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またもリッチな夜でした

その12

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 ここが胸突き八丁踏ん張り所だ、と巽泰彦は笑顔の裏で自分を奮い立たせた。
 市立病院の東棟、五階に設けられた無菌室クリーンルームでの事である。
 窓の外は星の見えない夜空が一面を覆っていた。元々が高所に建てられた病院の、更に上層階となっては街の灯りもわずかしか望めない。
 壁と天井に設置された大型の空気清浄機が、低い駆動音を絶えず発散させ続けていた。部屋の間取り自体は他の個室と変わるものではないのだが、空気清浄機を始めここに入室する患者専用のシャワー室やトイレも完備している為、室内は他所よりも狭く感じられた。
 大人が三四人も詰め掛ければたちまち窮屈となりそうな室内には、この時三つの人影が在った。
 その内の一つ、椅子に腰掛けた巽は、部屋の隅に置かれたベッドへと目を向けた。今は開かれているが、窓辺に置かれたベッドの周囲はビニールのカーテンで覆われている。穏やかながらもきっぱりと外界を隔てる透明な覆いの向こうに、巽の受け持つ患者は座っていた。
「それで美里みさとちゃん、体はどんな具合だい?」
 にこやかに訊ねた巽の見つめる先で、ベッド上から屈託の無い声が返って来る。
「お腹空いた!」
「ああ……」
 間を空けず遣された屈託の無い回答に、巽は笑顔でうなずいて見せた。
 彼の目の前でベッドに座るのは、今年で八歳となる少女であった。
 名前を露崎美里つゆざきみさと
 パジャマに覆われた体型は全体的に丸みを帯び、如何にも年相応と言った様子だが、外見的には只一つ他の子供とは大きく異なる点がある。
 その少女には頭髪が無かった。
 本来ならば子供らしいつややかな毛髪の覆っているだろう頭頂部は、今は頭皮が剥き出しとなっている。側頭部と後頭部にのみ産毛のような薄い毛髪が辛うじてわずかに残っており、左右の耳の輪郭もほぼ剥き出しである。
 年端も行かぬ子供のこんな姿を瞳に映す度、巽は胃を締め付けられるような錯覚に囚われる。
 それが必要な処置の結果であると判ってはいても。
 巽は、内心の戸惑いを無理矢理押し殺して笑顔をのぞかせた。
「育ち盛りだものね。でも調子に乗って食べ過ぎるのも感心しないよ。退院する時には、ボールみたいな体型になっちゃうよ。折角友達にも会えるのに、そんなんじゃ締まらないじゃないか」
 実際、食欲の増大はステロイド剤の副作用の一つである。内心でどきりとしつつ、巽は努めて悠然と問いを重ねる。
「他に何か気になる所はあるかい?」
 問われて、ベッドに座った美里はわずかに顔色を暗くした。
「……夕ご飯の後ぐらいから目が痛くなった」
 巽の後ろに立った壮年の女性看護師が、腰を曲げて主治医へと囁く。
「……緑内障の症状かも知れません」
「……そうですね。翌朝一番に眼科検診を入れて下さい。念の為、血糖値の再検査も」
 後ろの看護師に耳打ちを返した後、巽は眼鏡を直すと再び美里へ呼び掛ける。
「判ったよ。そっちは先生達の方で何とかしよう。他にはどうだい? 何か気になる事はあるかな?」
 促された少女は、自分の右肩の辺りへ目を落とした。
「……やっぱり、これ何だかムズムズする」
 相手がパジャマの胸元を透かして何を見ようとしているか、巽にもすぐに察しは付いた。
「うん。前にも言ったけど、それはね、美里ちゃんの体に、体の中の悪い細胞をやっつける為の薬を入れる大事な管なんだ。ムズムズするのは判るけど触っちゃいけないよ。バイキンが入っちゃうからね」
 巽は少し口調を強めて念を押した。
 実際、こんな子供が中心静脈カテーテルの基部ポートなどを鎖骨下静脈に埋め込まれて、いつまでも涼しい顔をし続けられる道理も無いだろう。順序立てて説明すれば一応の納得はのぞかせる大人とは違い、子供に治療の是を説くのは難儀極まるのである。
 それでも、巽はくまで物腰柔らかに訴える。
「大丈夫だよ。美里ちゃんは毎日きちんと薬を打って貰ってるし、それをずっと我慢出来てるじゃないか。もう少ししたらそのムズムズする物も取ってあげられるよ。いつかはちゃんと外してあげられる。だからもうちょっと頑張ろう」
「でも……」
 病床の少女が何かを言い掛けたその時、巽と看護師の背後で無菌室クリーンルームを仕切る扉が開いた。
 それと共に妙に軽い声が室内に入り込む。
「失礼。診療中お邪魔しますよ、先生」
 痩身の影が、無菌室クリーンルームを照らす白い照明に露わとなる。椅子に座ったまま肩越しに振り返った巽のいぶかる先で、リウドルフは特に悪びれもせず問診の最中に闖入した。
「あんたは……」
 巽がいぶかりと苛立ちを双眸そうぼうに乗せた先で、リウドルフは緑色の術衣スクラブに包まれた肩をすくめて見せる。
「御心配無く。全身の消毒は念入りに済ませてあります。今更蝿もたからない。どうぞそのまま問診を続行して下さい」
 そう言うとリウドルフは巽から視線を外し、ベッドに腰掛ける美里を見つめた。
 距離にして、二メートルも離れた場所からであっただろうか。作り物の碧い双眸そうぼうが、少女の丸い双眸そうぼうと重なり合う。
 互いの眼光が何を語り合った訳でもなかった。
 しかるに次の瞬間、ベッドの少女は後ろへと身を縮め、怯えた表情をにわかに浮かべたのであった。何処からともなく風に吹き流されて来た雲に、日差しがふとさえぎられた時のように。
 少女の変容とその原因に気付いて、巽は鋭い視線を背後へと向ける。
 その先で、リウドルフは眼差しを他所へと逸らしていた。
「……やはり何処の子供も勘は鋭いか。本能的に危険を察するのかな……」
 淡白に呟いたリウドルフを巽はしばし睨み上げていたが、ややあって声を絞り出すようにして指示を遣す。
「……観察が目的なら止めはしませんが、患者から見えない位置にいて下さい。あんなに警戒されたのでは、こちらの診療にも影響が及ぶ」
了解、Verstanden,血液学者殿der Hämatologe
 細い肩を今一度すくめて、リウドルフは出入口横のトイレの辺りまで下がった。
 それを確認した後、巽はまた美里へと顔を戻した。
「ああ大丈夫。あのおじさんも先生だよ。無暗に怖がる必要は無い」
 巽が笑顔で説明する前で、だが美里はすぐには警戒を解かなかった。
 子供の丸い瞳に浮かんでいたのは紛れも無い恐怖であり、強い拒絶の表れでもあった。
「……怖い……」
 壁の方へと背を寄せて、ベッド上の少女はぽつりと呟いた。
 その斜交い、美里からは見えないトイレの陰に位置する場所で、リウドルフは顎先に手を当てる。
「……あるいは命を瀬戸際に置いているからこそ、か……」
 星の見えない夜の闇をめ込んだ窓ガラスに、水滴がぴたりと貼り付いた。
 今夜もまた雨が降り始めた。

 結局それ以上の問診はあまりはかどらず、巽は不機嫌そのものの面持ちで無菌室クリーンルームを後にした。
 そして通路へと出た巽の真横に、忌々しい闖入者は平然と立っていたのであった。
 リウドルフはタブレット端末を片手に、無菌室クリーンルームの出入口のすぐ隣に立って壁に何やら指をわせている最中であった。まるで曇った窓ガラスに落書きでもするかのように、細い指先をベージュの壁面へ滑らせて行く。
 そこへ巽は少々大袈裟に咳払いを差し込んだ。
 リウドルフもそれに気付いて、あるいは初めから相手に気付いていてか、顔を左へと向けたのだった。
「診療は終わりましたか?」
「お陰様で。あれから患者もすっかり怯えてしまって進退きわまりましたよ」
「それは失礼。どうも子供に好かれる才能だけは持ち合わせていないようだ」
 巽の苦言にリウドルフは平淡に詫びた。
 そうして二人の医師は無菌室クリーンルームの連なる通路上で向かい合った。
 相手の痩せこけた顔へと、巽は親しみのまるでこもっていない眼差しを眼鏡越しに浴びせる。
「……それで、一体どういう風の吹き回しでこんな所まで出張って来たんですか?」
「いや何、幸いにも手持ち無沙汰なものでね」
 リウドルフは目を横へと逸らしつつ、とぼけた声で答えた。
「例の食道癌の患者もその後の容体は安定して来たようだし、何か他所で御手伝い出来る事でもあればなぁ、と各病棟を夜な夜な徘徊している次第で」
「生憎こっちの人手は足りてますよ」
 先方のしな垂れ掛かるような言葉を、巽はばっさりと切り捨てた。
 しかるにそんな彼の面前で、リウドルフは気にした素振りも垣間見せずに手にしたタブレット端末を持ち上げると、液晶画面へと視線をわせ始めたのだった。
「ここの患者、露崎美里さんと言ったかな。小児白血病を発症して半年前に入院と……ふむ、急性リンパ性白血病の方か。寛解かんかい(※白血病治療にける初期の小康状態の事)に至るまでは問題無し。しかし中間リスク群(※標準よりも強い治療薬が必要な状態)に該当。現在は強化化学療法の真っ最中と。持久戦だな」
 手元のタブレット端末に表示された情報をそこまで読み上げてから、リウドルフはやおら顔を上げ、目の前に立つ若手医師を改めて見つめた。
「……そしてその主治医に抜擢されたのが、この巽泰彦医師と言う訳だ。選出されるに当たって院長の推薦があったのかね?」
「……それが何か?」
 苦手とする料理が粛然と食膳に上った来た時のようなむずかゆい表情を浮かべて、巽は言葉を返した。
 リウドルフはタブレット端末を降ろすと、億劫そうに後ろ頭をいた。
「この国では『狸親父』と言うんだったかな、ああいう手合いは? 実際、あの爺さんも相当な曲者だよ。食えない奴って奴だ。バーゼル大にも昔あんなのが何人かいたが……」
 ぼやきじみた呟きを漏らした後、リウドルフは巽を真っ向から見据えた。
「詰まる所、これが君が現場の医師として一人前と認められるかどうかの試金石と言う訳だ。難病の患者を見事完治出来るかどうか、院長が直々に試験として君を宛がったんだろう? 何処の職場でも見掛ける洗礼、新人の時期を過ぎて最初に立ち向かう大きな関門だ。こいつは本当に使える奴なのかと疑ってる周囲に、きちんと結果を示してやらにゃあならんものな。以後の信用を勝ち取る為に」
 いけ好かない相手に正面からずけずけと宣告を遣された途端、巽は頬を大きく引きらせた。
「そんな事、あんたなんかに言われなくても判ってますよ! 院長が決定を下した時から、周りからの視線で察せられますよ、そんな事は!」
 歯軋はぎしりせんばかりの勢いで、実際、眼鏡を少しずり落としながら巽は言い募る。
「こっちだって度重なる講義に研修と、必要充分な下地は整えて来た積もりだ。いつかこんな風に、背中を押されて放り出される時が来るんだろうとも思ってた。だからこうして、連日連夜頭の中を一杯にして一生懸命対処してるんだ! 患者の為にも、自分の為にも!」
 何の裏返しか、口角泡を飛ばして捲し立てた相手を、だがリウドルフは終始冷ややかに見つめた。
「しかしその様子では不安の方が大分先立っているようだな。普段から愚痴をこぼす相手もいないのかね?」
 傍観者の遣した冷めた指摘に、巽も勢いを収めて反駁はんばくする。
「……責任者がおいそれと弱みをのぞかせる訳にも行かないでしょうが……」
「そりゃそうだ」
 やはりとぼけた調子で首肯しゅこうするリウドルフを、巽は忌々しげに見つめた。
 当直医を呼び出す院内放送が、無人の廊下の奥まで反響して行った。
 しかる後、巽は一つ息をついて口を開く。
「こちらも人伝ひとづてではありますが御高名はわずかばかり拝聴させて頂きましたよ、クリスタラー先生。何でも、『世界医師会』Aの評議員の一人でいらっしゃるとか、『国際医学団体協議会』Sの重鎮でもあらせられるとか……」
「いいや、只の医療従事者の一人だよ。君と同じくね」
 照れる素振りも威張る気配も微塵ものぞかせずに、リウドルフは言葉を返した。
「だからこそ、ここにこうして立っている訳で」
 変に謙遜してるのではなく本当に自然体に応答しているだけの相手へ、巽は責めるともひがむとも付かぬ眼差しを送った。
 たたずむ両者のずっと前方で、呼び出しを受けたらしき医師の一人が、廊下を急ぎ足に横切って行った。
 二呼吸程の間を空けて、巽は言葉を続ける。
「その上、戦地での活動経験まであるとも聞きました。『国境なき医師団』に参加した事のある先輩が、あなたと良く似た風貌の人物をアレッポで何度か見掛けたそうですよ。極限状況下でも冷静な処置を続けられる凄腕の外科医だったと。さぞや貴重な経験を積まれていらっしゃるんでしょう。うらやましい限りです」
「いや、うらやむ事など何も無い」
 リウドルフは今度は即答した。
「戦地での経験なんて重ねている方がおかしい。戦争なんて体験している方が異常なんだ、本来ならば。君も誰も、戦場なんてわざわざ知る必要は無い。知らないまま人生を全うするのが人として当たり前の生き方だ。全ての人間にとって当たり前となるべきなんだ」
 その双眸そうぼうから、作り物の瞳の奥から、蒼い光がかすかににじみ出ていた。
「でも……」
 相手の主張に、巽は何故か焦るように食い下がった。
「……でも、すでに華々しいキャリアをいくつもお持ちなんでしょう? 大雑把に聞いただけでも、私なんかには想像も及ばない。今更こうしておん自ら現場に出向かれずともよろしいんじゃないですか?」
 顎を引きわずかに上目遣いになって、巽はリウドルフを見つめていた。その眼差しには内に疎むともひがむとも付かぬ感情が含まれ、刺すように、と言うよりはむしろ粘り付くように相手の面皮に注がれるのだった。
 何処かすがるような態度を、しかし確たる響きを宿した声が払い除ける。
「医師の値打ちは肩書や論文の数で決まるのではない。現実に苦しんでいる患者を現実に救えるか否か。ただそれだけだ」
 ベージュの床に、それまでよりも明確なものとなった声がね返った。
「まして場数が足りないと思い悩むのであればいくらでも積み重ねて行けばいい。それは君にも判っているだろう」
 皮肉や叱責とは異なる、強くも澄んだ声調によって織り成された言葉であった。
 あるいは、それは他者に向けられたものではなかったのやも知れぬ。
 今度はすぐには何も切り返せず、巽はリウドルフの視線を真正面から受け止める。
 リウドルフもまた、目前にたたずむ若い医師を静かに凝視していた。
 夜の無菌病棟を伸びる通路に他に通り掛かる関係者の姿は無く、相対する両者の頭上では大型の空気清浄機が無味乾燥な駆動音を漏らすのみである。
 光と影。
 若と老。
 現在と過去。
 相反する二人の医師は、ベージュの覆う空間の中でしばし互いの有様を瞳に映し続けたのであった。
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