幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

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またもリッチな夜でした

その16

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 それからおよそ六時間後、巽泰彦は無菌病棟の出入口を慌ただしくくぐった。
 入口脇で手指の消毒を済ませた後、巽は乱れた術衣スクラブを整える。慌ただしく足を運ぶ彼の下へ、スタッフステーションから壮年の女性看護師が歩み出て、程無くして隣を歩いた。
「退勤後に御呼び立てして済みません……」
「構いません。患者の容体は?」
 詫びる看護師へ、巽は足取りと同様の急いた口調で訊ねた。
 彼と同じく、緑色の術衣スクラブに青いマスクを付けた看護師は、眉間を緩やかに歪ませる。
「四十分程前に、腕に発疹が現れました。その後、急に具合が悪くなったようで、夕食も全部吐き戻してしまって……」
「アナフィラキシー反応と副作用が同時に現れたのか……」
 マスクの内で唇をかんで、巽も目元を険しくした。
 急ぎ足で病室に向かう彼へと、看護師は報告を続ける。
「三十分程前に、椎田しいた先生が応急処置に向かいました。今もまだ病室にいると思います」
「判りました」
 足取りと共に早くなる鼓動の中で、巽は大きくうなずいた。
 通路の天井や壁に点々と設置された空気清浄機が、不平を漏らすように低い稼働音を立て続けた。
 間も無く、彼と女性看護師は目的の病室の前に辿り着く。『露崎美里様』とネームプレートが掲げられた、いつもの病室の前に。
「患者の容体は!? 状況はどんな具合ですか!?」
 目の前の無菌室クリーンルームの扉を開くなり、巽は揺らいだ声を上げていた。
 彼の不安に反して室内は実に静かであった。
 廊下と同じく、空気清浄機の稼働音が鳴り続ける中、室内にはすでに数人の姿が認められた。部屋の奥に置かれたベッドを囲うようにして、三人の男が室内に立っていた。
 一人は当直担当の若い男性看護師。巽も良く知る、今村と言う男である。
 もう一人は小柄で頭髪を丁寧に整えた、紳士然とした中年の男性医師。巽の先輩筋に当たる内科医、椎田である。
 そして更にもう一人。
 他の二人よりも患者のベッドの近くに立ち、今もその容体を見定めているのは、巽も否応無しに知っているあの細身の男であった。他と同じく緑色の術衣スクラブまとったリウドルフは、ベッドのかたわらから患者の様子を見下ろしていた。
「あんたまで……」
 思わず呟いた巽は、だが、この場を訪れた目的をすぐに思い出し、自分の受け持つ患者のそばへと駆け寄った。
「美里ちゃんは……!」
「今の所、問題は無い。十分前に眠った所だ」
 椎田が横合いから説明するのを聞きながら、それでも巽は少女の容体をじかに確認しようとする。
 果たして椎田の言葉通り、美里はベッドの枕に頭を埋めて静かに寝息を立てていた。
 しかしその様子を見るなり、巽は表情をにわかに強張らせる。
 両のまぶたを閉ざした少女の顔や耳、及び首筋には何本ものはりが打ち込まれていたのであった。ブランケットの端からのぞく両手首や両足首にも、同様のはりが刺さっている。通常の内科の処置でない事は一目瞭然であった。
 巽は咄嗟とっさに、あるいはほとんど発作的に、自分の隣に立つリウドルフの襟元を掴んでいた。
「人の患者に何を……!」
「おい、巽……!」
 後ろから椎田が後輩を慌てて窘めたが、胸倉むなぐらを捕まれたリウドルフは至って涼しい表情で、息巻く主治医へ説明する。
「アドレナリンの注射だけでは心許こころもとなかったのでね、周囲の了解を得た上で力添えをさせて貰った。勿論もちろん、使用したはりは充分に滅菌した物だし、出血を引き起こさないよう最大限の注意を払った積もりだ」
 言いながら、リウドルフは今もベッドで眠る美里を向かい立つ巽の肩越しに見遣る。
「内分泌系の鎮静化と恒常化に作用するツボを刺激した。まあ普段だったら大泣きされただろうが、彼女の方も随分と消耗した様子だったから、この場合は怪我の功名と言う所かな」
「ええ。実際見事な手並でしたよ。正直最初は半信半疑でしたが、こうして患者もすぐに落ち着いたのだし、貴方が通り掛かってくれて良かった」
 リウドルフの説明の後を引き継いで、椎田が賞賛の言葉を送った。
 しかる後、椎田は目の前の担当医へ改めて目を向ける。
「と言う訳だ、巽。いつまでも泡を食っとらんと、まずは挨拶の一つもせんか!」
 叱咤されてようやく、巽はリウドルフの胸元から両手をするするとほどいた。そしてそのまま、彼は心底脱力した様子でよろよろと後退あとずさりする。
 リウドルフは術衣スクラブの襟元を直しつつ、同室していた今村と椎田に呼び掛ける。
「このまま十分程度の経過観察を続けた後に抜針します。念の為、鎮静剤を用意しておいた方がいいでしょう。その後に変化が認められなかった場合、以後の引継ぎはそちらで」
「判りました」
よろしいでしょう」
 今村と椎田がそれぞれに首肯しゅこうする横で、巽だけが一人憔悴しょうすいした面持ちを浮かべていたのであった。
 そんな彼の横手で、難病の少女は穏やかに眠り続ける。
 壁際の空気清浄機だけが、我関せずの体で低い稼働音を吐き出し続けていた。

 それから三十分余りも過ぎた頃、巽は無菌病棟内のスタッフステーションのかたわらに置かれたベンチに腰掛けていた。
 背筋を曲げて前屈みとなった姿勢で、巽は両膝の上で両手を組んで静かに眉根を寄せていた。
 壁に掛けられた時計が、静かに秒針を進ませる。
 時刻は夜の十時近く。病棟内も当直の医師や看護師がたまに往来するだけであり、辺りは至って平穏であった。静寂の内に粛々と過ぎて行く時の中で、一人浮かない表情を浮かべていた巽の横に、その時、影が差した。
 ベンチの横に、リウドルフが立っていた。
 その手に、缶コーヒーを持って。
「落ち着いたかね?」
 言いながら、リウドルフは缶コーヒーを巽へと差し出した。
「……どうも、先程は失礼しました……」
 巽は詫びを入れつつ、差し入れを受け取る。
 その横で、リウドルフはベンチの脇に立ったまま、自分の缶コーヒーを開けた。
「何、気にする事はない。患者の容体が急変すれば気が動転するのが当たり前だからな。澄ましづらしていられる奴の方が余程問題だ。焦り過ぎるのも良くないが」
 そう言って、リウドルフは缶コーヒーを一口あおると、もう片方の手に持ったタブレット端末を顔の前まで持ち上げた。
「……私見だが、あの患者はシタラビンとの相性が良くないのかも知れん。プレドニゾロンの反応性は良好。L-アスパラギナーゼにしても、少なくとも寛解かんかい導入中に問題は起こらなかった。となると比較的最近に点滴投与された薬に絞られて来る訳だから……」
 タブレット端末に表示された情報を淡々と読み上げる横で、巽は缶コーヒーを両手に持ったまま、力無く苦笑を浮かべた。
「何でも御見通しと言う訳ですか……」
「いや、昔から文面を見るとまずケチを付けたくなる性分でね。こればかりは死んでも治らん」
 他人事のように評すると、リウドルフはスタッフステーションの前を伸びる通路の奥へ、今しがた自分が後にした病室の方へと首を巡らせた。
「実際、あの子も良く頑張ってる方じゃないか? 白血病の治療は長丁場になるのが常とは言え、今日まで大した問題も無かったようだ」
「……ええ、いい子ですよ」
 ベンチに腰掛けたまま項垂れ気味に、それでも巽はうなずいた。
「院内学級にも積極的に参加してますし、髄注ずいちゅう(※中枢神経系を白血病細胞の浸潤から護る為、脊髄内に抗癌剤を直接注入する治療法)のような大掛かりな処置にも前向きに応じてくれています。早く完治して、また学校へ戻りたいんでしょう」
 巽がうつむき加減のまま、眼鏡の奥で目を細めた。
「……強い子だ」
「ならば尚の事、我々もそれに応えなければならん」
 リウドルフが口調に少し力を込めた隣で、巽は肩を落とした。
「無論そうですが、さっきみたいな事が起こると、どうにもね……」
 そして黙り込んだ若手を、前世紀からの先達は目端から眺め遣った。
「治療が成功すれば投与した薬のお陰で、失敗すれば処方した医師の責任……内科医のつらい所だな」
 しんみりと言って、リウドルフは缶コーヒーを再びあおった。
「いや、何も内科に限った話じゃない。あれこれと色々な器具や医療機器が開発されて行く中で様々な処置を行なっていると、俺も道具に体良く扱われているだけなんじゃないかと思う時が度々ある」
 それまでよりも物憂げな、あるいは寂しげな声を漏らした相手を、巽は首をむっくりと持ち上げて仰ぎ見た。
 リウドルフは缶コーヒーを飲み干した後、ベンチから自分を見上げる巽の隣へとおもむろに腰を下ろしたのだった。
「ロボットを用いた遠隔手術、オンライン手術なんて、俺からすれば丸っきり魔法みたいな真似がまかり通り始めているのが最先端の現状だ。しかすると、あと二十年も経たない内に完全な自動化が為されて、『医師』と言う職種自体が絶滅危惧種と化すのかも知れん。看護師と各種機器のオペレーターだけが院内を駆け回って、諸々の専門医なんか只の予備人員に成り果てているかも判らん」
 口調こそ穏やかではあったが、自嘲気味の発言を遣したリウドルフへ、巽は意外そうに目を向けた。先程からの遣り取りからして、自分の来歴を差し挟んでひけらかすのかと思いきや、随分と予想外の展開である。
 目を丸くする巽の横で、リウドルフはその巽を不意に指差した。
内科そっちなんかその内、問診も処方も全部AIが担うようになったりしてな。高解像度カメラに各種計測機器、声紋分析ソフトなんかを搭載したマスコットロボットが診療室に置かれてるだけ……そんな昔のSFみたいな光景が出来上がるのも、近頃じゃ割と現実味を帯びて来ている」
「そりゃまあ、そうした話も耳にした事はありますが……」
 リウドルフが冷やかすように言葉を添えた隣で、巽は鼻の頭辺りまでずり落ちていた眼鏡を、遅ればせながら掛け直した。
「……でも、だとしても、貴方ぐらい知識と技術を御持ちなら……」
「何、『職人ハンドウェカー』なんて昔から内々で輪を囲ってデカいツラをしている間に、技術革新の波に呑まれて機能体組織ゲゼルシャフトごと消えて行くもんさ。自分達がまさか『機械』に、それを扱う畑違いの素人衆なんかに追い落とされるはずが無い、なんて高をくくってる内に実に呆気無く淘汰されて行く。この国でも物書きなんかが良い例じゃないのか? 報道機関やテレビ業界なんかも今じゃ相当な崖っぷちに立たされているみたいだしな。昔気質かたぎやその自負なんて、日々更新される技術や発想の前じゃ何の足しにもなりゃしないんだよ」
 仕事が終わった頃になって出て来た失せ物を引き出しに押し込むようにさばさばと言いながら、リウドルフは緩やかに目を細めた。
「……事実、そうした事例をこれまで幾度いくども目にして来た。何処の業界でもそうだった。世の中の流れと言う奴の裏には、勿論もちろん日々の生活をより良くしようと努力する大勢の情熱なり執念なりが満ちあふれているんだろうが、それによってもたらされる変化にはじょうなんて欠片もこもっちゃいない。冷酷と言うか只々不可逆であり、どうしようもなく超越的に働くんだ」
 天井に設置された空気清浄機が変わらず音を立てる中、廊下の端に腰を下ろした二人の医師を明るさを落とした照明が見下ろしていた。
 リウドルフは目を細めたまま、ふと息をつく。
「俺達もいずれ、それこそある日突然『無用』の烙印を押されるのかも知れない。『医者おまえたちにもう居場所は無い。お前達がこれまでの歴史を指し示して何を声高に喚こうが、今更お前達をえて必要とする者など何処にもいない』。暗にそう告げられて社会の本筋から切り離される時が、あるいは訪れるのかも知れん」
 過去へ向けて長く長く伸びる己の影法師を振り返った者が発した、それはしんみりとした述懐であった。
 スタッフステーションから、当直の女性看護師が巡回に出て行く。淡々と繰り返される乾いた足音が空気清浄機の駆動音の間に差し込まれた。
 知らず知らずの内に巽も真摯な眼差しをかたわらの相手へと注いでいたのだが、彼の見つめる先でリウドルフはふと視線を持ち上げる。
「……だが、それでも俺は『人』を救うのはくまでも『人』であると思いたい」
 声に、また力がこもった。
 それに付随して、虚空に向けられた眼光にもにわかに輝きが増して行く。
「戦乱や紛争によって日々多くの命が失われる。それは銃弾や爆弾によって巻き起こるのではなく、それらを扱う人間の『敵意』や『憎悪』、『侮蔑』や『無関心』によって引き起こされるのだ。ならば、その逆もまた然りではないのか。現に目の前に在る苦しむ人間を救うのは、優れた薬や道具などではなく、それを用いて他者を救おうとする人間の確たる『意志』ではないのか、とな」
 そこで弁舌を収めたリウドルフを、隣から巽はじっと見つめた。何処までも続くベージュの廊下に他に誰に聞き届けられる事も無く、一人の医師の独白は吸い込まれて行った。
 しかる後、若手の医師は自らの意気を示した先輩へと意見を差し挟む。
「……何だか、結論ありきの論法みたいに聞こえますが」
「はっきり言う。可愛くない奴だ」
 言いながらも、よわい五百を過ぎた熟練の医師は、かたわらに座る遠い後輩へ笑い掛けたのだった。
 それが、彼が巽に向けた最初の笑顔であった。冷笑でも嘲笑でもない、少し寂しげな、だが同時に何処か安堵したような、それは穏やかな微笑であった。
「だったら、お前はお前で自分の信じる所を示して見せろ。本当に他者を支える積もりであるのなら、薬効だの既存の処方だのに頼り切るのでも振り回されるのでもなく、くまで自分の意志で一つの筋道を通して見せろ。たとえそれが、いずれ埋もれて消え行く虚しい行ないの一つに過ぎないのだとしても、今この刹那に、かたわらに居る同じ人間へ手を差し伸べる事には確かな意義があるはずだからな」
 そう語る彼の双眸そうぼうの奥に、蒼白い光がかすかに瞬いた。
「結局、人の営みと言う奴は突き詰めればその繰り返しだ。変わらない流れの中で足掻き続けるんだよ。俺もお前も、取り立てて大した真似をしている訳じゃない」
「つまり、それは……」
 励ましてる積もりなんですか?
 巽がそう問い掛けようとした時、リウドルフはベンチから腰を上げた。
「ま、後は自分で何とかしろと言う事だ。俺がずっと付きっ切りでいる訳にも行かないし、助言を求める相手が他にいない訳でもあるまい? 見栄を張るのは勝手だが」
 いつも通りのとぼけた口調でリウドルフは告げると、空き缶とタブレット端末を両手に夜の廊下を歩き出した。
「……さて、根無し草は根無し草らしくまた夜回りを続けるかね……」
 そうして無頼を生涯気取り続けた男は、何処いずこ)かへ向けて再び歩き出した。ベージュの床には大した足音も響かなかった。
 去り行く小さな背をしばし見送ってから、巽は先程渡された缶コーヒーを握る自分の手を見つめた。そしてその手を見透かすようにして、彼は自分の足元によどむ薄いかげりを見下ろす。
 己の為にも周囲の為にも、自分は『成果』を示して見せねばならない。
 だがその『成果』とは、果たして『結果』だけを示せば良いものだったのだろうか。
 そこへ至る『道筋』にもまた周りへ、そして己へと掲げて示す『何か』が必要だったのではないのだろうか。
 一つ事に視点を据え過ぎれば他が全く見えなくなる。
 他者は無論の事、他ならぬ己の有様にすら疑問を抱く余裕も無くなる。
 気付かぬ内に大切な何かを取り落としてしまうかも知れない。
 気が付いた時には本当の意味で独りぼっちになってしまっているかも知れない。
 ベンチに腰を下ろしたままそんな考えを巡らせていた巽の横手で、痩身の孤影は廊下の奥へとたちまち消えて行った。
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