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渚のリッチな夜でした
その24
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そして夜も更け行く中、美香は布団の中でまんじりともせず、常夜灯に浮かぶ暗い天井を見上げていた。
畳に敷かれた布団の寝心地は悪くはない。
然るに、美香は中々寝付く事が出来なかったのであった。
大して盛り上がりもしなかった夕食の時の事を彼女はぼんやりと思い返していたが、それも直に頭の中で有耶無耶になった。
壁に掛けられた時計が秒針を震わせる音が、己の脈拍のようにはっきりと耳に届く。
窓の向こうから、遠い潮騒の音が穏やかに伝わって来た。
床に就いてから、既にどれだけの時間が過ぎたのだろうか。
その時、美香はふと、枕の上で怪訝な面持ちを浮かべた。
風の音、だろうか。
いや、違う。
外から聞こえる音の中に、絶えず繰り返される潮騒の間に何か別の音が差し挟まれている。何か異質な音が、外に満ちる闇の中から伝わって来る。
犬の遠吠えとも鳥の囀りとも異なる、それでいて無機質な雑音とも違う生々しい音。
それがまるで水を掻き分けて猛然と迫り来る肉食魚の躍動音のように、美香の耳に伝わったのだった。
仰向けの姿勢のまま美香は唾を一度呑み込んだ。
然る後、少女は隣へと呼び掛ける。
「……アレ姐、起きてる?」
「ん~……?」
返事は割とすぐに戻って来た。
割り当てられた六畳の一室で、隣に敷かれた布団で寝ている筈のアレグラへと美香は訊ねる。
「……何か、変な物音がしない?」
「変て?」
アレグラが聞き返した直後、窓ガラスを透かして何か甲高い鳴き声のような音が外から伝わる。
「ほら……」
「やァ、あれは夜風で建物が軋んでる音だよ、多分」
「そうかなぁ……」
胸中から不安が消えた訳ではなかったが、暗闇の中でも馴染みのある声が届いた事に、美香は一応の安堵を覚えたのであった。
その事も手伝ってか、美香は仰向けに天井を見上げたまま、隣に寝ているアレグラへと訊ねる。
「アレ姐、あたし、追っ掛けて来なかった方が良かったのかな……?」
二呼吸程の沈黙が常夜灯の淡い光の中を漂った。
遠くから届く微かな潮騒の中に、ややあって、暖かみを帯びた声が差し挟まれる。
「そんな事無いよ。あたしはむしろ感心したぐらいだし」
「けど、その所為でアレ姐にもセンセにも何か無理させちゃってるような気がして……」
美香がしんみりした口調で述懐すると、一瞬だけアレグラは返答に詰まったようであった。
それでも程無くして、常夜灯の暈す闇の中に柔らかな声が流れる。
「まあ、あいつが難しい顔してるのは美香ッチとは別の問題でだけどね。そりゃ何百年もあんな調子で勝手気儘に過ごしてりゃ、見えない所で色々とツケが溜まってく訳よ」
「ふーん……」
やはり天井を見上げたまま相槌を打った美香は、そこで顔を隣に向ける。
「んじゃ、アレ姐も?」
美香の見つめた先、暗闇にぼんやりと浮かぶアレグラは天井をじっと見ていた。
「あたしはね~……どっちかってぇと、あの女将さんが気になってね~……」
少々意外な回答に、美香は枕に載せた頭を少し動かしていた。
アレグラは仰向けに頭上を見上げて言葉を続ける。
「何か、ああいう人って、傍から見てると結構来るものがあるんだよねぇ~。今までにも何人か、ああいう感じの人と出会った事はあったんだけど……」
そこまで言うと、アレグラは徐に溜息をついた。
「あたしも独りぼっちだったら、ああいう風になってたのかなぁ、って……」
「え……」
普段あまり覗かせない、しんみりとした口調で言った相手の横顔を美香は思わず見定めていた。
遠い潮騒が、夜の懐の奥深くから伝わって来る。無数の囁きのようでもあり、折り重なった足音のようでもある響きが、常夜灯の淡い光の中を漂った。
少ししてからアレグラは緩やかに促す。
「……御免。もう寝よ?」
「うん……」
言われて、美香もまた枕に後ろ頭を預け、静かに目を閉じたのであった。
先程耳に入った奇妙な鳴き声は今はもう伝わって来ない。アレグラが、或いは、リウドルフか司が何事かを施したのやも知れぬが、とまれ、美香は暗がりの中で落ち着いて瞳を閉ざす事が出来た。
潮騒のリズムに意識を乗せる内、少女はいつしか眠りに落ちていたのであった。
明くる朝、美香は砂浜を一人漫ろ歩いていた。
今日も空は快晴の模様で、昼前の日差しを浴びた砂浜は白く輝く。宿の玄関口に掛けられていた白い帽子を拝借し、美香は村の前に広がる人気の無い浜辺を歩き続けたのであった。
入り江の角度の問題なのだろうか。
隣町の海水浴場はこちら側からは殆ど望めず、波間の向こうに色鮮やかなパラソルがちらほらと覗くのみである。敢えて遠泳に挑む者もいない今、この院須磨村の前に広がる海岸は全くの無人であり、岸へと打ち寄せる波の音だけが一人佇む少女の足元に伝わって来た。
美香は帽子の鍔を押さえ、辺りを見回した。
然れども周囲に人の気配は無い。
潮騒と蝉の声ばかりが空気を揺らす中、眩い日差しを受けて尚周りの景色は不動を保ち続ける。
つい一週間程前、同じ砂浜は友人達の賑やかな歓声に溢れ、波の奏でる音もまたそれを後押しするかのように絶えず陽気に鳴り響いていた。
しかし今耳に届く潮騒は、果てる事の無い時の流れをひたぶるに淡々と伝えるだけであり、それに流されるしか術を持たぬこちらを穏やかに諭すかのように包むばかりであった。
幾日か前には友人達共々好奇心を無限にくすぐられた青い水平線も、一人になって訪れた浜辺から望めば、現実と言う器のあまりの大きさと己の如何ともし難い小ささを無言で強調するのみであり、遂には己の存在そのものが希薄になって行くような錯覚すら呼び起こす。
『彼方』と『此方』。
『彼岸』と『此岸』。
『常世』と『現世』。
相対するそれらの間に、果たしてどれ程の違いがあるのだろうか。『此処』に立つ己の存在すらも確とは定められぬ身にとって、天地の狭間は無情なまでに広大過ぎる。
波打ち際に一人佇む少女は幾重にも連なる波頭の向こうへと、ただ儚げな間差しを寄せていた。
打ち寄せる波は何ものにも媚びる事無く、この星の脈動を伝え続けた。
暫くして美香は渚を歩き出した。
砂に点々と刻まれた小さな足跡が、中天へ昇ろうとする日輪に照らし出された。
畳に敷かれた布団の寝心地は悪くはない。
然るに、美香は中々寝付く事が出来なかったのであった。
大して盛り上がりもしなかった夕食の時の事を彼女はぼんやりと思い返していたが、それも直に頭の中で有耶無耶になった。
壁に掛けられた時計が秒針を震わせる音が、己の脈拍のようにはっきりと耳に届く。
窓の向こうから、遠い潮騒の音が穏やかに伝わって来た。
床に就いてから、既にどれだけの時間が過ぎたのだろうか。
その時、美香はふと、枕の上で怪訝な面持ちを浮かべた。
風の音、だろうか。
いや、違う。
外から聞こえる音の中に、絶えず繰り返される潮騒の間に何か別の音が差し挟まれている。何か異質な音が、外に満ちる闇の中から伝わって来る。
犬の遠吠えとも鳥の囀りとも異なる、それでいて無機質な雑音とも違う生々しい音。
それがまるで水を掻き分けて猛然と迫り来る肉食魚の躍動音のように、美香の耳に伝わったのだった。
仰向けの姿勢のまま美香は唾を一度呑み込んだ。
然る後、少女は隣へと呼び掛ける。
「……アレ姐、起きてる?」
「ん~……?」
返事は割とすぐに戻って来た。
割り当てられた六畳の一室で、隣に敷かれた布団で寝ている筈のアレグラへと美香は訊ねる。
「……何か、変な物音がしない?」
「変て?」
アレグラが聞き返した直後、窓ガラスを透かして何か甲高い鳴き声のような音が外から伝わる。
「ほら……」
「やァ、あれは夜風で建物が軋んでる音だよ、多分」
「そうかなぁ……」
胸中から不安が消えた訳ではなかったが、暗闇の中でも馴染みのある声が届いた事に、美香は一応の安堵を覚えたのであった。
その事も手伝ってか、美香は仰向けに天井を見上げたまま、隣に寝ているアレグラへと訊ねる。
「アレ姐、あたし、追っ掛けて来なかった方が良かったのかな……?」
二呼吸程の沈黙が常夜灯の淡い光の中を漂った。
遠くから届く微かな潮騒の中に、ややあって、暖かみを帯びた声が差し挟まれる。
「そんな事無いよ。あたしはむしろ感心したぐらいだし」
「けど、その所為でアレ姐にもセンセにも何か無理させちゃってるような気がして……」
美香がしんみりした口調で述懐すると、一瞬だけアレグラは返答に詰まったようであった。
それでも程無くして、常夜灯の暈す闇の中に柔らかな声が流れる。
「まあ、あいつが難しい顔してるのは美香ッチとは別の問題でだけどね。そりゃ何百年もあんな調子で勝手気儘に過ごしてりゃ、見えない所で色々とツケが溜まってく訳よ」
「ふーん……」
やはり天井を見上げたまま相槌を打った美香は、そこで顔を隣に向ける。
「んじゃ、アレ姐も?」
美香の見つめた先、暗闇にぼんやりと浮かぶアレグラは天井をじっと見ていた。
「あたしはね~……どっちかってぇと、あの女将さんが気になってね~……」
少々意外な回答に、美香は枕に載せた頭を少し動かしていた。
アレグラは仰向けに頭上を見上げて言葉を続ける。
「何か、ああいう人って、傍から見てると結構来るものがあるんだよねぇ~。今までにも何人か、ああいう感じの人と出会った事はあったんだけど……」
そこまで言うと、アレグラは徐に溜息をついた。
「あたしも独りぼっちだったら、ああいう風になってたのかなぁ、って……」
「え……」
普段あまり覗かせない、しんみりとした口調で言った相手の横顔を美香は思わず見定めていた。
遠い潮騒が、夜の懐の奥深くから伝わって来る。無数の囁きのようでもあり、折り重なった足音のようでもある響きが、常夜灯の淡い光の中を漂った。
少ししてからアレグラは緩やかに促す。
「……御免。もう寝よ?」
「うん……」
言われて、美香もまた枕に後ろ頭を預け、静かに目を閉じたのであった。
先程耳に入った奇妙な鳴き声は今はもう伝わって来ない。アレグラが、或いは、リウドルフか司が何事かを施したのやも知れぬが、とまれ、美香は暗がりの中で落ち着いて瞳を閉ざす事が出来た。
潮騒のリズムに意識を乗せる内、少女はいつしか眠りに落ちていたのであった。
明くる朝、美香は砂浜を一人漫ろ歩いていた。
今日も空は快晴の模様で、昼前の日差しを浴びた砂浜は白く輝く。宿の玄関口に掛けられていた白い帽子を拝借し、美香は村の前に広がる人気の無い浜辺を歩き続けたのであった。
入り江の角度の問題なのだろうか。
隣町の海水浴場はこちら側からは殆ど望めず、波間の向こうに色鮮やかなパラソルがちらほらと覗くのみである。敢えて遠泳に挑む者もいない今、この院須磨村の前に広がる海岸は全くの無人であり、岸へと打ち寄せる波の音だけが一人佇む少女の足元に伝わって来た。
美香は帽子の鍔を押さえ、辺りを見回した。
然れども周囲に人の気配は無い。
潮騒と蝉の声ばかりが空気を揺らす中、眩い日差しを受けて尚周りの景色は不動を保ち続ける。
つい一週間程前、同じ砂浜は友人達の賑やかな歓声に溢れ、波の奏でる音もまたそれを後押しするかのように絶えず陽気に鳴り響いていた。
しかし今耳に届く潮騒は、果てる事の無い時の流れをひたぶるに淡々と伝えるだけであり、それに流されるしか術を持たぬこちらを穏やかに諭すかのように包むばかりであった。
幾日か前には友人達共々好奇心を無限にくすぐられた青い水平線も、一人になって訪れた浜辺から望めば、現実と言う器のあまりの大きさと己の如何ともし難い小ささを無言で強調するのみであり、遂には己の存在そのものが希薄になって行くような錯覚すら呼び起こす。
『彼方』と『此方』。
『彼岸』と『此岸』。
『常世』と『現世』。
相対するそれらの間に、果たしてどれ程の違いがあるのだろうか。『此処』に立つ己の存在すらも確とは定められぬ身にとって、天地の狭間は無情なまでに広大過ぎる。
波打ち際に一人佇む少女は幾重にも連なる波頭の向こうへと、ただ儚げな間差しを寄せていた。
打ち寄せる波は何ものにも媚びる事無く、この星の脈動を伝え続けた。
暫くして美香は渚を歩き出した。
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