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フレンチでリッチな夜でした
その11
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「『ジェヴォーダンの獣』、ですか……」
石造りの階段を足元を確かめながらゆっくりと下りつつ、リウドルフは反芻するようにその言葉を口に出した。
「左様です。先生も既に幾度かお聞き及びと存じますが」
その彼の前を、ナタナエルが燭台を手に石段をやはり緩やかに下って行った。黒い司祭平服の裾を踏まないよう薄暗い中を慎重に足を運びつつ、司祭たる彼は来客を教会の地下へと案内して行く。
その後ろにぴたりと付き従いながら、リウドルフはだが怪訝な面持ちを浮かべたのであった。
「……しかしそれならば先月の末に、そう確か先週に、何処其処の猟師によって討伐されたとの報が広まっていたようでしたが?」
「ええ。概ね一月か二月に一度はそういう話が出るのですよ。『誰それが森に入って狼を仕留めた。見よや、これぞ彼の怖ろしき獣に相違無い』、と」
リウドルフの遣した指摘に、先を進むナタナエルは苦渋に満ちた表情を浮かべた。
「……ですが、恥ずかしながら現状は何一つ変わってはいないのです。今回もまた然りでして、本日の昼、新たな犠牲者が出てしまいました」
司祭が背中越しに遣した言葉には、明らかな落胆と無念さが込められていた。
相手の神妙な口調に釣られるようにして、リウドルフも面持ちを引き締めた。
「それで、私にどうせよと?」
「真に申し上げ難い次第ではありますが、先生の医師としての腕を見込んで、哀れな犠牲者の遺骸を検分して頂きたいのです。事細かに、詳らかに」
「ですが、それでは……」
リウドルフが眉根を寄せた時、ナタナエルは言葉を被せるようにして弁解する。
「無論、これが教義に背く行為である事は判っています。死者の安らかな眠りを妨げる不埒な行ないに他ならないと……」
苦しげに言い募った後、司祭は手にした燭台を頭の上に掲げた。
「……しかし、そうも言っていられないのが今のこの地域の実情なのです。三年程前から出始めた犠牲者は留まる所を未だ知りません。付近の町や村とも一丸となって対処しているにも拘わらず、事態は打開の方向すら定かではないもので、ここはリオネル先生の眼力も一つお貸し頂きたいのです。どうか……」
痛ましげな声が石段を下りる足音に重なった。
ややあって、リウドルフはやおら首肯した。
「……判りました。司祭様自らがそこまで仰るなら、私も期待に副えるよう努力致します。勿論、この事は他言無用と戒めましょう」
「……有難う御座います」
ナタナエルがそう答えて間も無く、二人の前で石段は途切れたのだった。
ひんやりとした空気が闇の奥から漂って来る。
教会は聖堂の直下に設けられた、昔からの遺骸を安置する地下墳墓が一同の前に広がっていた。
過去の教会関係者が収められているのであろう石棺が、寂蒔たる空気の中、壁際にずらりと並べられている。かつて聖人と呼ばれたやも知れぬ者達の重々しき臥所を、今は壁に吊るされた幾つかのランプが朧げに照らし出すばかりである。地表より静謐の中に切り離されて浮かぶような、そこは公審判を待ち続ける聖職者達の為に設けられた密やかな寝所であった。
墳墓の丁度中央には一際大きな石棺が置かれ、その傍らに、白い布に覆われた何かが安置されていた。
位置取りからして、この教会の開祖となった司祭の墓であろうか。
そして、その隣に寝かされた細長い布に覆われた『もの』が、ナタナエルの訴えた所の『獣』による被害者の遺骸であろう事を、リウドルフもすぐに察したのであった。
棺と遺体の前に跪き、ナタナエルが祈りの言葉を厳かに述べる。彼の首から垂らされたロザリオが薄暗がりの中で乾いた音を立てた。
そして祈りを一くさり捧げた後ナタナエルは腰を上げると、石畳に寝かされた布の覆いの方へリウドルフを招いたのであった。
医療器具一式の入った鞄を手に、リウドルフはそちらへと近付く。彼もまた遺骸の前で祈りの言葉を述べ、然る後その前に片膝を付いて覆いを捲った。
既に活力の失せた、黄ばんだ肌がそこから覗いた。
リウドルフは左の眉を持ち上げた。
寝かされていたのは十代の後半に入ってすぐと思しき少女であった。
生前はさぞかし溌溂としていたであろう若々しい肉体も、生気の悉くが抜け落ちた今となっては、文字通り単なる肉によって成る体へと変わり果てていたのだった。
犠牲者の姿を暫し見つめるリウドルフの斜め後ろから、ナタナエルが説明を遣す。
「……彼女はクロディーヌと言いました。御存知ですか? 布地の卸問屋をしているエチエンヌさんの次女であった方です」
「ああ、何度か道で見掛けたような気もしますね」
遺骸の前に片膝を付いたままリウドルフは背中越しに答えた。
ナタナエルは地下墓地の天井を徐に見上げて言葉を続ける。
「私の知る限りでは品行を慎む大人びた娘さんだったのですが、やはり年相応の部分も持っていたようで、両親の目を盗んで街を抜け出して、近くの森へと出掛ける事があったそうです」
「どうしても会いたい意中の相手がいたと、そういう話ですか?」
「そういう話だったのでしょうね、要するに。そして今日、昼過ぎに森へ入った猟師の方によって、二人揃って亡骸となっている所を発見されたそうです。お相手はソーグの織物工房の徒弟だったそうで」
ナタナエルが悲しそうに告げると、彼の足元に置かれた燭台の炎がゆらゆらと揺れた。
火影に照らされたリウドルフも、ふと鼻息をついた。
「街道の往来も大分制限されていたようですからなぁ。そんな中、人目を避けて森で密会を繰り返していたとなると、若気の至りと言えばそれまでですが、こうして鬼籍に入ってしまった以上は声高に非難する気にもなれません」
リウドルフは少し物憂げに評してから、目の前に横たわる少女の亡骸を今一度凝視した。
仰向けに寝かされた遺骸は、頭の左半分が失われていた。何か、ぞっくりと抉られたような傷痕が頭頂部から顔の中程まで達し、これが致命傷となったであろう事は一目瞭然であった。
ややあって、リウドルフは被害者の首から下へと視線を這わせて行く。衣装こそ街角で良く見掛ける目立たない代物であったが、衣服のあちこちには頭部へ損傷を負った際に飛び散ったと思われる赤黒い染みが散見された。
やがて少女の手首の辺りまでを見渡して、彼はふと眉を顰めたのであった。
「……妙だな……抵抗した形跡が無い」
「何か?」
遺体の傍らに片膝を付いたリウドルフの後ろから、ナタナエルが問うた。無惨な最期を遂げた死者を直視する事を避けてか司祭は体の向き自体を逸らしていたが、医師の発した疑念の声を受けて瞳だけを相手の方へと向けた。
その前でリウドルフは死者の手首を持ち上げると、黄ばんだ指先へ目を凝らしたのであった。
「いえね、仮に狼のような獣に襲われたのだとしても、咄嗟に抵抗ぐらいはするでしょう? たとえ背後から不意に頭部へ噛み付かれたのだとしても、誰でも死に物狂いで振り解こうと踠くものじゃありませんか?」
「ふむ……」
リウドルフの肩越しに遺骸の指先を見て、ナタナエルも小首を傾げた。
その彼へとリウドルフは肩越しに振り返って説明する。
「こうした場合、爪の隙間に獣毛の何本かが絡まっていても不思議ではない。いや、それが至って自然な有様でしょう。角度的に相手に掴み掛かるのが無理だったのだとしても、地べたを掻き毟るなり何なり、断末魔の痕跡が何かしら刻まれているものです」
ナタナエルが目を丸くした。
「流石、お詳しいですな」
「いえ、昔あちこちで軍医を務めた事もありましてね。人間、死ぬ間際に至っても、そうそう潔く格好良くとは行かないのだと言う所を幾度か目にした事もあったのです」
誇るでもなく語るとリウドルフは顔を前へと戻した。
「この遺体にはそうした『葛藤』と言うか、苦しんだような『形跡』がまるで見当たらない。『綺麗』過ぎる」
頭部の半分を失っている事を除けば着衣に大きな乱れも見当たらぬ遺骸を見て、彼は眉根を寄せた。
「本当に野獣の襲撃を受けて亡くなったのであれば、衣類にだってその際に出来た綻びや唾液による染み、体毛その他が残されていて良い筈……頭部へ噛み付いたのなら、圧し掛かろうとした前足の跡が胸元や肩の辺りに付くものでしょう。当然向こうも鉤爪を立てて来る訳ですから衣服や肩に傷が残る筈です。それがこの遺体には、襲った側の『痕跡』と呼べるものも一切見付からない。普通在り得ない事だ」
リウドルフは顎先へ手を当てた。
「何だろうな……まるで深い眠りに落ちている所を、急所だけを噛み千切られて殺害されたような……全く無防備になった所を突然襲われたような、そんな不自然さが見受けられますね」
「では獣の仕業ではないと、そう仰りたいのですか?」
「判りませんね。これがよくある『怖い話』のように、森を根城とする群盗の類に襲われて、彼氏共々暴行を受けた末に死亡したのだとしたら……」
背後からナタナエルが不安げに寄せた質問に、リウドルフは目を細めた。
「何かの薬を無理矢理飲まされて昏倒した所を殺害されたのだとすれば一応の理屈は通りますが、だとしても事前の抵抗の跡が何処かしらに残されて然るべきだ。襲った側にしても最低でも両手の自由は奪うでしょうから、手首に痣の一つも出来ていなければおかしい。或いは気付かれない位置から、それこそ木立の陰から大型のラッパ銃をいきなり頭へお見舞いしたと言う可能性も否定出来ませんが、ならば傷口の周囲に散弾の一つ二つも残されている筈です。周囲に襲撃や悶着の跡はあったのですか?」
「いいえ。私自身が直接見て来た訳ではありませんが、最初に現場を発見した猟師の方によれば、付近に動物の足跡も残されてはいなかったそうです。人が争ったような痕跡は尚の事」
「そうですか……」
ナタナエルと同じく、リウドルフも釈然としない面持ちを浮かべたのであった。
「彼氏が無理心中を計って騙し討ちにした? それとも二人の仲を嫉妬する第三者に問答無用で殺された? 何ともかんとも……」
そしてまたリウドルフは顎先に手を当てて黙考する。
彼の後ろの床に置かれた燭台が、炎を音も無く揺らめかせた。
ナタナエルも心配そうに見下ろす中で、リウドルフは物言わぬ躯へと顰めた顔を向け続けたのだった。
石棺が周囲を囲う地下墓地の只中には、ひんやりとした空気が漂っていた。
「『ジェヴォーダンの獣』、ですか……」
石造りの階段を足元を確かめながらゆっくりと下りつつ、リウドルフは反芻するようにその言葉を口に出した。
「左様です。先生も既に幾度かお聞き及びと存じますが」
その彼の前を、ナタナエルが燭台を手に石段をやはり緩やかに下って行った。黒い司祭平服の裾を踏まないよう薄暗い中を慎重に足を運びつつ、司祭たる彼は来客を教会の地下へと案内して行く。
その後ろにぴたりと付き従いながら、リウドルフはだが怪訝な面持ちを浮かべたのであった。
「……しかしそれならば先月の末に、そう確か先週に、何処其処の猟師によって討伐されたとの報が広まっていたようでしたが?」
「ええ。概ね一月か二月に一度はそういう話が出るのですよ。『誰それが森に入って狼を仕留めた。見よや、これぞ彼の怖ろしき獣に相違無い』、と」
リウドルフの遣した指摘に、先を進むナタナエルは苦渋に満ちた表情を浮かべた。
「……ですが、恥ずかしながら現状は何一つ変わってはいないのです。今回もまた然りでして、本日の昼、新たな犠牲者が出てしまいました」
司祭が背中越しに遣した言葉には、明らかな落胆と無念さが込められていた。
相手の神妙な口調に釣られるようにして、リウドルフも面持ちを引き締めた。
「それで、私にどうせよと?」
「真に申し上げ難い次第ではありますが、先生の医師としての腕を見込んで、哀れな犠牲者の遺骸を検分して頂きたいのです。事細かに、詳らかに」
「ですが、それでは……」
リウドルフが眉根を寄せた時、ナタナエルは言葉を被せるようにして弁解する。
「無論、これが教義に背く行為である事は判っています。死者の安らかな眠りを妨げる不埒な行ないに他ならないと……」
苦しげに言い募った後、司祭は手にした燭台を頭の上に掲げた。
「……しかし、そうも言っていられないのが今のこの地域の実情なのです。三年程前から出始めた犠牲者は留まる所を未だ知りません。付近の町や村とも一丸となって対処しているにも拘わらず、事態は打開の方向すら定かではないもので、ここはリオネル先生の眼力も一つお貸し頂きたいのです。どうか……」
痛ましげな声が石段を下りる足音に重なった。
ややあって、リウドルフはやおら首肯した。
「……判りました。司祭様自らがそこまで仰るなら、私も期待に副えるよう努力致します。勿論、この事は他言無用と戒めましょう」
「……有難う御座います」
ナタナエルがそう答えて間も無く、二人の前で石段は途切れたのだった。
ひんやりとした空気が闇の奥から漂って来る。
教会は聖堂の直下に設けられた、昔からの遺骸を安置する地下墳墓が一同の前に広がっていた。
過去の教会関係者が収められているのであろう石棺が、寂蒔たる空気の中、壁際にずらりと並べられている。かつて聖人と呼ばれたやも知れぬ者達の重々しき臥所を、今は壁に吊るされた幾つかのランプが朧げに照らし出すばかりである。地表より静謐の中に切り離されて浮かぶような、そこは公審判を待ち続ける聖職者達の為に設けられた密やかな寝所であった。
墳墓の丁度中央には一際大きな石棺が置かれ、その傍らに、白い布に覆われた何かが安置されていた。
位置取りからして、この教会の開祖となった司祭の墓であろうか。
そして、その隣に寝かされた細長い布に覆われた『もの』が、ナタナエルの訴えた所の『獣』による被害者の遺骸であろう事を、リウドルフもすぐに察したのであった。
棺と遺体の前に跪き、ナタナエルが祈りの言葉を厳かに述べる。彼の首から垂らされたロザリオが薄暗がりの中で乾いた音を立てた。
そして祈りを一くさり捧げた後ナタナエルは腰を上げると、石畳に寝かされた布の覆いの方へリウドルフを招いたのであった。
医療器具一式の入った鞄を手に、リウドルフはそちらへと近付く。彼もまた遺骸の前で祈りの言葉を述べ、然る後その前に片膝を付いて覆いを捲った。
既に活力の失せた、黄ばんだ肌がそこから覗いた。
リウドルフは左の眉を持ち上げた。
寝かされていたのは十代の後半に入ってすぐと思しき少女であった。
生前はさぞかし溌溂としていたであろう若々しい肉体も、生気の悉くが抜け落ちた今となっては、文字通り単なる肉によって成る体へと変わり果てていたのだった。
犠牲者の姿を暫し見つめるリウドルフの斜め後ろから、ナタナエルが説明を遣す。
「……彼女はクロディーヌと言いました。御存知ですか? 布地の卸問屋をしているエチエンヌさんの次女であった方です」
「ああ、何度か道で見掛けたような気もしますね」
遺骸の前に片膝を付いたままリウドルフは背中越しに答えた。
ナタナエルは地下墓地の天井を徐に見上げて言葉を続ける。
「私の知る限りでは品行を慎む大人びた娘さんだったのですが、やはり年相応の部分も持っていたようで、両親の目を盗んで街を抜け出して、近くの森へと出掛ける事があったそうです」
「どうしても会いたい意中の相手がいたと、そういう話ですか?」
「そういう話だったのでしょうね、要するに。そして今日、昼過ぎに森へ入った猟師の方によって、二人揃って亡骸となっている所を発見されたそうです。お相手はソーグの織物工房の徒弟だったそうで」
ナタナエルが悲しそうに告げると、彼の足元に置かれた燭台の炎がゆらゆらと揺れた。
火影に照らされたリウドルフも、ふと鼻息をついた。
「街道の往来も大分制限されていたようですからなぁ。そんな中、人目を避けて森で密会を繰り返していたとなると、若気の至りと言えばそれまでですが、こうして鬼籍に入ってしまった以上は声高に非難する気にもなれません」
リウドルフは少し物憂げに評してから、目の前に横たわる少女の亡骸を今一度凝視した。
仰向けに寝かされた遺骸は、頭の左半分が失われていた。何か、ぞっくりと抉られたような傷痕が頭頂部から顔の中程まで達し、これが致命傷となったであろう事は一目瞭然であった。
ややあって、リウドルフは被害者の首から下へと視線を這わせて行く。衣装こそ街角で良く見掛ける目立たない代物であったが、衣服のあちこちには頭部へ損傷を負った際に飛び散ったと思われる赤黒い染みが散見された。
やがて少女の手首の辺りまでを見渡して、彼はふと眉を顰めたのであった。
「……妙だな……抵抗した形跡が無い」
「何か?」
遺体の傍らに片膝を付いたリウドルフの後ろから、ナタナエルが問うた。無惨な最期を遂げた死者を直視する事を避けてか司祭は体の向き自体を逸らしていたが、医師の発した疑念の声を受けて瞳だけを相手の方へと向けた。
その前でリウドルフは死者の手首を持ち上げると、黄ばんだ指先へ目を凝らしたのであった。
「いえね、仮に狼のような獣に襲われたのだとしても、咄嗟に抵抗ぐらいはするでしょう? たとえ背後から不意に頭部へ噛み付かれたのだとしても、誰でも死に物狂いで振り解こうと踠くものじゃありませんか?」
「ふむ……」
リウドルフの肩越しに遺骸の指先を見て、ナタナエルも小首を傾げた。
その彼へとリウドルフは肩越しに振り返って説明する。
「こうした場合、爪の隙間に獣毛の何本かが絡まっていても不思議ではない。いや、それが至って自然な有様でしょう。角度的に相手に掴み掛かるのが無理だったのだとしても、地べたを掻き毟るなり何なり、断末魔の痕跡が何かしら刻まれているものです」
ナタナエルが目を丸くした。
「流石、お詳しいですな」
「いえ、昔あちこちで軍医を務めた事もありましてね。人間、死ぬ間際に至っても、そうそう潔く格好良くとは行かないのだと言う所を幾度か目にした事もあったのです」
誇るでもなく語るとリウドルフは顔を前へと戻した。
「この遺体にはそうした『葛藤』と言うか、苦しんだような『形跡』がまるで見当たらない。『綺麗』過ぎる」
頭部の半分を失っている事を除けば着衣に大きな乱れも見当たらぬ遺骸を見て、彼は眉根を寄せた。
「本当に野獣の襲撃を受けて亡くなったのであれば、衣類にだってその際に出来た綻びや唾液による染み、体毛その他が残されていて良い筈……頭部へ噛み付いたのなら、圧し掛かろうとした前足の跡が胸元や肩の辺りに付くものでしょう。当然向こうも鉤爪を立てて来る訳ですから衣服や肩に傷が残る筈です。それがこの遺体には、襲った側の『痕跡』と呼べるものも一切見付からない。普通在り得ない事だ」
リウドルフは顎先へ手を当てた。
「何だろうな……まるで深い眠りに落ちている所を、急所だけを噛み千切られて殺害されたような……全く無防備になった所を突然襲われたような、そんな不自然さが見受けられますね」
「では獣の仕業ではないと、そう仰りたいのですか?」
「判りませんね。これがよくある『怖い話』のように、森を根城とする群盗の類に襲われて、彼氏共々暴行を受けた末に死亡したのだとしたら……」
背後からナタナエルが不安げに寄せた質問に、リウドルフは目を細めた。
「何かの薬を無理矢理飲まされて昏倒した所を殺害されたのだとすれば一応の理屈は通りますが、だとしても事前の抵抗の跡が何処かしらに残されて然るべきだ。襲った側にしても最低でも両手の自由は奪うでしょうから、手首に痣の一つも出来ていなければおかしい。或いは気付かれない位置から、それこそ木立の陰から大型のラッパ銃をいきなり頭へお見舞いしたと言う可能性も否定出来ませんが、ならば傷口の周囲に散弾の一つ二つも残されている筈です。周囲に襲撃や悶着の跡はあったのですか?」
「いいえ。私自身が直接見て来た訳ではありませんが、最初に現場を発見した猟師の方によれば、付近に動物の足跡も残されてはいなかったそうです。人が争ったような痕跡は尚の事」
「そうですか……」
ナタナエルと同じく、リウドルフも釈然としない面持ちを浮かべたのであった。
「彼氏が無理心中を計って騙し討ちにした? それとも二人の仲を嫉妬する第三者に問答無用で殺された? 何ともかんとも……」
そしてまたリウドルフは顎先に手を当てて黙考する。
彼の後ろの床に置かれた燭台が、炎を音も無く揺らめかせた。
ナタナエルも心配そうに見下ろす中で、リウドルフは物言わぬ躯へと顰めた顔を向け続けたのだった。
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