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フレンチでリッチな夜でした

その25

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 屋外を少し歩けば問題の水の音は四方から聞こえて来た。
 水から距離を隔てて、人の暮らしは成り立たない。農業を行なうのであれは尚の事、切っても切れぬ間柄にある。
 現に、宅地の外に広がる畑では輝く太陽の下、スプリンクラーより撒き散らされる水が小さな虹さえ宙に描いておびただしい数の飛沫を畑に撒き散らしていた。
 南仏の強い日差しの中、鮮やかに咲き誇る向日葵ひまわりに今日も水が撒かれて行く。
 田畑の輪郭に沿って歩きながら、リウドルフはごく当たり前に繰り返されるそうした光景を静かに瞳に収めたのであった。
「えっ? 何? 鼠?」
 途中リウドルフが出会った農家の男性は、通りすがりに遣された質問に咄嗟とっさに困惑した面持ちを浮かべた。正に今し方刈り入れを終えたラベンダー畑の片隅、停車させたトラクターのかたわらで、その年配の男性は日に良く焼けた顔にいぶかる表情を乗せたのであった。
 それでも少しして、年季豊かな農夫は妙な質問を遣した旅行者へと目を向ける。
「……やァ、そう言われれば今年は奴らの姿を見る機会がいつもより少ないように思えるがねぇ。勿論もちろん全く見掛けないって訳じゃないが、納屋とか倉庫とかに群を成して居座ってる程でもないし、夜の道端でもあまり目にしない気がするが……」
「そうですか。隣近所の方からも、その辺りの被害については例年程聞かない感じでしょうか?」
「そうさね。酷い年には駆除業者を呼ばなきゃならない場合もあるが、今年は何処もそこまでの真似をした所は無かったと思う」
「有難う御座います」
 一礼してリウドルフは年配の農夫の下を後にした。
 何処までも広がる農耕地を横手に一人そぞろ歩く彼の足元へ、用水路から伝わる水音が寄せて来る。
 これが畜産農家の多い地域であれば別の被害も生じていたかも知れない。土地一帯に縦横に張り巡らされた水の流れに潜む『もの』がその貪欲な『意志』を膨らませ続ける限り、小動物達も確実に数を減らして行くだろう。
 日差しとは別の理由からリウドルフは目元を細くして、畑の周囲を歩き続けた。彼の足元、畦畔けいはんに掘られた細い水路では軽やかな音を立てて透き通った水が流れて行く。まるでにこやかに挨拶を遣すかのように夏の陽光にきらきらと輝く小さな流れを、リウドルフは浮かない面持ちで見下ろした。
 そうして、痩身の孤影は長閑のどかな田園の景色の中をゆっくりと進んだのであった。
 果たして、それがどれ程の間の事であっただろうか。
 しばし黙して歩を進めた後、彼はおもむろに振り返った。
「それで……」
 背後には街の真ん中を伸びる街道と、路肩に点々と植えられた並木が続くばかりである。
「……わたくしに何か御用でしょうか、『Commandant de police』?」
 馴染みの店で領収書の催促をするような、実にさり気無い物言いであった。
 しかるにその声のすぐ後、車道の脇の並木より一個の影が現れ出でる。
 今日も変わらずスーツを毅然と着こなした壮年の女であった。
 前方にたたずむ男とは対照的な実に渋い面持ちを浮かべて、シモーヌ・クローデルは尾行していた相手の前に姿を晒したのであった。

 蝉の声は飽くまでも淡白に午前の日差しの中に鳴り響いた。
 果てはロデーズからパリまでを結んでいる車道の脇に、二つの人影がたたずんでいた。
 国道に沿って植えられた銀杏イチョウ並木の一つに寄り掛かり、リウドルフは辺りをふと見回した。
 やはり郊外故であろうか、車道を行き交う車の数は疎らで緑の銀杏イチョウが黙って日差しを吸い込んでいた。あと二か月程も経てばさぞや美しい彩りが道路を囲うであろう並木に他に人の姿は無く、遠くの畑からトラクターの駆動音がかすかに伝わって来るのみである。
 ややあって、リウドルフは自身の前で今もしかつめらしい顔をこちらへと向けるシモーヌへと目を戻した。
「来訪初日に現場不在証明アリバイが成立した時点で、こちらへの疑いは晴れたものとてっきり思っていましたが」
 リウドルフが切り出すと、シモーヌは僻むような目で相手を見遣る。
「……それでも万事疑って掛かるのがこちらの仕事ですから」
「でしょうね」
 相手の返答を受けて、リウドルフは笑顔を返した。
「その点は私も全く同じです。特に急患が担ぎ込まれた時などは、相手方の家族も含めて何か隠しているのではないか、伏せている事情があるのではないかと常に疑いながら問診を行ないますから。不愉快ではありますが、誰かがやらなければならない仕事でもある訳で……」
 口調に特にかげりをまとわせるでもなく言った後、リウドルフはかたわらの私服警官へと据えた目をおもむろに細めた。
「それで、疑うついでにお訊ねしますが、割と不躾な質問となりますが、貴女あなたは身近に家族をお持ちでない口ですか?」
「それが何か?」
 シモーヌは鋭敏と呼んで良い所作で右の眉を持ち上げた。
 眼差しに何やら刺々しいものが乗った矢先、リウドルフは小さくかぶりを振る。
「気分を害したならお詫び致します。別に他意があっての質問ではありません。私もしがない独り者ですよ」
 謝罪した後、彼は目端から垣間見るようにしてシモーヌへ細い視線を送った。
「ただ、だからと言いますか、貴女あなたからは何処となく『同類』のにおいがしたものでしてね……」
 至極穏やかに遣された相手の言葉に、壮年の女性警官は顔を横へ逸らした。
「家族に色々と配慮しながら仕事に打ち込める程器用ではありませんから。仕事以外の事で評価して貰いたいとも思いません。自分一人の事で手一杯なんですよ、昔から」
成程なるほど……」
 シモーヌは不貞腐れた口調で言い捨てたが、一方でリウドルフは得心したようにうなずいた。
 それから彼は顔を上げると、今も横で顔を背けている女性へと語り掛ける。
「別にそれは恥じる事でも何でもないでしょう。そつの無さを人へ兎角求めたり、まして公私共に落ち度を作らない事が社会活動にける『水準』であるかのような幻想を、他者に平然と押し付けるのは愚かな振舞いです。一方的に負担を遣す側が踏ん反り返っているだけですからね、そんなのは。大体、人間そう何でもかんでも平然とこなせる訳が無い」
 やんわりと言ってのけた後、リウドルフは目の前を伸び行く車道へと視線を移した。
「結局『人生』なんて誰にとっても『挫折』と『妥協』の産物でしかないんですから、出来る事と出来ない事に絶えず線引きを行なう必要は出て来るでしょう。勿論もちろん何事も最初から諦めて掛かるのも良くないですが、得手不得手と言うものとはどうしても向き合わなければならない。何らかの取捨選択を行なわなければならない時が、どう頑張ったって訪れるものです」
 郊外を抜けて遠くパリまで繋がっているだろう一筋の道を見据えながら、彼は鼻で歌うように穏やかな声で述懐した。
「その範疇を、人生の枠組みを自発的に周りにならうならば兎も角、他人にあれこれと強制されるいわれは誰にも無い訳で……」
 広大な田園の狭間を抜けて遥か彼方まで続く道の果てを、孤高の医師は静かに望んだ。
 シモーヌは息を一度吐いて頭をいた。
「それについては同感ですね。だからこそ、私は私に出来る事をしているんですよ。今正にこの瞬間も」
 さばさばと言って、彼女は目の前の冴えない男へとまた鋭い眼差しを向けた。
「あなたは何かを隠している。少なくとも、この事件に関する何らかの『情報』を得ているんでしょう? でなければ観光名所でもない田舎町を、まして殺人事件が起きている中で訪れる訳が無い」
 風が流れて、両者の頭上で銀杏イチョウの葉がさわさわと音を立てた。
「中々の慧眼をお持ちの御様子、と言うより普通に怪しむでしょうね。ここまで不自然な『観光客』なら」
 顔を戻したリウドルフは、相手の弁をあっさりと肯定するのと一緒に細い肩をすくめた。
 何処か、仕事にあぶれた年老いた道化師のような疲れた仕草であった。
 と同時に、その眼差しには老獪さがにわかに立ち現れる。
「……そして、こんな目障りな『余所者』の下にまでわざわざにじり寄らねばならないと言う事は、そちらの捜査もどうやら大きな暗礁に乗り上げておでのようですな」
「単に念を入れているだけです。万事何事も抜かり無いように」
 他方シモーヌは目元を再び硬くすると、相対する不真面目な『第三者』を凝視した。
「捜査官も長く続けていればそれなりに目も鼻も利くようになるものです。怪しげな人間が事件の未だ収まらない土地へ来て平然と表をぶらついて、次は一体何を仕出かす積もりでいるんです?」
 視線と同様の切れ味を帯びた口調で問われてか、リウドルフもまた目元を細めた。
「そちらの質問にお答えする前提で、こちらからも一つだけうかがってもよろしいですか?」
「守秘義務に抵触しない範囲の事柄であるのなら」
 表情を全く変えずにシモーヌが答えると、リウドルフはわずかに首を傾けた。
貴女あなたは何故にこの事件を追うのです? 昨日医務院でお見掛けした際も、随分と気を吐いておられるようでした。御自身の職歴の為ですか? それともおおやけの正義の為でしょうか?」
「先程も申し上げた通り、私はそこまで器用に立ち回れる人間ではありません」
 憤然とした様子でシモーヌは反駁はんばくした。
「それに、私は自分の職務に誇りを持っている。人々の生活と安全を護る崇高なものであると。そしてここには、真っ当な暮らしを続けるべき多くの家庭が存在する」
「ええ。私が昨日お手伝いをした家などは正しくそうした例に当てまるでしょうね」
 リウドルフが言葉を差し挟むと、シモーヌもしかつめらしい顔のまま首肯しゅこうした。
「そうです。ああいう当たり前の生活を送っている何の落ち度も無い人々を支えるのが、所謂いわゆる公僕の務めでしょう。社会の見えざる手の代行として」
「真に御尤ごもっとも
 リウドルフも合わせてうなずいた後、面前に立つ相手を改めて見つめた。
「つまりは、貴女あなたは飽くまで陰ながらの支援に徹したいと、自分が『家庭』を持つに不向きであるならば、せめてそれが出来る人達の力となりたいと、公私の混ざる所にある動機としてはおおむねそんな様相でしょうかね?」
「あなたはいつから私の取り調べを行なう側に回ったんですか!?」
 図星を指されてか、相手の鼻持ちならない態度が単純に気に障ったのか、シモーヌが非難じみた声を上げた。
「全く、職務中の警官と話し込むのがそんなに楽しいのなら、場所を移して心行くまで続けても良いんですよ? ロデーズの警察署でもマルセイユの本部でも、何処でもお好きな所でじっくりと」
 対するリウドルフは慌てて両手を振って見せた。
「いえいえ、もう充分に参考になりましたよ。私も仕事柄、そばで見守る方が性に合っているものですから、ええ。それで気が付けば、いつの間にやらいい歳になっていたと言う次第でしたから、本当に」
 おどけた声でそこまで言うと、彼は義眼の表に暖かな眼差しを乗せたのだった。
「ですが、これもまた類は友を呼ぶと言うか、天の采配と言う奴なんでしょうかねぇ……」
 さながら、一生懸命背伸びをしている子供を眺める好々爺のような目であった。
 何やら含みのある視線を遣されて、シモーヌもわずらわしげに、しかし気勢を削がれた様子で不満を漏らす。
「何にせよ、捜査に協力する気があるのなら、ー証人として少しは役に立って欲しいものですね、この際」
勿論もちろんです。今度はこちらがお答えしましょう。この事件に関して知っている限りの事をいくらでも」
 愚痴のような相手の言葉を、しかしリウドルフは間髪を入れず受け入れた。
 揺らぎの一切無い、実直そのものの物言いであった。
 当のシモーヌも目を一瞬見張った向かいで、リウドルフは面持ちをこれまでになく真剣なものへと変えた。
「警察の捜査には今後全面的に協力致します。その上でどうしても、そちらに要請したい事があるのです」
 作り物の瞳の奥に強い光を瞬かせ、彼は壮年の警官へと訴えた。
「全ては、あの『ジェヴォーダンの獣L a   b ê t e   d u   G é v a u d a n』を捕らえる為に。二百年前の『亡霊』を打ち払う為に、貴女あなた方の力をどうか貸して頂きたいのです」
 打ち立ての白刃の如き毅然とした言葉が白昼の日差しにきらめいた。
 光と影、あるいは同種の影同士であろうか。
 とまれ、一対の孤影は銀杏の木の下で改めて相対した。
 周囲の熱気すら凍て付かせるまでの緊迫した空気をまとわせて。
 蝉の声は飽くまでも淡白に辺りの空気を震わせていた。

 そして昼過ぎの農村に、水の音も蝉の声もき消す機械の駆動音が満ちたのであった。
 燦然たる日の光をたっぷりと吸い込んだ洗濯物を何処の家でもそろそろ取り込もうかと言う時分、コミューンには低く唸る機械の音が充満していた。
 楕円柱のタンクを背負った白い車両が、降り注ぐ陽の光を鈍くね返した。
 村の敷地内に留められた数台の散水車が、側溝や水路に大量の液体を注いで行く。そのかたわらでは、幾人かの警官がマンホールの内部へと散水車後部から伸びるホースを用いて注入作業を行なっている最中であった。いずもがマスクとゴム手袋を着用し、何やら慎重に下水管へと何らかの液体を注いで行く。
 午後の日差しに照らし出された突然の出来事に住民達は道端に列を作って、あるいは家々の窓辺から一連の作業を各々眺めていた。
「おうおう、何だか急に賑やかになって来やがったな」
 村の中央に建つコミュニティセンターの玄関から外へ出た所で、百目鬼は小さな村を震わせる作業の様子を目の当たりにした。
 つんとした香りが辺りには立ち込め、外の熱さを束の間忘れさせた。
 少し遅れて後に続いたゾエが驚いた面持ちを散水車の止められた車道へと向ける。
「この匂いは……一体何が始まったんですか?」
 浮付いた声を上げた彼女へと、百目鬼は軽い口調で説明する。
「やァ何、昼前にパラの字が抜かしてやがったんですがね、何でも問題の怪物をいぶし出すに格好の方法を思い付いたとかで、その悪巧みを始めたんでしょう」
いぶし出す……?」
 ゾエが眉根を寄せた先では散水車が尚も側溝や水路へと液体の注水を続行した。
 清涼感のある、しかれども少々鼻を刺す匂いが路肩一帯を覆い尽くした。
 程無くして、コミュニティセンターの前に立った二人は道路の斜交いで警官達に混ざってたたずむ細身の人影へと目を留めた。
 かたわらのシモーヌと共に何やら気難しげな面持ちを保つリウドルフへと、百目鬼とゾエが近付いて行く。
「よう、パラの字、随分と派手に始めたみたいじゃねえか。いつの間にやら、警察の皆さん方とも仲良くなって」
 片手を上げて軽口を遣した百目鬼へ、リウドルフもまた腕組みをした姿勢で手首だけを持ち上げて見せた。
「何分にもここからは人手が必要になるんでな。捜査関係者にしてもこのおぞましい事件の一刻も早い解決を望んでいる。ここにお互いの利害は一致を見た訳だ」
 答えて、リウドルフはかたわらの様子を目端からちらと垣間見た。路肩にたたずむ彼の横では、シモーヌがウジェーヌを始めとする部下達へと今も何事かの指示を出している。
 百目鬼の隣からゾエが落ち着かぬ様子で問い掛ける。
「しかし、こんな大掛かりな真似をして、一体何を始めようと言うんです?」
「敵が『水場』に身を潜めているらしい事には察しが付いたのでね」
 そう言うと、リウドルフは道端に停められた散水車の一台を流し見た。
「三十分程前から村の水道の使用に制限を掛けさせて貰った。その上で農業用水路及び下水道に薬を流し込んでいる。薬剤の手配は俺が、人員と車両の都合は警視さんの方で付けてくれた」
「『薬剤』と仰いますと?」
 ゾエが首を傾げた先でリウドルフは説明する。
「何せ場所が農耕地のど真ん中だからな。よくある毒物や化学薬品を無造作に垂れ流す訳にも行かん。作物や土壌に悪影響があまり出ないようメントールやシオネールを流し込んでいる所だ」
「ああ、それでこんな匂いが……」
 ゾエがぽつりと言葉を漏らした横で、百目鬼が人差し指を立てた。
成程なるほど。殺しはしないまでも、この強烈な匂いに参って水路からい出て来るって寸法か」
「ああ。下水に流し込んでいるのは特に高濃度の溶液だ。たとえ嗅覚の鈍い生物であっても体表や粘膜に触れれば流石に只では済まんだろう」
 リウドルフが答える最中も薬液の注入作業は滞り無く進められた。西日の下に、薄荷ハッカとユーカリ油の濃厚に過ぎるにおいが充満する。シモーヌやウジェーヌが顔をしかめたり鼻を押さえたりする横で、リウドルフは一人涼しげな面持ちを保ち、作業の様子を静かに観察し続けた。
「さて、ここから鬼が出るか蛇が出るか……」
 目元を鋭いものへと変え、彼は挑発的に言い放った。
 散水車の発するポンプの音が付近より届く蝉の声を塗り潰す。
 その日の昼下がり、南仏の小さなコミューンに全く場違いな騒音が鳴り響いたのだった。
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