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渚のリッチな夜でした

その17

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 臨海学校が終了を迎えて三日後、青柳美香はリウドルフのマンションへと足を運んだ。
 快晴の真昼時、学校近くの住宅街には蝉の声が延々と響き渡っていた。
 美香がリウドルフの部屋の敷居を跨いだ時、その内部には、だが、目当ての人物の影は見当たらなかった。
 靴を脱ぎながら、美香は扉を開けてくれたアレグラへと問い掛ける。
「あれ? センセは出掛けてるの?」
「うん。今日は何か、役所だか警察だかへ行くっつって朝方に出てったねぇ」
 アレグラは今日もまたキャミソールにショーツだけのはなはだだらしない格好で、しかし至って気さくに美香へと答えた。
「ま、その内帰って来ると思うよ。中で待ってて」
「うん……」
 促されるままに美香はリウドルフの部屋へとお邪魔した。
 来客にミックスフルーツジュースを注いだグラスを渡した後、アレグラは窓辺のいつものスペースに陣取り、ヘッドセットを装着するや画面向こうの仲間とゲームに興じ始めた。床に置かれた三枚のディスプレイが目まぐるしく輝く様子を、美香はキッチンの脇に置かれたテーブルから何とはなしに眺めていた。
 実の所、この場所をわざわざ訪れる理由も美香には無かったのである。
 手持ち無沙汰、と言うよりも何となく落ち着かずに、自宅に篭っていても所在が無いのでふらふらと外に出た末に辿り着いたのがこの場所であった。
 遠くから磁石に吸い寄せられる砂鉄の細かな一粒のように。
 あるいは、森の中の同じ道筋を延々と彷徨さまよい続ける子鼠のように。
 美香が浮かない面持ちで自らを省みている最中、玄関の扉が開かれる音が伝わって来た。
 反射的にそちらへと首を巡らせた美香の見つめる先で、玄関に繋がる扉が開かれる。果たしてその向こうから姿を現したのは、今日も冴えない風貌を晒す痩せた男であった。
 微妙に色の付いたシャツにスラックスを着込んだリウドルフはリビングに入るなり、脇のテーブルに腰を下ろした美香を認めて方眉を持ち上げる。
「……何だ、また来たのか? ふらふらする暇があるならまず宿題を片付けろ」
「や、学校の図書館で調べ物しようとして、そのついでに……」
 こちらを見遣った男から咄嗟とっさに視線を外し、美香は歯切れ悪く答えた。
 そこへ視線も手元も一切休ませず、アレグラが背中越しにリウドルフへと呼び掛ける。
「お帰り~。あ、そう言や、一時間ぐらい前に電話が掛かって来てたよ~」
「『来てたよ』、じゃなくて取れ。取りえず」
 ぶつくさ言いながらリウドルフは壁際に置かれた電話機の方へ歩き始めた。
 その背中へとアレグラは完全に他人事のように訊ねる。
「ま~たドメちゃんからじゃな~い?」
「だったら俺のスマホへ直接掛けて来るはずだ。万が一、いや億が一お前が出たら、向こうも咄嗟とっさにばつが悪い思いをするだろうからな」
 そう言い捨てながらリウドルフは電話機の受信記録に目を走らせた。
「……何だ? 見た事無い番号だな? 知らんぞ、こんなの。特殊詐欺か?」
「お年寄りは兎角狙われ易いもんねぇ~」
 どうでもいい事だけは良く聞き付けるらしい同居人へと、リウドルフは恨めしげな眼差しを肩越しに送り付けた。
 と、その時、彼の腰の辺りからかすかな振動が発せられる。
「……来たか」
 そう呟くなり、リウドルフはスラックスのポケットより黒いスマートフォンを取り出した。液晶画面には彼の予想通り、『百目鬼どめき誠二郎せいじろう』の名が発信元として表示されていた。
「もしもし……」
『おお、パラの字。久し振りだなぁ。俺の事憶えてたか?』
 リビングの壁際に立ったリウドルフは、スマートフォンの向こうから届いた声に思わず渋い面持ちを浮かべた。
 馴れ馴れしい、と言うよりは完全に意図してこちらをからかっているかのような口調である。発声の仕方まで、小さな紙ごみでも投げて遣すかのような響きを含んでいる。ましてそれが開口一番に遣される第一声ともなれば、聞く側に及ぼす効果は容易たやすく倍増されるのであった。
 水を求めて彷徨さまよい歩いた遭難者が草一本生えていない海岸に辿り着いた時のような苦々しい面持ちで、リウドルフはスマートフォンの先にいる相手へ反駁はんばくする。
「久し振りも何も、暑気払いとか抜かして梯子酒に付き合わされたばかりだろうが。天下りして来た非常勤講師共に対する愚痴を延々垂れ流しておいて、そっちこそ忘れたのか? それと、落語じゃないんだからそのおかしな呼び方はめろ」
『そうか。そりゃ悪かった。んで、ホーエン亭テオ丸君よ、遣された物の解析が今しがた済んだ』
 悪びれた素振りもまるでのぞかせない相手へ怒鳴り付けようと口を開き掛けたリウドルフは、言葉の後半を耳に入れて思い留まった。
『どーする? そっちのタブレットに……』
「……ああ、いつも通り送ってくれ」
 表情を真顔に戻して、リウドルフはテーブルへと近付いて行く。椅子の一つに腰を下ろした美香が思わず姿勢を正した横で、リウドルフは卓上に置かれていたタブレット端末を起動した。
『まあ、解析自体は別段問題無く進んだんだわ。ただ結果についてだが……』
 スマートフォンの向こうで相手もパソコンを操作しているのか、マウスのクリック音がリウドルフの耳にも届いた。
 間も無くリウドルフが見下ろす先で、テーブルに置かれたタブレット端末に複数の円グラフが表示された。それと合わせて表示されたいくつかの数値を眺めてすぐ、リウドルフは眉根を寄せる。
「……何だ? このテロメラーゼの数値は?」
『そうそう。そこなんだよなぁ、まず目が行くのは』
「採取の仕方がまずかったか? 針を刺した近くに悪性腫瘍でも出来ていたのか? でなければこんな……」
 リウドルフはタブレット端末に表示される何らかのデータへ厳しい眼差しを送るのと一緒に、四日前の夜の事を思い起こしていた。
 臨海学校二日目の夜の事である。浜辺に現れた奇妙な住民を診療所まで運び込んだ際、地元の医師へ患者の家族と連絡を取り付けるよう頼むのと共に、リウドルフは隙を見て未だ目覚めぬ患者の血液を密かに採取したのであった。
 手早く、かつ隠密に。
 そうして手に入れた血液を、知己の間柄である閼伽務あかむ大学の百目鬼教授の下へ送り解析を急ぎ依頼した。
 そして今、遣されたデータをのぞき込んで、リウドルフはにわかに怪訝けげんな面持ちを浮かべた。全身の皮膚に異常が表れていた患者の様子から多少の偏った数値は予測していたとは言え、画面上に表示された分析結果は予想外の箇所に予想外の数値を示したのだった。
 スマートフォンを片手にリウドルフは顎先に手を当てる。
「もし仮に、これが全体の平均値であるのだとすれば、ちょっと説明が付かないぞ。それこそ全身を癌にくまなく蝕まれているとかでもない限りは……」
HeLaヒーラ細胞だけで体が構成されてるとかな。って、それじゃゴジラか』
「この有様では全体のヘイフリック限界はどうなってる? 一過性だとしても……」
『んでよ、その患者の情報だが、添え書きの通りだったのか?』
「ああ。外見はどう見ても六十代前半。体型体格共に当該年齢基準をやや下回る」
『本職の医者がそう言うんならそれで間違い無いんだろう。けども結果はこうなんだわ』
 タブレット端末をのぞき込んでからずっと険しい面持ちを保つリウドルフを、美香が横から少し心配そうに見上げていた。
 リウドルフは今度は額を押さえた。
「こんなの、年齢がどうとかの話じゃない。たとえ産まれたての赤ん坊だってこんな数値は出ない。機器の異常って線は?」
『俺もそこを疑って、機械も変えて五回ぐらい検査を繰り返してみたよ。だが御覧の通り、何も覆りはしなかった』
「そうか……」
 やがて、かたわらの少女が遣す視線の先で、中世からの医学者にして化学者は背筋をむっくりと伸ばして息をついた。
「……いや、何にせよ精密検査に掛けてくれた事は感謝する。有難ありがとな」
 片手を腰に当ててリウドルフは息を吐いた。先程まで義眼の表を相次いで横切っていた疑念や驚きの光も、今は目前の事実を事実と認めた故か理性の奥へすでに収められていた。
『何、こっちも興味深いデータが取れた。そう言う意味では有意義だった』
 スマートフォンの向こうから伝わる声も、いつしか真摯なものに変わっていた。距離を隔てた場所で遣り取りを行なった二人の学者は、それぞれに一応の納得をのぞかせたようであった。
 溜息交じりの声がスマートフォンの奥から伝わる。
『ま、今は取り急ぎ御報告までにって所だ。他の数値も色々比較してみりゃあちこちにおかしな点や引っ掛かる所があるし、検査自体もうちっと続けてみる必要がある。もう一つ気に掛かるものがあってな』
 リウドルフはそこで、相手の発言にふと眉をひそめた。
「『もの』? 『事』じゃないのか?」
『もう二三日くれや。そうすりゃはっきりした事が言える。またな、パラの字』
 そう言って電話向こうの相手は通話を終えた。
 リウドルフも鼻息をつくと、スマートフォンをスラックスのポケットへ仕舞ったのだった。
 甲高い囀りと共に鳥の影がリビングの窓の外を横切った。
 その後に蝉の声がまた室内の空気を震わせ始める。
 しばらくの間、痩身の人影は卓上に置かれたタブレット端末へ鋭く細い眼差しを送り続けていた。
 それでもやがての末に、その口元から小さな呟きが漏れ出る。
 意識してか否か、当人にも判別が難しい様子で。
「……『肉』を食う……『永遠』に……そう、確かそんな筋書だったな……」
 何処か痛ましげに独白したリウドルフを、美香は不安げに見つめたのだった。
 窓から差し込む昼の日差しが、フローリングに波のような淡い模様を作った。
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