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最終話 神が授けた者

Episode5

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 あの事件から一か月。
 マリアが眠ってから一か月が経過していた。
「マリア先生、今日は雨なんですよ~嫌な天気ですよね。早く起きないともう冬になっちゃいますよ……?」
 暁人は彼女を研究所兼自宅に連れ帰っていた。
 彼女の目が覚めるまで自分が付きっきりで看病するからと、医師の反対を振り切って連れ帰ったのだ。
 病院だと、どうしても刺激が少ない。いつもの場所で、いつものように……がマリアにとって最善の方法だと、暁人は判断した。
「青井刑事……その……髪を梳かすの、僕が変わります」
 半ば強制に、暁人の手からブラシを奪い取り、眠ったままのマリアの髪を梳かす結城。
「俺だってできるだろこれくらい!」
「青井さんは下手なんですもん!さっきから髪が引っ張られてて、さすがにマリア先生がかわいそうですって!」
「な……!俺だってな、練習してんだよ!髪を梳かすのもだけど、洗ったり、髪を結ったりさ!」
「僕は練習なんてしなくてもこれくらい簡単ですよ!鑑識はね、手先が器用じゃないとできない仕事なんです!」
「これと鑑識は関係ないだろ!」
「あります!それに、マリア先生は髪を結ったりしませんから!これだけ一緒にいて、しかもマリア先生のことが好きなくせにそんなことも分からないんですか?」
 二人がマリアの枕元で言い合いする。
「結城も先輩もうるさいですって。マリア先生に悪いと思わないんですか?いくら意識がないとはいえ、こちらの話していることくらい、わかるんですよ?」
 春日部がフライパン片手に二人を諫めた。
「マリアはこの状況見たら……なんていうんだろうな……」
 皿に盛られた料理を並べながら、黒田がつぶやく。
「“お前ら何してんだ”が第一声だと思いますよ」
 暁人が返す。
「いや、“ありがとう”じゃないですか?」
 春日部がそう言うが、「違いますね!マリア先生だから、“うるさい”って起きそうですよ」と結城も返す。
「案外、お腹空いた。メシくれっていいそうだ」
 黒田がそう言う。
 
 マリアがここに戻ってきて三日目の朝、暁人が一人で世話をしているところに黒田がやってきた。
「私にも……」
 それしか言葉は出なかったが、彼の言いたいことは分かる。
 暁人は了承したのだ。
 それから日が経つにつれ、春日部も結城も、いつの間にかここに全員が集まり、大人五人で生活していた。
 それぞれが、マリアの回復を願っている。

「それはそうと……、どうしますか?」
 春日部がそう尋ねる。
 あの資料、それはに関するものだった。
「あの研究所は完全閉鎖して、あそこには僕が遠隔でロックを掛けています。プログラムもソフトも、研究資料も、マリア先生に繋がりそうなものはとりあえず僕が持ってるので、誰の手に渡ることも目に触れることもありません」
 結城を現場主任鑑識官として捜査した際、彼は全ての機械を停止させ、遠隔ロックを掛けていた。
 これ以上なにも起こさせないと、研究資料や実験のすべてを自分が持ち帰り、管理している。
「すべてはマリア先生が起きてから……と思っていたら、もう一か月か……」
 暁人はいまだに眠り続けるマリアを見つめる。彼のその目はマリアを凝視していた。
「先輩……見過ぎですよ……どんだけ好きなんですか!」
 春日部がそう言うと、彼は持っていたグラスを落とした。
「しかも動揺してる……」
 彼が暁人を茶化そうとした瞬間、暁人はその場に立ち、マリアを指さした。
「……起きた……目が開いてる……!」
 暁人のその一言で、黒田らはマリアに釘付けになった。
「マリア……」
「マリア先生!」
 暁人は彼女に近寄り、そっと体を起こした。優しく抱きかかえ、声を掛ける。
「先生、分かりますか?」
 マリアの瞳は、虚空を見つめる。
 やはり、無理なのか……そう一同が落胆した時、かすかに声が聞こえた。
「……意識がなくても……全部聞こえて……いるっての……本当……だったな……いい実験になった……」
 言葉を発し、微笑み、宙を彷徨っていた目が暁人をしっかり見つめた。
「先生……おかえりなさい……」
 暁人は思わず、マリアを胸に抱きしめた。
「……暁人……お腹減った……」
 彼女はそう呟いた。



「何でお粥……?」
「先生は一か月も意識なくてずっと何も食べてないんですよ?いきなり俺たちと同じご飯なんて食べたら、胃がびっくりするでしょ」
 春日部はマリアの前にお粥を置きながら、そう言った。当の本人は不服そうな顔でスプーンを手にする。
「米粒がない……」
「ありますよ。でも、少量ずつから行きましょうね」
「梅は?」
「だめです」
「海苔は?」
「もっとだめです」
 二人の掛け合いを微笑みながら見ている暁人。
「マリア先生の文句が聞けて嬉しいとはな……目が覚めてよかったよ……」
「本当はあそこに混じりたいんでしょ?」
 結城がそう言うと、「一番そう思ってるのは黒田さんだよ」と暁人は部屋から出ていく黒田の姿をじっと見ていた。
「隠していたこと、気にしてるんでしょうね……」
「タイミング見て、マリア先生と話せる場を設けるよ。あの二人に俺ができるのはそれくらいだから」
「それにしても……また喋ってるマリア先生を見ることができて本当に最高ですよ」
 結城は感慨深げに話す。
 それは暁人も同じだった。



「入りますね……」
 暁人はマリアを連れて、IHS六階の給湯室前に立っていた。
「黒田さん、マリア先生が話したいことがあるそうです。お二人で少し話されては……」
 声を掛けるが、扉を開けていいのか分からない雰囲気が漂う。
 ドアノブに手を掛けようと腕を伸ばしたとき、「開けるからな」とマリアが勢いよく扉を開けた。
「ゴリラ……小さくなったか?」
 マリアは今までと変わりない言葉を掛ける。
「私はゴリラに隠されていたことなんて何も気にしてない。というか、この件にゴリラは関わってないでしょ。この仕事に就けるようにしてくれたのも、ここを警視庁と連携させてくれのも、私が一人で研究できるようにしてくれたのも、全部ゴリラが助けてくれたからだ。私は、ゴリラのことを父親のように思ってる。それは今も変わらないしこれから先、変わることもない。だからさ……」 
 マリアは案外、大人だった。
 暁人は給湯室から研究室に戻り、不安そうに自分を見つめる結城らに「大丈夫だ。俺らが気にするほどじゃなかったかもな。マリア先生は強かったんだ」と答える。
 その言葉が何を意味しているのか分かった彼らは、安堵の表情を浮かべた。
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