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またもリッチな夜でした
その17
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明くる日もまた雨であった。
職員室の窓から覗く灰色の空を、月影司は特段の感慨も抱いていない様子で見上げていたが、ややあってその眼差しを再び手元に落としたのであった。
割り当てれた教員机にノートパソコンを広げた司は、画面上に表示される期末テストの問題に静かに目を凝らす。英単語の書き取りから始まる様々な設問を、彼は最終確認に当たっていた所であった。
試験前の土曜日、校舎の内外は静まり返っており、職員室内も司の他に二人の教師がそれぞれの事務処理に当たっているのみである。
と、その内の一人、壮年の男性教師が作業に一区切りが付いたのか、息をつきながら席を立ち職員室内を歩き出した。
「おっ、月影さんも駆け込み気味に完成ですか、テスト?」
程無くして通路側に位置する司の席の横手まで近付いた男性教諭は、同じく休日に勤務する同僚へ労わるとも冷やかすとも付かぬ眼差しを寄せた。
パソコンの画面から顔を上げ、司も隣に立つ仲間を見上げる。
「ええ。ここの所立て込んでいましてね、随分とずれこんでしまいました」
「担任は色々大変ですからねぇ。せめて家で作業が出来ればいいんですが、データの類は一切持ち出し禁止じゃあねぇ……」
「そうですね。もう少し融通を利かせて欲しいものです」
司が苦笑交じりに答えると、男性教諭も釣られて笑った。
雨は静かに窓を濡らし続けた。
少しして、司の後ろに立った男性教諭は右の二つ先に置かれた空の机に目を向ける。諸々の書類や事務用品などが乱雑に散らばった、とある化学教師の机を。
「……そう言えば、クリス先生、あの人も期末の準備は既に終えられているんですね」
「そうみたいですね」
今度は司が相手の言葉に促されて、同じ方向に目を遣った。職員室の端の方に置かれたリウドルフの机には主の癖を反映してか、化学系の書籍や雑誌の他、医学系の雑誌も散見された。
壮年の男性教師は後ろ頭を掻く。
「あの人も普段はやる気があるのか無いのか判らないのに、やる事はきっちりとやるんだからなぁ……いや、別に悪い事じゃないんだが……」
「まあ、あの人は何処まで行ってもマイペースですから」
机から椅子を少し離して、司は空の机を眺め遣った。
然る後、彼は未だ雨の降り続く窓の外へと視線を移し、鼻息交じりに言葉を続ける。
「……今頃何処で何をしているのやら……」
灰色の空から雨は音も無く舞い落ちた。
「全く、何処で何してんだか……!」
憤然と声を荒げて、美香は、呼び出し音が虚しく鳴り続けるばかりのスマートフォンから耳を離した。
リビングの窓辺に一人佇む美香の隣に、廊下の方からアビシニアンが近付いて来る。程無くして少女の隣に立ち止まった猫は、窓を静かに濡らす雨を眺めて面白くなさそうに首を傾げたのだった。
時刻は五時を回り、辺りは次第に薄暗くなっていた。日の入りこそ遅くなったとは言え、生憎の雨模様では光の減衰も早いように感じられる。リビングの端に立って、美香は窓の外の暗く成り行く景色を物憂げに眺めていた。
淡々と雨の降り続く外と同様に、室内もまた至って静かであった。先週と同じく両親共に所用で外出中であり、家に残っているのは美香一人である。
この方が落ち着いて勉強出来るでしょう?、などと今度は俳諧クラブに出掛ける母は言い残したものであるが、実際の所、時刻が進むにつれ、辺りが暗くなるにつれて、美香の胸中には不安とも焦りとも付かぬ思いが渦巻き始めていたのであった。
あの病院に潜んでいるだろう『何か』。
魔性が勢い付くのは常に夜なのである。
リウドルフが病院に出入りしている以上そうそう深刻な事態には発展しないのだろうが、見えざる脅威を実感した美香としては、燻る不安を未だ払拭し切れずにいた。せめて一言、自分が見聞きした事を相手に伝えられれば良いのだが、先程から幾ら電話を掛けても応答は全く無かったのである。
「掛けてんのがあたしだから出ないのかな……」
何やら僻みに似た感情すら湧いて来る中、美香の見つめる先で空は更に暗さを増して行った。
隣でお座りをした猫が、外出を頑として妨げる天候に対し実に不満そうに尻尾を振って見せた。
美香は美香で、重々しく湿った溜息を一人つく。
それから、少女は億劫そうに頭を掻いた。
「仕方が無いか……」
そう呟いてから、彼女はまた空を見上げた。
暗くなりつつある空から雨は構わず降り続く。
夕時の宅地に翳りは音も無く広まりつつあった。
ノックを二度行なった後、巽は病室の扉を開いた。
無菌室には今日も変わらず空気清浄機の稼働音が鳴り響き、強まった雨の音を掻き消していた。今や夕闇を濃く纏わせた窓の外の景色に対して部屋の灯りは煌々と輝いており、入った者に眩さを余計に感じさせる。
その病室の奥に、少女は今日もベッドに横たわっていた。
「具合はどうだい?」
訊ねながら、巽は患者の方へと歩いて行く。
その患者、美里は心なしか物憂げに、近付いて来る医師を見上げた。
先程から抗癌剤の点滴投与が始まり、ベッドの傍らに吊るされた薬剤のパックから透明な液体がカテーテルを伝って、美里の胸部皮下に埋め込まれたCVポートの挿入部へと注がれている。ベッドの傍らには女性看護師が付き添い、一連の処置は滞り無く進んでいるようであった。
ベッドの手前に置かれた点滴スタンドの隣で足を止め、巽はベッドに横たわる美里へと呼び掛ける。
「具合が悪いようだったら遠慮せず言って。昨日とは違う薬だから、そうそうおかしな事にはならないと思うけど」
巽が努めて朗らかに言った横手で、だが、美里は物憂げな表情のまますぐには何も答えなかった。
外では風が強まったのか、窓ガラスに無数の水滴が撫で付けるようにさっと撥ね掛かる。
数秒の間を置いてから、美里が徐に口を開いた。
「……先生」
「何だい?」
「私、いつまでこのままなのかな?」
少女の遣した実直な質問に、巽は俄かに表情を硬化させた。ベッドを挟んだ向かいでも女性看護師が目元を硬くする。
美里はベッドで投薬を受けながら、声と同様の細い眼差しを手近の大人へと向けていた。
「ねぇ、先生、私の体ってもう治らないの?」
「そんな事は無いよ」
ぎこちなく笑みを浮かべた巽の見つめる先で、美里は尚も問い掛ける。
「……このまま死んじゃうの?」
「だから、そんな事は無いって」
些か語気を強めて、巽は否定した。
「白血病は治せる病気だよ。特に君の場合、毎日の薬だってちゃんと打ってるじゃないか。このまま続けていれば必ず治る。治せるよ」
巽はむしろ自分に言い聞かせるように捲し立てたが、当の美里の不安や疑念が消えていない事は瞳の光り加減が如実に物語っていた。そもそも当の薬の影響で体調を崩した翌日ともなれば、心中穏やかならぬ所があって当然であろう。
巽もまた然りであった。
その時、
『自分の信じる所を示して見せろ』
昨夜掛けられた言葉が、巽の脳裏に不意に立ち昇った。あたかも、差し込んだ朝日を浴びた湖面から細かな水蒸気が湧き立つように、先達の遣した助言は若手医師の意識に急に蘇ったのであった。
言われなくても判ってますよ。
巽は唇を一度結ぶと、ゆっくりと口を開いた。
「……美里ちゃん、どんな病気もね、独りでは治らないんだよ」
言いながら巽は膝を曲げ、ベッドに横たわる患者と視線の高さを合わせたのだった。
「風邪をひいた時だってそうだったろう? お医者さんへ行って、薬を貰って、お母さんに御飯を作って貰って、周りの人達に色々と助けて貰って、それで良くなったんじゃないか」
今もこちらへ不安げな眼差しを遣す少女へ、巽は穏やかな口調で語り掛けた。
「今だってそうさ。昨日みたいな苦しい事もあるけれど、それでも皆が君を支えてるんだ。必ず治るよ。約束する」
「ほんと?」
訊ねた美里に、巽は頷いて見せた。
「だけどね、その為には君の協力も必要なんだ。何よりも君の気持ちが、病気を治そうって言う頑張りが要るんだよ。僕らはただ、その気持ちに沿って後押しをしているだけなんだから」
それは、決して強い口調ではなかった。押しの強さを用いるのではなく、さながら頑強な岩に水をゆっくりと染み込ませるように、巽は穏やかに諭し続けた。
「病気を治すって言うのはね、特に時間の掛かる病気の場合、結局は綱引きになるんだよ。幼稚園や小学校で何度かやった事があるだろう?」
「うん……」
相手の口調に釣られてか、先程よりも緊張を和らげた面持ちで美里は頷いた。
巽も合わせて首肯する。
「あれと同じさ。押し合い圧し合いなんだ、結局は。美里ちゃんと僕らは今、同じ一本の綱を一緒になって引っ張ってる所なんだよ。向こうから引っ張る病気に負けないように」
子供どころか彼女もいないような男がまた不慣れな事をやっている、と自分の有様を内心で冷ややかに自嘲しながら、それでも巽は真摯に訴えた。
「現実の綱引きと同じように、この勝負もすぐには付かないんだ。気を緩めれば、ずるずると悪い方に引っ張られてしまう。だからそうならないように踏ん張って、綱を一生懸命引っ張ってる最中なんだ。敵も手ごわいからね、僕らの方に一気に綱を引っ張れる訳じゃない。少しずつ少しずつ自分の健康を手繰り寄せている真っ最中なんだよ」
巽の頭上で、スタンドに吊るされたビニールパックから透明な液体が点々と滴り落ち、カテーテルを下って行く。
巽は一度眼鏡を直し、言葉を続ける。
「途中で誰かが一人でも諦めてしまえば、病気の方に綱は引っ張られてしまう。だけれども、苦しくても、それが長く続いても、頑張り続ければ綱は僕らの方に引けるんだよ。毎日毎日ちょっとずつ手繰り寄せて、いつか必ず病気を打ち負かせる。その為に、僕らは今一緒に踏ん張ってるんだ。病気なんかの思うようにはさせないぞ、ってね」
「うん」
ベッドに横たわったまま、美里は再び頷いた。
心なしか、その双眸に、先程よりも強い光を瞬かせて。
「だから、一緒に頑張ろう」
最後に力強く、巽は呼び掛けた。
たとえこれが、いずれ埋もれて消え行く虚しい行ないの一つに過ぎないのだとしても……
眼鏡をもう一度直しながら、巽は、漠然としつつも確かに湧いて来る実感が在る事を覚えていた。
壁と天井の空気清浄機が、低い稼働音を無神経に撒き散らす。
窓に降り掛かる雨が、束の間、勢いを落とした。
職員室の窓から覗く灰色の空を、月影司は特段の感慨も抱いていない様子で見上げていたが、ややあってその眼差しを再び手元に落としたのであった。
割り当てれた教員机にノートパソコンを広げた司は、画面上に表示される期末テストの問題に静かに目を凝らす。英単語の書き取りから始まる様々な設問を、彼は最終確認に当たっていた所であった。
試験前の土曜日、校舎の内外は静まり返っており、職員室内も司の他に二人の教師がそれぞれの事務処理に当たっているのみである。
と、その内の一人、壮年の男性教師が作業に一区切りが付いたのか、息をつきながら席を立ち職員室内を歩き出した。
「おっ、月影さんも駆け込み気味に完成ですか、テスト?」
程無くして通路側に位置する司の席の横手まで近付いた男性教諭は、同じく休日に勤務する同僚へ労わるとも冷やかすとも付かぬ眼差しを寄せた。
パソコンの画面から顔を上げ、司も隣に立つ仲間を見上げる。
「ええ。ここの所立て込んでいましてね、随分とずれこんでしまいました」
「担任は色々大変ですからねぇ。せめて家で作業が出来ればいいんですが、データの類は一切持ち出し禁止じゃあねぇ……」
「そうですね。もう少し融通を利かせて欲しいものです」
司が苦笑交じりに答えると、男性教諭も釣られて笑った。
雨は静かに窓を濡らし続けた。
少しして、司の後ろに立った男性教諭は右の二つ先に置かれた空の机に目を向ける。諸々の書類や事務用品などが乱雑に散らばった、とある化学教師の机を。
「……そう言えば、クリス先生、あの人も期末の準備は既に終えられているんですね」
「そうみたいですね」
今度は司が相手の言葉に促されて、同じ方向に目を遣った。職員室の端の方に置かれたリウドルフの机には主の癖を反映してか、化学系の書籍や雑誌の他、医学系の雑誌も散見された。
壮年の男性教師は後ろ頭を掻く。
「あの人も普段はやる気があるのか無いのか判らないのに、やる事はきっちりとやるんだからなぁ……いや、別に悪い事じゃないんだが……」
「まあ、あの人は何処まで行ってもマイペースですから」
机から椅子を少し離して、司は空の机を眺め遣った。
然る後、彼は未だ雨の降り続く窓の外へと視線を移し、鼻息交じりに言葉を続ける。
「……今頃何処で何をしているのやら……」
灰色の空から雨は音も無く舞い落ちた。
「全く、何処で何してんだか……!」
憤然と声を荒げて、美香は、呼び出し音が虚しく鳴り続けるばかりのスマートフォンから耳を離した。
リビングの窓辺に一人佇む美香の隣に、廊下の方からアビシニアンが近付いて来る。程無くして少女の隣に立ち止まった猫は、窓を静かに濡らす雨を眺めて面白くなさそうに首を傾げたのだった。
時刻は五時を回り、辺りは次第に薄暗くなっていた。日の入りこそ遅くなったとは言え、生憎の雨模様では光の減衰も早いように感じられる。リビングの端に立って、美香は窓の外の暗く成り行く景色を物憂げに眺めていた。
淡々と雨の降り続く外と同様に、室内もまた至って静かであった。先週と同じく両親共に所用で外出中であり、家に残っているのは美香一人である。
この方が落ち着いて勉強出来るでしょう?、などと今度は俳諧クラブに出掛ける母は言い残したものであるが、実際の所、時刻が進むにつれ、辺りが暗くなるにつれて、美香の胸中には不安とも焦りとも付かぬ思いが渦巻き始めていたのであった。
あの病院に潜んでいるだろう『何か』。
魔性が勢い付くのは常に夜なのである。
リウドルフが病院に出入りしている以上そうそう深刻な事態には発展しないのだろうが、見えざる脅威を実感した美香としては、燻る不安を未だ払拭し切れずにいた。せめて一言、自分が見聞きした事を相手に伝えられれば良いのだが、先程から幾ら電話を掛けても応答は全く無かったのである。
「掛けてんのがあたしだから出ないのかな……」
何やら僻みに似た感情すら湧いて来る中、美香の見つめる先で空は更に暗さを増して行った。
隣でお座りをした猫が、外出を頑として妨げる天候に対し実に不満そうに尻尾を振って見せた。
美香は美香で、重々しく湿った溜息を一人つく。
それから、少女は億劫そうに頭を掻いた。
「仕方が無いか……」
そう呟いてから、彼女はまた空を見上げた。
暗くなりつつある空から雨は構わず降り続く。
夕時の宅地に翳りは音も無く広まりつつあった。
ノックを二度行なった後、巽は病室の扉を開いた。
無菌室には今日も変わらず空気清浄機の稼働音が鳴り響き、強まった雨の音を掻き消していた。今や夕闇を濃く纏わせた窓の外の景色に対して部屋の灯りは煌々と輝いており、入った者に眩さを余計に感じさせる。
その病室の奥に、少女は今日もベッドに横たわっていた。
「具合はどうだい?」
訊ねながら、巽は患者の方へと歩いて行く。
その患者、美里は心なしか物憂げに、近付いて来る医師を見上げた。
先程から抗癌剤の点滴投与が始まり、ベッドの傍らに吊るされた薬剤のパックから透明な液体がカテーテルを伝って、美里の胸部皮下に埋め込まれたCVポートの挿入部へと注がれている。ベッドの傍らには女性看護師が付き添い、一連の処置は滞り無く進んでいるようであった。
ベッドの手前に置かれた点滴スタンドの隣で足を止め、巽はベッドに横たわる美里へと呼び掛ける。
「具合が悪いようだったら遠慮せず言って。昨日とは違う薬だから、そうそうおかしな事にはならないと思うけど」
巽が努めて朗らかに言った横手で、だが、美里は物憂げな表情のまますぐには何も答えなかった。
外では風が強まったのか、窓ガラスに無数の水滴が撫で付けるようにさっと撥ね掛かる。
数秒の間を置いてから、美里が徐に口を開いた。
「……先生」
「何だい?」
「私、いつまでこのままなのかな?」
少女の遣した実直な質問に、巽は俄かに表情を硬化させた。ベッドを挟んだ向かいでも女性看護師が目元を硬くする。
美里はベッドで投薬を受けながら、声と同様の細い眼差しを手近の大人へと向けていた。
「ねぇ、先生、私の体ってもう治らないの?」
「そんな事は無いよ」
ぎこちなく笑みを浮かべた巽の見つめる先で、美里は尚も問い掛ける。
「……このまま死んじゃうの?」
「だから、そんな事は無いって」
些か語気を強めて、巽は否定した。
「白血病は治せる病気だよ。特に君の場合、毎日の薬だってちゃんと打ってるじゃないか。このまま続けていれば必ず治る。治せるよ」
巽はむしろ自分に言い聞かせるように捲し立てたが、当の美里の不安や疑念が消えていない事は瞳の光り加減が如実に物語っていた。そもそも当の薬の影響で体調を崩した翌日ともなれば、心中穏やかならぬ所があって当然であろう。
巽もまた然りであった。
その時、
『自分の信じる所を示して見せろ』
昨夜掛けられた言葉が、巽の脳裏に不意に立ち昇った。あたかも、差し込んだ朝日を浴びた湖面から細かな水蒸気が湧き立つように、先達の遣した助言は若手医師の意識に急に蘇ったのであった。
言われなくても判ってますよ。
巽は唇を一度結ぶと、ゆっくりと口を開いた。
「……美里ちゃん、どんな病気もね、独りでは治らないんだよ」
言いながら巽は膝を曲げ、ベッドに横たわる患者と視線の高さを合わせたのだった。
「風邪をひいた時だってそうだったろう? お医者さんへ行って、薬を貰って、お母さんに御飯を作って貰って、周りの人達に色々と助けて貰って、それで良くなったんじゃないか」
今もこちらへ不安げな眼差しを遣す少女へ、巽は穏やかな口調で語り掛けた。
「今だってそうさ。昨日みたいな苦しい事もあるけれど、それでも皆が君を支えてるんだ。必ず治るよ。約束する」
「ほんと?」
訊ねた美里に、巽は頷いて見せた。
「だけどね、その為には君の協力も必要なんだ。何よりも君の気持ちが、病気を治そうって言う頑張りが要るんだよ。僕らはただ、その気持ちに沿って後押しをしているだけなんだから」
それは、決して強い口調ではなかった。押しの強さを用いるのではなく、さながら頑強な岩に水をゆっくりと染み込ませるように、巽は穏やかに諭し続けた。
「病気を治すって言うのはね、特に時間の掛かる病気の場合、結局は綱引きになるんだよ。幼稚園や小学校で何度かやった事があるだろう?」
「うん……」
相手の口調に釣られてか、先程よりも緊張を和らげた面持ちで美里は頷いた。
巽も合わせて首肯する。
「あれと同じさ。押し合い圧し合いなんだ、結局は。美里ちゃんと僕らは今、同じ一本の綱を一緒になって引っ張ってる所なんだよ。向こうから引っ張る病気に負けないように」
子供どころか彼女もいないような男がまた不慣れな事をやっている、と自分の有様を内心で冷ややかに自嘲しながら、それでも巽は真摯に訴えた。
「現実の綱引きと同じように、この勝負もすぐには付かないんだ。気を緩めれば、ずるずると悪い方に引っ張られてしまう。だからそうならないように踏ん張って、綱を一生懸命引っ張ってる最中なんだ。敵も手ごわいからね、僕らの方に一気に綱を引っ張れる訳じゃない。少しずつ少しずつ自分の健康を手繰り寄せている真っ最中なんだよ」
巽の頭上で、スタンドに吊るされたビニールパックから透明な液体が点々と滴り落ち、カテーテルを下って行く。
巽は一度眼鏡を直し、言葉を続ける。
「途中で誰かが一人でも諦めてしまえば、病気の方に綱は引っ張られてしまう。だけれども、苦しくても、それが長く続いても、頑張り続ければ綱は僕らの方に引けるんだよ。毎日毎日ちょっとずつ手繰り寄せて、いつか必ず病気を打ち負かせる。その為に、僕らは今一緒に踏ん張ってるんだ。病気なんかの思うようにはさせないぞ、ってね」
「うん」
ベッドに横たわったまま、美里は再び頷いた。
心なしか、その双眸に、先程よりも強い光を瞬かせて。
「だから、一緒に頑張ろう」
最後に力強く、巽は呼び掛けた。
たとえこれが、いずれ埋もれて消え行く虚しい行ないの一つに過ぎないのだとしても……
眼鏡をもう一度直しながら、巽は、漠然としつつも確かに湧いて来る実感が在る事を覚えていた。
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