川さん。あの人忘れてるよ」
「……」
アキの胸と尻に集中し過ぎて永墓のことを完全に忘れていた。
「さっそくお手柄だな」
鳥羽満月は彼女らを迎い入れるなり開口一番にそんなことを言った。
栗色の毛は染めてはおらず地毛のような感じで白い長袖のティーシャツとジーンズ姿の爽やかな笑顔を向けてくる彼はどうにも年齢不詳だ。二十代にしか見えないが三十は超えているらしい。
「座って待っててくれ」
そしてすぐに彼女らをリビングへ通してから自分はなにやら流しのところでお茶の用意でも始めてしまった。
全く呑気な男。自分の顔写真がテレビで放送されてしまったというのに。
九川は思わず呆れてしまった。
彼女らが通された部屋は木目調の壁紙で物が少なくてとても落ち着いた雰囲気があった。
なんだか眠たくなってしまう部屋だなぁとアキは目をぼんやりとさせてしまった。確かに部屋はかなり暗めで最小限の光量に絞られた間接照明が二つあるだけだった。そして、その広めのリビングの部屋には鳥羽満月以外にもう二人の人間がいた。正確には生きている人間一人と幽霊が一人。幽霊は赤い着物を着た少女で、その存在を誇示するかのように宙に浮いている。そして、その生きている方が彼女らにソファーを譲って自分は立ち上がってから律儀に胸に手を当てて会釈して名乗る。
「私は一塚春という者です。……はじめまして九川さん、石原さん。私はあなた方と同じく満月さんの手伝いができたらと思ってここにいます。普段はバーテンなどをやっています。……学生には縁のないところですね。……二十歳を越えたら是非いらしてください」
整った顔立ちだが目が細い。髪を後ろに固めているのが確かにバーテンぽいなと薄い知識でアキは思った。本当のところ一塚はここ最近は幽霊に慣れるためというよく分からない理由でここにいた。今では琴葉を見ても表情を固めるだけで悲鳴はあげなくなったのでかなりの進歩であった。
「ええ。そうさせていただくわ。はじめまして一塚さん。何度かあなたを覗いたことはありますわ。ごめんなさいな」
「お気になさらず。私もそのような力があれば保身のためにいくらかそうするでしょう」
「ふふ。大人な対応ご苦労様。しかし……まあ、つまるところあなたも私と同じ境遇なのですよね確か?」
九川の目が一塚の瞳の奥の事象を捉える。
「……ええ。そうですね。しかし、違うのは私は仲間になっても役にたたないというところです」
細い目をさらに細めて一塚は苦笑した。そして九川が今まで右手で抱えていた永墓を床に寝かせたのを見ながら言う。
「それが例の? ……眠らせたのですか?」
床で仰向けでいる永墓をどこか壊れ物を見るような目で見る一塚。
「この女もそういう類の術が効きませんでしたので打撃で眠らせましたわ。……運が悪くなければもうそろそろで起きると思います」
平然とそんなこと言う九川に一塚は「ホハっ」となんだかよく分からない感嘆の声をあげて言葉を続けた。
「さすがお強いということですか。満月さんもあなたがいれば安心でしょうか。……この彼女からは敵の情報は何か掴めたのですか?」
「おいおい一塚。大人が学生さんに何を言ってるんだ?」
珈琲を両手に持ちながら現れた鳥羽満月が咎めるように言った。
「一塚駄目だぞ。彼女達を戦いに巻き込むなって」
「すいません満月さん」
一塚は満月に頭が上がらないのかただ申し訳なさそうにした。
「お前の分もあるからちょっと待ってろよ。九川珈琲飲めるか? 石原さんは? ブラック? ミルクいる?」
「あ、ありがとうございます! ミルクを所望致します!」
ぶんっと音が鳴るほどに頭を下げてアキはお辞儀した。
「アキちゃん……かしこまりすぎておかしな言葉遣いになってますよ。私はブラックで」
「はははっ。了解。九川の言う通りだ。石原は面白いな。……なんだか俺の知ってる子に似てるよ……」
その──境遇もな。と心の中で鳥羽満月は続けたが、それはまた別のお話。
二人は小皿に置かれた珈琲カップを受け取り、鳥羽満月はまた台所へと戻っていった。
「と、鳥羽満月さんは……一体どういう人なんですか」
率直な疑問を立ち尽くしている一塚に問いかけるアキ。
「ああ、満月さんは正義の味方ですよ。それ以外の表現だと何でも屋だったり、探偵などという肩書はありますが──どうにもどれも彼を的確には捉えていませんね。私は彼程、表裏のない人間を見たことがない。……まるで、自分を偽ってしまうと死んでしまうと思い込んでいるんじゃないかと思うくらいに素直で絶対に自分を曲げない人です」
「ですわね」
それに九川も同意した。とんでもない局面で人助けに精を出されて、彼と人々を守るために戦い方を制限され、おかげでとんでもなく敵に追い詰められてしまったことは記憶に新しい。この辺は今でも鳥羽満月に責任を追及したいところではあるが、きっと「すまん。助かった!」とかしか返事がないだろうし時間の無駄なので彼女はしない。
「おいおい。また俺の話かよ。少しは世間話でもしてろよ」
またも両手に珈琲の小皿を持ってきた満月は少しげんなりしていた。片方を一塚に差し出しもう一つはテーブルに置いて自分はそこに椅子に座った。
「ふー」
そこで彼は一息ついて珈琲をすすってから九川と石原を見て、最後に眠ったままの永墓を見た。
「改めてありがとう九川。……正直、今回もかなり助けられたよ。……でもまず行く前に相談はしてほしかったけどな……と、自己紹介がまだだったな。石原さんはじめまして。もう知ってるだろうけど鳥羽満月というもので九川には前回の事件で助けられてな……ここに連れてきたってことは話してもいいんだろ九川?」
「ええ」
教えたのはついさっきだったが。
「はじめまして。いつも九川さんがお世話になってます」
ぺこりとまたもお辞儀のアキ。どこか彼女が声を発したり動作をする度に場の緊張感が解れていくのを全員が感じていた。つまりは緩いのだ。
「はは。……一塚は挨拶済んだみたいだな」
アキの目が部屋の天井に足をつけている琴葉を見ていた。
くりんとした大きな瞳がとても愛らしい可愛い女の子が七五三や雛祭りのような着物を着ているのだから彼女の目を引いても仕方はない。しかもそれがまるでここは宇宙船の中だとでもいうように無重力状態で浮いているのだ。気になるしか選択肢がない状況だ。
「ああ、こっちのフワフワしてるのは琴葉って言って俺の」
「監禁されて満月に色々されまくっているいたいけな少女じゃ。よろしくのっ」
「そうそう俺が監禁して色々とだなってオイッ!」
琴葉はぷっくくーと邪悪な笑みを向け、それをジト目で睨んだ満月は即座に訂正する。
「ウチの居候の幽霊だ。気にしなくていい」
「はー幽霊だったんですねぇ。……可愛い! おいでおいで~」
突然ふわーと頭に花畑を咲かしたかのように石原は柔和な笑みを浮かべて琴葉に近づいていく。まるで小動物になった気分じゃなと思いながら琴葉はしょうがないので床に降り立って彼女の手に撫でられてやっていた。一瞬、驚きの表情を見せる琴葉。
「……やはり琴葉に触れるか」
ポツリと神妙な顔をして呟いた満月に、九川はその言葉の意味を瞬時に理解した。
「……アキちゃんにはまだ体のことは言っていないの……。そのことは……」
九川の様子に察した満月は彼女の肩に手を置き言う。
「安心しろよ。俺は何も言わない。それよりも──」
「きゃあっ、可愛いほっぺっほっぺっにゅーー!」
石原がどんどんとテンションをあげて琴葉を揉みくちゃにしているのを止めるべきか見ているべきか悩み、とりあえず珈琲を口に含む満月。
「いやっ、助けんかいおぬし!」
さすがに石原に抱きつかれてスリスリされだしたところで琴葉から声がかかった。
「なんだよ琴葉。人に触られるの久々で嬉しいだろう?」
「いつも触るのはおぬしだけだからのっ! と言っても限度があるわっ。ええい離れぬか娘っ」
「ああん、ごめんなさいっ。……私、可愛いものに目がなくて」
「アキちゃんは昔から小さいの好きですわね。……私も小さかったらずっと抱きしめてもらえるのかしら……」
「ええっ、九川さんはそのままのカッコいいのが一番だよー」
「そうかしら?」
「うんっ」
「では、私も少し触らせてもいましょうか」
いきなり九川が琴葉の頭をさわさわと撫でだして、満月は珈琲を吹きかけた。
「で、ではっ……わ、私もっ……!」
細い目をさらに閉じてプルプルと震わせた手で顔を背けながら、なんとか頑張って触ろうとする一塚。お前は無理するなよと満月は思った。
「ええいっ! とうっ!」
もう辛抱堪らんと気合の声と共に一塚と九川の間を掻い潜り天井付近へと避難する琴葉。残念そうなホッとしたかのような一塚の溜息。なにチャレンジなんだお前のはと満月は常々思う。
「おぬしらこんな幼女を寄ってたかって辱める前にやることがあるのではないかっ」
「辱めってお前な……と、それもそうか」
琴葉にそう言われ床で寝ている永墓を完全に忘れていた満月は珈琲を飲んでから、真面目な顔で言う。
「そろそろ本題に入ろうか」
「ですわね」
それに返した九川はゆっくりとソファーに戻り、アキは名残惜しそうに琴葉を見てから九川に続いた。
「さて、今回のことだが……九川がテレビ局乗っ取りの爆弾テロ犯を捕まえてくれた。俺はこの女にテレビで写真を公開されてる。どうなるかは読めないが今後俺は警察に追われることにもなるかもしれない。しばらく大きな動きはできない……ここはまだバレてないがもしかしたらいずれ場所は変えるかもな」
「彼女が満月さんの写真を公開したのはどういう意図があったのかしら?」
九川の問いに満月は返す。
「奴らが俺の写真を出したってことは俺を一番最初に消したかったてことだ……あるいは──」
「そこに駆けつける私をでしょうね」
そう答えた九川は永墓が自分がテレビ局に来ることを神様と呼ばれる人間から聞いたいたようなことを言っていたのを鳥羽満月に伝えた。
「……神様か……。奴らは俺か九川のどちらかが行くことは読んでいた。つまり、どちらが来ても良かったわけだ。……やはりゲームは続いているのか。俺の写真が一番初めだったことに意味はあるのか……?」
「順番など意味はなかったのではないか?」
そこで初めて赤い着物少女、琴葉が宙にふわりと浮かびながら会話に割って入った。
「自信過剰なのは、おぬしのいつもの悪い癖じゃ。敵さんがまず気にするのは一番に強い奴じゃろ……となれば、九川を消そうと思ったのじゃ」
「にしては、あっさり倒され過ぎでは? そこは敵の誤算だったのでは?」
琴葉に怯まずになんとかそう言った一塚。それにすぐに琴葉は返す。
「敵を倒したからそれは相手の誤算だと? ……これだから、ぬるいぞ貴様らは。全くにぬっるーーーい!」
宙で反転して急に一塚の前に来て彼に人差し指をビシッと突き立てる琴葉。一塚は急な琴葉の接近に「ひぃぃ!」と遂に声をあげてしまった。
「その女がやられてここに運び込まれるまでがコースだったらどうする!?」
「ここに運び込まれるまでが?」
鳥羽満月は小首を傾げてから冗談のように続ける。
「なんだ、その爆破テロの女自身が爆弾にでもなるっていうのか琴葉?」
「例えばじゃ! 最悪の事態を想定せよっと言っておるのだ!」
相変わらずぷんぷんと怒る幽霊は部屋をくるくる回りながら飛び回って抗議した。
「……うん。そんな気配はないな。九川はどうだ?」
なにかの気配を探りながら満月は九川に尋ねた。彼女は「ええ」とだけ軽く答えて珈琲に口をつける。
「この女をとりあえず起こしてみては?」
「まあ放っておけよ。しばらくしたら起きるだろ」
言う満月に九川は念のため言っておく。
「彼女、鳥羽満月さんに友人を殺されたと思っているようですわ。以前の事件の時に。起きたらすぐに襲いかかってくるかも……そうしたら、このお洒落な部屋は無事では済みませんわ」
永墓のあの能力ならば家は瞬時に半壊するだろう。満月はぎょっとしていきなり立ち上がった。数秒後、何かを理解して大きく息を吐き座る。
「……分かった。友達を殺されたんだな」
「ええ、そう言っていたわね」
「じゃあ、悪い奴じゃないな」
「ビルを爆破した時に何十人も殺してますけれど」
「……それでも、やり直せない悪人じゃない」
鳥羽満月基準でいけばやり直せない悪人などいないのではないか。九川礼子は改めて自身を助けてくれた男を青臭く面倒臭い奴だと感じて、どうしようもない気持ちになった。
「まあこの女が起きるまで適当に時間潰しててくれ」
「その必要はないようです。彼女今し方起きたようですわ」
冷静に珈琲を飲みながら九川はそう鳥羽満月に返した。彼がどうするかを見ようという魂胆だろう。
「いいタイミングだよ全く……。さて……と」
やれやれと言った感じでカップを置いてから皆が見守る中、彼は永墓の前にまで歩み寄り、そして片膝をついた。丁度、そこで「ううん……」と呻いて起きる気配を見せる永墓。
九川め絶対に何か細工をしたなとそう思った鳥羽満月だったが今は意を決して彼女に声をかけた。
「おーい、起きろー」
「う、うーん、どこ……?」
ぼんやりと薄目を開けてから目を擦り、頭を左右にゆっくり振ってから起き上がろうとしてすぐに「痛っつっ」と腹を抑えた。
起伏の大きめな胸が揺れ谷間が見えて満月は思わず目を背けた。
彼女が痛さのあまりなかなか動けずにいるところにもう一度、声をかける。
「おはよう」
ビクりと体をビクつかせて永墓の目は鳥羽満月を捉え、そして辺りを見渡し、すぐにまた目の前の男に視線を戻した。
「お前はっ」
「鳥羽満月だ。俺の写真をテレビで公開とはやってくれたなぁ」
まるで友人に悪戯をされたのをちょっと根に持ってますよと言った調子にしか聞こえない。その緊張感の欠片もない態度に永墓の顔がみるみると歪んでいく。
──あら、どうするのかしら探偵さん。思いながらも九川は呑気に珈琲をさらに飲み足など組んで見ている。アキと一塚は緊張した面持ちでいた。
「わ、私はっ、お前を許さないのよー!」
「俺じゃない」
彼女の周りから何かの力が生まれそうだったところに、真直ぐに相手を見ながら先程とは打って変わって言葉に重みを乗せて言った。
「はぁー!? そんなこと信じられるわけないじゃないっ」
「信じてくれ。俺じゃない。……よかったら何故、俺を恨んでいるのかちゃんと教えてくれないか?」
「そ……そんな説明をなんで私がっ……だって神様が!」
「神様か……。そいつが本当に神様ならあんたの友人をそもそも死なせないんじゃないか? それにそいつがあんたに復讐しろと? どうしてあんたはそいつなら信じた?」
「神様は私に力をくれたのよ! そんなに力のある人の言う……ことなら……」
気勢が削がれていくのが傍目で見ていても分かった。無防備にただ座っているだけの鳥羽満月の言葉。彼女には確かに効いていた。
「とんでもない力を与えてくれて、尚且つ自分の今の境遇を理解してくれているからな……神様って思いたい気持ちも分かるけどな」
「違うわよ……相手がそう名乗ったのよ。私は神だって」
「会ったのか?」
「違う。電話。……急に携帯にかかってきてポストにお前の友人を殺したテロの犯人の証拠をいれておいたっていうのと戦うために力をあげるって……あといくつかの指示と注意が」
「それで信じたのか。写真はともかく、動画の方は俺もネットで見たけど俺がコンクリートに下敷きになりそうなところを逆再生してなんだか投げてるっぽくなってるやつだよな? あれはさすがに酷い編集だと思うがな。はははっ。しかもあのコンクリ止めたの九川だし」
「……じゃあなんであんたはあんなところにいたのよ!? 鳥羽満月!」
うーん、と唸りながら彼は申し訳なさそうに言う。
「一人でも多く助けられたらって思ったんだけどな。……ごめんな。あんたの友人を助けられなくて」
「そ、そんなこと……信じられるわけが……そんな奴いるわけが……」
「まあ、俺のことを信じるのはよく俺を見てからでいいと思うぞ。……今ここで俺を殺したら本当のところなんて分からないだろ? ──あとな」
満月は溜息を吐いて沈痛な面持ちで伝える。これだけは言っておかねばならないと彼は過去の教訓から学んでいた。
「友人の死の悲しみは辛い。その反面、力をふるって一時的な復讐心に身をやつすことは楽だ。どうしてだか人間は楽な方へと転がっていく。……今あんたができるのは友人の死を悼むのと、真実を見極めることだ。自分を神だなんて言う奴の言葉に耳を貸すことじゃない」
「──っ」
チェックね。九川は鼻で笑って立ち上がり、満足げに言った。
「満月さん珈琲美味しかったのでおかわりいただけるかしら。……こんなに美味しいのです。せっかくですから彼女にも淹れてさしあげたら?」
「そうだな。珈琲飲むか? えーと、」
「永墓。永墓眠よ。……もらう。……少し落ち着きたい」
「ああ、時間はたっぷりある。……あんたはこれから巻き込んじまった人間のことも考えなくちゃいけないんだ。……そこのことだけは俺のことを抜きにして考えるんだな」
「──な」
それだけ言って珈琲を淹れに台所へと行った鳥羽満月の背を永墓は無言で見ていることしかできなかった。
偉そうに言うなと叫びだしたい気持ちと、あんな夜にまだ人がビルに残っているだなんて思わなかったんだし、私は殺すつもりはなかったんだから──と言い訳の贖罪を述べたい気持ちとがごちゃごちゃになって自分が本当はどうしたいのかが分からなくなっていた。いや、正直、ビルを爆破する前に人がいるかもしれないなどとは永墓は薄っすらとは思っていた。だがあの時はどうにも怒りでそんなことはとても些細なことに感じられたのだ。
「私はただっ……あの子が理不尽に死んだのが許せなくて……」
「それはあなたの爆破で巻き込まれた人も同じではないですか?」
ぴしゃりと言った一塚の言葉に永墓と同時に九川も胸が軋むのを感じた。
自分の思い、理想、復讐心に駆られて誰もが他人の気持ちを置き去りにしてしまう。
何故、その時は気がつけないのか。
結局のところ何もかも我儘な自分勝手でしかなかったのね。それは九川礼子の感想だった。
九川には分かった。永墓はまだそこまでは思えない。だが、それも時間の問題だろう。しかし時は巻き戻すことはできない。そしてそれに気がついたとしても、死んだ人間はもう帰ってはこない。ただ人が死んだ。自分が殺した。その事実だけが残る。あとは人それぞれの価値観でしかない。九川は自身の特性故、悪いことをしたなどとは微塵も思えないが、それでも殺した人間に対しては申し訳ないという気持ちと自分の大切な人達のことは考えられるようにはなっていた。彼女らに迷惑はかけられない。そう思うことが歯止めにもなる。それは人それぞれのものだ。
永墓眠は短絡的に犯行に及んだ。それはまさしく激情に駆られてというやつだ。悪魔の囁きに唆されたとは言え決して許されざる悪行と断定できるだろう。しかし、それは──。
「私が! 私が悪かったっつーの!?」
その叫びに答える者はいない。
九川は静かに虚空を見つめ、一塚は真っ直ぐに永墓を見ている。アキはワタワタと挙動不審にしていた。琴葉はただつまらなさそうに宙に肩肘をついて事の成り行きを眺めていた。
「わからない! もうなにもわからない!」
そうヒステリックに叫ぶ彼女に一塚は冷静に言う。
「さっき満月さんも言った通り、今は真実を見定めるべきだと思います。……分からないなら知ればいい。あなたはあなたに為すべきことがあるはずです」
「私の……為すべきこと? はっ。なによそれ意味分かんない」
「私はね……。実はあなたと同じなんですよ。力を使い挑みましたが満月さんに敗れ今ここにいる。……私とあなたは同類というわけです」
「……同類……」
「そうです。しかし……私はあなたが羨ましい」
「……なんでよ?」
「私の力はどうしても戦い向きではないですからねー。……その力で自身の思いを叶えられる可能性はあなたの方が無限大だ。私は精々、満月さん達の話し相手になってお酒を提供することしかできません。ああ、勿論、お代はいただいておりますが」
「まったくだよ。たまには奢ってくれよ一塚」
先程と同じく満月は両手に珈琲を持って戻ってきた。一つを九川の目の前のテーブルに置き、もう一つを座り込んでいる永墓に差し出した。
「熱いからこぼすなよ。……できたらテーブルで座って飲んでくれ。そのソファーは気に入ってるんだ」
「……鳥羽満月……あんたはこれからどうするの?」
珈琲を受けとらずに永墓は問う。
「どうって、しばらくは様子見だよ。テレビを観てあんたみたく力を持った奴が俺を狙うかもしれないしな。えーと……一塚、力を持った奴のことを何て言うことにしたんだっけか?」
「『プレイヤー』と呼称しようとこの間決めましたよ満月さん。敵がゲームと称しているのでそうしようと光さんが言ったんですよ」
「ああ、そうだった。プレイヤー自体は一塚や永墓みたいに何も知らずに利用されてるんだ。だから、一体どこのどいつがこんな巫山戯たことをやっているのかまだ何も分かってない。分かっているのは人類を守ろうとしている組織と敵対しているということと前回の事件を起こしたのは奴らだってことだけだ。俺は首謀者を見つけだす。それだけだよ」
「首謀者……それをあなたが見つける? 相手は神様と名乗っていたのよ……会いもしていない私のことを何でも分かっていたし、こんな力まで与えてくれた。普通じゃないって。……そんなんに勝てるわけないじゃん! 馬鹿じゃないの?」
「まあ俺一人ならそうかもな。……だが、頼りになる仲間もいる。俺は絶対に俺の仲間を守るし皆の生活と世界を守る。って──大それたことを言っても俺も敵と同じさ。どこかゲーム感覚なのかもな。とにかく今は、俺は俺自身がそうするべきだって思っているからするだけさ。他に理由がいるか?」
「……」
「真実を知りたくないのか永墓。誰があんたの友人を殺したのか」
そう問うた鳥羽満月だったが、本当のところはその答えを彼も九川もすでに得ている。
前回の事件は木刀の青年、守野清継が起こしたものだ。だが彼も単なるプレイヤーでしかなかった。故にそれは今ここで言うことではない。
「……と、いい加減手が疲れてきたから珈琲受けとってくれるか?」
プルプルと震えてきた鳥羽満月の手から永墓は両手でそれを受け取る。それを見て満月はできるだけ優しい口調と笑顔を向けて言った。
「お互い今は休戦といこう永墓。真実を知るまでの間でいい。……なにか困ったことがあれば言ってくれ。協力するよ」
「……少し考えさせて」
「ああ。勿論。珈琲なら何杯でも淹れてやるからゆっくり考えたらいいさ」
──考える時間があればいいんだけどな。と鳥羽満月は窓の外を眺めた。ここは果たして安全か?
この男、一体何を考えているのよと永墓はまだ彼らのことを信用できていなかった。
ただ自分がなんのために息巻いていたのか、そもそも何がしたかったのか行動の起点が失われてしまった。それもこれもすべて鳥羽満月が余計なことを言うからだ。どれもこれも真実か分からないし、あの電話の神様の方が本当の神様なのかもしれないのに──。
だが、どうしてだか永墓にはこの男と周りの人間達の雰囲気を嫌いにはなれそうもなかった。
だから、彼女は珈琲を飲んだ。
腹が立つほどに苦々しくて、歯痒くなる程に美味しいと感じた。
***********************
「な、なにを言っているんですか先生? もう終わりですと!? そんな馬鹿なことがありますか? 私はまだ何も成してはいないのですよ!?」
電話越しのしわがれた老人の声は苦渋と諦めが滲み出ていた。
「と言ってもねぇ柵屋川君……。こうたて続けに事件を起こしてちゃもう私達でもマスコミは黙らせれない。……そもそも選挙を続けたとしても与党からも見捨てられる可能性が高い」
「事件!? 事件ですって? テレビでも言ったでしょう! 一回目は私のちょっとした悪趣味なデモンストレーションですよ! 二回目は……あ、ああ。あれは私の狂信的なファンがですねっ……どうにも何故、あんなことになったのか私にも分からないのですが……。とにかくっ! たいしたことではないのですよ! この程度! この程度でこの柵屋川誠実に退けと言うのですか! 資金も断つと!?」
柵屋川誠実は事務所の折り畳み式のパイプ長テーブルに備え付けられた固定電話に大声を張り上げていた。苛立たしげに頭を掻きむしり綺麗に分かれていた七三の髪型は乱れに乱れて、その表情にはいつもの余裕さの欠片も無かった。
周りには誰もいない。薄暗くなりかけた室内。時刻は夕方の六時を回ったところで、本来この事務所には誰もいない時間だが、そもそももうここには誰も来ないことに今日からなってしまっていた。
「私にはなんの落ち度もないはずだ! だというのにあんまりだ先生! こんなこと私の父と兄が黙っておりませんよ!」
「運が悪かったね柵屋川君……人が一人死んでいるんだ。しかも公衆の面前でだ。しかも殺したのは君がその悪趣味なデモンストレーションで使った男だというじゃないか……いくらなんでも……。下手な手助けをすれば私にまで火の粉が飛びかねん……。それに悪いが今回の件はお父さんからの申し出だ」
「なっ……! 父が私に諦めろと!? 父は昨日そんなことは一言も──」
「言うのが辛いので私に頼んだんだよ……。柵屋川君、君は若いし……その、なんだ。見た目もとてもイイ。政治家になれなくても芸能人や何にでもさせてやれるさ。だからね……今回は諦めるんだ。それじゃあね」
「ま、待ってくださいっ! 私は有名人になりたいわけではないんです! 私はっ……私はこの国の未来のために! 先生っ……!」
電話はそこで一方的に切られた。相手は元議員の老人。未だに様々なところに根回しができる程の大物で柵屋川家とは懇意にしている間柄だった。
それは急なことだった。柵屋川誠実の選挙戦を辞退するようにと連絡が入ったのだ。まずは自身の警視監の兄からだった。最初は何の冗談かと思い、兄には選挙戦は法律で途中辞退ができないからどの道無理なんだと言って有無を言わさず電話を切った。そして数分もしないうちに今の電話が鳴ったのだ。
「馬鹿な……この私に諦めろだと……?」
柵屋川は怒りで体を震わせ手に持ったままの受話器はキシキシと音をたてた。
そもそも選挙の途中辞退はできない。しかし、先生や父が手を回してテレビなどで私が選挙を続けられなくなり事実上『降りた』のだという意向を表明させれば別だ。私が納得しなくとも彼らならマスコミにそう情報を流すのはわけもない。法律で辞退できなくとも、メディアと民衆が柵屋川誠実は選挙を降りたのだとそう信じれば──それは降りたも同義だ。柵屋川は突然、受話器を机に本気で投げつけた。
「馬鹿馬鹿しい!! 馬鹿馬鹿しい!! 私のっ、私の道がこんなところで……!」
受話器は砕けて半分に割れてしまいケーブルが抜けて床に転がった。
「糞がっ!」
怒りの勢いのまま柵屋川は長テーブルを蹴り倒し、次に近くにあったポスターが大量に入っている段ボールを掴んで壁に投げつけた。
「くそがああああ!!」
がむしゃらに周りの物をあらかた投げて蹴ってを繰り返す。
何も考えられない。どうして上手くいかない。今の今までなんでも上手くこなしてここまで登り詰めてきたというのに──! この成功の一歩手前で!
柵屋川誠実は全てをパーフェクトに成せるはずで。仕事も趣味も快楽も何もかも全てが私の思うがままで、何にだってなれたし、どこへだって行きたいところへ行ける。凡人とは遥かにかけ離れたエリートの家系に生まれた者しか味わうことのできないものを全て持っているんだ。
持つ者として生まれた。その私が国を動かす程の人間になるのは当然なのだ。ゆくゆくは総理大臣にすらなれる器なのだ。これからは全てのテレビやワイドショーは私で持ちきりになるはずだったのだ──現在、別の意味でワイドショーを独占しているのはまさしく皮肉であった。
その時だった。電話が鳴った。
「ふー、ふー、ふぅー……」
息を切らしながら柵屋川は髪をかき上げて床に落ちた電話を見た。確かに音は鳴っているが、電話線も抜けているように見えるし受話器も半分に割れている。
今さらなんだというんだ。
「このっ……!」
壊れて半分になった受話器を拾いあげて壁にブチ当てようとして振りかぶった。
どうしてだか、その受話器から声が聴こえたような気がした。壊れているのだからなにも聴こえるはずがない。いや、馬鹿な。そもそも電話線も抜けているじゃないか。これは子機か何かか? 電話は一台しか置いてなかったはずだが。
柵屋川は訝しがりながらも、この怒りを誰かにぶちまけてやろうと耳に受話器をあてたが、それと同時にこちら側の声を届けるマイク部分が無いのだと気がついた。
──。
受話器からの音はしっかりと耳へとそれは到達していた。しかし、その声はなんとも不思議な音をしていた。女性なのか男性なのか区別がつかない。それどころか果たしてちゃんと鼓膜を震わせているのかどうかさえ怪しく、音声だったかどうかも定かではなかった。
「──」
しかし柵屋川は息を飲んだ。その音の意味は理解できていたのだ。
急にがくりと膝を折った。壊れた受話器を耳に当てたままで。先程までの怒りの形相から徐々に顔の表情が弛緩していく。
そして──口元が歪みを作った。
「ふふふ……ははははは……ははははは」
数分前の怒り全てが霧散したかのような満ち足りた笑顔で声を上げて笑っていた。
そして、まるでそこに電話本体部分があるかのように受話器を床へガンと音がなるほどに押し当てて、彼は目の前の空間へと目を大きく見開いて感動したように言った。
「これで全てがパーフェクトじゃないか」
そこにはいつもの余裕のある柵屋川誠実がいた。彼は乱れた頭を撫で上げて綺麗に七三を作り、ネクタイを締め直して背広のずれを正した。
行かねばならない。私は行かねばならぬ。今すぐ行かねば。
出入り口へ向かおうとした矢先にキィと事務所のドアが開いた。
今更ここに誰が来ると言うのだ。この私を止められるものはもういないのだ。
「柵屋川さん。残念でしたねぇ。へっへへ」
そんなことを言いながら入ってきたのは佐能響だった。いつものヤクザですと言わんばかりの濃い紺の背広にサングラス姿だった。彼は顎に手を当てながら辺りを見渡して言う。
「……これはこれは……荒れるのも無理はありませんかぁねぇ……」
選挙事務所内の荒れた様相を見て佐能は察した。
「ああ。佐能だったか。どうかしたかい?」
どうかした? どうかしてるのは、てめぇの方だろうと佐能は思ったがそれよりも今は聞いておきたいことがあった。
「上畑ぁ死にましたね」
「ああ、死んだな。私は今急いでるんだ佐能。つまらない話ならまた後にしてくれないか? 護衛の任務は一時中断だ。報酬はちゃんと支払うので安心しなさい」
「報酬の心配なんざしてねぇんだよ柵屋川さん」
佐能の雰囲気と声色が急に変わった。それを感じたのか柵屋川も「ふん」と鼻で笑ってから、足を止めて佐能に向き直った。
「ほう。では、なにについて話したいのかな佐能響。……私は君を気に入っている。さぞ面白い話をしてくれるんだろうね」
「上畑のことだ。あいつはあんたと同じ大学だったらしいなぁ」
「ああ。それで?」
「その時、上畑の妹とあんたしばらく付き合ったそうだな。二ヶ月くらいの期間だったようだが」
「それは知らん。知らんな」
どうでもよさそうに柵屋川は腕時計をちらちらと見ながらすぐに言う。
「もういいかい佐能? さっきも言ったが私は急いでるんだ」
「俺の話が終わるまではここにいてもらいますぜ柵屋川さん」
「ははっ。えらく怖い顔をするじゃないか。まるでヤクザだ」
巫山戯た調子で両手を上げて柵屋川は窓の外に目をやる。そろそろ暗くなり始める時間だった。佐能は胸ポケットから煙草を取り出して火をつける。
「こうするともっとヤクザっぽいですかいぃ?」
「ああ、まるで映画を観ているようだよ」
ふーと煙を吐きながら佐能はどうしても確認しなければと言葉を続けた。
「俺ぁね。別にあの上畑とかいう奴が死んだことに関しては不運な事故なのかなんだったのか
……俺の頭じゃ正直アレは理解しきれんですわ。ですがね……上畑が病院へ担ぎ込まれる時に俺は同行して奴の最期の言葉を聞いたんです。……まったくひでぇ状態だった。頭は割られ、胸も顎の骨も折れていたらしい。そんな時にあいつは俺に必死で伝えたんですわ」
「佐能、結論から話さないとモテないよ」
「俺ぁ女はいらねぇ。命張れる仲間がいりゃぁそれでいい」
「なんともそれはビックリ発言だな佐能。君はホモか? そういう世界の人間にはやはり多いのかい?」
「へっへへ。それは知りやせんがね。あんたは気にならなないんでぇ? 上畑の最期の言葉を? 仮にも同級生で、今も同じ志で活動していたわけでしょう?」
「全くならんな。あいつはつまらなかったからな。死んで清々したと言ったらさすがに酷いかね? ははははっ」
「ひでぇっちゃぁ。ひでぇですな。……じゃあ結論から話しましょうか」
「そうしてくれると助かるよ」
柵屋川誠実は腕時計をまたもチラチラと見る。……こいつなにをそんなに時間を気にしてやがる。
「上畑は死ぬ前に言いましたよ。あんたを憎んでたと」
「はははっ。気がついていたよ。私も嫌いだったがね!」
「奴はあんたに復讐がしたかったみたいですぜ」
「はははっ。復讐のために私の活動に力を貸したというのか。最初は確かに不思議に思ったよ。嫌われているという認識だったからね」
「恨まれているのはあんたが奴の妹に手を出した挙句に無茶苦茶な捨て方をしたのが原因らしいですぜ。覚えてますか上畑恵という女を」
「恵…………めぐみという女性だけで何人もいたからなぁ正直分からんな! ははははは」
「その妹はあんたに振られた後に自殺したらしいですな。自殺した元交際相手。これなら記憶の中で思い当たりますかい?」
「いいや全然!」
柵屋川は面倒臭そうに余裕の笑顔を湛えたままで手を振った。
──化けの皮剥がれてきやがったな。佐能の目が細くなった。
「恵は遺書を残していたんだ。コピーを今でも上畑が家に保管していたようだがぁな。そこには、あんたが仲間と一緒に自分をめちゃくちゃに強姦したってぇ恨み辛みが書かれてるみてぇですぜ」
「被害妄想も甚だしい……。よく若い頃はヤッていたさぁ。乱交というやつをね。合意の上でね。……そこでね。たまに、いるんだよ。全くに迷惑千万極まりない女がね。その場ではノリノリで腰振ってた癖に後からそんな難癖をつけてくるんだ。……だから父と兄に揉み消してもらった──というような事は何回かあったが、ああ、すまない。その恵とかいう女は未だに思い出せないな」
「……あんたがクズか実際どうだったかは俺ぁ興味ねぇし判断しねぇよ。欲深い男は俺も嫌いじゃねぇ」
「助かるね」
首をすぼめて柵屋川が笑った。それと同時に佐能の眉間に血管が浮かび上がった。
「だが、自分の妹殺された恨みを晴らしてぇ奴が最期に泣きながら言った言葉は俺は絶対に忘れねぇ!」
──……。
その佐能の怒号に一瞬、思わず柵屋川は息を止め、やれやれやはり本職の圧は違うなぁと感じた。
「はん。情に弱いなぁ佐能。……で、私に何をしてほしいんだ?」
「……まずもう一つ伝えることがある。上畑が謝罪していたことだぁ」
「謝罪? あいつが? 使えない無能っぷりをか?」
「そうじゃねぇよい。上畑はあんたの選挙の邪魔をして選挙事務所に嫌がらせをしていたんだ。例の爆発物なんかを送ったのも上畑の自作自演だったらしい。まあ見掛けだけで……爆発するような代物じゃなかったらしいが……あんたをとりあえず不幸にしたかったみてぇだな」
「はははっ。図体に似合わずとことん卑屈な奴だ」
「……そのことに関しては悪かったと死ぬ前に柵屋川さんに伝えてくれと言われましたぜ。……もう一つは……」
そこでスンッと鼻をすすった佐能は少し涙目になっていた。とことん人情というのに弱いタチだった。
「妹の墓に参って……謝って、謝罪してほしいと奴は言ってた」
「……」
ズビッと鼻水をすすって腕で鼻をこする佐能を柵屋川は馬鹿を見るような目で見た。
「それで? その続きはあるのだろうな佐能響。今のところ話はつまらないままだが?」
「……俺のぉ話はこれで終いだ」
「なんと時間を無駄にしたことか!! ああ! どいてもらおうか佐能! 私は行かねばならないのだ!」
佐能は吸っていた煙草を指を弾いて飛ばし、動こうとした柵屋川の顔に当てた。
「……っ」
煙草の熱を少し頬に感じた程度だったが、その佐能の威嚇ともとれる行動に柵屋川の動きが止まった。佐能は低い声で言う。
「奴の妹の墓に参ると約束しろ」
「佐能。君は私の邪魔をするのか? 私の選挙活動の邪魔をするというのか」
「何を言ってやがる。もう、てめぇの選挙は終わりだろうが。テレビのニュースやワイドショーはあんたのことばかりですぜ。……そんなことよりも上畑の」
「そんなこと! そんなことだと!! これだからヤクザ風情には国のことなど分からんかぁぁ! この愚か者がぁ!」
柵屋川は突然、手前にあった長テーブルを掴んでひっぱり倒した。丁度自分と佐能との間に倒れたそれは一瞬、佐能の気をひいた。
「おっと、危ねぇな」
それを好機と見て柵屋川は外に向かって駆け出した。
「ぅおいっ、てめぇまだ話は終わってねぇぞ!」
「しつこいんだよっ……」
事務所を出たところで柵屋川は佐能に背広の上着の肩部分をがっちり掴まれた。
辺りはもう完全に夜の帳が下りており時刻は十九時を回っていた。どこか静か過ぎる夜気の気配が漂っていた。
妙に寒ぃな。佐能は思いながらも腕に力をこめて掴んだ柵屋川の背広を離すまいとした。
「離せっ。佐能! 私は選挙に行くんだ! 政治は選ばれた人間がやるべきだ!」
「気でも狂ったんか!? もうこんなに暗いんだぜぇ! 俺はあの野郎っ……上畑に頼まれたんだ。どんなに気に食わねぇ奴でも死ぬ前の言葉──奴の涙には義理立てする筋が俺にはぁあるんでぇ! さあっ、柵屋川! 墓へ参ると誓えやぁ!」
「墓だとっ……ふふふっ! ははははは! では、お前の墓になら参ってやるよ佐能!」
「何をぉ……?」
その時、急に佐能の掴んでいる柵屋川のスーツから重たさが消えた。
「てめぇっ!?」
柵屋川は前ボタンを外し上着を脱ぎ捨てて一気に走り出した。そのまま止めてあった選挙カーへと乗り込んで車を急発進させる。
「逃すかぁい!」
佐能は服を投げ捨て胸の拳銃に手をやり、追いかけようとして──辺りの異常に気がついた。いや、どうして今まで気がつけなかったのか。
「……なんじゃぁこりゃ……」
佐能は銃を抜いた。今度はこれを使うことに躊躇いはなかった。
サイドミラーでその佐能の様子を確認した柵屋川は堪らずに吹き出した。
「ははははははははははははっ!! まったく、まったく面白い! なんてこと! なんてことだオウッジーザスッ! ははははは!!」
柵屋川は曲がり角でハンドルを右に切り、佐能の姿が見えなくなったところで右側の窓ガラスを開けてからアクセルを全開にした。そして隣の座席に置いてあった選挙で使っていた拡声機を取り音量を最大にして、流れる景色と風を感じながら彼は話し始めた。
「いやっほうぅぅ! 柵屋川! 柵屋川誠実です! 夜分遅くに申し訳ございません! しかし、今私は非常に気分が良く皆様に申し上げたいのでございます! 気分が良いから伝えたいのでございます! 私は常々思っていたのです。政治は選ばれた人間がやるべきだと! だからこその選挙っ。そう思って有権者の皆様にこう毎日、毎日、毎日っ、頭を下げてまわっていたのですよ。しかし、それはどうなのかと私は疑問を感じておりました。有権者の皆様におかれましてはとんでもないクズのような人間もおられれば、素晴らしい方もいます。しかしだ、大半がクズで社会の役にもたたないクズどもだ。そんな中から選ばれたとして一体どんな政治ができるのですか? 私はより高位な存在から選ばれるべきだと思うのですよ」
どかんと大きな音と悲鳴が響き柵屋川の運転する車の窓ガラスにヒビが入る。通行人を轢いたのだが、彼は全く意に介す様子はなく言葉を続けた。
「私は宣言します! 一般市民の選挙権を剥奪すると! 意味がない! 全くもって意味がない! レベルの低いものたちから選ばれた人間になにができますか!? 弱者が選ぶこの政治システムこそが日本の最大の欠陥だと私は感じます。しかし、ご安心を! 私は高位な存在に選ばれたのです皆様! ですから、一般市民の皆様はさっさとこの私に服従してください!! 拒否権はありません。私は皆様を幸せにできる存在だと確定しているのですから。ですから──私の政策に参加しない者は排除します。……選民思想? だとかそんなことは思わないでくださいよ皆様! 私は皆様の平和を願っているのですから! 日本を楽しく! あなたも楽しく! 柵屋川誠実! 柵屋川誠実をどうかよろしく! もう、一度言います。私の政策に参加しない者は排除します! ですから皆様も私の政策に参加しない者は見つけ次第、処分してください! これは悪でも法律に違反してもいません。なぜならばこれは聖戦だからです! さあ、今夜は楽しいパーリィナイッ! オウッ、イエスッ! そして始まるデッドダンス!」
夜の滲み始めた街に響く声。その内容を理解できたものは誰一人いなかった。
しかし抗えない無慈悲なものを誰しもが感じた。
***********************
羽田健三の事件簿。達筆な文字でまるでなにかの映画のタイトルかのように筆ペンで書かれたそのファイルを手に取り、羽田警部補はご満悦な様子でデスクに置かれていたおはぎを一つ手に取り一口で口へと放りこんだ。警察署内でこうも悠々自適に過ごせるのはこいつくらいなもんだなと周りの同僚や部下達は溜息をついた。勿論、そんなことに気がつく様子もなく羽田は頬っぺたを押さえながら呻く。
「んー」
そして感服の吐息を吐きながら熱々の緑茶を湯飲みでずずっと一口。これこそが日本人としての和菓子の食べ方なのだよとでも言わんばかりにドヤ顔で周りを見渡し、目についた女性署員へと声をかけた。所狭しと並ぶデスクの中、羽田の後ろを通らないと自分のデスクへと辿り着けない構造を署員は恨んだ。
「どうかね。君? おはぎと緑茶を肴にして私の解決した事件のファイルでも見んかね? んん?」
声をかけられた女性署員は軽く頭を下げてすいすいと歩き去っていってしまった。
「ないわー。さっさと前連れてきたあの可愛い子連れてきてほしいわー。あの子連れてこない警部補に価値ないわー」
「…………」
羽田はその独り言が聞こえていたが何も聞かなかったことにして、またずずっとお茶を含んでからおはぎをパクついた。うむ、茶を先に口に含んでも旨いな。渋みと甘みが織り成す究極のファンタジア。これほどの至福があろうか。
羽田の腹はその至福とやらでタプタプと膨らんでいた。同僚にはデブ田呼ばわりされていることに気がついていない。
「やぁね。警部補また太ったんじゃない?」
「太ってる太ってる。早くフレネちゃん連れてこいよなあいつ」
「…………」
羽田はその耳に届く雀達の囀りをいちいち気にしたりなどしない。
私にはこの今まで歩んできた難事件を解決したという実績があるのだ。コツコツと地味に頑張って残業にも文句を言わずに上司にゴマをすりまくってこの警部補という位置にまで上り詰めたのだ。平署員の戯言など我が威光の前にはミジンコにも等しい。
「ふふふ。では一人で見ることにするかぁ。いやぁ、本当に面白いんだけどなぁ。これ。うっふふっふ」
──黙って一人で見ろや。と満場一致でデスクワーク中の署員達は思った。
羽田は自身が嫌われているなどとは微塵も思わなかった。それどころか最近はよく女性署員がやらたと話しかけてくるので勘違いしている始末だ。
誰も彼も「フレネちゃんの写真くださいよぉ」とか「フレネちゃんと今度遊びに行きたいんですけど、連絡先教えてくださいよ」とか言ってくるが、馬鹿め。皆の者はあの電流ビリビリ少年をダシに私に声をかけようとしているのだ。なんともいじらしい。そう思っていた。
これがモテるナイスミドルの辛いところだなと羽田はパソコン越しに向かいにいる女性署員にウィンクを送る。女性署員は吐き気を催し席を立った。
おっと、イカン効きすぎたかな。羽田は頭をコツンと叩いて舌を出してから自身の英雄譚とでもいうべきそのファイルに目をやる。
今まで解決した事件が並んでいる。全て私が解決したのだ。
その実それらは警察組織が全体として取り組んだ事件ばかりだった。羽田は部下に命令をだす位置にいはしたが、直接的な解決には何一つ関わってはいない。だが解決となればその時、部下を使っていた者が持ち上げらえる。当然の結果ではあった。
そこにすぅと暗い影がかかったのを羽田はすぐに気がついた。
ほうほうこの香りは山瀬くんかなぁ。今日も良い匂いだ。羽田の女性署員を匂いだけで誰か嗅ぎ当てられる技能はまさにプロ級ではあった。
「なんだね。山瀬くん。さっきは断っておいて。本当は私とこのファイルを見たいのだろう?」
「そんなどうでもいいものより警部補も柵屋川さんのテレビを観ては? あちらで皆観てますよ」
それだけ告げてさくさくとまた歩いて行ってしまった。
どこかいつもの彼女とは違うような気がしたが。はて?どうしたのか。
「柵屋川……? なんだ?」
気がつけば確かにいつの間にか周りの署員達が消えていた。奥の談話室からガヤガヤと話す声となにやらテレビの音が響いていた。
「おいおい。皆テレビに夢中で仕事をサボるとは嘆かわしい」
そう言いながら羽田は最後のおはぎを一口で頬張ってから緑茶を一気に流し込んだ。皆が集まっている談話室へ行ってみることにした。
「あー旨い。こんなに美味しいものをもらえんとは君らは不幸だよなぁ」
談話室の扉を開けながら羽田は言った。
日本を楽しく! あなたも楽しく! 柵屋川誠実! 柵屋川誠実をどうかよろしく!
談話室に入った瞬間に羽田はそのテレビの音声を聴いて、ああコイツかと耳をほじりながら興味なさそうに言う。
「ああ、最近出てきた七光のイケメンちゃんね。こいつは胡散臭いと俺は思うよ。ね!」
と扉の横にいた女性署員の肩に手を置く羽田。
──。妙な雰囲気だなといくら羽田でも思った。テレビの音以外なんの話し声もしない。
「おいおい、やけに静かだな」
と机の奥のテレビの前に座る十人程の人間全員が自分を見ていることに気がついた。
「は?」
見ているというより、その部屋の全員に睨まれていた。思わず羽田は後ずさった。
「な、なんだ? ……ひょっとして皆こいつのファンなのか? あはは……いやぁ、若いしカッコいいもんなぁ……あはは」
なんだか異様な雰囲気を肌で感じ取り羽田は談話室の扉をバンっと強く閉めた。
──ん? ──ん?
理解できないまま羽田は自分のデスクに戻ろうと振り返るとそこに先程の女性署員の山瀬がいた。手に重たそうな事務用の裁断機を持っていた。ニコリと山瀬は笑う。ああ、そう笑うといいんだよこの子は。羽田は少しホッとして声をかけた。
「なんだか皆あの柵屋川とかいうのにご執心みたいでねぇ。全くわけがわからん。……まあ君はそうじゃなくて安心したよ……何か切るの? 手伝うよ?」
「ええ、警部補の手を切ろうと思いまして」
──ん? ──ん?
羽田ははて?と首を傾げた。瞬間、バンっと勢い良く談話室の扉が開いた。手前の部下の男が急にもの凄く大きな声で喚き散らすように叫んだ。
「警部補はどうして柵屋川さんの素晴らしさが分からないんですか!? 失望しましたよ! 元々、してましたが!」
「そうですよ羽田警部補っ! まさか柵屋川さんを支持していないなんてっ! ああ!」
続いて女性署員達も各々で同じようなことを言い出した。
「…………」
完全に思考停止で固まった羽田はいつも通り何事も無かったかのように無言で自分のデスクへと戻ろうとして──手を掴まれた。山瀬はにたりと笑う。
「ああ、ダメですよ警部補。手を切りましょう。だって柵屋川さんに従わないんだから。手を順番に切って次は足……警部補はどこで柵屋川さんを支持するようになりますかね? ふふふ」
「──」
ゾワっとするようなものを感じた。ああ──もうさすがに三回目なので分かる。これは前回に引き続き──私の世界にあってはならない類の『事件』だ。
前回と違うのは自分を守る電流ビリビリ少年はいない。
こくりと笑顔で頷いて羽田は優しく頷いた。
「ああ、私も柵屋川誠実を応援──」
ダッとその瞬間、羽田は駆け出した。急な逃亡に署員達は一瞬、唖然とした。
「するか! バーカ! バーカ!」
三回目の異常事態に羽田は少し慣れてしまっていた。この間、女性署員から逃れるべくフレネを抱えて一気に下りていった階段を今度は一人で颯爽と降りていく。
「はははっ、私が本気をだせばこんなものだよ!?」
粋がろうとして強がりを言っている最中でドドドドドと大きな音が響いた。階段をさっき談話室にいた全員が降りてくるのが見えて羽田は、ぎょっとした。
よく見たら彼ら手にそれぞれなんか怖そうなものを持っていないかね!?
署員達は長い棒切れだったり、ハサミや重たそうなセロハンテープの台座やらなんやかんや持っている。どうして──そんなものを持ちながら私を追いかけるのかな。止まって聞いてみたい気もしたが、どうにもそうしたら最期な気がして羽田は全速力で駆けた。
「ひー、ひー、ひー!」
ぼたんぼたんと、丸呑みしたおがぎと緑茶が腹の中でシャッフルされているのが分かった。
羽田は急いで警察署を飛び出した。
後に彼は語る。あの時は、私じゃなかったら、まあ死んでたねと。
***********************
とても静かな夜だ。
コツコツという時計の音と風が僅かに窓を揺らす音だけが聞こえていた。
もうあと一、二ヶ月もすれば暖かくなるだろうが、それにしてもまるで今日は冬の最後の抵抗とでもいうのか、マジで寒ぃなと宇佐木光矢は美術室で体を丸めながら思っていた。暖房はちゃんと効いてはいるはずなんだがなぁと立ち上がったついでにエアコンの表示を確認しに行くが、やはり暖房はフルで役目を果たしていた。そもそもこのプレハブのような大きな美術室の作りがよくないのだ。隙間風がやたらと入る。
「うー」
寒くて宇佐木は呻いた。一人の寒い時は独り言が許されるのだ。といういつものよく分からないことを思いながらまたも筆をとり、目の前の絵と対峙した。今日も今日とて授業が終わった後に一人で絵を描いていた。どうにも今回の絵はまとまりがない。いつもの描きたいというか、楽しい気持ちがどこか湧き上がってこないのだ。ただ使命感のようなもので描いている気がする。これはなんだか絵を描く時の姿勢として間違っている気がするのだ。こういう時は本来描くべきではない。宇佐木は溜息を吐いた。
スランプという程ではない。ただ絵に集中できない。心の騒めきが治まらずに気持ちが急いてしまう。
そういえば──石原は?
そしてすぐに雑念がよぎる。
先程まで部員がいくらかいたが今日は最後まで石原の姿はなかった。
朝はいたはずなんだけどな……早退でもしたのか。あとで誰かに聞いてみるか。
そういえば最近、石原は眼鏡をかけなくなった。コンタクトにしたのだろうか。そのせいか随分と可愛くなった気がする。
石原は自分にとってどういう存在だろう。
大人しいし、どこか抜けているが妙に頑ななところがあるという印象だ。やたらと俺の絵のことを褒めてきて正直、恥ずかしくなってしまう。
あと、どうしてだろう。彼女の俺を見る目が時折辛く感じてしまう。あまりにも眩しい目で神を崇めるかのように見てくる。
やめろよ──俺はそんな人間じゃない。ただの人殺しで、成り行きでここで絵を描いてるだけなんだ。
ただ彼女ほど熱心な部員もいない。正直、石原にはだいぶと宇佐木は助けられている。
今の三年の部長が引退したら石原に部長になってもらいたいなぁと最近考えるほどになっていた。
ああ、自分はなんだ。まるで先生みたいなことをしているじゃないか。
ああ、そうか。俺ってば先生だったな……。
未だにこの教師役というのにどこか慣れない自分がいた。
俺はあの時、ソーリスと出会わなければ一体どうなっていたんだろう?
殺人犯として法で裁かれ、あの石原のきらきらとした目を向けられることもなく何十年も牢にぶち込まれた挙句に死刑になっていた。いや、それが当然の報いというものだ。
俺は一体何人殺したんだったか? ──このぬるい生活で忘れようとして、いや、忘れられなくて……結局のところ俺は罪の意識というやつを感じているのか。
「笑うなぁ。今さらかよ俺はよぉ」
「ねぇ光矢ぁー早く帰ろうよー」
「どぅっおうわぇいっしょい!!」
突然のアンジェリンの声に心臓が口から飛び出したんじゃないかという程に驚きながら、よく分からない声を上げて宇佐木はまるで猫のように跳ねて声の主を見て言った。
「アンジェリン……いつからいたんだよ?」
「うーって唸ってるところくらいからかな! あはは、光矢驚いてるー可愛い!」
いつもの白いセーターにコートとジーンズ姿で彼女は笑顔を見せた。
「気配を殺して近づくなよ!」
さすが本職の殺し屋共め……全然気がつけなかったぜ。宇佐木は戦慄した。
「ちゃんと普通にドアから入ってきたよー。宇佐木考え事して全然気がつかないんだもん。……急に独り言話しだすしー変なこと始める前に声かけたのー」
「変なことなんかするか!」
「もう寒いし早く帰ろうよぉー。じゃないと私、火ぃ出しちゃうよー」
なんて言いながらすでに指先からライター程の火をだしてもう片方の手で暖をとるアンジェリン。
「美術室全焼とかシャレならんからやめろ……」
宇佐木は絵を切り上げて、帰ってコタツビールを決め込むことにきめた。アンジェリンには極力構わないようにしないといけない。神経がすり減るからだ。
宇佐木は壁に掛けてあったダウンコートを羽織り外に出た。途端に強い風が吹いた。自然と口にでる「うー」という唸り声にまたもアンジェリンがくすりと笑った。
「光矢はウサギだからやっぱり冬が苦手なんだね」
「ウサギ言うな殺すぞ」
彼がウサギとからかわれたら返す言葉は中学の時から変わりはしない。
「あはは。ウサっぴょん。ウッサぴょんっぴょんぴょんぴょん~」
歌い出したアンジェリンに構っていたら家に帰るまでに俺の神経がすり切れてしまうだろう。そう決め込んだ宇佐木は美術室の鍵を閉めてからスタスタと歩き出していく。アンジェリンは無視されたことを気にも止めずに笑顔でついていく。
「げ」
宇佐木は目の前に舞う白いものに気がついた。随分寒いと思ったら雪がぱらつく程度だが降っていた。冬もピークが過ぎたところで徐々に暖かさの気配みたいなものがここ数日あったように感じていたのだが、今夜は冬に逆戻りしていた。
「最悪だー寒い寒い。早くソーリス拾って帰らねぇとな」
「ソーリスなら先にホテルに戻ってるって言ってたよー」
アンジェリンが宇佐木の横にしゅたっと追いついて言う。
「あ? そうなのか? 念のために三人で行動するんじゃねぇのかよ?」
テロのことがあってからソーリスには行き帰りは必ず同行すると言われていた。
「なんだか急用だってー。ソーリスからの伝言~。一回、家に帰ってしばらく私のホテルで過ごせるように服とかいる物を荷物纏めてきてください。コタツは持ってきちゃいけませんよ宇佐木。だってー」
「コタツなんか持っていくか……」
いや──しかし確かにしばらくとなるとこの寒さだしコタツはかなり恋しい。そしてソーリスのホテルにはウィスキーやワインばかりでビールはないかもしれないので買っていったほうがいいなと宇佐木はコタツと酒の心配をした。
宇佐木とアンジェリンは校舎を出て、夜道を歩き帰路を辿る。寒さのせいか人通りがやたらと少ない気がする。
──いや、なんだか──雰囲気が──透明な──ようで。
真っ黒な空からふわりふわりと落ちてくる雪は僅かで、街頭に照らされて踊るように落ちてくるその白はどこか落ち着かない心を大人しくさせた。
「光矢、ぼーっとしてる。雪綺麗だねっ」
そう言って雪の舞う中をタタタと駆け足で先に行くアンジェリン。いつも白い服だからか彼女には雪が似合うなと宇佐木は思った。だからか寒さで急ぎ足になりながらもそんなことを聞いた。
「なあ、お前なんでいつも白い服なんだよ?」
宇佐木の言葉に振り返りキョトンとした顔でアンジェリンは言った。
「だってぇ白ってなんだか私みたいだなーって」
「……なにが?」
「何にも染まってないから可愛いでしょ?」
「……」
宇佐木は眉間に皺を寄せて露骨に嫌そうな顔をしてみせた。
「ええー。その顔は酷いよー光矢ぁ。まあ……って言うのは嘘で本当は白い服を着てるのは師匠の言いつけなんだけどねー」
そう言ったアンジェリンは少し遠い目で雪の降る空を見上げた。
「いっつも訓練の時には白い服着て来いって言われたんだー。私、魔法が得意なタイプだから相手を基本的には近づけちゃいけないの。だから白い服が汚れたり敵の血がついたりしたら破門だって。……そんな修行時代の名残かなー」
「そうか」
宇佐木は今まで彼女らの過去や素性を一度も尋ねたことはなかった。白い服の理由という単なる世間話のつもりで聞いただけのことでもどこかで彼女らの過去に繋がってしまう。宇佐木はバツが悪くなりなんとなく謝った。
「すまん」
「あはは。謝らないでー。でも……私はちょっと嬉しかったかなー。光矢はなんだか相手のこと……特に私達のことは一緒に暮らしてても全然なにも詮索しないよね。だから私達少し寂しかったんだから」
「ブレッドとフレネの奴はそうでもねぇだろ?」
「そんなことないよー。あの二人も光矢のこと大好きなんだもん。もっと色々聞いてほしいと思うよー」
「……そうかよ」
彼らと過ごした二ヶ月。
とても慌ただしく毎日が共同生活のストレスによって思い返すも吐き気がこみ上げてくる程の日々だった。しかし……どこか彼らとの生活は新鮮で面白味があった。怒鳴り散らして一人になりたいと毎日思っていた。しかし、彼らがいなくなった時に宇佐木は一瞬どうしたらいいか分からなくなった。おかしなもので……あれだけ一人になりたかったというのに今ではブレッドとフレネに早く帰ってきてほしいとさえ思っている。
──でなければもう二度と……。いや、どうかしている。俺は一体、なにを考えているんだ。
宇佐木とアンジェリンは家に着くとすぐに荷造りを始めた。
一週間、いや二週間分は念のため準備しておくか。ふと宇佐木は棚の上に置いてあったペインティングナイフに気がついた。ナイフという名ではあるが画材道具の一種で絵を描くための道具で切れ味は皆無だ。平べったい部分を利用してベタベタと塗って線を描くことを目的としたものだ。
「……」
特に意味はない。何故だかよく分からなかったが宇佐木はそれを上着のポケットに仕舞い込んだ。
大きめのリュックに着替えとだいたいの用意を詰め込んだ宇佐木はコタツを見ないようにしながらアンジェリンに声をかける。
「おい準備は済んだのかよ」
アンジェリンは入り口の近くに置いてあったスーツケースを手に取り頷いた。
「オッケー」
それは元からそこに置いてあったスーツケースだ。彼女らは常にこういう事態を想定して荷物をある程度まとめているというのか。
「途中コンビニ寄りてぇんだけど」
酒の調達は忘れない。宇佐木の用意は元々の職業柄か異様に早い。家に着いてから十数分しか経過していなかった。
ぞわり──宇佐木のうなじにビリリと静電気が起こった。警笛のうなじ。これが起こる時はいつでも『ろくでもない』。
急にテレビがばちんと音をたてて電源が入り画面が点灯した。喧しいコマーシャルの音が大音量で流れ出した。なんでこんなにボリュームが大きいんだ?大きくした記憶はない。
「光矢。テレビなんか観てる暇はないよー」
「……俺はつけてねぇよ……」
リュックを持とうとしたところだった。宇佐木はテレビに近づいて電源を切ろうとして──その手が止まる。
──あの時と同じだ。コマーシャルが終わり、急に喧しい男が何やら演説を始めたのだ。
「柵屋川誠実です! 柵屋川誠実です! 『日本を楽しく。あなたも楽しく。柵屋川誠実』ですっ!」
喧しい。頭がキンキンする──それとどこか心がざわついて治らなくなる。ナンダコレハ。
前にもこんなことがあったような。
宇佐木はすぐにテレビ本体の電源を押した。しかし、以前と同じように何故だかテレビが消えない。
「なんだよ。故障か……?」
この男の声を聞いているととても苛々とする。何故だろう。早くテレビを切りたいのに──。宇佐木は諦めて出口に向かった。しかし、ああコンセントを抜けばいいじゃないかと気がつき戻ろうとしたがアパートの扉を開けたアンジェリンが「光矢」と名を呼んだので、再度テレビは諦めて靴を履く。
大きいリュックを重たそうにして、よろけながら靴を履いていた宇佐木はアンジェリンを見て、なんだよ早く外に出ろよ出れねーじゃねぇかよと思いながらよたよたと歩いた。……体力作り俺もするかなー。
「おい、どいてくれ。出れねぇよ」
「光矢。荷物置いて。急いでソーリスのところまで行くよ」
「は?」
そこでアンジェリンは振り返り物凄い剣幕で怒鳴った。
「早くして光矢!! 荷物を置いて窓の方に走って!」
アンジェリンのただならぬ様子に宇佐木はすぐにリュックを床に落として身を反転させた。入り口から駆けてくるアンジェリンにすぐに腰を掴まれる。全速力で走ったところで彼らに運ばれた方が早いのは実証済みだ。くやしいことに。
「……っ」
舌を噛みそうになりながら宇佐木は入り口に現れた影を捉えた。
黒い影──人?それも何人も?何か叫んでいる。なんだ。誰だ?
思考する間はなかった。ガシャンとガラスの割れる音。アンジェリンは宇佐木を抱えたまま窓ガラスを突き破って宙に舞った。麗しのコタツが視界の隅に映り──遠ざかり落下してやがて見えなくなった。
「……う、うおおっ」
二階から落ちるのは初めてではない。つい最近も落ちて地面の石に背中をぶち当てた。その時は意識を昏倒させはしたが今は違う。アンジェリンが華麗に着地して、そのまま勢いを殺さずにスタスタと走っていく。
「おいっ……アンジェリンっ……なにがっ……どうなってる!? ぶ、ぶつけるなよ! 特に電柱に……!」
「もうっ、ぶつけないよー! 今はそんな冗談を言ってる場合じゃっ……! 敵の攻撃を受けてる! ……私だけでは守れない! ……早くソーリスのところへっ……!」
あのアンジェリンが焦っていた。いつもの子供のような口調ではなかった。
「いたぞっ! こっちだ!」
「あそこだ!」
すぐに何人もの声がかかった。宇佐木は抱えられたまま風圧に逆らいながらなんとか首をあげた。
「……なんだよっ、これ……!?」
宇佐木の視線の先。雪がぱらぱらと舞い降りる先の闇の向こうから数十人の人々が大声を張り上げながら二人を追いかけてきていた。誰も彼も鬼のような形相というのがしっくりくる面相をしていた。そして焦点はどこか虚だ。
「近所の人達か……? 普通の人間じゃないのか?」
追いかけてくる人達は半狂乱で怒鳴りながら走り、手にはそれぞれ何かしらの獲物を持っていた。包丁、ゴルフクラブ、金槌、バット……とにかく武器になりそうなもの全般を多種多様にそれぞれが用意して持ち寄っていた。
どう見てもその辺にいる一般人に見えた。
「操られていると思う!」
アンジェリンは余裕がないのかはそれだけ叫んでさらに走る速度を上げた。
なんて──速度だ。ソーリスに抱えられて走ったことはあったがそれと引けを取らないスピードだった。女性とはいえ、やはり彼女も組織の一員なのだ。
ぐんぐん彼女の駆けるスピードは上がる。視界の過ぎていく速度は宇佐木の体感では車で高速道路を走っている時とそう変わらなかった。
「うっぷ……」
やばい──酔いそう。また吐くと思った矢先。
「うおっ」
ぐんっと左右に体がブレる。目の前が高速でスライドする。アンジェリンが十字路を物凄い勢いで右へと曲がったのだ。視界が思いっきり外側に引っ張られるがアンジェリンがしっかりと抱えているので体は重力を感じるものの振り落とされはしなかった。
しかし──。
「きゃっ!」
アンジェリンの短い悲鳴。宇佐木はその瞬間、方向感覚を失い上も下も分からなくなってゴロゴロと転がっていった。予め振り落とされるのを予想して受け身態勢をとっていたので、着地はなんとかなったが勢い余ってどこかの壁にぶち当たったのはどうしようもなかった。
それは壁ではなくてよく見ると電柱だった。
「ぐおぉ……マジか……」
たらりと頭から垂れる赤い滴を見て宇佐木は因縁ある電柱と対峙してげんなりした。出血の割に傷は浅いしぐるぐると回る視界ももう数秒で回復はしそうだ。
──だが──辺りに大量に溢れる息遣いと気配。
「こいつらが敵」
「こいつらは敵」
男、女、老人、子供までいた。全員が宇佐木を見ていた。車両が一つしか通れないくらいの道路を完全に埋め尽くす程の人数だった。
わらわらと宇佐木の周りに集まってくる木偶のような有象無象の人々が静かに『敵』とそう呟いた。それぞれの個としての意思は全くとして感じられないのに全としての意思はとても強く感じられた。
──宇佐木とアンジェリンを逃さないこと──。
なにより俺達を敵と言った。彼らの一人一人は意思の感じられない死んだような瞳をしているというのに、絶対的に二人を逃さないという何らかの使命を帯びていた。
「狙いは……俺達で間違いねぇみたいだな」
アンジェリンは──?
頭から流れる血を手の甲で抑えながら宇佐木は辺りを見渡した。視界の先に倒れるアンジェリンに包丁を手に覆いかぶさろうとしている男の姿があった。
宇佐木が声をあげようとした瞬間。その男はごうっと音をたてて炎に包まれた。
「光矢ぁぁあ!」
「俺はここだアンジェリンっ」
すぐに倒れたままのアンジェリンの目が宇佐木を捉えた。不意打ちを食らったのかアンジェリンも頭部から流血していた。どうにも宇佐木よりは重傷に見える。
宇佐木はアンジェリンに駆け寄ろうとして──。
「そこで止まって巻き添えになっちゃうっ!」
ぞわりとしたものを感じて宇佐木は急停止して身を屈めた。
瞬間。宇佐木の目前にまで迫る火炎。じりりと前髪の焦げる音がしてアンジェリンの周りにいた人間はすべてが燃やされバタバタと蠢きながら地面を這いつくばっていた。
「……痛っ。くぅぅ、油断したよぉー」
頭を抑えて痛そうにしながらもアンジェリンは立ち上がり宇佐木に駆け寄った。彼女のその白いコートは自らの血で赤く染められていた。
「はは……落第だー。許してねーお師匠様ー。……ごめん。光矢……痛かった?」
「ああ。でも、お前も怪我してるじゃねぇか」
アンジェリンは左のおでこ辺りから大量の血を流し左目は血が滲んで見えなくなっているのか閉じていた。
「大丈夫か?」
「私は全然大丈夫ぅ。怪我を治す術も下手だけど使えるから……。でも……ごめん。傷を治すのは得意じゃないから人には使えないの……。光矢は大丈夫?」
魔法にも得て不得手というのがあるのだろうか。アンジェリンは炎の魔法を得意としていて人の治療はできないという。
「ああ、問題ねぇよ。前、電柱にごちんとぶつけられた時よりは全然マシだ」
「ぷっ」
ほっぺを膨らませたアンジェリンに釣られて宇佐木も口元が綻んだ。
「はははっ」
こんな事態だというのに血塗れの二人は笑った。非日常に慣れた二人だからこそだった。
「さて……早く行かなきゃな。またわらわらと集まってきたぞ」
アンジェリンの放った炎の向こうで揺らめく黒い影がいくつか見えた。
「そうだねー。……これ以上、一般人燃やすのもいくら私でも気が滅入るよ」
一般人か──……そうだな。いくら自分の命を守るためとはいえ……今アンジェリンは何人殺した?
彼らは操られていただけなのか?それとも──考えても仕方がない。それにさっきアンジェリンがあの人達を燃やさなければ殺されていたのは俺達のほうだ。
アンジェリンを殺そうと包丁を向けた男。向けられた明確な殺意を思い出した。仕方がなかったんだと宇佐木は目を強く瞑ってそう思いこむことにした。
「光矢っ、一気に走るから前だけを向いて私だけを見て走って。宇佐木を抱えて走るより、周りを警戒しながら一緒に走ったほうがいいみたい。……ああ、先に言っとくけど私の背中以外は……他はなにも見ないで……。分かった?」
「……ああ」
何人燃やされても気にするな、ということか。
「分かった」
宇佐木とアンジェリンは夜の闇を駆ける。炎に巻かれた人々を残して。
同時刻──。石原秋子は昼間の出来事のせいで随分と気持ちが昂っていた。
九川さんがやっと本当のことを話してくれた。……まだ隠していることはあるみたいだけれど。それでもやっと、私に真実を話してくれて自分の心の内を見せてくれた。それに彼女の行おうとしていることの一端も垣間見えた。
空を飛んで鳥羽満月のところまで連れて行ってくれたこと。それは石原秋子にはどうにも刺激が強過ぎた。
幽霊の女の子の琴葉ちゃん。よく分からないけれど私と九川さんを助けてくれて九川さんが一目置く男の人、鳥羽満月さん。
彼らは今回のテロのことをどうにかしようとしているという。
余りにも一般人にはついていけない内容だった。
そのせいか石原秋子はどうにも落ち着かずに部屋や両親のいるリビングを行ったり来たりしながらお茶を飲んだりテレビを観たり部屋に戻ってはまたリビングに舞い戻るを繰り返していた。
「あらら、どうしたの秋子。……もうお腹すいた? ご飯はもうすぐよ」
母親がそんな娘の様子を見て心配そうに声をかけた。
「あー、違うのお母さん。ごめーん、なんか落ち着かなくて」
「そう……紅茶入れるから座ってなさいな」
「ありがとう」
母親の気遣いに感謝しながらアキはリビングのテレビの前のソファーへと腰掛けた。今更ながら気がついたが帰ってきて部屋着にも着替えておらず未だに制服だった。そりゃあ母親も心配するなあ、と思わずアキは苦笑してしまった。
「どうしたー秋子。今日はなんだがソワソワしてるな。……好きな男の子でもできたかぁ?」
タブレットでニュースを見ていた父が笑顔でそんなことを言ってきてアキは慌てて手をバタバタとさせた。
両親とも石原秋子によく似た温和なおっとりとした雰囲気があった。両親のおっとりを十二分に引き継いだアキはかなりの天然になってはしまったが、それは彼女の良いところでもある。
「違うよっ。好きな男の子なんていないしっ」
好きな人ならいるけど。九川さんに宇佐木先生に、二人とも好きだけどこれは恋とかとは違うような……気がする。そもそも分からない。
九川さんからは強烈な愛を感じる。私のことしか私だけしか彼女は見ていない。私も彼女のことは好き。でも──それは恋なのかと聞かれたら私には分からない。
宇佐木先生のことは大好き。でもまず彼の絵に魅了されたそれがあってのこと。彼のことは実のところ何も知らない。どういう人間なのか。ただ優しいぶっきらぼうな人ということだけ知っている。
彼のことも……九川さんのことももっと知りたい。
私は……何も知らない。知らなさ過ぎるのだ。
「はい。紅茶どうぞ。……これで落ち着くかしら? ふふ」
そう柔和に笑った母にアキは目をぱちくりさせてから、ありがとうと言った。そこで父親が少し厳しい顔をして言う。
「明日から少しの間、休校になるそうじゃないか。……近所で爆破テロもあったし仕方がないが」
「ああ……そうなんだよね」
実のところ午後の授業を出ていないアキは知らなかった。後で九川さんに連絡をとって確認してみようと思った。
「まったく物騒ねぇー。気をつけてねぇ秋子。あなたボーっとしてるからぁ」
同じ雰囲気漂わせる母に言われてもなぁとアキは思ったが大人しく頷いておいた。
それにしても母の入れてくれた紅茶がとても美味しくてやっと非現実から現実に戻ってこられたような気がしていた。
……私はどちらにいるべきなのだろう?
「さぁて少しテレビでも観るかぁ」
徐に父親がテレビのリモコンをとり、電源を入れた。
──。──。──。
「あら、やだ、お父さん。音量が大きいわよ」
「ああ……すまないねお母さん……でも、なんだか聞いておかないといけないような気がしてね……」
父がそう言いながら前のめりにテレビに向かい母は食器を片付けながら嫌そうに言った。
「やーねー。その人、先日、演説中に人が死んだ人じゃないですか。……どうにも私はその人が好きになれませんよ」
「そうかね。私はこの柵屋川くんの言っていること自体は正しいと思うがねぇ」
「やめてくださいよ。お父さん。……その人は前も事件を起こしていますし、週刊誌でも過去の女性遍歴で色々書かれたりしているんですよ」
「あのような……低俗な雑誌がなんだね? 彼の本当のところはなにも知りはしないだろうが?」
「お父さん? どうしたの? らしくないわよ」
訝しげに思いテレビに釘付けになっている夫の前に紅茶を置きながらアキの母は言った。瞬間、アキの父の顔がぐにゃりと大きく歪んだ。
「お前は私を馬鹿にするのか!」
バシッと大きな音がした。アキは紅茶を飲んでいる途中で何が起こったのかまったく理解できなかった。ガシャンと食器の割れる音がして母が倒れているのがアキの目に入った。殺気立って立ち上がる父の姿に、いくら愚鈍なアキとて声をあげずにはいられなかった。
「お母さんっ」
アキが手をあげている父を見たのは生まれて初めてだった。そこに耳を疑う父の怒声が響いた。
「お前は女の分材でっ……! 彼の正義の何が分かると言うのだ!?」
あの優しい父が怒りを露わに怒鳴ることなど滅多にない。
「痛いわねお父さん。でも仕方ないですか……柵屋川さんの政策に異を唱えたのですしお父さんに叩かれたのもしょうがないですね」
「……?」
叩かれた頬に手をやりながら母はそんなことを言った。アキは頭の上に大きなハテナマークを浮かべていた。
なんなのこれ?二人のやり取りの流れがまったくアキには理解できなかった。
「ああ、母さん。分かってくれて嬉しいよ。……叩いて悪かったね。しかし……柵屋川さんを侮辱するようなこと……殺されても文句は言えないよ」
「ええ、そうねお父さん。ごめんなさい。……私としたことが。今のは殺されていても仕方ありませんでした。ありがとうございます。お父さん気がつかせてくれて」
「お父さん? お母さん?」
父と母の名を呼び──二人は顔をまったく動かさずに目線だけズラしてアキを捉えた。
「ひっ」
いつもの温和な二人の雰囲気とはかけ離れていた。アキ椅子から立ち上がり恐ろしくなって小さく声をあげた。バタンと勢いで倒れた椅子が音を響かせた。
二人の様子がおかしい。私のここ最近感じる『よく分からない感覚』の方がどこか総動員して危険を伝えてくる。いや、馬鹿ね。そんなわけない。今目の前にいるのは実の両親なのだから──。
「秋子ー! お前は柵屋川さんの政策は知っているのか!? 大きい声を出して言ってみろ!」
「は、はい? ど、どうしたのお父さん?」
「いいから早く言うんだ! 死にたいのか!?」
正気ではない。アキは理解した。怒り、笑顔、悲しみ、そのすべてを織り交ぜた不吉な表情とでも言うべきか。父と母はそんな見たことないような表情で顔を歪めていた。
こんな父や母が正気であってたまるか。
「お父さん、お母さん変だよ! 目を覚ましてっ」
アキは必死で呼びかける。しかし父の手がアキの首にかけられた。その力は常人のそれではなく、アキはなす術もなかった。
「日本を楽しく。あなたも楽しくぅぅぅ! あああ、アキっ! 分からないなら死んでしまおう! そんな出来損ないの娘は今すぐ死ぬぅべきだぁぁぁ!!」
口から唾液を撒き散らしながら父が襲いかかってくる。
「……っ。うっ……。お、……とうさ……」
呼吸が塞き止められる。ぎゅうと首を締め上げられ、アキの心臓が狂ったようにバクバクと早鐘を打ち鳴らした。
信じられない。あの優しかった父が。
このままでは殺されてしまう。悲しくなり心に絶望の波が押し寄せてくる。
しかし、昼間の出来事がアキの心に諦めは与えなかった。
ああ、そうだ。助けを呼べば彼女はいつでも来てくれる。
アキはなんとかそれだけを絞り出すように叫んだ。
「く……がわさん……たすけ」
「アキちゃん──!」
全てを言い終わらないうちに。まさしく刹那。天井から九川礼子が流星の如く舞い降り、目の前のアキの父の頭にかかと落しを炸裂させた。
「え」
「アキちゃんっ。大丈夫!? ごめんなさい……助けに来るのに一秒もかかってしまって……今、声を聞いて家から飛んできたのだけど──」
九川は非常に申し訳なさそうにアキの手をとり、彼女に怪我がないかを全身をくまなくチェックしていく。
「…………」
アキは固まってそのオロオロする友人を呆然と眺めていた。彼女は未だに父を踏んだままだ。
「九川さんっ! 急に入ってくるなんて礼儀がなってないわよ!」
叫び出したアキの母に九川は手を向ける。ビュウと風が吹いてアキの母は壁まで飛ばされて、ドンと音をたててからくたりと動かなくなった。後に聞こえてくるのはスースーという寝息だけだった。九川の足元の父もいつの間にか安らかな寝息をたてていた。
「大丈夫。二人とも眠らせましたわ。……術者本人ではなく、操られた媒体には私の術も効くみたいですわね」
「あ。……えーと、九川さん……一体どこ……から……」
アキはふと上を向いた。真っ黒な空とそこに僅かな星が瞬いていて白い雪が家の中に少し降り注いでいた。この上は階段を上がった先で丁度自分の部屋があるはずだった。パタリと一階へ何かが落下してくる。お気に入りのクマのぬいぐるみが半身を無くして無残な姿へと変わり果てていた。
「…………くましゃん……」
綿が飛び出したぬいぐるみを見やり悲しげに言うアキに九川は申し訳なさそうに言った。
「ごめんさないアキちゃん。……間に合わないと思ったので屋根をブチ破ってきてしまいましたの」
「私の部屋が……」
「大丈夫ですわ。修繕の費用は私がもちます。……それまでウチに泊まればいいじゃない」
「そういう問題……なのかなぁ?」
「アキちゃんの命には替えられません」
彼女がそう言えばそれが正解なのだとアキは納得することにした。でなければ自室と家の天井に穴が空いたショックは消えそうもなかった。
「お母さんとお父さんはどうしたのかな……?」
「ウチもまったく同じ調子でしたわ。何か原因があるのでしょう。おそらく操っている奴がいるはず──見つけないと。アキはここにいて。この家には結界を張りました。少し……穴が空いたので寒いかもしれませんが安全ですわ」
「嫌だよ九川さん。私も行く」
「駄目よアキ……。昼間は安全だから連れていきましたが……おそらく私はこれから殺し合いをする」
「それでも……。私も行きたい」
きゅっと胸の前で両手を結んでアキは懇願するように言った。どうしたことだろう。ここ最近、彼女の『お願い』に非常に弱い自分がいると九川は少し参ってしまった。
連れていくべきか。いや、危険なのはどこも同じだ。私と彼女が仲がいいのは敵にとうに知られているはず……となれば結界を張ったところで決して安全だとは言えない。アキが敵に捕まって人質にされてしまうかもしれない。となれば安全なのは──。
「私の側が一番安全でしたわね」
「九川さんっ」
嬉しそうなアキの目がぱぁと輝いた。それを見れただけでも今は良しとしよう。
二人は家を出て雪の舞降る夜へと身を置き、すぐに気がついた。
ああ、なるほど。もうこの夜はいつもの夜ではないのね。九川礼子はスゥと深呼吸して気持ちを整え、大切なものを確認するために数センチ先のアキの手をとる。
必ず守る。彼女は心からそう誓った。手の先のアキが辺りを見渡してどこか不安げに言う。
「九川さん……。なんだか様子がおかしいみたい……。……人もいないし……それに、どこの家からも音が……」
ガーガーと狂ったように繰り返しどこの家からもその『音』が鳴り響いていた。
『日本を楽しく! あなたも楽しく! 柵屋川誠実! 柵屋川誠実をどうかよろしく!』
まるで周囲の家すべてからソレが鳴り響いているかのような大音響。あまりのけたたましさに耳を塞ぎたくなりたくなる程だった。異様な雰囲気を世界が纏っていた。耳に入るのはその騒音だけ。雪のまばらな夜ではあるが、まだ遅い時間ではない。だというのに通行人の姿が全く見えない。
「なんて不愉快な騒音。柵屋川……確か……選挙の若い候補者でしたわね」
九川も堪らず耳を抑えた。どうしてだかこの声は非常に聞き心地が良くてどうにも気持ちをざわつかせる。普通の『音』とは何故だか思えなかった。
……これが……原因?だとしたら私とアキが正気なのは普通の人間ではないからかしら?
ではソーリス先生達は?
「ひぃっ!」
急にびくりとアキの体が大きく跳ねた。九川はアキの見ている先を睨みつけ、瞬時に彼女を守るように前へと移動した。
「……」
何もいない?いや、眼を凝らすと赤い揺らめきがいくつか。……アキこれが見えたということは視力だいぶ良くなってますわね──と今はそんなことはどうでもいい。
通りの先の街灯が故障しているためか点灯しておらず向こう側がどうにも真っ暗で見通しが悪い。しかし、そこからまるで松明の揺らめきのようにいくつかの明かりがこちらへと向かってきていた。
鳴り響く狂った音声は止まらない。その雑音に気持ちがどうにも急かされる。九川は心を落ち着かすように努めて千里万里眼を使用した。
「これは……」
眼を使うまでもなかった。すぐにそれは視認できた。アキが口に手を当てて上ずった声で言った。
「燃えてる……人……?」
焼け焦げる臭いに口と鼻を抑えながらアキはソレから目を離したくとも離せない。
「うう……あああ……ああ」
バチバチと炎をあげ小さく呻き声を上げながらこちらへとにじり寄ってくる集団。十数人はいるだろう。
アキの手から伝わる震え。彼女は今怖がっている。
「燃えてますわね」
アキの不安を払拭させるために努めて平然と九川は答えた。そして、その暗闇に現れたいくつもの人間松明というべき存在に万象を知る眼を照らしていく。
彼らは──死んでいる。
当然と言えば当然だが、それが確実なものとして分かった。しかし、死んでいるならばどうして彼らは動いているのか。その炎を纏った人々は歩みは遅いもののしっかりとこちらへと向かってきている。
そして、さらに把握できたことが一つ。あの炎はただの炎ではなく魔術で作られたものだ。見覚えがある──あれはソーリス先生の組織の金髪の女が使っていたものと同じ。間違いはしない。なにせこの身をもって味わったことがあるのだから。
「あれ、なかなか消えないのよね」
「九川さん?」
「いえ、独り言よ。……それよりアキちゃん。前に観たゾンビ映画覚えてる?」
「……うん? お、覚えてるけど?」
「ああいう映画の主人公達はどんなピンチの時も小粋なジョークで乗り切ってますわよね。アキちゃんならこんな時なんて言うかしら?」
きょとんとした顔をしてからアキは少し考えて小首を傾げた。
「燃えてるような暑苦しい奴はタイプじゃないわね……とか?」
「あはは、気の強いヒロインが言いそうですわね」
とてもアキらしくはないがB級映画のセリフとしては悪くはないと九川は思った。
「アキちゃんの家には結界で近づけないし、火は燃え移らないから安心してください。それにアキちゃんは絶対に私が守るから怖がらないで」
「うん……。ありがとう九川さん」
この妙な雰囲気に呑まれていては駄目だ。なによりもそれを九川自身が強く警戒していた。
「さて、その柵屋川とかいうのを探しましょうか」
私の眼ならば──すぐに見つけることができる──!
そして宇佐木とアンジェリンは。
「おい! アンジェリンっ。なんか燃やした奴らが起き上がってたんだけどぉ!?」
「光矢は周りを見ないで! ただ前向いて走って!」
二人はソーリスと合流するために先を急いでいた。途中途中で奇声を発しながら襲いかかってくる人々が現れ、やはり全員が手に武器を持っていた。
街の人達がどうして自分達を狙うのか──無論、操られているからだ。しかし、このような広範囲の大勢の人間をどうやって?思考しながらもアンジェリンは目の前に迫りくる脅威すべてを冷静に対処していった。
「はっ……! はぁっ……」
こんなことだったらブレッドと朝の走り込みを一緒にするべきだったか?いや、それは絶対にごめんだ。ソーリスを誘ってジムにでも……いや、あいつは行く必要なさそうだし、なんか変な目で見てきそうだ。やはり一人で行こう。宇佐木は自身の運動不足を呪いながらも全速力で駆ける。
光が明滅し、ごおっと燃え上がる音が何度か耳に残った。
宇佐木はアンジェリンのその身のこなしと炎の魔法を見て改めて思った。
アンジェリンは強いと。先程の宇佐木を抱えながらもとてつもないスピードで走ったこともそうだが、なによりも手から放たれる火炎放射の威力の容赦のないこと。
「このっ……!」
二人の横合いから飛び出してきた男にアンジェリンは容赦無く炎をお見舞いした。男は瞬時にして全身が燃え上がる程の熱量に包まれ一瞬でばたりと倒れ込む。
火炎に巻かれ火傷による強烈な痛みが襲うのと同時に、炎によって酸素が遮られ呼吸ができなくなっているのを宇佐木は想像して、何度見てもえげつないなと堪らずに目を背けた。
あんなものを喰らって生きている人間はいない。いないはずである。
しかし──それらの死体は何故だか数秒後にまた動き始める。
「あーんっ! なんで起き上がるのー!?」
堪らず叫ぶアンジェリンに宇佐木はやけくそ気味に答える。
「それさっき俺聞いたけど!? 他になんか敵を倒す手段はないのかっ?」
「……うーんっ。駄目っ。人数が多過ぎるよー!」
しかも相手は操られているからか普通の人間とは思えない程に力が強い。その上、一対一ならまだしも多人数を同時となると相手を生かしたまま倒すなんて器用なことはできない──だから、ごめんね。そう心を凍らせてアンジェリンは次々に手から火炎を放った。
ごおお、という音と共にとんでもない熱気に当てられてその都度、宇佐木は「うおっ」とか「わぁっ」とか声をあげていた。
先程とは違い宇佐木はアンジェリンに抱えられてはいない。宇佐木の走る速度に合わせて二人で縦に並んで走っていた。この方が手が塞がっていない分、緊急時即対応できる。一発貰ってしまったアンジェリンは自分達へ向けられる殺意に警戒を最大限に強めた。
一刻も早く仲間と──ソーリスと合流しなければ。アンジェリンは自分だけで宇佐木を守る自信がないわけではなかった。だが、どこか今のこの街の雰囲気は常軌を逸していると感じていた。何が起こるか分からない。最善策はすぐに仲間と合流すること。アンジェリンは悔しさで唇を噛み、血が滲んで見え辛くなった左目をごしごしと擦った。それでも視界は良くならなかった。
そもそもあんな攻撃を喰らってしまうこと自体、師匠に知られたら大目玉だ。相手に何故か気配が無かったことも常人とは思えぬ力で殴ってきたからというのも言い訳にしかならない。
──なぜなら。
「……魔法使いは敵を近づけちゃいけない。そうだったよね師匠」
「ん? なんか言ったかっ!?」
「あーいや、独り言! それよりソーリスのホテルが見えてきたよ!」
大通りに二人は飛び出した。高いビルに囲まれた様々な商業施設が立ち並んでいる場所。道路も四車線通っているが普段は車がたくさん行き交いしている場所だというのにおかしなことに動いている車は一つもなかった。そのせいでやけに両隣のビルの狭間の大通りがいつもより広々として見えた。
ソーリスの泊まっている高層ホテルはその通りの奥の真ん中にそびえ立っている。この辺のビルの中では一番高く四十五階建てだ。
「あと少しだから頑張って光矢!」
走りながらアンジェリンが叫んだ。宇佐木は体力と肺がもう限界を超えていた。
その時だった──。
「助けてくれぇっ! 助けてっ! ひぃいっ」
宇佐木は車の前に尻餅をついて助けを呼ぶ男を視界に捉えた。その男の前にはすでに何人かが手にそれぞれ獲物を持って立っている。
襲われているのか!?
「アンジェリン!」
「駄目だよっ。そんな余裕は……!」
宇佐木の声にすぐに焦りを感じてアンジェリンが返した。彼女には今本当に余裕がなかった。視界は片目が血で狭まれ、周りの敵たちは操られ生き物の気配を有していない上に通常では考えられない力を持っている者達。そんな奴らが自分達だけを狙っているのだ。
「でもっ……」
言った宇佐木は今にも殺されてしまいそうなその男を見て──。
「ああっ、ちくしょう!」
もう止まることはできなかった。自分達以外に初めて操られていない人間を見つけた。それだけで充分だった。
「俺が行く!」
「……ええっ!? 光矢!? 駄目! 動かないで!」
アンジェリンの止める声も聞かずに宇佐木は男の方へとすぐに走っていってしまった。
駄目っ。そんなことをされたら守れない……。アンジェリンは奥歯をぎりりと噛み締めた。
「あーもう!」
ヤケ糞気味に叫んでから彼女も方向転換して走ってすぐに宇佐木へと追いついた。そして男の周りの敵に眼を向けた。
──四人。燃やす。それしか思わなかった。任務をこなすことだけに集中するようにアンジェリンは心を鎮めた。
「光矢。どいてて」
「お、おい!」
宇佐木が止める間も無く、アンジェリンの火炎が目の前の数人を薙ぎ払った。積み木が倒れるかのように燃やされた順番からばたりばたりと折り重なるように崩れていった。
「あ、あわあ……ああ……」
眼前の様子に口をぱくぱくと開閉させながら男は燃え盛る人間だったものと宇佐木達を交互に見ていた。
「おいっ、腰抜けてるかもしれねぇーけど死にたくなけりゃ俺達についてこいっ」
宇佐木の言葉に男はコクリと頷き言った。
「助けてくれるのか……すまない。察しの通り腰が抜けていてね……立たせてくれるか? あとはなんとかついて行くよ」
「しょうがねぇな」
宇佐木はその男の差し出した手を掴もうと歩み寄る。
そして気がついた。こいつの──色。透明。宇佐木のうなじがぞわりと逆立った。
その瞬間、どんっと横から宇佐木は何者かに体当たりされる。
アンジェリン?宇佐木がそう思うと同時に大きな破裂音のようなものが二つ鳴り響いた。
目の前に赤いものが舞い、視界が斜めになっているのは自分が今まさに倒れようとしているからだと宇佐木は理解し次に地面へと倒れる衝撃を体に感じた。
「あ?」
暖かいものが自分に覆いかぶさっていた。さらさらとした金髪が顔にかかり、ふわりとしたいい匂いと柔らかさはアンジェリンのものだと、もう理解できる程ここ最近、彼女とはやたらと距離が近かった。
「アンジェリン、どうした」
「ごめん光矢。また私……ちゃんと守れなかった」
宇佐木は痛む体を起こそうとしたがアンジェリンの腕がそれを許さない。地面へと押しつけられる。
「っ!」
熱気と赤い光でアンジェリンの炎が放たれたのだと理解した。そこでまた大きな音が響いた。これは──銃声か。誰が撃たれている?宇佐木はあまりにも強い力でおさえらていて動けない。
「おいっ……アンジェリンっ! 大丈夫なのかっ。おいっ」
「……大丈夫まだ、まだ……私は死なないよ」
アンジェリンの手がふいに離れ宇佐木は体を起こした。
「…………アン……ジェリン?」
真白なあのコートが赤くいくつも染められていた。彼女は座り込み宇佐木を守るように両手を広げていた。
「ははははっ。三発も撃たれてまだ生きているぞこの女め」
先程まで立てずに宇佐木に手を差し出していた男が愉快そうに笑っていた。なにがどうなっている?
「……お前がやったのか?」
いや、男は銃を持っていない。宇佐木は彼の後ろの車の影にいる者に気がついた。警官の制服を着た男が銃をこちらに向けていた。その足元の燃えている死体。たった今アンジェリンの反撃を受けたのか。しかし──。
男は白いシャツにネクタイ姿だった。彼はまるでなんとも思っていないかのように言う。
「怖い女だ。炎を放つなんて、そんな魔女が私の可愛い一般市民達の中にいてはいけない。だから排除しなくてはね」
「お前はっ……」
どこかで見たことがある顔だとは思っていた。ようやく宇佐木は気がついた。彼の立っている後ろにある車。選挙の演説などで使われる車だろう。上に大きく名前が書かれ、その横に顔も載っていた。七三に分けられた髪に整った顔立ち。まさしく目の前の男本人ではないか。
「柵屋川……柵屋川誠実。お前が……」
「ああ、私が柵屋川誠実だ。私の声の届かない者達に裁きを」
柵屋川がそう言うと選挙カーの後ろからぞろぞろと大勢の人間達が溢れ出てきた。三十……いや、もっといる──?柵屋川を守るように彼の周りに集い別の警察官も現れ、銃を宇佐木達へと向けた。宇佐木のうなじがまたちりちりとして彼は喉を鳴らした。
「うっ……くぅ」
アンジェリンが苦しげにしながら立ち上がる。ぼたぼたと赤い滴がコートから滴り落ちている。
「光矢……私が引きつけるから……ソーリスのところまで走って」
「駄目だ」
「光矢。お願い。……私、あなたに死なれたくない」
「駄目だ」
これは──俺のせいだ。アンジェリンが先を急ごうとしていたのにも関わらず俺は……。
宇佐木はポケットから銀色のペインティングナイフを取り出し、アンジェリンの前へと立った。
「光矢っ……」
その宇佐木の行動に柵屋川は吹き出した。
「なんだソレは。あははっ。ちょ、ちょっと待ってくれっ。あははははっ。もしかして、戦うつもりかい君は! あははは。面白い」
「黙れよ」宇佐木は噛みつくように言った。
「黙れるものかっ。ははは、こんなに愉快なことはない。まったく、なんて面白い夜だ。よーし、もう少し楽しみたくなってきたな。……おい、銃を持っている者はあの女が動けば撃て。何人燃やされても女は殺せよ。他の者はこの金髪の男の相手をしてやれ。女が見ている前でなぶり殺してやろうじゃないか」
アンジェリンは柵屋川を睨んだ。燃やさなければ……しかし、感情の消えた蝋人形の様な瞳の人垣が幾重にもなって奴を守るように配置されている。燃やすには遠すぎる。そして、なにより拳銃が厄介だ。視認できるだけでも三人程の銃口が今やアンジェリンに向けられている。
大勢の足音が重なり響く。先頭の十人程がゆっくりと宇佐木へと歩み寄っていた。
「──」
アンジェリンは痛みを遮断する術を動かずに小声で構築しがら思考する。これで少しはまともに動けるが……それにしても……かなりピンチだ。自分一人が死ぬならば問題はない。だが──光矢は死なせてはならない。それが命令だからだ。いや、初めはそうだった。でも、今は……私は彼のことが──好き?何故?
「あれ?」
とんでもない窮地においてアンジェリンは気がついた。
「私……光矢のこといつから好きだったんだろ……?」
「そ、そんなこと今言ってる場合か?」
宇佐木はアンジェリンの様子がおかしいような気がして時間を稼ぐことにした。
「おい。柵屋川。お前の……お前の目的はなんだ? これを起こしているのはお前なのか?」
「おいおいっ。一般市民が上級国民に話しかける時は敬語だろう? まったくこれだから……。ふふふ……しかし、まあ少しなら時間稼ぎにつき合ってやってもいい。まず、なんだったかな? 私の目的か。さっき言っただろう記憶力がないのか? 低学歴も甚だしい。私の声の届かぬ者に裁きを。操られていないお前達を殺すことが私の目的だ」
操ると言った。やはりこの男が──宇佐木はペインティングナイフを持つ手に力をこめた。そして核心に迫るべくその言葉を口にした。
「ロスト・カラーズか?」
「は? なんだそれは? 私は柵屋川誠実だ」
そうか。プレイヤーはなにも知らされていない。宇佐木は首を振って再度、問う。
「誰から力をもらった? お前もゲームの参加者なんだろ」
「……さっきから、君の言っていることがまったく分からんな。故にまったく理解できない。……しかし誰から力を貰ったかということになら答えられる。それは──神だ」
「神……?」
「ああ、ほんの数分しか電話で話していないはずなんだがね。彼の……いや、彼女なのかな……分からんが、とにかく十数年は一緒にいたんじゃないかというくらい神の思想は理解できた。そして──私の成すべきことも。私は人を導くために神に遣わされたのだ。そう。……声が聴こえたのだよ」
「声だと?」
宇佐木はこの男を狂人だと思い始めていた。その目つきや語り口がまさしくソレでしかなかったからだ。
「世界の破滅を共に救おうと。バラバラにされた世界の色を統一してやろうと。神は言った。自分のところにまで辿り着ければもっと神に近い力を授けると。……道中、操れない者は殺せと彼は私に命令されたのだ」
色を統一。やはりロスト・カラーズか。しかし前回の地図の手紙とはどうにも趣向を変えてきているようだ。
「それで……そんなことで……街をこんなにしてまでして俺達を狙うのか?」
「ああ! 当然だとも! そんなこと? 馬鹿か貴様は? なぜなら彼は全知全能の力を必ず持っているだろう。なにせ私にこんな万能の力を授けたのだ! そしてお前達のような操れない者達という試練まで与えてくださった! それを神と言わずなんというのだ!? ああ……神はなんでもお見通しだ。お前達のことが見つけられたのも神がお前達の居場所を私に教えてくれてからさ。神は私と常に共にある! ああ、ジーザスッ!」
柵屋川は陽気なラテンを感じるリズムでよく分からない動きをして腰を振った。
「てめぇが狂ってるってことだけ分かったよ」
宇佐木はいつも人を殺す前に陥っていた深々と冷たくなる気持ちを思い出していた。こうすれば簡単に目的のみに徹するようになれた。強盗殺しであった彼はどんな時も不意打ちでしか戦わなかった。それも万全の準備をしてからのことで、こんな徹底的にどん底なピンチの時は常に逃げの一択しかなかったはずだった。
しかし、それはスカヴェンジャーと呼ばれた強盗殺しの宇佐木光矢の時の話だ。
今の彼は──。
「スペリオルイレイサー」
自身の新たな力を口にして宇佐木は視認する。目の前の事象全てに宿り絡みつく色彩の世界を。群衆の色はすべて同じ。あの時の操られていた犬と全く同じ色をしている。黄色と不自然な紫色の組み合わせ。いや、しかし──……。一点、どす黒い黒がかかっている。これは──?死の色?
操られた者が死しても動くこと関係があるのか?しかし、今は──!
「光矢っ……」
アンジェリンの呼びかけに応えずに宇佐木はその色の世界の流れの渦に向かって駆けた。
「ははっ! 馬鹿が! 殺せ!!」
柵屋川が手を掲げて有象無象の操りの木偶達が一斉に宇佐木へと襲いかかった。彼らはやはりそれぞれ手に棒切れやら包丁やらハサミなどなんでも武器として持っており、それを向かいくる宇佐木に一斉に振り上げる。
「……」
──落ち着け。あの時は失敗した。色ばかり見て、実際の動きを全く見ていなかったんだ。だから犬に噛まれて死にかけた。どっちも見なくてはいけない。つまり、色の世界ごしにレンズの向こうの実像を見るかの如く色がない世界も同時に『両方』を見るんだ。
「……っ!」
宇佐木は感じていた。あの木刀の青年の色を消してやった時に。この力は対象に直接触れる必要はないのだと。だから彼はそのペインティングナイフで『塗り直した』。今回は消す感覚よりも塗るに近い。獲物を変えたからか。
眼前にまで迫っていた敵達の纏う鎧を撫でて剥ぎ取るように宇佐木は目の前の虚空にナイフを滑らせていく。さすがに離れすぎていては駄目だがここなら宇佐木のキャンバス内だ。
一筆が終わるとすぐに宇佐木は横移動して次の人間達をその筆に捉えていく。
「なっ……にぃ!?」
柵屋川の驚愕の声。信じられないようにその光景に目を瞬かせていた。
「はぁ……はぁ……」
呼吸の荒い宇佐木の周りで全く動かなくなった人々。宇佐木は次々に向かいくる人間達に向かって少し離れたところからナイフを振るう。それだけで彼らはばたりばたりと倒れたいった。
「馬鹿なっ! なんだこれは! おい馬鹿共! 誰が倒れていいと言った!? 動け! 貴様らはそれでもこの私の信奉者か!?」
まるでどこぞの怪しい宗教団体の親玉みたいな言い草だなと宇佐木は感じながら冷静に目の前の人々の色の鎧を剥ぎ取っていく。さらに倒れていく傀儡達を見て辛抱できなくなった柵屋川は声を荒げて命じた。
「もういい! あの女を撃ち殺せっ! その後にその男も殺せ!」
「てめぇっ……!」
宇佐木はアンジェリンに銃を向ける警官とその他の二人を視認する。距離が遠い──ここからでは奴らの色を取り除けない。しかも全員がバラけている一気には──。
銃声が三発、宇佐木の耳をつんざくように鳴り響いた。
「アンジェリンーー!!」
***********************
「よぉーソーリス。どうした。一緒に飲まねぇのか? 昔はよく一緒に飲んでいたじゃねぇか?」
大きな窓ガラスに映る夜の街を背景に男が立っていた。グラスにいれるのも面倒なのか、そのままぐびぐびと赤ワインをラッパ飲みで喉へと流し込んでいる。
部屋は薄暗く僅かにベッドの横のスタンドライトだけが点灯していて、そんな中で二人の男が向かい合う。
ソーリス神父とそして──。
「師匠。それは私がとっていたものです。勝手に飲まないでください」
いつもの司祭服をまとったソーリスがぴしゃりと告げたが、師匠と呼ばれた男はわざとらしく肩を竦めてみせた。ソーリスもよくやる動作だった。
「あー? 固いこと言うなよソーリス。俺は疲れてるんだよ。酒くらい好きにやらせてくれ。あー、どっこいしょと」
男は丸テーブルからソファーに移動して、どかりと座り込んでから組んだ足をテーブルに乗せ、すぐにワインを飲んだ。
「……」
彼が──何故ここにる?ソーリスはそんな男の様子をどこか訝しげに見ていた。
師匠と呼ばれた男は四十代か、五十代くらいの年齢で革のゴツい黒いジャケットを羽織っていた。真っ黒なボサボサ髪はだらしなく肩まで伸び散らかしており、眉毛もどことなく太く鼻の下と顎の髭も伸びっぱなしで、全体的にだらしのない中年という雰囲気が漂っていた。
しかし、体はゴツく目も大きくやけに眼力がある。どうにもその師匠という男が纏う雰囲気は常に尋常ではなかった。それは昔からだったなとソーリスは思った。
師匠は上機嫌に笑いながら言う。
「はっは。なかなか美味いな。どこのどいつだ日本の酒は不味いなんて俺にホラ吹いたのは。おい、お前もそこに座れよ。……さっきから、なにをそんなに警戒してる?」
ソーリスはコツコツと革靴を鳴らしながら師匠から目を離さずにソファーに近づき、一度停止して数秒後、ソファーに腰掛け言った。
「……イース。どうしてここに? なにか急用が?」
「あぁ、いやたいしたことはねぇんだ。……久々に会ったんだ、いいじゃねぇか。そんなことはよ。……にしてもお前いいホテル泊まってんなー。それだけお前が組織から期待されてるってことだな。俺はお前がこんなに成長してくれて嬉しいよ。小さい頃のお前ときたら体も細かったし、ああ今も細いか……しかしまあ逞ましくなったな」
バリバリと音が鳴る程に顎鬚を掻きむしってワインをまた飲んで師匠は言った。
「それは師匠のおかげです。六の時から十八になるまで育てて、戦い方を教えてくれたからですよ。……まあ余計なこともたくさん教わりましたがね。こいつとか」
そう言いながらソーリスは胸ポケットからウィスキーのボトルを取り出し笑顔を向けた。
「まあそいつが一番重要だ。……憂さも晴らせなけりゃこんな仕事できねぇさ」
「違いないですね」
ソーリスは師匠をじっと見ながらウィスキーを飲む。ああ、この人はやはり嘘が下手だ。いや、下手か上手いかで言えばきっと上手い。しかし、この私を騙せる程ではない。いつも師匠とは言葉のやりとりでだけなら勝てた。
つまり、きっと何かしらの急を要することがあるのだろう。
「師匠。気がついてますか? 街の様子が少しおかしい気がします。……宇佐木とアンジェリンとこのホテルで待ち合わせしているのですが、どうにも遅いです。……このまま飲んでいたいところですが、私は二人を──」
「いいからここにいろソーリス」
瞬間的にソーリスは視線を下げた。それはもう習慣になっていることだった。この男の眼を見てはダメだ。すべて『従わされる』。
「おいおい……ソーリス。お前に暗示を使うわけねぇだろ?」
「私に銃の暗示をかけたのは、どこのどいつですかね? ……吸血鬼のこと忘れさせてたじゃないですか」
「おいおいっ、それは協会の命令だぜ? ハーティは野放しにするにはあまりにも危険だった。俺の独断じゃねぇ。それに緊急時は暗示を簡単に解除できるようにしてあっただろ? だから、俺はあの時、電話でお前の暗示を解いてやったんだぜ? そのおかげでちゃんと吸血鬼のハーティになれたろ? だからあのデタラメてんこ盛りの術者との戦いでちゃんと生き残れたじゃねぇか」
「……やはり、そうでしたか。……ではまた私のハーティーは封じられるのですかね」
「それはねぇな。この間の事件から目下緊急事態だ。……お前のハーティが必要だそうだ。……ってお前なぁ、仕事の話はいいじゃねぇか。……それよりどうなんだよ前電話で言ってたお前のお気に入りの奴とは。もうヤったのか?」
「宇佐木とはまだです。彼とは時間をかけたいと思ってますからね。……というか師匠は話を露骨に変えていきますね」
ソーリスは窓の外のネオンに目を向ける。高層から見下ろす下界の雰囲気がどこかおかしい。何故か分からないが焦燥感だけが湧いてくる。
「…………まあ、なんだ。そういや……お前、仕事はどうだ?」
「本業の方なら報告通りです。副業の方なら非常に楽しんでいます。……楽しい友人と普通の仕事ができて毎日話せる普通の幸せ。最高でしかないですね。……きっと長くは続かないでしょうが、今を存分に楽しんでいますよ。……というか師匠どうしたんですか? なにか言いたいことがあるのですか?」
「……いや、仕事が楽しいか。そうか。そうか。……それならいいんだがな。なんというか……うーん、お前はその、なんだ……その楽しさを永遠にしたくはないのか? 本業の俺達の殺し屋みてぇな仕事をやめたくはねぇのか?」
「…………なにを言っているのですか。やめられるわけないじゃないですか」
「やめられるとしたら?」
ハッとしてソーリスは師匠の顔を覗き込んだ。憂いに満ちたよく分からない笑顔を師匠は向けた。数秒の間を空けてから師匠はどこか言い辛そうに言った。
「俺と一緒に逃げねぇかソーリス」
「馬鹿なっ……。師匠、一体何を考えているのです」
ソーリスは思わず立ち上がった。全く目の前のことが信じられなかった。師匠が──育ての親とも言える彼がそんなことを言うなど、決してあり得ない。
そしてそれは、彼らが所属する協会としては禁忌にあたる行為。
「逃げれば……殺される。それは絶対です。逃げおおせた者はいない。そうでしたよね師匠。そして協会の中でもかなり力のあるあなたが何故……」
師匠はテーブルから足を下ろして壁際の床に直置きされたウィスキーの瓶を取り蓋を開けた。
「こいつも貰うぜ」
「好きにしてください。……師匠……ちゃんと話してください。今言ったことは本当ですか?」
はぁ、と大きく溜息をついて師匠は壁際の窓ガラスにもたれ掛かりウィスキーをあおった。
「っぷはっ。……そうだな。俺ももう五十近い。……どうにもここ最近、やる気がでなくてな。死ぬのも怖ぇときた。ははっ、笑えるだろう。あんだけ人外も人間も殺しに殺しまくってきたってーのにな」
「あなた程の者を殺せる奴などそうはいないでしょう……?」
ソーリスは師匠の強さを知っている。
「いやな……死ぬのも怖ぇが……それよりも俺は元々、この組織に疑問を感じていたんだソーリス。……なあ、俺達は頑張れば誰かから感謝されるのか? 誰かが俺達を有難がって喜んでいるか? 俺達の組織は完全機密の情報を秘匿することが大前提。いくら頑張っても金は手に入るが……それがなんだ?」
「人の世を人知れず守る機関それが我らではないですか。そう教えてくれたのは師匠です」
「ああ、そうだな。俺もそう思っていた。……俺達が頑張ることで救われる命があるってな……。だがな……確かに、それもあるかもしれねぇが……しかし俺達の組織の本当の目的はそうじゃねぇんだ。……俺はそれを知ってしまったんだ」
「本当の目的……? それは一体……」
首を横に振ってから師匠は続ける。
「詳しくはまだ言えねぇ。だが……実際はある個人のためだけに俺達は動かされていたってことだ。……そこには世界の救済もへったくれもねぇんだ」
「マグダラは……マグダラはそのことを?」
「あのお人形さんがそのことを知っているもんか。実質のうちのトップはリーゼだ。預言者……マグダラは隠れ蓑に過ぎん」
「師匠は……裏切るつもりですか?」
ソーリスは本当に目の前にいるのがあの自身を育ててくれた親代わりの男なのかどうかさえ疑わしく思えてきた。これは現実か?
師匠は「へっ」と吐き捨てるように笑ってから続ける。
「裏切る? 裏切るだと? 裏切られたのはこっちさ。俺達のしていたことは、世界のためじゃなかった。その上、俺達は個人の幸せも許されない。……なあソーリス」
そこで師匠は一歩歩み寄った。
「俺はな……自分が何なのか分からない……。お前とは違って一般の家庭にいたことがない。六歳までとはいえ、普通に暮らせたお前が羨ましい。……俺は生まれたころから協会で生きてきた。……普通に暮らしたいんだ。普通に仕事をして、休みの日には釣りに行って……呼び出しがいつかかるか分からない。呼び出しがかかる度に何人も死ぬ……そんな生活は嫌なんだ。俺達だけが何故こんなに辛い日々を享受しなくちゃいけねぇ?」
師匠は言い切った後にウィスキーを喉に流し込んだ。ソーリスは悲しい眼をして言う。
「私の師匠はもっと強いのかと思っていました」
「へへっ……強いふりをしてただけだ。俺は弱ぇ。戦闘力の問題じゃねぇ。……お前は俺に育てられて助かったと思っているかもしれないが、それは違う。あの時、俺はお前を戦士に育てる命令を協会から受けた。初めは嫌がっていたさ、ガキなんててんでわからねぇからな。……だが、お前と暮らしてるうちに俺は変わった」
「師匠……」
「ああ、これが普通に人間として暮らすことなんだと思った。その頃はお前を戦士として鍛えるために他の任務も極力減らされたからな……。お前を育てることは任務だったが……同時にそれは俺の中で生きる目的にもなった。俺はお前に助けられたんだよソーリス。お前がいなけりゃとっくに俺は自殺してる。……ああ、ソーリス楽しかったなぁ。お前と過ごした十数年。俺は生きてきた中でお前と暮らした時間が最も尊いんだ。……だからもう一度、二人で暮らさねぇか? なんだったらお前の気に入ってる奴も連れてきて構わない。あの男は殺されないようにアンジェリンに暗示をかけておいた。絶対に守るように。最も愛するようにとな。だから死にはしねぇよ。助けに行かなくて大丈夫だ。……まあ、とにかく俺はもう頑張れねぇんだよ。今まで頑張れたのは……それも世界平和って大義名分があったから頑張れたんだ。……それがうちの組織がそもそもそうじゃねぇって分かったらどうよ? ……俺の人生は……ってな。ははは、笑うだろ? だから、もうな逃げ出したいのさ。なに、手筈は問題ない。全て完了しているんだ。ブレッドとフレネを修行で飛ばしたのも、すべて上手くいってる」
「ま……待ってください……イース……師匠……あなたはなにを言って……」
ソーリスはがくんと膝に力が入らなくなるのを感じた。あまりにも理解不能の信じられないことに脳が情報を受け入れるのを拒否し始めている。
なんですって?今、師匠はなんと言った?アンジェリンに暗示をかけた?フレネとブレッドを飛ばした?なんのために?
──自分が逃げるために?
ソーリスは上下の歯がガクガクと音をたてていることに気がつき一気にウィスキーを飲んだ。ああ、そんな馬鹿な。まさか──師匠が。
「ロスト・カラーズの連中が逃してくれる手引きをしてくれる。大丈夫だ。ソーリス。一緒にいこう」
「師匠ぉぉ!!」
瞬時にソーリスは胸のハーティを具現化し展開した。大きな白銀の銃が光と共に現れた。
煌びやかな装飾が施された銃身の長い大口径の銃を師匠へと向けた。
「ソーリス。聞いてくれ。俺はお前とは戦いたくねぇ。俺の目的はお前と暮らすことだ」
「師匠……。それは駄目です。あなたは絶対に手を組んではいけない奴らに加担してしまったというのですか?」
師匠はバリバリと頭を掻き毟り大きくため息をつき、向けられた銃口を気にすることもなく窓際から部屋の中央へとゆっくり歩みながらまるで物語を語るかのように話し始めた。
「昔昔、あるとても仲のいい家族がいたとさ。その家族は夏休みの休暇で大きな湖の別荘へと遊びにやってきました。その場所はとても美しい場所で家族はとても気に入っていた」
「……なにを」
その家族は──……私の。ソーリスの眉間に深い皺が刻まれる。
「仲の良い両親と幼い妹と兄は毎日、湖で泳いだり外でピクニックやキャンプを楽しんだり、それはそれは楽しく過ごしたそうさ。……アレが起こるまではな」
「やめてください。師匠。……私はその話は聴きたくはありません」
師匠は歩みと語りを止めはしない。ソーリスの銃口は彼を追い続けゆっくりと動いている。
「ある晩、その家族の父親が眠りについていると妙な物音を聞いた。……一体、なんだろうと父親はベッドの下に隠していた銃を取り、恐る恐る出口の扉を開けてみた──誰もいない。……ああ、おかしいな? 気のせいだろうかと男は辺りを調べてみようと表に出たのさ」
ソーリスは気がついた。やけに様子が具体的に表現されていることに。それは師匠の語る嘘か、それとも──。
「師匠は……そこに……いたのですか?」
にやりと笑みをこぼして師匠は歩みを止めてソーリスと向かい合った。
「……父親はなんとなく外の湖辺りが気になった。ぼちゃんという音が鳴ったからな。まあ、魚でも跳ねたのだろうと思いはしたが壁伝いに慎重に辺りをライトで照らして異常がないかを確認していた。──その時、彼は聞いた。妻の悲鳴を。父親は急いで部屋へと戻る。そこには……」
ソーリスの目蓋の奥に今でも焼きついている。母の首を締めるあの銀髪の吸血鬼の姿を。
「複数の男が銃を妻と子供達が寝ているベッドへと向かって発砲していたのさ」
「え──」
ソーリスは喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じていた。その師匠の言葉と現実の光景の噛み合わなさに愕然とし、頭をふるふると振りながらただ口の奥から「違う。違うっ」と否定の言葉だけが勝手に漏れていく。
「いいや違うものか。家族はイギリスの諜報員だった。隠れ蓑のためだけに結婚し子供を産んだ。子供でさえも家族として偽り周りの目を逸らすための道具として使っていた。彼らは協会の秘密を暴こうとしていた。あの湖に来ていたのもそのためだ。……まああと少しさ。聞けよソーリス。真実を──」
「……」
ソーリスが黙ったのを了解と取り師匠は鼻で笑い続ける。
「父親はその光景に愕然としてすぐに銃を男達に向けた。その背後をとったのは協会に遣わされた哀れな戦闘員だった。彼は人を殺すことなどなんとも思ってはいない。だから拳を背後から男の胸に突き立てた」
「……っ」
ソーリスの銃がパキパキと音をたてて明滅する。光の粒子が銃から漏れていき、そのサイズが徐々に小さくなっていく。
「即死だった。……全員を殺したのを男は──いや、俺は確認しようとして部下に撃つのをやめろと行った。ベッドには母親とそれに抱かれて妹の亡骸があった。子供の方は眠りながら逝けたはずだ。それがせめてもの俺の情けだった。……いや、しかし報告では男の子もいたはずだがと俺は辺りを見渡した。その時、一人の部下が悲鳴をあげた。机の物陰からナイフを持った子供が飛び出したのさ」
「ぐ……あっ……」
ソーリスは頭痛を感じて左手で頭を抑えた。どうしてたが、見たこともない風景が記憶の中に呼び起こされようとしていた。
……私は、そのことを……知っていた?どうして──まさか……忘れされていた?
「思い出してきたかソーリス? ……そう。あの時のお前は本当に凄かった。こいつには才能があると思った。──殺しのな」
「私は……」
「少年はすぐに部下の一人の腹を刺したあと次の標的に向かった。普通ならば六歳の男の子が親が殺されれば泣きじゃくることしかできねぇはずさ。……しかしお前は泣くこともなく、ただ冷静に無表情で次々と刺していった。不意をうたれたとはいえ部下も手練れ揃いの精鋭だ。そんな奴らをとんでもねぇ身のこなしで襲っていったからな。俺は思わず見惚れたぜ。……後から知った話だが、お前には色々と両親が仕込んでたみてぇだな。元々、諜報員か殺し屋に育成される運命だったんだよお前は」
「……では、吸血鬼は……」
師匠はそのソーリスの言葉には答えずに話を続けた。
「俺はお前の腕を捻り上げて動きを封じた。するとお前はとんでもなく素早く見切りをつけて、いきなり舌を噛もうとしやがった。俺はびっくりしたぜ。……奴らどんな仕込み方をしやがんだなと、捕らえられたら自決しろだなんて六歳のガキに教えるかよ普通よ。だからすぐに眠らせてやったのさ。……こんな逸材、殺すには勿体ねぇ。それで俺はお前を協会の戦士として育てることになった。……俺の暗示で多少は記憶をイジリはしたが……それもハーティの使い手として育てるためだった。その頃、丁度、神の武具『ハーティ』を使いこなせるものが存在していないことが協会では問題となっていてな。俺はお前を適任だと思ったんだ。それは正解だったろ? ……ああ、そうそう吸血鬼だったな。事実、カーギシャと名乗った吸血鬼はいた。過去にとんでもなく大勢の人間を殺しに殺しまくったとんでもねぇ奴だ。……だがお前の見た最強最悪の吸血鬼の記憶は俺の聞いたカーギシャのイメージをお前に植え付けただけの単なる『暗示』でしかない」
あの吸血鬼が偽の記憶だというのか。ソーリスはとても理解が追いつかなかったがどこか納得している自分がいるのも事実──しかし、それでも心はただそれを否定したくて口を開いた。
「師匠……その話は……また私を騙す気ですか。……私はあの恐ろしい吸血鬼を覚えている」
「ははは。騙すものか。……というか、もう思い出しているだろう? さっき俺が暗示を解除するスイッチは入れたからな。──この真実を伝えることで、お前はもう吸血鬼ハーティになれないかもしれんな。……だが、安心しろ。お前は俺が守る。……理解したろ? これが真実だ。お前は国に利用されるために生まれてきた。そしてお前の生は協会に今も利用されている。……その嘘に俺も加担したことは成り行き上だとはいえ申し訳なく思っているんだ。……だから、今こうやって告白してるだろ? お前の両親は偽物だったが……それでも実の両親であり、それを殺したのは俺だ。だからいつかは言わねばと、謝らねばならないとずっと思っていた」
「…………私は……私の人生は利用されっぱなしということですね」
ソーリスは銃を下げた。光が霧散して銀の大銃は跡形もなく消え去った。
師匠はとても優しい顔でソーリスに両手を広げて言った。
「さあ、俺と行こうソーリス。……なんだったら十代の時のように俺を父さんと呼んでもいいんだ」
「……私は……」
ソーリスの脳裏にちらついたのは拗ねたようにムッとする宇佐木光矢だった。
ああ、駄目だ。私は、宇佐木とのこの生活を気に入り過ぎている。
「……せっかくですがね……。師匠。私はこの木漏れ日の暖かさにまだ浸っていたいのですよ」
「すぐに陰るさ。雨が降るさ。期待するだけ無駄だ。すぐに終わる」
悲しそうに言った師匠の言葉にソーリスは俯いた──が、それに返す者がいた。
「雨が降っても歌を唄えば楽しかろう?」
バッと音が出る程の勢いで師匠は声の聴こえた方に目をやった。──ここに来られる者がいるはずが──師匠はすぐに納得した。
「お前は鳥羽満月のところのゴースト……!」
赤い着物の少女、琴葉が窓ガラスに体半分めり込ませて二人を眺めていた。くりんとした瞳で生者顔負けの元気な笑顔をして溌剌と告げる。
「ソーリス伏せておれ」
琴葉の言葉と同時に大きな窓ガラスを突き破って一人の男が降ってきた。けたたましい音と激しい着地音。腕を顔の前に交差させたままコートをはためかせ着地してすぐに立ち上がる。
「イースだいたいの話は九川の千里眼越しに聞いてたぜ。お前のことは信用してたんだがな……残念だイース」
栗色の髪に端正な顔立ちの意思の強い瞳の男──鳥羽満月。彼はキッと師匠を睨みつけてから、すぐにソーリスの方へと歩み寄る。
「どうしてここが分かった満月」
問う師匠に満月は間を置かずに答える。
「お前がここにいることは昨日、夢で視た。……まあどのみち九川の眼で分かったけどな。……ソーリス今は色々考えることはあるかもだけどな。俺と……リーゼさんを信じろ。リーゼさんは絶対に信用できる」
「……満月さん」
ソーリスは茫然自失とした様子でただ満月の名を呼んだ。そしてすぐにハッとして我に帰った。
「くっ……」
ズキリと痛む頭。ああ、駄目だ。もしかしたらまた私は師匠の暗示にかかりかけていたのかもしれない。ソーリスは頭を激しくぶるぶると振ってから胸のウィスキーを一気に飲んだ。
「ソーリス先生! しっかりしてくださいまし! 鳥羽満月さん、あとは頼みましたわ。私は宇佐木先生のところに行きます!」
声の方向、割れた窓ガラスの夜空の向こうに石原秋子を背に乗せて永墓眠を足にぶら下げる九川礼子がいた。九川も石原も学生服のまま。長い黒髪とスカートが水中を泳ぐ金魚の背びれのようにはためいていた。永墓はなんとか落ちまいと足にしがみついていた。しかし限界だったのか急に叫び始めた。
「ああ、もう無理。腕限界。落ちる落ちるっ」
「ああ、もう五月蝿いですわね。あなたもこっちを手伝いなさいな」
サッカーボールでも蹴るかの様に九川は永墓眠を部屋に蹴り入れた。
「ぶべっっ」
九川が計算したのかソファーに頭から突っ込んだ彼女はすぐに身を起こしてズレた眼鏡を正しながら抗議する。
「こ、この冷血糞ガキっ……お前やっぱりムカつく!」
「あらあら。またお相手してほしいならこの戦いが終わった後でいくらでもしますわ。……あなたは真実を知りたいのでしょう? ではそれはこの戦いの後に自ずと見つかると思いますけれど?」
「……うるさい! 私はこの鳥羽満月のやり方を見させてもらうわ! こいつの無実が分かるまでね!」
「ちっ……やかましくなってきやがったな」
師匠はソーリスと同じようにウィスキーを一気に飲んでからゆっくりと歩いて位置を整える。
ソーリスと満月、永墓と向かい合うように窓側へと移動した。背後の九川礼子が去ったことを確認して話始めた。
「おいおい鳥羽満月。何故俺のところに来た? お前はてっきり街の連中を助けるために奔走しているもんだと思っていたんだけどなぁ。いいのか? こうもしている間に罪もねぇ連中が死んでるんだぞ?」
「……」
ふー。と鳥羽満月が深く息を吐く音が聞こえた。すぐに琴葉の「いかんの」と言う声が聞こえて彼女は続けて言う。
「馬鹿者。満月を怒らせおって」
急に部屋の温度が下がった気がした。鳥羽満月を中心とした存在の圧にすべてが引き寄せられるような錯覚に陥った。
「……これはこれは」
師匠は奥歯を噛んで一歩後ずさった。そこに釘を刺すように言葉がかかる。
「逃さねぇぞイース。お前は……一番やっちゃいけないことをした。お前の苦悩や辛さは分からねぇ。お前の人生がどれ程苦しかったのかもな。……でも駄目だ。周りの一切合切を無視して何人殺してでも自分が自由になるためになんて──そんなことは許されちゃいけない」
「うるせぇよ満月。ああそうさお前に分かるわけねぇよな。この平和な日本でぬくぬくと育ってきた、てめぇには俺とソーリスの気持ちなんざ一ミリも分からねぇよ」
「ああ。だから分からねぇって言っただろうが。分かるつもりもねぇよ。……だが、周りの罪のない一般人を巻き込むのとは全く別問題だ。お前は結局、お前と同じような苦しみを持つ人間を大量生産しただけに過ぎないんだ。……今回の事件でソーリスのように親を失った子供がいるだろう。子を失った親がいるだろう……殺したくもないのに殺した奴もいるだろう……こんな……こんな悲しいことがあるか! こんなことをお前は自分が逃げるためにしたって言うのかよ!!!」
また鳥羽満月から発せられる圧が上がったのを師匠は肌で感じていた。
……なんて存在感──さすがマスターエムが一目置くだけのことはある。しかし、なに簡単なこと目撃者を残さなければいいだけのことじゃねぇか。大丈夫だ。鳥羽満月も対魔属性の素質は桁違いだが……まだ発展途上──俺の敵じゃねぇ。師匠は気を取り直してすぐにソーリスに声をかけた。
「ソーリス予定変更だ。ここで鳥羽満月とそこのプレイヤーを殺してから逃亡だ。手伝ってくれるな」
笑顔で手を差し出す師匠にソーリスは顔を背けた。その仕草に師匠は目を見開き体を硬直させた。
「まさかソーリス俺を……俺を見捨てるのかよ。……父とも呼んだ俺を……」
「師匠もうやめてください……。満月さんも言っていたように私もリーゼのことは信用できると思っている。……師匠の何かの勘違いなのだと思います……。過去のことも私はもう今は……だから師匠……。もうやめてください」
そう悲痛に言ったソーリスは頼み込むように師匠に頭を下げた。
イースは激昂した。
「馬鹿野郎っ! さっき言っただろうがっ。協会は正義でもなんでもない! あのリーゼはそもそも人間でもねぇ! あいつは自分が生きるためだけに組織を運営してる偽善者のクズだ! それをお前っ! 十何年間も共に暮らした俺が言ってるんだぞ!? お前はそんなに俺と行くのが嫌なのか!?」
ソーリスは真っすぐにイースの目を見て淡々と返した。
「それでも私は今の生活を愛しいと思うのです。だから……」
「あー! もういいっ。糞がっ! おめぇはいつまで経っても糞ガキのまんまだ!」
イースは一気にウィスキーを飲み干してそれを床に叩きつけた。割れた瓶が床に散らばり、一瞬の静寂の後に──獣のような唸り声が聴こえた。その低い声に永墓が身震いした。
「な、なにっ……今のっ……あいつが言ったの!?」
肉食獣が威嚇で発するような恐ろしい唸り。それがイースの喉から漏れてくる。彼は両手を広げて全身に力を込めているようだった。イースの口からくぐもった声が漏れる。どこか先程までの声質では無かった。
「……おいソーリス。ブレッドには言ってあるのか……。俺の細胞を分けられているあいつの寿命も短くなってるんだと」
「……ええ。彼もリスクは承知のはずです。それが?」
「はっ! なら俺の気持ちが分かるのはこの世であいつだけかもなぁっ! 俺の寿命もそろそろ尽きる……今までの無茶な戦い方のせいだ……。ブレッドもここ最近、片腕をまるまる再生したそうだな。……三年は縮んでるぜ寿命がよ。……なあソーリス。俺はな……死にたくねぇんだ。こんな死に難い体をしている代償でやけに寿命が短ぇ──もうすぐ俺は死ぬんだよソーリス。……そんな時、やつらの甘言が聞こえてみろよ? それはノるだろ? 組織からの逃亡と永遠の命だぞ……? そんなの、オイ……無理だろ。……何人だって殺すさ。鳥羽満月──お前のような善性な人間には分からねぇ」
「人が絶望の淵にいるところに甘い言葉をかける。過ぎた力を勝手におしつけて犯罪に走らせる。……奴らが単なる詐欺集団だってのは分かった」
鳥羽満月はそう言ってただ静かに怒りを押し殺して拳に青き光を発現させていた。それは暗い室内で煌々と輝いていた。
全てを帰す。魂へと届くその拳を滾らせて。
「おうおう相変わらず怖ぇな……その青き拳を喰らえば魂までもが消滅するというじゃねぇか。生きてきた記憶そのものをも消してしまうほどの威力だと聞いたぜ。……そいつだけは喰らいたくねぇな。……なあ、ソーリスお前になら俺がさっき言ったこと分かるだろう?」
「イース……私はそれでも、あなたを止めます。あなたの過去の威厳を守るために。……人は弱い。だから死と寂しさに怯えて他者を傷つけてしまう。……あなたが昔私に言ったことですよイース」
「…………っ。……もう、もうっ! 俺は止まらねぇんだ!」
ソーリスの言葉を振り払うようにイースは叫んで全身を震わせた。
「ウオオオオオオオ!」
ばりばりという音とともにイースの全身が膨れ上がって盛り上がり、その体積が倍ほどにもなって巨大化していく。その盛り上がった全ては真っ黒な体毛に包まれていてその毛並みはまるで狼のそれであった。
「こ、これは──」
その正体を知らぬ永墓だけが驚愕と恐怖に全身を強張らせていた。
「ワーウルフ」
満月が冷静にそう呟いた。目の前の存在はその言葉通りの存在であった。日本語で言えば狼男。頭は大きな狼、体は二足歩行で立つ人間のような肉体──しかし実質、下半身もほとんど狼であった。辛うじて二足で立ってはいるが、その形状はほとんど純粋な狼に近い。元々、イースが着ていた服が破れながらも腕などに少し残っているだけで、ほとんどただの獣だった。その目は爛々と黄金の月の様な輝きを有していた。狼の口からくぐもった唸り声と共に人語が呟かれた。
「全員ここで死ぬ。……それがお前の選択だソーリス。そしてアンジェリンも宇佐木光矢も助からない。俺の目でなら窓から地上を見ることができた。さっきなぁ、確認したぜ。アンジェリンはもうすぐ死ぬ。……あいつは力不足だ。この辺で死んどくのがいい」
「……ふざけないでください。アンジェリンは死なない。九川が向かいました。敵は数秒で駆逐されます。イース、あなたは九川の強さを知らない」
「へへへ……師匠と呼ばなくなったなソーリス」
「……」
「そういうお前の心構えから入るところ嫌いじゃない。……九川とかいう術師がうちの魔女さんレベルなのは知っているさ……。だが、まだ幼い。戦闘経験が圧倒的に少ない。……そんな奴を刺すのは容易いさ。……つまりはあそこにいるプレイヤーは単なる戦闘力で戦うタイプじゃねぇ……そういう類ってことだ。プレイヤー……この言い方いいじゃねぇか。お前らが話してるの聞いたんだぜ満月。俺の耳が数キロ先まで届くのは知ってるよな?」
「……そうかよ。イースお前は奴らのことどこまで知ってる? 今回のプレイヤーのことも知ってるのか? この街全体を操っている最悪な野郎のこととかを」
「そうだなっ。はははっ。知っているさ。奴は『デッドダンス』。二人目の覚醒者さ──前回の守野清継……『ソウルブレイダー』程ではねぇが……今回も厄介だぜ? お前らのとこの女神様はあいつに勝てるかな? ははは!」
九川は女神よりも魔女の方がしっくりくるなとソーリスと永墓は思った。そしてソーリスは思わず聞いてしまった。
「なんですかその名称は……?」
「面白いだろう。まだまだあるぜ? 『ダックハント』、『バーコードバトラー』、『ボンバーキング』──これはお前らが会ったプレイヤーだ。どれがどの名か分かるか? おっと、『ボンバーキング』は目の前にいたな」
狼の目が永墓を捕捉した。
「ボンバーキング……確かに……神様がそんなことを……」
永墓がボソボソと怪訝気に呟いた。その様子にイースは満足したように含み笑いを漏らす。
「くくく。まあ……名前に意味なんてないがな。連中のこういう遊び心は俺は嫌いじゃねぇ。……下手な策略や謀略はもうごめんなんだ。シンプルに……もうすべてを真っ白に……透明な色にしちまいたいのさ俺は」
「それで自分と無関係な人間はいくら死んでも構わねぇーってな思考になるのか? 変わったなイース。……もう覚悟はできているか?」
言いながら鳥羽満月が歩みを進めた。それだけで場の緊張感が臨界点にまで達した。その張り詰めたものを狼の声が引き裂いた。
「いいぜ──全員まとめて俺の腹の中に収めてやらぁぁぁぁ!!」
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発砲音がビルの両側に反射し合い残響となってこだまする。そして一つの銃口から生まれたばかりの煙が夜空へと吸い込まれていく。
「そこまでにしやがれぇっ……柵屋川ぁっ!」
黒い銃を構えた佐能響は柵屋川へと狙いを定め声を張り上げていた。アンジェリンを撃とうとしていた警官達は佐能によって撃たれ、まさに間一髪というやつであった。あと数秒遅れていたなら──アンジェリンはもう最後の最期で奥の手を出さざるを得なかった。
──……良かった。私。まだ。人間でいられる。アンジェリンは安堵の息を吐いた。もうすでに三発程体に入れられているので悠長なことは言ってはいられない事態ではあるのだが。
「うおおおっ、ど、ど、ど、どうなっているんだぁぁ!?」
佐能と共に現れ状況についていけていない羽田警部補は、広場にぞろぞろと集まってくる一般人の大群を見て大声をあげていた。
「ああ! もうゾンビも襲ってくる部下達も燃えてる奴らももうたくさんだあああ!」
絶叫した羽田ははやけに目立つ金髪の頭を見つけて、さらに素っ頓狂な声をあげた。
「う、宇佐木光矢っ!? ど、どうしてここに!? お、おいもしかしてあの電流ビリビリ少年もいるんじゃないだろうな!?」
なにかに怯えたようにきょろきょろと辺りを見渡し始める羽田。
「誰だ……?」
名を呼ばれて、ぎょっとしてはみたものの宇佐木はもはや覚えていなかったので、ただただ困惑した。
「佐能っ。しつこいな君もっ……!」
忌々しそうに柵屋川はそう吐き捨てて目の前に手を掲げた。するとすぐにまるで海の波が寄せては返すかの如く人の波が柵屋川の間へと押し寄せて幾重にも重なって彼を守護した。
「てやんでぇっ!」
一瞬で見えなくなった柵屋川の姿を追おうと佐能は銃の照準を固定したまま横移動する。それと同時に、まるで一つの生き物のように人々はうねり流れるように足並みを揃えて佐能の前へと立ち塞がった。
「ちっ……」
あまりの人数の多さに堪らず佐能は後退せざるを得なかった。今や街中から集まってきたのかという程にこの広い大通りを埋め尽くすが如く人々は密集していた。
「数百……いや千はいるか……? なんなんだぁこれはよぉ!?」
人垣のないところを探して柵屋川を見つけようとするが、そもそもそんな隙間などはもはや存在しなかった。
「……いつの間にこんなに……人間が……」
宇佐木は愕然と声を漏らした。いくらなんでも多過ぎる。こんなに多くては自分のスペリオルイレイサーでも消し尽くすのは不可能だ。数で圧されて潰されてしまうのが目に見えていた。
「……はぁ、はぁ」
アンジェリンは肩で荒い息をしている。この様子では戦闘はできないはずだが、彼女は座り込みじっと何かを狙っているように見える。まさに最後の一手を柵屋川と刺し違えようとでもいうかのように、そんな風に宇佐木には思えた。
「くそっ……!」
宇佐木は自分にできることはないのかと自問自答を繰り返した。辺りを見渡してどうすればいいのか、どうすればこの包囲網を脱してソーリスと合流できるのか?
──そうだ。ソーリスは一体どうしたんだ?さすがにこれだけ街中の人間がこの大通りに詰めかけて来ているのはホテルの高層階からでも見えているはず。しかし、どうにも奇妙なのがこれだけの人間が集まっているにも関わらず誰も言葉を発さないので辺りは不気味な程に静かだった。だから気がつかないのか?いや、いくらなんでもソーリスなら気がつくはずだ。
となれば……来られないのか。なにか来られない理由があるのかもしれない。そう考えるのが自然だ。
「ちくしょうっ」
宇佐木は腹をくくることにした。もうやってやるしかないのだ。
「全員俺が相手になってやるよ!」
自棄になりナイフで線を描き、手前の人垣をバタバタと崩すとまるで達磨落としのようにすぐに次の列が倒れた人々を踏みつけにして最前列へと一糸乱れぬ統一性で移動するだけだった。
「なんなんだよっ!」
闇雲にペイティングナイフを空間に閃かせた。宇佐木はその能力で捉えられる範囲すべての色を把握する。ナイフの射程は三メートル程──直接触れなくても彼らを拘束する色を消す事はできる。気になるのが体の中心にあるあの黒いシミのようなもの。
あれは……なんだ。あの黒を見ていると宇佐木はどうしようもなく心とうなじが騒ついた。しかしあの黒は消そうと思えば消せる。『念入り』に塗りを入れるようにしなければ、なかなか剥がすのが難しいが消せないことはない。さっきは上手くいったが……どうにも焦っているとそこまで気が回らない。
依然として住民は動きを止めている。襲ってくる様子はなく、じっと感情の感じられない瞳で宇佐木達を見据えているだけで、手にそれぞれ持っている武器も構えるでもなく、ただだらりとぶら下げているだけだった。
「あっはっは! 頑張るなぁナイフの君は。君もその力……元、我々の同胞なのかい!?」
人の波の中心から柵屋川のよく通る大きな声が響いた。拡声器を使っているのかと思う程に辺りに響き渡る。
「うるせぇっ!」
いくら色を消しても消しても人の波は無制限とでもいうように宇佐木の前へと立ち塞がった。佐能の声も時折響いた。
「どけやぁ! くそっ、柵屋川ぁ! てめぇ卑怯だぞ! 人をぉ盾にして踏ん反り返ってるだけかぁ!? お前のなりたかった政治家はこんなだってぇのか!?」
「はははっ! おかしなことを言うなぁ佐能は! トップを守るために平民が盾になるのはいつの世も同じだろう!?」
有象無象の茫然自失の人々の中心でまるで自分を王様だとでも言うように柵屋川はさも当たり前のように言った。そして言葉を続ける。
「お前達も自分が生きる為にさっきから罪の無い人々を殺しているじゃないか? 私と何が違う? その金髪の女は一体、何人燃やした? 自分が守るものだけが生きていればいいのか? ん?」
「私は……」
アンジェリンの唇が自然と動いていた。そして頑に自分に言い聞かせるように言う。
「私は命令に従うだけ……お前は殺す。たとえこの街の人を全員焼き殺してでも光矢は守る」
「あっはははは! とんだ正義の味方だな! 聞いたか!? 佐能!? あっちの方が悪人だぞ!? お前が銃を向けるのはあの女じゃないのか!? それともまだ、えーと……誰だったかな? 名前忘れたがあの死んだ馬鹿の墓参りを私にさせたいというのか!?」
「この……ド外道がっ……!」
「外道か。確かにそうかもなぁ! 私も昨日まではこんな素晴らしい道を神に用意されるとは思いもしなかったさ! 私は馬鹿な一般人に選出されたのではないっ! 神に選ばれたのだ! だからこそのこの万能なる全ての人間を統べる能力をくださった!」
ペッと宇佐木は唾を吐いてペインティングナイフを柵屋川の朗々とする声の方へと突きつけた。
「何が万能だっ。俺らのことは操れてねぇじゃねぇかっ! てめぇはロスト・カラーズに使われてるだけの単なるプレイヤーだ」
「だからそれは神の試練だと言っただろう? 度し難い馬鹿者だな。私の話を聞いてないのか? ……まあ、いい。私がここで住民達に殺せと命じるだけで、貴様らは終わりだ。一体、今ここに何人いると思う? はっはっは! まだまだ増えるぞ! この私が幸せにするべき人々がな! 全ての人間が私の考えに同調し、異を唱えるものはいない! 差別も格差も戦争までもが消え去る美しい完璧な歴史の幕開けとなぁる! 貴様らはそれを見ることなくここで死ぬ! はははははははは!! それじゃあな佐能っ。お前は最後まで面白かったよ! では──我が忠実な市民達よ! この非国民共をっ」
「あら、お話はもうそれで終わりかしら? 少し面白かったのだけれど」
若い女性の声が頭上から聞こえたと同時に柵屋川は街灯の灯りが急に何かに遮られたなと思い反射で顔を上げた。
「な」
一瞬、呼吸をするのも忘れる程に目を奪われた。あまりにも非現実的な光景──この人垣の山こそがあまりにも非現実ではあるのだが、そのさらに上をいく存在が目の前に突如として降臨していた。
一体この人の山の中をどうやってここまで来たというのか。
真っ黒な服の真っ黒な髪の長い女。服は……制服?学生なのか?しかも、まさか飛んでいるのか?柵屋川は目を見開いてそれに魅入った。空中でまるで座っているようなポーズで自分を見ているその彼女に。
「く、く、九川ぁぁ!」
宇佐木はどこか力が抜けてホッとして声をあげた。彼女の姿を見た瞬間、安心して泣きそうになってしまった。
その宇佐木の声に安堵と嬉しさが滲み出てたのを九川は千里眼を使わなくとも分かった。
あらあら、期待されているのね私などと思い少し気恥ずかしくなった。
「先生、お待たせしましたわね。先にソーリス先生の方へ行っていましたの。あちらは満月さんがどうにかしてくれます。……私はこちらをさっさと片付けてしまいますね」
九川の背中にはよく見たら石原秋子がいるのに宇佐木は気がついた。黒い制服同士なのでくっついていると一瞬分からなかった。
「石原もいるのかっ。だ、大丈夫かっ……」
「宇佐木先生っ。私なら大丈夫です。九川さんに守ってもらったから……先生はっ!?」
九川は目の前の柵屋川を見ているのかこちらを振り向かない。背中のアキはなんとか頑張って首を回そうとするが宇佐木を見るにまでは至らずに諦めて苦手な大声をだした。
「先生っ! 死なないでください!!」
「俺は死なねぇ! お前達が助けに来てくれたじゃねぇかっ。……教師としてはどうかと思うけどなっ。……それより九川っ。アンジェリンが撃たれてる! お前助けられないか!?」
「そうですか。分かりました」
宇佐木の言葉に九川がそう答えるが、すぐに割って声が入った。
「えんの……いや、九川さんっ!」
声を張り上げたのは今まで黙っていたアンジェリンだった。いつもの元気さがないどこか切羽詰まった声だった。
「私のことはいいから早くそいつを……! でなきゃ……私っ、私っ」
九川は背中に背負うアキの心地よい体温のそのさらに後方から常人には知覚できない魔力の熱気が溢れ湧き上がってきているのに気がついた。その発信源は間違いなくアンジェリンだ。──この質量……なるほど。九川は理解した。おそらく彼女は任務が遂行できないとみるや、その奥の手を使うのだろう。それはこの辺り一面をたちどころに焦土と化すには十分な程の威力になるに違いない。一体、何人の人間が死ぬことになるか──さすがに使わせるわけにはいかない。
「分かりましたわ。……あなた方は本当にややこしいわね。頑固ですが真っすぐな満月さんの方がまだ分かり易くていいわ」
「皆……立場が違う……のよ。九川さん……あなたにならそれが……分かるでしょう?」
苦しそうに息をしながらも笑顔を向けるアンジェリン。九川はそれを千里眼で見て「ええ、そうね。そうだったわね」とだけ返し、すぐに目の前の男へと意識を集中させる。そろそろ柵屋川が露骨に咳払いなどして痺れを切らしていたからだ。
「おっほんっ。……あー、なるほど。空飛ぶ少女。いい絵だ。しかも美しい。君も神に力を貰ったのかい? なら私と同じ上級国民じゃないか?」
「神? 何をおっしゃるのかしら。神は力を与えませんわ。手を差し伸べず試練も与えなければ何もしません。私会ったこともありますもの」
「はっはっは! わけが分からないな! お前は私をどうするつもりだ!? ん? 殺すのか?」
「…………」
柵屋川は腕を組みニヤリと口元を嫌らしく釣り上げた。
「殺せば操っている人間も死ぬとしたら私を殺せるかー?」
「一体なにを言いだすかと思えば」
この私に話術で挑もうというの?それはこの柵屋川が人を操る力だけしか持っておらず、自分では戦えないことを示唆していることに他ならない。一目見て気がつきはしたが……こいつは──弱い?しかし九川はもう同じ轍は踏まない。相手が弱くとも油断は絶対にしない。
九川は面白くなさそうに溜息をついた。
「……では戦闘不能にしますわ。後遺症などは残りますが恨まないで、いえ──恨んでくださって結構ですわ。……それに、もういいかしら? あまり下のアングルから男の人に見られるというのは気分の良いものではないの」
良くなくてもいく気満々で、九川は動こうとした。すぐに柵屋川が両手をあげて降参のポーズをした。しかし、その表情や口調は決して負けを認めてはいない。
なにをする気?九川は慎重に柵屋川へと狙いを澄ませる。この距離ならば一秒の間で──。
「おお、そうかそうか。では、最後に一つだけいいかね?」
「……」
無言を了承ととったのか柵屋川は話始める。
「私はね。女性が大好きだ。だから君のような美しい女性も好きだ。……だが私は馬鹿な女は好きだが頭の良い女は嫌いなんだよ。ああ、そうそう佐能。あの上畑の妹なんかがそれだったなぁ。私に説教なんて垂れやがった。だから、死ぬ気になるまで犯してやったんだ」
「てめぇ……やっぱぁ覚えてやがったのかぁ!? 嬢ちゃん……そいつ動けなくしたら、一発でいい! 殴らせてくれや!」
いつの間にか佐能と羽田が宇佐木の後ろまで来ていた。佐能が奥歯をギリギリと噛み合わせながらそう叫ぶと九川は「ええ。お好きに」と言ってつまらなさそうに柵屋川を見下した。
「最後に一つ言いたかったはそれですか?」
柵屋川の口が今までにない程に大きく醜く歪んだ。九川の千里眼を伝って柵屋川の狂気の感情が直に彼女に流れ込んで来る。──まさか!?
「ひはあっ! いいやこっちさっ! デッドダンス!」
ばちんとたくさんの風船が重なって割れるような音が辺りに響き渡った。そしてすぐに無音──。
九川と宇佐木は同時にぞわりとしたものを感じた。
何か──とんでもない勘違いを私は──していたのかもしれない。九川礼子は辺りを見渡して絶句した。……いえ、そんな場合ではないわ。落ち着くために大きく息を吐いて背中のアキに声をかけた。
「アキちゃん……目を瞑ってて」
「ううん……私見てるから。見てる……から」
柵屋川誠実はただ一人立っていた。ケタケタと狂ったように笑いながら。
彼をを中心として周りの百人以上の人々が急に折り重なるように倒れていた。そのさらに奥の宇佐木達を取り囲む何千人もの人々は未だに棒立ちのままで影響は無い。
「なにを……した……んだ?」
羽田が呆然としてその光景を見て口をついた。一瞬前までは柵屋川が見えない程に人が密集していたというのに。瞬きの間に柵屋川の姿がしっかりと視認できるようになっていた。
一息で倒せると思っていたのは自分だけではなかったのだ。九川は唇を噛んだ。
「……」
宇佐木だけが今ここで何が起きたのかを理解していた。奴は操るだけじゃない。操った人間をいつでも殺せるんだ。あの胸の中の黒いシミ──奴の声とともに全身に広がって、操られた人達は一瞬で──死んだ。そして。
「あ──あぁ──あ」
「うう……あ──う」
「お、お──」
柵屋川の周りの人々は倒れているもの同士を踏みつけ合いながら、一人、また一人とゆらりゆらりと立ち上がっていく。生命力の感じられない動作で住民達は呻き声を発していた。
「ひぃっ……! またゾンビぃぃ」
羽田は佐能にしがみついてその背中に隠れた。「やめねぇかっ」と言う佐能も高身長だが羽田の方が体が大きいためかなり間抜けな絵面だった。
「死人を歩かせていたのも……てめぇか」
宇佐木はあの黒いシミの正体を理解した。まるで時限爆弾、いや死刑宣告の色だと彼は直感でそう感じた。しかも、死んだ人間は更に奴に使役されるべく強制的に立ち上がらされる。
「どうだっ! 素晴らしい能力だろう! はははははっ。これが私のデッドダ」
「いいから、もう黙りなさい」
もう待つことはなかった。九川は光の速さで間を詰めて柵屋川の首を狙って手刀を落とす。勢い余って首を落としてしまうことになってももう構わない。こいつは──放っておいてはいけない存在だ。無関係な存在達にとってこいつはあまりにも驚異で恐ろし過ぎる。
「ふふふ……──ははははっ──ぜんっぜん見えん! 全く見えなかったな!」
柵屋川はその首筋に風圧を僅かに感じた程度であった。彼は自身に起こったことを再確認して、さらに確信した。──自分は無敵だと。
「君は私に攻撃しようとしたのか!? なんだ今のは君は化物か!? はははは!」
「なんて禍々しいっ……!」
吐き捨てた九川の手刀は止められていた。その柵屋川の作り出した死体達によって。一つ目の屍が土台になりその背に二人が抱き合う形で寄り添い立って、さらにその上に積み木でも積み上げるかのようにもう一人が乗っていた。その形態をこの一瞬の間で──。それが見えたのはこの場ではアンジェリンと九川だけであった。
「……っ」
一体一体が私が作り出した鬼並みの力を有している──九川はそう認識した。こいつも前回の木刀の青年と同じく……いや、もしかしたらそれ以上にタチが悪い。死体の男は九川の手をしっかりと握って離さなかった。ミシミシとその腕が軋んだ。
「私の支持者達は死しても尚、私を守るのだよ。これが神からいただいた本当の私の能力──私自身はただの人間のままだがな。神は言ったよ……私を傷つけられるものはいない──とね。いやぁ、実際に試すまでは少しヒヤヒヤものだったがねぇ。これで私は確信したよ。神の言葉を信じて良かったと」
「……散れっ!」
九川の眼が紅く輝き前方に衝撃波が生まれた。柵屋川ごと殺すつもりでソレを放った。一瞬で目の前の死体が肉塊と化す。鮮血と死骸が舞い散り、その奥で柵屋川が死体の作り出す球体に包まれていくのを役小角──九川礼子は確認した。
ばきばきと骨が折れて肉が破ける音がした。一体一体が人間の体の可動範囲を大きく超えた形で隣の人間とがっちりパズルのように組み合わさり完全な球体を作り上げていた。
完全自動防御。前回の青年と同じ。しかし──違うのは見知らぬ他人の命を使ってそれを行うということ。
「く、九川さんっ……こんなの、こんなのって……!」
アキの心配そうな声が背中から聞こえてくる。アキを心配させるなっ……私……!
「いくら……私でも……これは反吐が出ますわねっ……!」
「はははっ! ならば闘うなよ君ぃっ! 君が戦えば戦う程に死人でこの街が溢れ返るぞ!? 死体が足りなくなれば、またデッドダンスで作り出すまでっ」
こういう趣向か。前回の私は自身の強さを巧く使いこなせていなかった。故に敗北した。今回は──ただ強くても勝てない敵──?そういうことか。なんともゲーム性に富んでいること。本当に。本当に度し難い。
「巫山戯ているわね。あなた達。私が攻略してさしあげます──このゲーム」
地形を利用する。それは前回の永墓との戦いで学習したこと。
「ふぅっ!」
九川は柵屋川の人間球体の真正面の地面まで垂直降下し拳をぶち当てた。
「ぬっ!?」
柵屋川はその死体達の球体に包まれたまま、その地面が崩れていくのを感じていた。
「あっはは! 私を埋めるつもりか!?」
「その通りです。いくら死体で守られているとはいえ、土砂に埋れればいずれ酸素が尽きるでしょう」
ガラガラとアスファルトが崩れて柵屋川の球体は落ちていく。人の波もいくらかその九川の作りだす大穴に吸い込まれ瓦礫と共に埋まっていく。それらはなんの罪もない街の住人達で、昨日までは今日自分が知らぬ間に死ぬなどとは微塵も考えていないような人々。九川は人死にを最小限に抑えるつもりでこれでも行動している。……あまりにも多過ぎるのだ……人が。
「反吐がっ……反吐がでますわっ!」
「九川さん……落ち着いてっ。よく分からないけど……たぶん……敵の狙いは九川さんを怒らせることだと思う」
「こんなにもっ、こんなにも人が死んでいるんですよアキちゃんっ!? 彼らは私やアキちゃんと何にも変わらない人達です……それなのに、私はっ」
こんなに殺して──。今までならば人の生き死にここまで敏感ではなかったというのに。私はあの鳥羽満月と出会ってから、どうにかなってしまったのか。
「駄目だよ九川さんっ。これが敵の狙いなんだよっ……。大丈夫……悪いのはあいつなんだから! 皆が九川さんのことを責めても私は味方だからっ……だから九川さん、あいつを倒そう!」
背中のアキがぎゅうと力をこめて抱きついてきた。
「アキちゃん……」
ああ。それだけで落ち着いた。そうだ。私は万能ではない。何が万能の術者だ。こんな敵の見え透いた手に激昂するなど三流もいいところだ。
今は私は役小角ではない。ただの九川礼子なのだから。
「ありがとうアキちゃん。……落ち着きました。……さあ、埋まりなさい。あなたには生き埋めでも生温い」
九川は冷徹な眼差しでその人間球体を眺めていた。その瞬間だった。彼女は自身の両側になにか気配を感じた。挟まれている──!?アキを抱えたまま急上昇し、その刹那今まで自分のいたところでバチィンという弾ける音と共に赤い飛沫が大量にあがった。
「攻撃までしてくるというの!?」
ぞぞぞぞぞぞと聴いたことがないような生々しく軋むような音をたててソレは『動いて』いた。
地上から積み上げられた何十人という人柱が二本そそり立ち、まるで触手のように蠢いて空中の九川を狙うようにうねっていた。タコの足のようなそれはその一つ一つのパーツが人でできており、死人と生者が混在しているのがその千里眼で見てとれた。二本の触手と触手で九川とアキを挟み潰すつもりだったのか。その先端の人間はすり潰され真っ赤になっていた。
「……人間を道具かなにかだとっ……そういうつもりですか !?」
果たしてそれに対して自分には怒る権利があるのだろうか。アキは言った。私のことはアキが許すと。では──この者達の死は?一体、どうすれば清算ができるというのだ?人の死はなにかで代替不可能だ。それは私自身が一番知っている。だから──。
ぎゅんと風をつんざいてと二本の人間触手が尚も九川を襲う。その間に地中の柵屋川の球体にも四方から自ら人々が飛び込んで行き、やがてそれは集合体となり瞬く間に人柱の足が完成する。人と人が物理法則を無視して絡み合う。人智を超えた光景だった。球体を胴体として二本の足がぞるぞると生え揃い、ソレは歩き出し穴から這い上がっていく。
「あっははは! ブラボー! ブラボー! 無敵っ。無敵っ。あっはははは!」
「図にっ……乗るなぁぁぁぁぁあ!!」
九川礼子の必殺の雷撃の術。手を真っすぐと上に掲げて空からそれを喚びだして対象を焼きつくす。暗雲が九川の手に呼び寄せられるかの如く瞬時に四方から集まりバチバチと帯電した空気が辺りに漂い始める。
「な、なんなんだよ……俺達は一体なにを見てるんだよぉぉぉぉ!?」
羽田警部補の絶叫が辺りに響き渡った瞬間に激しい一条の稲妻が降り注いだ。宇佐木も叫びはしなかったものの全く同感だった。彼はずっとその人間達の連なる死の色の連鎖を見ていた。黒い慟哭。渦を巻く赤と黒の色合いは混じりそうで混じらない。互いが互いを主張し合うように、渦を巻きはするが溶け合わずにその両方が宇佐木の目に焼きついた。
「あああっ!?」
急に宇佐木が目を抑えて屈んだ。とんでもない激痛が目にはしりとても立ってはいられなくなった。これは……これは!?バクバクという心臓の音が耳の内から鳴り響いて宇佐木は自身に起き始めている変化に気がつき始めていた。
「きゃあああああっ」
目の前に落ちた落雷の激しい明滅と轟音にさすがにアキも叫び声をあげた。こんなもの聞かされていても誰だって叫ぶだろうなと九川は諦めながら、尚も続けて雷雲を喚び寄せる。
前回もこの雷の術で相手にいくらかのダメージを与えることができた。今回も人間を盾としている限りこれは防ぎようが──ないはず……。
そこで九川は思わず息を飲んだ。巨大な人間触手がもう一本突如生えたかと思うとそうの先端になにやらいくつかの突起物をもった屍がいた。──あれは、もしや。
一条の光が降り注ぎ、ばちんという轟音と共に収束し雷はそこへと吸い寄せれるように落ちていく。どこかの建物から取ってきたのか、それは避雷針のように見える。そんなもので、私の雷を回避できるはずが──。
「おいおい、しっかり狙いたまえよっ! 私はここだぞ!」
柵屋川の馬鹿にしたようなくぐもった声が聞こえた。球体の中から話しているせいでいつもの通るような声ではない。
「あれはっ……!?」
九川は声を漏らした。人間達が積み上がってできた足で走りながら、球体が彼女達に向かってくる。それに雷を落とすように九川は術を放った。バチバチという鼓膜を揺るがす轟音にまたアキの悲鳴が混じる。
「なんでよ!?」
苛立たしげな九川の声。彼女の意思に反して稲妻はやはり避雷針へと呼び集められてしまう。今や三本の触手はすべて避雷針のようなものを掲げていた。
なんて用意のいいこと……なるほど。前回の弱点を克服しているというのね。
柵屋川の人間球体が近くまで迫っていたので、九川はアキを背負ったままさらに上空へと急上昇した。
「はっははー! 逃げるのかね!?」
そんな安い挑発にはのりませんわ。
では──もう私が直接やるしかないですわね。
雲が途切れ、月が見える。まん丸な黄金な満月が雲の中で輝きを放っている。死の街と化した地上とはまるで別世界の空間だった。足元に白い雲、眼前に浮かぶ黄金。冷たい空気の中でその静謐な光景にほんの一瞬、九川とアキは呼吸をするのも忘れた。
「…………」
しかし、それを見た九川は強く願った。こんなにも綺麗なのに──こんなにも綺麗ならば──!早くこの街をその明かりで照らしてあげて。これ以上、人が死なないようにと。そして意を決して彼女はアキに伝える。
「アキちゃん……。ごめんなさい……。少し怖いかもしれませんが」
「大丈夫……私、九川さんと一緒なら……大丈夫だから。ごめん……さっきは、その……雷はどうしても苦手で……」
「いいんですわよ。叫んでも泣いても……。でも、絶対に守りますから!」
「うん!」
アキのその返事を聞いて九川はその夜空から真っすぐに急降下していく。
──あの柵屋川には絶剣の使い手程の攻撃力はない! ならば私の最強の攻撃力でぶち破ってしまうまで!
「「はぁあああああああ!!!」」
アキと九川の裂帛の気合が重なりあった。
***********************
「ちょ、ちょっとぉぉなに!? これ、全然これ見えないんだけどぉぉぉ!?」
永墓の絶叫──狼と化したイースは唸り声だけを置き去りにしてその姿は誰の目にも捉えられない程の速度に達していた。満月は全力で眼球を動かすがそれをすぐに諦めて、彼女に指示をだした。
「目で追うのは不可能だっ。感覚だけを頼りに攻撃するんだ!」
言いながら辺りの気配を探り、青き拳に力をこめて満月はいつでもカウンターをくれてやる準備ができていた。
「そ、そんなこと言ったってー! 音しか聞こえないじゃん!?」
永墓の言う通りイースは跳ねて壁などに着地した瞬間、また別のところへとすぐに移動している──らしい。なにせ壁や天井についた時に起こる着地音や僅かな息遣いしか聞こえないのだ。あまりの速度にパパパパパパと連続で拍手をしているようにさえ聴こえる程だった。確かに……このままではいつ攻撃をされるか分からない。
満月はソーリスを見た。彼は口惜しそうに自身の銃を見ながら前に腕を震わせていた。こんな状況だというのに、どこか心ここにあらずといった具合だった。
「ソーリス!」
「すいませんっ……満月さん。……私は」
ハーティが使えないのか。イースこれを狙って暗示を解きやがったな。しかし奴はソーリスだけは絶対に攻撃はしない。──となれば。
「ぐるるるる」
獣は喉を鳴らしながら獲物に狙いを澄ませる。──あの女はただの無防備な女……爆破の能力と聞いたが戦闘力は皆無ではないか?動きで分かる。素人だ。いつでも殺れる。問題は鳥羽満月とソーリス。鳥羽満月の方は攻撃を加えた瞬間にあの拳で反撃されるだろう。反撃を許さない程の即死技で──頭を潰す。しかし、そんな無防備な状態にあの男がなるわけがない。ならば隙を作る。仲間を助けようとしたところを潰す。それが最適解。ソーリスの方は先程の過去の真実を伝えたせいで銃のハーティを持ったまま固まったままだ。
──おそらく自失状態で動けない。暗示を解かれ銃も吸血鬼ハーティも使えないソーリスなど、どうとでもできる!
まずあの女を狙う。なに、殺しはしない。腹を少し破るだけだ。生きていれば鳥羽満月の重荷になるだろう。奴は傷ついたものを放ってはおけない。そこを──刺す!
俺が負けるわけがねぇ!イースは咆哮をあげてまずは永墓へと跳ねるように飛びかかった。
「ふぅおおおう!!」
「ぎゃあああああ!」
悲鳴をあげた永墓は狼の雄叫びに驚いて殆ど反射でその力を解放した。ばきばきと割れる床と壁。彼女の周囲のすべてが軋みをあげる。
「なっ!?」
イースは急遽無理やりに体を捻り、猫のようなしなやかさで床を蹴り方向転換する。今まで自分が進もうとしていた床に亀裂が入っていく。とんでもない重力が加えられているのか永墓を中心とした数メールにある椅子や壁がひしゃげて割れていく。
爆破の能力じゃないのか!?狼は面食らい後退する。
「……っ」
やはりお前は敵のペースを乱す天才だな満月。かつて一度、満月と共闘したことがあったイースは改めてそう思った。きっと永墓眠を引き入れたのも満月なのだろう。当初の予定ではここには俺とソーリスだけしかいなかったはず。
すべてが確定事項で上手くいくはずだったのだ。
だが──鳥羽満月。奴だ。すべては奴のせいだ。あいつは夢で少し先の未来を視ることができる。その能力とあの敵でも味方に引き込んでしまう天然な頭はあまりにイレギュラーで厄介!
苛立たしげに頭を人間の時と同じ動作でバリバリとかいたイースは目の前の空間がぐにゃりと歪んでいるのが見えた。
──これか!イースはすぐに壁を蹴って離脱する。
「こぉのおっ!」
永墓ががむしゃらに手を向けた先の空間が歪み、ドンッと大きな爆発音をあげた。爆風で部屋の大きな窓ガラスはすべて吹き飛び、部屋は一瞬で無惨な有様へと変貌した。
空間に圧力と歪みを生じさせて爆破する能力。手を向ければその歪みを飛ばすことも圧を溜め込み発射することも可能というわけか。それが奴の力──ちっ、ロスト・カラーズの連中め。もっと詳しく教えときやがれ──イースは心の中で悪態をついたがすぐにスンと長い鼻をは鳴らしてから前方の煙の中にいる鳥羽満月を見た。
狼は予定は狂ったが『今だ』と直感した。
「おっ! やるじゃないかっ! 永墓ぁ!」
嬉しそうにそう言った満月はそれでも奴が狙うなら今だろうなと巻き上がる煙と粉塵の中、感覚を鋭く研ぎ澄ませた。永墓を先に狙ったのも俺の油断を誘うためだろう。
「……ふっ」
短く息を吐き──止める。
それは的中した。見えたわけではない。ただタイミングを掴んでいただけだった。
鳥羽満月はコートをはためかせて振り返り様に右手を振りかぶった。
「っ!?」
青い光!?
コートの内側で隠れていたその拳の放つ光にイースは満月の背後に忍び寄る寸前まで気がつけなかった。
馬鹿な──ありえん。奴は見えていなかった!?
その瞬間、過去にマスターエムと満月のことで会話したことをイースの脳はリフレインした。
──ああ。満月か。さすがエリックの息子じゃ。あいつの勘はとんでもないぞぉ。父親譲りといったところかの──
これが勘だというのか!?
「イーーースぅぅぅ!!」
「満月ぃぃぃ!」
満月の右腕がイースの真っ黒な毛の中に突き立てられる。
……これが青き拳の力か。噂通りの魂ごと剥がされそうなとんでもない精神力を注ぎ込んだ攻撃だとイースは思い口から大きな血の塊を吐いた。
「がっはっ……」
しかし、彼はここで終わるわけにはいかなかった。
彼は求めている。永遠の安寧の地を。俺はソーリスと──また一緒に。
「あああっ!!」
次に悲鳴をあげたのは満月だった。狼は拳を胴体に埋めてくの字になりながらもその両手で満月の肩を掴んで彼の左首筋に噛みついていた。ズブズブと沈んでいく狼の鋭い刃のような牙の感触を満月は熱と激痛と共に感じていた。
「ぐぅあ……」
決して手加減はしていない。何故なら拳は──狼の胸を突き破って背中まで突き抜けているのだ。満月の青き拳で砕けない魔はいない。彼はそう師とも呼べる人物に言われたことがある。
「み、満月ぃ……。俺は死なねぇ。死ぬわけにはいかねぇんだ。絶対に死にたくない……。お前に空けられたこの穴を治すのにまた何年寿命を使うと思う? え? 俺はな……永遠の命を手に入れるまで止まるわけにはいかねぇえんだよ!」
「ぐああああああああ!!」
このまま首筋を食い破られる。鳥羽満月はその牙から逃れようと右手を振るおうとするが腕は狼の腹に刺さったまま微動だにしない。左手はすでに抑えつけられている。
まずい──。これでは完全に身動きができない。貼り付けにされた虫のように捕らえられた状態となった満月は青き光を全身に巡らせて防御と回復に専念させる。首筋に入っていく牙の進行が僅かに鈍くなるのを感じた。
「満月ぃー! なにをやっとるかー! こんな……こんなところで死んでは許さんぞぉぉぉ!」
部屋の隅の方からわたわたとした琴葉の泣きそうな声が聴こえた。早くももう顔が涙でぐしゃぐしゃだった。
──ああ……あの泣き虫め。……っと、そうだよな。大丈夫。俺は──俺も死にたくはないんだ!
グッと全身に力をこめて満月は首筋の狼に語りかけるように口を開いた。
「……イース。死にたくないってのはな……皆思ってるんだぜ? それでもな……皆今を一生懸命生きているんだ」
イースはその満月の声に噛みついたまま返す。ぼとぼととその口からは赤い血が滴り落ちていた。
「俺は一度も一生懸命に生きたことなどねぇ! ……生まれた時から協会に飼われていた俺の気持ちがお前に分かるか!? ……満月、いい加減に気がつけ。リーゼがなにを隠しているのかお前は知っているんだろう?」
「…………」
イースは満月を逃すまいとその牙をもって彼の命を奪うつもりで顎に渾身の力をこめた。しかし、牙が──通らない?……なんて力……体の守護までするというのか。
「……いつまで保つかな満月。俺はお前が失血死するまでこうしててもいい。……あの爆破女もこうしてれば俺だけを攻撃するなんて器用なことはできねぇみてぇだしな」
イースの言う通り永墓は二人に手を向けているものの、オロオロとしてどうしていいか分からず固まっていた。
「なあ、聞けよ満月。もう一度、考え直せ。このまま死にたくはねぇだろ? お前はなんのために戦っている?……世界の平和のために奴らは人外を倒す。そのための組織。──だがな。奴らは俺のような人外を捕らえ利用して使う。毒を持って毒を制すってことだ。──俺以外にあの組織に人外がどれだけいると思う? 普通の人間の方が少ないかもしれねぇなぁ? あの中で無理矢理戦わされている人外、人間に……懸命に生きられてる奴なんていねぇんだ! だから全員が自由にならなきゃいけねぇんだぁ!」
「それはお前……ソーリスのことも言ってんのか? 俺はあいつはちゃんと一生懸命生きていると俺は思うぞ。──なあソーリス」
満月にはイースの丁度後ろの位置に立っていたソーリスの変化が分かっていた。そこには先程までの沈んだ顔の神父はいなかった。
大きな白銀の銃を元師であった者の背中に向けているソーリス。それはいつもの彼であって、いつもの彼ではなかった。氷のように凍てついたその青い瞳で彼は笑顔を作った。
「ええ。勿論です。満月さん。私は今を懸命に生きていくだけです。楽しい今の生活がずっと続けばいいのにと……ただそれだけを願っているんですよ。だから──イース。もう終わりにしましょう。もう……ここまでです」
ソーリスは狼の真っ黒な背に照準を合わせる。
「ソーリスっ。お前にハーティが使えるわけがないっ。お前の銃を怖いという記憶も吸血鬼のことも全てが俺が作り出したまやかしなんだぞ!」
「その過去がまやかしだとしても。私がこの銃と吸血鬼とで今まで戦ってきたことは真実です。──嘘ではありません。……そう心を定めるまで随分時間がかかってしまいました。すみません満月さん」
「……いいって。それより『俺が抑えてる』うちに頼むぜソーリス」
抑えていると鳥羽満月が言った時に、ハッとしたイース。しかし、時すでに遅しであった。牙を抜こうと力を入れてみても満月の首筋に食い込んだそれは微動だにはしなかった。
「なっ!? 満月……お前っ」
満月の左腕を離したところを逆にすぐに彼の腕に掴まれてしまう。右手は胸を串刺しにしたままだ。
動けない……!イースは振り返るどころか体を僅かに動かすこともできなかった。これが青き光を宿した人間の力なのか!?
狼は逆に捕らえられていた。
「ありがとうございます。満月さん。この距離では外しようがありません」
そうは言ったものの背から生えた満月の手を撃たずに済ませるには、やはり頭を狙うしかない。頭ならば身長差で満月に攻撃が当たる確率も少ない。
くぐもった狼の声で彼は悲しそうにその元弟子に告げた。
「待てよ……ソーリスっ。俺をその銃で殺すのか……もう、後戻りはできねぇぜソーリス。お前は俺と一緒に逃げるべきだった。そしてあの時のように一緒に暮らすべきなんだ!」
「すべての真実を暗示で忘れさせて私を都合の良い息子にしてですか?」
「……違うんだ。本当は俺は……ソーリス……俺は」
「いいんです。いいんですよ。……あなたはあの時、私にとっては本当の父も同然でした。……それだけは本当です。だから今までありがとうございました。そして──……最後に一つ」
「私も師匠との生活は楽しかったですよ」
そう言ったソーリスの瞳は片目だけが煌々と紅く輝いていた。
そして彼は──撃った。
同じ刻。九川とアキは空から流星の如く柵屋川の肉の球体へと向かって急降下していた。
二人は一つの武器となる──まるで空から降り注ぐ槍のように柵屋川を目掛けていった。
「「はぁあああああああ!!!」」
「はっははははははは! この私は無敵、無敵、無敵ーーー!!」
柵屋川の周りにいた三本の人間触手達は足元からその数をどんどん足して増やしていき、背を伸ばせるところまで伸ばして向かいくる流星に挑んでいく。一本では足りないとふんだのか三本が重なり、太い巨大樹のようになって柵屋川の球体を守るように陣取った。
瞬間──ばしゃーんと水に大きなものが落ちたような音がした。
黒き流星は触手を突き破って進む。
「柵屋川ぁぁぁ!!」
叫ぶ九川とアキの目の前で真っ赤な花火が咲き乱れた。ばばばばばばと肉と骨と血が裂ける音と呼ぶにはあまりも軽い。
この直進だけで何十、何百という人間が死ぬ。ええ、ですからこそもうあなたは許しませんわ柵屋川。
左右に別つ人の生と死。その肉の壁の中で九川は人々の死を通り抜けていく。それは今までに彼女が殺してきた過去の人々の慟哭をも想起させる。
ケタケタと笑う柵屋川のあまりにも通り過ぎる声が耳に伝わる。千里眼を使うまでもない大声。
「できるものかっ。できるものか! 私は神に選ばれたのだぞぉ! ははははは!」
「その声……聞き飽きましたわ! 砕かれなさいな!!」
アキを絶対に傷つけないように術で守護している。
それ以外の全力をもって九川礼子は正面から最大の突貫を見せた。人柱の巨大樹が裂かれて砕け散り、その決着の時が遂に訪れた。
まずは大砲でも撃ったのかという程のズシンという地響きと辺りを震わせる地震が起きた。
周囲に突風を巻き起こす程の一撃だった。その彼女らの特攻を宇佐木達はよろけながら、まるで怪獣映画でも眺めるような気持ちで見ていた。
「当たったっ」
アンジェリンがその九川の一撃を見てそう声を発した。
「え」
宇佐木がアンジェリンに聞き返そうとしたところで、彼はとても妙なものを見た。
ひらひらと風に踊るように舞う妖精。──いや、違うあれは。
目の前をとてとてと歩いていく女の子がいたのだ。女の子と宇佐木が思ったのは長い茶色の髪にフリフリなスカートとなんだかやたらとヒラヒラがついた服を着ていたからだ。ドレスのような服だと彼は思った。宇佐木の脳内の辞書にはゴスロリという単語は存在しなかったが俗に言うそういうファッションであった。
「お、おいっ……! そっちは!」
宇佐木は思わず声をかけた。今やゾルゾルと剥がれていく真っ赤な人間柱と巻き上がる煙の方へとその女の子は向かおうとしていたからだ。
くるりと少女が振り向きキョトンとした目で宇佐木を見た。あまりにも場違いな程に少女は落ち着いていた。
そう、少女だった。年は十になるかどうかくらい。小学生と言われても納得するくらいの童女だった。茶色の髪に全体的に色素が薄いのか肌もとても白く、目も薄い茶色だった。黒と白のヒラヒラとした服を着て、手に何か持っている?
外国人?だろうか。どうしてこんな子がここに。宇佐木はすぐにその子の近くまで歩み寄る。
「ここは危険なんだお父さんやお母さんは……」
何を言っている俺は──こんな状況で──生きているかもわからないのに。
「お兄ちゃん。お兄ちゃんにだけ私が見えるみたいだね」
「なに?」
少女もそのまま宇佐木に近寄り目の前にまできて、背を伸ばして宇佐木の顔に自分の顔を近づけた。
「ねぇ。その目ではどんな色が見えているの?『コントラスター』のお兄ちゃん」
色──少女をその眼で捕捉──透明──こいつは!宇佐木はすぐさま右手のペインティングナイフを閃かせた。
「あは。ダメだよお兄ちゃん」
少女の声が先程まで少女がいたところから聞こえてきていた。目の前まで来ていたはず……!さっきと同じようにくるりと振り返り宇佐木を見ている。
宇佐木は自身の空を切ったナイフを見てから、諦めたように腕を下ろした。
「ダメだよお兄ちゃん。お兄ちゃんは絵を描く人なんでしょう? それをそんな使い方しちゃいけなーいんだ。くすくす」
くすりと少女は笑ってまた何事もなかったかのようにとことこと歩き出した。
「…………」
透明の色を纏う少女。彼女はロスト・カラーズであるのは間違いない。しかし、今は戦う気がないというのか?宇佐木は額にじわりとした汗をかいているのに気がついた。しかし、いつもの警笛のうなじは大人しいものだった。
アンジェリンも九川達の方を見ているままだ──俺にしか見えていない。さっき少女はそう言った。
「大丈夫だよ。今、私は別の仕事中だから。お兄ちゃん達と戦うのはもう少し先かな?」
そう言った少女の姿はまた少し離れたところにあった。
「…………っ」
歩いている姿をずっと見ていたはずなのに、気がつくと少女はかなり離れたところに移動している。なんだこれは。瞬間移動か──なにかか?
「あは。驚き過ぎだよお兄ちゃん」
宇佐木の顔の横にまた少女の顔がアップで迫っていた。今度はナイフが動かせずに、その代わりただ喉がごくりと動いた。
「お、お前は……何者だ?」
「私? 私は『エアー』。三番目の覚醒者だよ」
「覚醒……者?」
「うん。……まあ、勝手に覚醒した九川礼子をいれると四番目かな? でも神様は私を三番目って言ったから三番目でいいや。それじゃあねーお兄ちゃん。私やること結構多いんだぁ」
そう言って少女は宇佐木の目の前から消えた。本当に彼女が今までそこにいたのか、はたまた自分の気が狂ってしまったのか。宇佐木は少し自信が持てなかった。
「まったく……運がいいこと」
忌々しそうにそう言った九川礼子はその爆心の中心でアキを背負ったまま地面の上に浮遊していた。地面には降り立てない。そこは真っ赤な池ができていたからだ。
そして、彼女の右手には首を絞められて苦しそうに呻く柵屋川の姿があった。彼の着ていたカッターシャツは一部の隙もない程に真っ赤に染めあげられており、七三の髪もべっとりと血で濡れてぐちゃぐちゃだった。ネクタイは半分のところから千切れていた。
「ぐっ……う……デ……デッ」
「力は使わせませんわよ伊達男。このままあなたを殺せば……すべては闇の中。ですのでこのまま私が連れていきます。癪ですが判断はソーリス先生の機関にお任せしましょう」
九川礼子は辺りを見渡した。夜でも分かる。どこまでも続く血の池地獄。腕や足や人体の一部がそこかしこに散乱している。今まで少し止んでいた雪がまたぱらぱらとそこに降り始めた。その地獄の釜の蓋を開けたような光景にこの雪はあまりにも切ない程にミスマッチだった。
「その不愉快な力、二度と使わせてなりますか。あなたは今後一切、笑うことはできないと知りなさい」
そういえばあの銃を持っていたヤクザのような男が殴らせろと言っていたなと思い出した九川はニヤリと意地悪に笑みを作ってから柵屋川の耳元で囁くように言ってやる。
「引き渡す前に……リンチに合っても然るべきことはしましたわよね?」
「……っ! ぐっ……こっ、くさ……マ!」
えらく最低で低俗な罵倒を言おうとしているのが九川にはその眼で分かった。しかし敢えて「はぁ?」と耳に手をあてて聞こえないふりをしてやった。
──さて……皆さんはどうしているかしら?
千里眼で辺りの様子を探る。宇佐木先生やソーリス先生は無事。……満月さんは、あらあら重傷ですが大丈夫そうですわね。ソーリス先生も──あら、なんだか妙なことになってますわね。いつもの先生ですが……ああ、そういうこと。吸血鬼と一体化してますわね。
あとは──万事オッケーといったところかしら。九川は柵屋川を絞める右手以外の力を抜いて脱力した。
「ああ、疲れました。でも私達が勝った。勝ったのですわよね」
「うん。今回も負けちゃったねー。さすが私達の敵」
九川は耳元に聞こえた声に瞬時に反応してその左手で見えぬ速度で声の方を払った。人間の首を飛ばす程のその手刀はビュッと風を切るだけで何の手応えもなかった。
知覚できなかった──!九川は瞬時に全力で千里万里眼を展開する。
数秒前に現れたのは──女の子?私の左側面に、急にパッと現れている。まるでコマ落ちのような現象。
「こんばんは。お姉ちゃん。これ返してもらうね。こいつはまだ使うみたいだから」
そして九川は右手が軽くなっていることに気がついた。
──な!?
目の前で風のように舞う少女が柵屋川の腰のベルトを掴んでまるで彼をカバンでも持つかのように手にぶら下げていた。
「ごっ……がっ……な、なんだ? どうなってる?」
突然、首の絞めから解放された柵屋川は錯乱して言う。少女に買い物バッグみたいに持たれているなどとは思うまい。
「返しなさい。悪い子。人のものをとってはいけないのよ? 親に教わらなかったの?」
「さあ? お母さんもお父さんもいなかったから。それにこれはあなたのじゃないでしょう? 神様のものだもの。──それじゃあね。今度、戦う時は本気で殺し合おうねっ。お姉ちゃんっ」
弾むような声で少女は言い、まるで軽い別れの挨拶とでもいうように手をあげた次の瞬間──風に掻き消されたとでもいうようにその存在自体が消え失せていた。
「…………」
九川はどこか無駄とは分かりつつ少女のいた痕跡から千里眼で見える範囲の全ての事象を見ていく。やはり、この街にはもういないわね。
あまりにも突然のことだった。柵屋川は新たな敵に連れ去られた。
「く、九川さん……一体……なにが?」
「ああ、アキ。ごめんなさい。……悪い奴に逃げられましたわ。……悪い奴に……」
足元の死体のほとんどは自分がすり潰したものだ。悪い?悪とはなんだ──私は悪。今の彼女達はなんだというの?一体、なにが……したいの?私も奴らも──。
私はなんのために戦って──。
ぎゅうっとまたアキは九川のその背に抱きついて顔を埋めた。そして離れると九川の頭を後ろから撫でてやった。
「お疲れ様……九川さん。たくさん……たくさん頑張ったね。よしよし……」
「──」
こうやって私はいつも彼女の温かい手に癒されている。
私には彼女が必要なのだ。だから……戦っている?
そうだ。最初はただアキのために戦っていた。
でも……今は違う。
アキを取り巻く私達の楽しい生活を守る為に戦っているのだ。
「そうよ……そうよね」
「九川さん?」
どれか一つ。その中のたった一つでも欠けてはダメなんだ。
宇佐木先生もソーリス先生も満月さんもクラスメイトも私達が暮らすこの街の人々も、なによりアキがその中心にいることが私には重要で──。
九川は辺りの多くの人達の亡骸に目をやる。
……私は街の人を守れなかった。きっとこの亡骸達の中にはクラスメイトもいるだろう。だからこそ今半身をもがれたよう苦しくて悲しくて……私の目的はアキ一人を守ることから、いつの間にかアキとのこの世界を守ることへと変わっていたのだ。
やっとそれが解った。
ああ──そうね。せっかくだわ。もうここまできたのだもの。
この世界の私の眼の届く範囲。
その全てが私には必要で
かけがいのないものなのだから。
「世界を救いましょうアキちゃん」
九川礼子はいつの間にか雲から覗いて顔を見せていた満月を眺めて──
そう誓いをたてた──。
ソーリスはガラスが完全に無くなっていた窓枠のあったところから、なんの躊躇いも無く夜空の闇へと身を投じていた。
大好きな彼に、あのくしゃくしゃと、わしゃわしゃとしたくなる金髪の彼に会うために。
おかしなことに高層階から飛び降りたというのに微塵も恐怖を感じなかった。
問題ない。なぜなら──。
空は飛べると思えば飛べるのだ。
吸血鬼ハーティがしてみせたように彼は一気に夜空を滑空していった。
「宇佐木っ!!」
もう思わず名前なんて呼んだりしてしまう。どれだけ私は彼に会いたいのだろう。
早く彼の無事を確認して、いつものように笑いあって、いつものように馬鹿をやって──。
そんな当たり前な日常を失いたくなくてソーリスは叫んだ。
「宇佐木ぃぃ!」
そうしなければ……もう彼がどこかへ行ってしまいそうで。
永遠で無くとも、それでも──私はもっと彼と一緒にいたい。
木漏れ日の束の間の暖かさであったとしても。
「……あーあ。嬉しそうに行きやがって」
そう言った鳥羽満月もどこか顔を綻ばせて夜空を駆けていくソーリスの背を遠い目をして眺めていた。そして彼は「なあ?」と隣にいる男に声をかけた。
「あいつは……俺と同じじゃないのか……」
風穴の空いた胸を抑えながらイースは心配そうにそれを見ていた。人間の姿へと戻った彼は上半身裸だったが下は辛うじて残っていた。
「同じさ。同じなんだよお前らは。……ただ、奴は限りある時間を大切にしようと足掻いている。……永遠にしようなんて思っちゃいない」
「…………」
結局──ソーリスはイースを撃たなかった。
ただあらぬ方向に一発撃ってから無言で銃を下げ、その大きな黒い背中に向けてこう言った。
「父さん。もう帰りましょう」
それだけ言ってその背に顔を埋めた。
ただそれだけのことだった。
鳥羽満月とイースは二人で小さくなっていくソーリスの背を見ながら言葉を交わした。
「……なあイース。本当ならお前はここで撃たれていた。……つまり拾った命だ。……もう死ぬのは怖くねぇだろ?」
そう言った鳥羽満月の言葉に「馬鹿か……怖ぇよ……」と脱力したイースはそれでもどこかおかしくて笑った。ははははと笑うと涙が滲んできて空いた胸の穴が軋んだがそれでもイースは笑った。
その様子に満月はどこか安心して言う。
「その胸の傷は自分で治療するな。俺の知り合いに俺より怪我を治すのが上手い子がいるからな。そいつに治してもらえれば幾分か寿命も大丈夫だろ?」
「……優しくするな満月。俺はお前達の仲間にはなれねぇ。……この世が辛い。辛ぇんだ。だから永遠を求めた。すべての人間の命さえどうなってもいいと思う程にな。ああ、今でも思っている」
「怖いことも辛いこともこの世には多いからな……。仕方ないさ。だが──楽しいこともあるだろ? 少なくとも俺らといる間は退屈させないぜ? なあ……俺らと来いよイース。永遠の命はやれないが……納得して死ねるようにはしてやれる」
「……満月まだ分からねぇよ俺には……でも、ああ……少しだけ分かり始めた気がする。……なんだったかな? さっきお前のとこのゴーストが言ってたアレ。雨でもなんたらって……つまりはそういうことなんだろ?」
「ああ、そうだ」
満月はすぅと息を吸って夜空に浮かぶ自分と同じ名をした黄金のそれに手をかざした。
木漏れ日は雨に陰るかもしれない。
だけど──。
雨が降っても歌を唄えば楽しいさ。
また光射すその時まで。
***********************
── 木漏れ日は暖まるには弱過ぎる──
Rain ballad
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