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フレンチでリッチな夜でした

その6

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 外では、日が西へと大分かしいているようであった。
先生le médecin先生le médecinってよぅ」
 窓から差し込む西日へ束の間向けられていたリウドルフの意識を、間近から上がった呼び声が引き戻した。
 痩身の医師が顔を緩々と戻した先で、向かいで椅子に腰掛けた一人の男がむくれた顔を作っている。しわだらけのシャツと長ズボンに身を包んだ中年の男。フェルナンと言う名のきこりである。
 様々な薬品や器具を収めた棚が並び立つ、診療室での事であった。
 石造りの床と壁が四方を囲ってはいるものの、閉鎖的な印象をそこまで撒き散らしてはいない。民家の居間を改装した室内はゆったりとした間取りで、本棚や薬棚も、さながら壁際にきちんと整列するかのように圧迫感や閉塞感を招く事無く配置されている。問診用の机が一つ窓際に置かれ、その席にリウドルフは腰を落ち着けていた。そして彼の真向かいに置かれた椅子に、現在の患者が座っていたのであった。
 三つの明かり窓から差し込む日差しによって、日暮れに近付きつつある夕刻でも室内は未だ明るかった。
 横手の窓から差し込む西日に膝の辺りまでを照らされながら、フェルナンは机の向こうで同じく椅子に座ったリウドルフの顔をじっと見つめ、小言を並べるように言い募る。
「しっかりしてくれよ、先生le médecin。俺達ァ森で毎日、それこそ気持ちを擦り切らすような思いで働いてんだぜ? 税金もどんどん上がってく中、毎日毎日一生懸命によぅ。だからそう面倒臭がらずにきちんと診てくれよ。女房かかあうちじゃうるせえんだから」
 黒いガウンの襟元を正しつつ、リウドルフは先程から日頃の鬱憤を吐き出し続ける患者へと苦い面持ちを向けた。
「あんたもまぁ、しつこいと言うかりないと言うか飽きないと言うか、毎度毎度診察に来る度に同じ事しか言わんのだな。健忘症の一種か? さもなきゃのこを引く時に首から上を揺さ振り過ぎてるのと違うか?」
 忌憚きたんと呼べるものをまるで含まない物言いであった。
 非難じみた返事を投げ遣りに遣されて、フェルナンもたちまち口先を尖らせる。
「何だよ、ひでえ言い草だなぁ、先生ェ。ちったぁ真面目に聞いてくれよ」
 対してリウドルフも負けず劣らずの渋面を返した。
「酷いも何も事情は聞いたし処方も最初にしっかり伝えただろうが。幹に楔を打ち込む作業の際、変に力を込めたんですじを痛めたと、そう言ったよな? なら軟膏を小まめに患部へ塗ってみだりに動かさんようにしとけと、そう言っただろ? うちの軟膏は特別製だ。薄荷モーントを適当に混ぜただけのそこらの安物とは違う。勿論もちろん蛇の油なんかも使っていない。前に足首を捻った時にも痛みはすぐに引いたろうが?」
「そりゃまあ、そうだったけどよ……」
 いささか決まり悪そうに、中年の肉体労働者は相手の弁を肯定した。
 対するリウドルフは事務机の前から腰を上げると、診療室の窓際に置かれた薬棚から陶製の小瓶を取り出す。その中に収められた薄緑色の軟膏を指先ですくって、彼は患者へと向き直る。
「ほれ、痛い所を出せ」
「あいよ」
 指示されて、フェルナンは服の袖を捲り上げた。如何にも林業者らしい腸詰ブーダンブランのような丸々とした太い指と、樹皮にも似た分厚い手の甲が医者の前に露わになった。
 差し出されたフェルナンの右手首にリウドルフは薬を塗り付けてから、慣れた手付きで包帯を巻いて行く。
「朝と夜、それぞれ二回ずつの一日計四回だな。それをきちんと守っときゃ、二日後にも痛みは引くだろう。薬壺を貸せ。取りえず三日分の量を詰めておいてやる」
「へーい……て、あれ?」
 一度はうなずいた後、フェルナンはにわかに取り乱し始めたのであった。
「いけね、忘れて来ちゃった……」
 その面前でリウドルフは呆れ顔で額に手を当てる。
「またか……診療所うちへ世間話をしに来てるのか、あんたは? そっちのかみさんと言い、ほんと似た者夫婦だな、全く」
「悪かったよ。後で持って来るよォ……」
 フェルナンは気勢を大幅に削がれた声で弁解すると、上目遣いに医師を見上げた。
「先生もよぅ、折角腕は良いのに口がわりいのが玉にきずだよな……」
 軟膏を収めた小瓶を棚へと戻しながら、リウドルフは不貞腐れた様子を覗かせる患者を見下ろした。
「悪かったな。だが、物事を率直に伝えるのも医者の仕事だ。お為ごかしばかり抜かして肝心の腕の方はからっきし、なんて藪医者共より遥かにましだろ。それで法外な報酬を要求してる訳でもなし」
「そりゃそうだが……」
 フェルナンが不満げに相槌を打った時、彼らの横手に設けられた扉が外から叩かれた。
「お入り」
 リウドルフが短く促してすぐ、診療室の扉は開かれたのであった。
「失礼致します」
 廊下へと繋がる扉の境に立って穏やかにそう告げたのは、鮮やかな赤い髪を短く結った女であった。喉元までをぴったりと覆った白いブラウスに、ワインレッドのコルセットとスカートを身に着けた彼女は背筋を真っ直ぐに伸ばし、一分の揺らぎも無い毅然とした姿勢で診療室の敷居をくぐった。
 机の前へ再び戻った医師にして錬金術師は、唯一無二の助手にして分かつ事の出来ない分身たる被造物を見遣る。
「どうした? 急患か?」
 他方、そのアレグラは姿勢と相違せぬ明瞭な声でリウドルフへと呼び掛ける。
「いいえ。ナタナエル司祭がお見えになっています。至急お会いしたいとの事で」
「……そうか。判った」
 怪訝な面持ちを一瞬だけ浮かべたものの、リウドルフはうなずいた。
 その彼の前でフェルナンは診察室に現れたアレグラへと、これまでとは打って変わって緩んだ表情を向ける。
「こりゃどうも、お嬢さんmademoiselle
「今日は、旦那さんmonsieur
 椅子に腰掛けた男とは対照的に、アレグラはほとんど何の感慨も交えていない、社交辞令の枠を出ない挨拶を返したのみであった。
 窓から差し込む西日が徐々に薄らいで行く。
 しかる後、赤毛の女は己が主へと顔を再度向けた。
「如何致しますか、先生le médecin。今は手が離せないと仰るなら、その旨を先方に伝えて参りますが」
「いや、問題は無い。診療は今しがた終わった所だ。すぐに出向く」
 かぶりを振って答えると、リウドルフは椅子の上で未だ鼻の下を伸ばしている患者へと、投げて遣すようにして冷ややかな宣告を放つ。
「……と言う次第だ、お得意様よ。街の神父様が直々に御出ましとあらば、こちらも無下にあしらう訳にも行かん。薬は後で届けに行くから家で大人しく待っていてくれ給え。支払いもその時でいい」
「へいへい……」
 促されたフェルナンは緩々と腰を上げ、一礼して診察室を後にしたのであった。
「んじゃ、またな、リオネル先生」
「ああ」
 リウドルフが片手を上げて答えた後、廊下へと繋がる扉は閉ざされた。
 診療室の中には、リウドルフとアレグラのみが残された。
 途中でくだんの司祭と擦れ違ったのか、挨拶を遣すきこりの陽気な声が、扉の向こうからかすかに伝わった。
 数秒の間を空けてから、リウドルフがふと息をついた。
 そんな彼の姿を赤毛の女は双眸そうぼうに映す。
我が創造主mein Schöpfer、準備の方を」
「ああ……」
 うなずいた後、リウドルフは机の上にやおら目を落とした。
「……お前もたまには人前で愛想笑いの一つぐらい見せたらどうだ?」
「何故です? その工程を挟む事で、以後の結果にどのような差異が発生するのでしょうか?」
 皮肉を遣すのではなく純粋に不思議そうに、アレグラはかたわらの主を見遣ったのであった。
 リウドルフがまた溜息を漏らした。
 窓越しに晩鐘の乾いた音色が室内に響く。
 診療室内に差し込む西日は石畳の床を淡々と照らしていた。
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