幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

ドブロクスキー

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渚のリッチな夜でした

その9

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 浜辺に焚かれた篝火かがりびはそう大きなものではなかったが、付近に強い光源となる物が無い土地ではそれは遠くからでも目に着いた。
 沖合に灯された漁火いさりびのように夜空をほんのりと朱に染める遠くの光を、リウドルフは窓ガラス越しにちらと眺め遣る。
 空調の音が空気を震わせる以外、辺りは静まり返っていた。
 六畳程の広さの、そこは小さな診療室であった。壁に配された棚には各種の薬瓶が並べられ、部屋の隅には問診時に用いる机と椅子が置かれている。
 やがて彼は顔を戻すと、窓の横手に配された診察台へと目を向けた。
 夕方の浜辺に現れた謎の人物が、そこに仰向けに寝かされていた。
 否が応でも目立つ見開かれた目はリウドルフによってすでに閉ざされていたが、他は浜辺での悶着時と何も変わらない。乱れた衣類の隙間からのぞく肌には、鱗のような変異が依然として認められた。天井の照明から降り注ぐ蒼白い光を浴びて、かすかな冷たい光沢を生じさせながら。
魚鱗癬ぎょりんせん……それもかなりの劇症型か? しかし……」
 リウドルフがそこまで呟いた時、診療室の奥にしつらえられた扉が外から開かれた。
 室内に入って来たのは、やや丸みを帯びた体型の白衣を着た中年の男であった。
「家族の方とは連絡が付きましたか?」
「……ええ、一応は……」
 リウドルフの問い掛けに中年の男はうなずいた。
 それから扉を閉ざした後、男はリウドルフのたたずむ診察台の近くへと歩を進める。
「二十分後に、患者を引き取りに人を遣すそうです」
「引き取り!?」
 返答を耳に入れるなり、リウドルフはにわかに怪訝けげんな面持ちを浮かべたのだった。
「その、失礼ですが、状況は的確に説明されたのですよね? 発見された住民の状態は正常とは言い難い。場合によっては市の大きな病院に移送する必要も生じる、と」
勿論もちろんです。うちは御覧の通り、内科と小児科のみのしがない町医者ですから……」
 白衣を着た中年の医師は診察台の手前、リウドルフと斜交いの位置で立ち止まった。
「大人の皮膚疾患は専門外で、いえ、無論病状が楽観視出来るようなものでない事は私にも判りますので、市の病院に移送するむねも伝えたのですが……」
 困り顔で答えて頭をいた中年の医師から、リウドルフは診察台へと首を巡らせた。
疥癬かいせんたぐいは自然治癒するものでありませんからね。この部洲一ぶすいち町にも隣の院須磨いんすま村にも、皮膚科は開業していないのでしょう?」
「ええ。特に院須磨いんすま村には診療所自体が無かったはずです。私もあまり詳しくは知らないんですよ。隣村から診察に訪れる人は滅多にありませんし」
 地元の医師の回答にリウドルフは疑念を益々ますます強めて行った。
「それでいきなり引き取りとは……町内会長、になるんですか? 連絡を受けた人と言うのは?」
「そうです。沼津さんと仰る方で、あちらの……」
 中年の医師がそこまで答えた時、診療室内に呼び鈴の音が伝わって来た。
「随分早いな……失礼」
 そう言い残して中年の医師が部屋を出てからおよそ五分後、新たな人影が夜の診療室の敷居をくぐった。
 全体的に癖のある、しかし光沢豊かな緑の黒髪が蛍光灯の光に照り返る。
 中年の医師に先導されて入って来たのは、リウドルフも見知った一人の女であった。
「まあ、増田さん! 良かった、見付かって……」
 診療室に足を踏み入れた若狭佳奈恵は開口一番、診察台に寝かされた人物を認めて驚きと安堵の入り混じった声を上げた。ホテルの制服である灰色のシャツにクリーム色のエプロンを付けた妙齢の女性が、夜の診療室へ新たに入って来たのであった。
「女将さん……?」
 小さな声を漏らしたリウドルフを、佳奈恵は遅れて確認する。
「ああ、これはどうも、先生。この度は御迷惑をお掛け致しまして……」
 一礼した佳奈恵の隣で、中年の医師がリウドルフの方へ手を向ける。
「こちらが第一発見者の、ええと……」
「リウドルフ・クリスタラーです。そちらの方が経営されている民宿に、職場の仲間一同逗留とうりゅうさせて貰っています」
 中年の医師の後を継いで、むしろ医師に向けてリウドルフはそれぞれの立場を説明した。
 次いで、彼は未だ戸惑いの色をにじませる佳奈恵へと話し掛ける。
「夕方頃、浜辺をこの方が徘徊している所に運良く、と言うか偶然出くわしましてね。随分と憔悴しょうすいされた様子でその場に昏倒してしまったんですよ。それを、仲間と一緒にこちらの診療所まで運び込んだと言う訳で」
「そうだったんですか……」
 要点をぼかしたリウドルフの説明に、しかし佳奈恵は素直に得心した素振りをのぞかせたのだった。
 それから三人は、診察台を囲うようにして並び立った。
 問診用の机を背にして、中年の医師がおもむろに口を開く。
「それで、こちらの方の御家族は?」
「ええ、増田さんは奥様と二人暮らしなんですが、その奥様ももう思うように動けないものでわたくしが代わりに勤務先から急ぎ駆け付けた次第で……」
 出入口のドアを後ろにして立った佳奈恵が、うつむき加減で答えた。
 そこへ、窓に背を向けてたたずむリウドルフが口を挟む。
「ですが御覧の通り、この方は何らかの病変を患っておられる。家を抜け出して徘徊した事と関係があるのかどうかは存じませんが、この際大きな病院で精密検査を行なった方がよろしいと思いますが」
「それなら大丈夫です。家に常備薬がありますから」
 佳奈恵は今度は即答した。
 次いで彼女はリウドルフと中年の医師を合わせて視界に収めると、それまでより熱の篭った口調で訴える。
「取りえず二三日、自宅で様子を見させて貰えませんか? いきなり大きな病院に連れて行ってもこの方も混乱するでしょうし、もし数日間安静にしていても容体が変わらないようであれば、その時に改めて入院させますから……」
「はあ、つまりは経過観察と言う事で……?」
 中年の医師は露骨に困り顔を浮かべて相槌を打った。
 一方のリウドルフは即答せず、かたわらに立つ女をじっと見つめていた。蛍光灯の蒼褪あおざめた光を浴びてたたずむ女は、今はその面持ちに戸惑いや不安を全くのぞかせていなかった。
 佳奈恵は尚も急ぎ口調で言葉を続ける。
「真に恐縮なのですが、この方と、増田さんと少しお話をさせて頂けませんか? その、出来れば二人だけで……」
「……まあ取り行ったお話がおありなら。それにそろそろこちらの方も目を覚ます頃かも知れませんね」
 佳奈恵の提案に、リウドルフはうなじきながら首肯しゅこうした。
 そして困惑気味の中年の医師と、冷ややかな眼差しをたたえるリウドルフの前で佳奈恵は再び一礼した。
「お願いします。少しの間、二人だけにさせて頂けませんか?」
 はかなげな、しかし同時に緊迫した所を含む物言いであった。
 空調の稼働音が、束の間の静けさをたたえた診療室の空気を淡白に震わせた。
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