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フレンチでリッチな夜でした
その26
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これはまた、鬼が出たのか蛇が暴れ回ったのか。
酷く荒らされた診療所の有様を眺め遣り、リウドルフは鼻息をついた。
茜色の空が窓の外に広がっている。
家中の棚と言う棚は全てが開け放たれ、書物や書類が足元に散らばって床の殆どを覆い隠していた。診療室もまた例外とはならず、蔵書と薬品の多くが持ち去られていたのであった。
餓死寸前にまで追い込まれた空き巣が忍び込んだとしても、これ程までに徹底はしないであろう。それこそ軍隊の略奪にでも遭ったかのような我が家の惨状を、リウドルフは疲れた面持ちで確認した。
廊下の奥まで開け放たれて放置された室内に、冷ややかな夜気の先端が這い寄って来る。
それと一緒に、何処からか伝わる微かな囁き声もまた薄暗がりを漂って来た。
リウドルフは後ろ頭を掻いた後、だらしなく口を開けた玄関の方へと歩き始めた。
診療所の玄関先には人の眼差しが今も集中していた。
時刻は夜半に入り、大半の家では夕餉も終わりを迎えた頃であるにも拘らず、通りを横切る人の姿がちらほらと、しかし絶え間無く認められる。付近の住宅の窓辺からも、少なくない数の眼差しが荒らされた診療所へと据えられていた。
中には強張った面持ちすら浮かべてこちらを凝視しては去って行く見物人を、リウドルフも扱いかねた様子で眺め遣った。
街へと戻ったリウドルフを迎えたのは好奇から湧く眼差しではなく、不安と怖れに根差した視線であった。
何でも、突如して街へと現れた騎士団を名乗る武装した集団が、異端の宣告をここへ突き付けたのだと言う。そして教義に反する魔術師の住処を散々に検分した末、居合わせたアレグラを引き連れて何処かへと立ち去って行ったのだと言う。
そこまでの顛末はリウドルフも当のアレグラから急遽遣された思念によって知らされていた。
司教への陳情を終えマンドより帰還したリウドルフには、街の門を潜る際には粗方の予想が既に付いていたのである。自分の住居の有様も、かてて加えてそこに集っているだろう人々の様子も、概ね予想通りの光景が彼の眼前に展開されていたのであった。
即ち、恐怖と狼狽の二種からなる様相である。
赤く染まった空の下、周囲に徐々に堆積されて行く翳りと同じく、事件の現場を見つめ、見下ろす人々の面差しには警戒や嫌悪と言った負の感情が少しずつ重ね塗られて行った。
これまでとは全く異質の空気が街中を漂っていた。
つい昨日まで近しい『隣人』であった者。
いや、だからこそなのであろうか。彼らの瞳にはこれまで自分達を謀り、陰で欺いて来たやも知れぬ得体の知れぬ輩に対する怖れと慄きが瞬いていた。
『異端』であると、この者は我々の『社会』には受け入れられぬのだと、そのように取り決められたのだと、ただそう一言他所から言われるだけで人の胸中を流れる風はいとも容易く向きを変える。
たった一つの蔑称だけで。
人の社会へ上手く混ざる為には何らかの『名札』を掲げておく事が何よりも必要とされる。然るに、その名札が何かの弾みで決して消える事の無い『烙印』へと変わったのなら、その者の過去の業績も現在の意思も最早何の意味も為さないのである。
診療所の斜交いを通り過ぎた年配の男が何も言わずに瞳を逸らした。
リウドルフはただ、赤と紺の入り混じる頭上の空を見上げた。
人によって形作られる『社会』とは嘗て見たあの形定まらぬ『生き物』のようだな、と彼は思い起こしたのであった。
そう、もう百年程の昔、当時作られたばかりの最新式の顕微鏡を覗いた時に目にした、池の水に棲む不定形生物の如くに。
絶えず脈打つ細胞内に更に無数の細かな細胞組織を持ち、周囲に漂う物を手当たり次第に取り込んでは、同時に不要となった物を体外へ所構わず排泄して行く。『それ』の姿と生態を初めて目の当たりにした際には、強い驚きと僅かな薄ら寒さを覚えるのを禁じ得なかった。
貪欲にして無秩序。
時に『共食い』すら平然と行ない、不要となった老廃物は何の未練も覗かせずに『放棄』する。
ひたぶるに自分が生き延びる為に。
否。只々活動を維持する為だけに。
確たる目的など抱かず、既存の惰性に促されるまま蠢き続ける。
それが原始的な生物を突き動かす『本能』であり、取りも直さず生命『本来』の姿であるのだとすれば、根を同じくする者同士が寄り集まって形成した『社会』も所詮は同じ真似を繰り返すだけの代物に過ぎぬのだろうか。
何処までも、何処までも。
いつまでも、いつまでも。
いつか別の『社会』によって跡形も無く喰らい尽くされるその時まで。
昨日までの隣人達、今や物言わぬ画然たる他人を見回して、リウドルフは湿った息を徐に吐き出した。
と、その時、彼の斜め前、坂の上から一人の人物が急ぎ足で近付いて来る。
動きを見せたそちらへとリウドルフが目を移した先で、街灯の灯され始めた坂から現れたのはナタナエルであった。司教の下へ陳情へ出向いた時と同じ身形の、赤い外套を未だ脱ぎもせぬ姿で、街の司祭は異端の宣告を受けた医師の下へと急ぎ歩み寄った。
「先生! どうも何か手違いが起こったようで……!」
いつになく慌てた様子で、ナタナエルは詫びるように訴えた。
顔色すら衣服の色に近付けた彼の前で、リウドルフは穏やかに答える。
「ええ。事のあらましは私も先程確認しました」
「『悪魔使い』などと言い掛かりも甚だしい。全く、管区の方々は一体何を考えておられるのか……!」
「まあまあ、落ち着いて下さい」
憤りを覗かせるナタナエルとは対照的に、リウドルフは平静そのものの態度で相手を宥めた。
「確かに困った言い掛かりですね。悪魔なぞ使役した所で患者の治療に役立つ訳でもなし、何の得にもならないと言うのに。またぞろ何処かの商売敵が適当な噂を流したのでしょう」
そう述べると、リウドルフは荒らされた診療所の方を肩越しに一度顧みた。
他方、その彼の前でナタナエルは眉根を寄せる。
「ここを訪れた『聖ミゼア騎士団』なる集団については私も幾度か耳にした憶えがあります。団長の『ヴァンサン・ド・ルン』と言う騎士はパリ近郊の地方領主でもある人物です。自身も修道士であり……」
「ああ、所謂騎士修道会の流れを汲む団体ですか。今時古風ですなぁ」
惚けた口調で言葉を挟んだリウドルフに対し、ナタナエルは気難しげな表情を保つ。
「はい。但しあまり良い噂を聞かないのですよ。信条が硬過ぎると言いますか、一切の怠惰と堕落を許さず切って捨てる性根の持ち主であるらしく、今の王政にも兎角批判的な立場を取り続けている人物であると……」
「ほう……」
リウドルフは関心を示すような素振りを一応覗かせたが、異端審問なぞを率先して実施したがる輩は悉皆そうした手合いではなかろうか、とも思ったのであった。
多少の理解は及ぶにせよ、特に親しみを感じる事も無い。
「……しかし、どうしてまたそんな人達に目を付けられる事になったのでしょうね?」
リウドルフは腕組みをして首を傾げた。
ナタナエルも緩やかに首を横に振った。
「判りません。ですが私は知っていますし信じてもいます。これが、貴方が異端であるなどと何かの間違いか濡れ衣である事を」
「有難う御座います。司祭様お一人にでもそう言って頂けるのは大きな励みとなります」
礼を述べて一礼したリウドルフを見て、ナタナエルは漸くにして相好を崩した。
然るにそれも束の間、壮年の司祭はまたしても表情を曇らせる。
「それで、その傍迷惑な騎士団ですが、教会に言付けを残して行ったようなのですね。先生の姪御さんを連れ去る際に」
「それはまたどの様な……?」
その辺りの経緯(いきさつ)は既に知っていながら、リウドルフは心配したような素振りを相手に見せた。
ナタナエルは真面目そのものの口調で説明を続ける。
「『斯様な僻地につき……何とも失礼な言い草ですが……異端審問は俗界を離れた神聖なる場所にて執り行なうものとする。一切の申し開きはそちらで受け付ける。然れば……」
そこで言葉を一旦区切り、ナタナエルはリウドルフをじっと見つめた。
「……然れば「エギュー修道院」まで是非御足労願いたし。道中の安全は保障致す』と」
「修道院……」
リウドルフはそこで改めて怪訝な面持ちを覗かせたのであった。連行されたアレグラが最後に遣した思念もまた、森の奥の修道院へ向かっているとの報であった。
近隣の住民に対する配慮から、極端な話、拷問を行なう際の阿鼻叫喚が周囲に届かぬようにとの配慮から、街の教会を問責の場として利用しなかったのは判る。
然るに、何故ここで例の『修道院』が出て来るのであろうか。
俄然しかつめらしい顔を作ったリウドルフに配慮してか、ナタナエルが不安そうに眼差しを遣した。そんな司祭の後ろをまた通り過がりの振りをした野次馬が横切った。
西の地平へ沈もうとする太陽はいつしか深紅に輝き、炎のような光彩で空の半分を覆った。森の棲み処へと戻るのか、鳥の一群が緋色の空を横切って行く。
暫しの緘黙の後、リウドルフは徐に顔を上げた。
「……まあ何にせよ、その場所を御使命とあらばそちらまで足を運ばなくてはならないでしょう。これ以上じっとしていも埒が明かない訳で……」
夕暮れの空へ立ち昇った声は至って平淡なものであった。
次いでリウドルフは、今もこちらを食い入るように見つめるナタナエルへ顔を向けた。
「全てはほんの少しの齟齬や誤解から生まれた事ですよ、きっと。ですからそれをこれから解いて参ります」
「先生、必要であるならば付き添いましょうか? むしろそうした方が……」
ナタナエルが控え目ながらも大真面目に提案した。
対して、リウドルフはそんな顔を覗かせる司祭へとやおら笑顔を向けたのであった。
「いえいえ、そう重く受け止められずに。司祭様の立場を悪くしても拙いですし、きちんと話し合えば判ってくれると思いますよ。解けない結び目と言うのも無いでしょう」
「先生……」
痛ましげに呟いた後、ナタナエルは体の前で十字を切った。
「……どうか神の御加護を」
簡潔ながらも、それは真なる祈りの言葉であった。
「有難う御座います」
一礼した後、リウドルフは街の司祭の前から歩き出した。
坂を下って夕闇の覆いつつある方向へ、夜の森が広がる方角へとリウドルフは歩き出した。
如何にも頼り無い細身の孤影は、深紅に染まった日輪の吐き出す光に押されるようにして、夜の帳が覆う先へと向かおうとする。
その最中、彼はふと肩越しに後ろを垣間見た。
民家の窓辺から、幼い男の子がこちらの後姿を見つめていた。
単純な興味本位からであったのだろうか。夜の街を一人歩く男の姿を彼は不思議そうに眺めていた。
しかし間も無く、その男の子は横合いから近付いて来た母親に押し遣られて家の陰へと姿を消し、窓には透かさずカーテンが掛けられたのであった。
辺りを通り掛かる人の数もめっきりと少なくなった。
宵闇の広がる最中、息を殺して並び建つ民家を瘦身の孤影は物憂げに見回した。
恐らく、この場所に戻って来る事は無いだろう。
或いは、もう二度と。
予期せぬ別れとなりそうだが、これも一つの『現実』である以上は致し方無い所であろうか。
静かに歩を進めたリウドルフの前に、直に街と外とを隔てる門が見え始める。既に閉ざされた門の前には、だが、いずれも馬を随伴した四人の胸甲騎兵がこちらの訪れるのを静かに待ち構えていた。
その様子を認めてリウドルフは眉をぴくりと震わせた。
夜風が人気の失せた坂道を駆け下りて行く。
紺色に染まった東の空に宵の明星がぽつりと顔を覗かせた。
これはまた、鬼が出たのか蛇が暴れ回ったのか。
酷く荒らされた診療所の有様を眺め遣り、リウドルフは鼻息をついた。
茜色の空が窓の外に広がっている。
家中の棚と言う棚は全てが開け放たれ、書物や書類が足元に散らばって床の殆どを覆い隠していた。診療室もまた例外とはならず、蔵書と薬品の多くが持ち去られていたのであった。
餓死寸前にまで追い込まれた空き巣が忍び込んだとしても、これ程までに徹底はしないであろう。それこそ軍隊の略奪にでも遭ったかのような我が家の惨状を、リウドルフは疲れた面持ちで確認した。
廊下の奥まで開け放たれて放置された室内に、冷ややかな夜気の先端が這い寄って来る。
それと一緒に、何処からか伝わる微かな囁き声もまた薄暗がりを漂って来た。
リウドルフは後ろ頭を掻いた後、だらしなく口を開けた玄関の方へと歩き始めた。
診療所の玄関先には人の眼差しが今も集中していた。
時刻は夜半に入り、大半の家では夕餉も終わりを迎えた頃であるにも拘らず、通りを横切る人の姿がちらほらと、しかし絶え間無く認められる。付近の住宅の窓辺からも、少なくない数の眼差しが荒らされた診療所へと据えられていた。
中には強張った面持ちすら浮かべてこちらを凝視しては去って行く見物人を、リウドルフも扱いかねた様子で眺め遣った。
街へと戻ったリウドルフを迎えたのは好奇から湧く眼差しではなく、不安と怖れに根差した視線であった。
何でも、突如して街へと現れた騎士団を名乗る武装した集団が、異端の宣告をここへ突き付けたのだと言う。そして教義に反する魔術師の住処を散々に検分した末、居合わせたアレグラを引き連れて何処かへと立ち去って行ったのだと言う。
そこまでの顛末はリウドルフも当のアレグラから急遽遣された思念によって知らされていた。
司教への陳情を終えマンドより帰還したリウドルフには、街の門を潜る際には粗方の予想が既に付いていたのである。自分の住居の有様も、かてて加えてそこに集っているだろう人々の様子も、概ね予想通りの光景が彼の眼前に展開されていたのであった。
即ち、恐怖と狼狽の二種からなる様相である。
赤く染まった空の下、周囲に徐々に堆積されて行く翳りと同じく、事件の現場を見つめ、見下ろす人々の面差しには警戒や嫌悪と言った負の感情が少しずつ重ね塗られて行った。
これまでとは全く異質の空気が街中を漂っていた。
つい昨日まで近しい『隣人』であった者。
いや、だからこそなのであろうか。彼らの瞳にはこれまで自分達を謀り、陰で欺いて来たやも知れぬ得体の知れぬ輩に対する怖れと慄きが瞬いていた。
『異端』であると、この者は我々の『社会』には受け入れられぬのだと、そのように取り決められたのだと、ただそう一言他所から言われるだけで人の胸中を流れる風はいとも容易く向きを変える。
たった一つの蔑称だけで。
人の社会へ上手く混ざる為には何らかの『名札』を掲げておく事が何よりも必要とされる。然るに、その名札が何かの弾みで決して消える事の無い『烙印』へと変わったのなら、その者の過去の業績も現在の意思も最早何の意味も為さないのである。
診療所の斜交いを通り過ぎた年配の男が何も言わずに瞳を逸らした。
リウドルフはただ、赤と紺の入り混じる頭上の空を見上げた。
人によって形作られる『社会』とは嘗て見たあの形定まらぬ『生き物』のようだな、と彼は思い起こしたのであった。
そう、もう百年程の昔、当時作られたばかりの最新式の顕微鏡を覗いた時に目にした、池の水に棲む不定形生物の如くに。
絶えず脈打つ細胞内に更に無数の細かな細胞組織を持ち、周囲に漂う物を手当たり次第に取り込んでは、同時に不要となった物を体外へ所構わず排泄して行く。『それ』の姿と生態を初めて目の当たりにした際には、強い驚きと僅かな薄ら寒さを覚えるのを禁じ得なかった。
貪欲にして無秩序。
時に『共食い』すら平然と行ない、不要となった老廃物は何の未練も覗かせずに『放棄』する。
ひたぶるに自分が生き延びる為に。
否。只々活動を維持する為だけに。
確たる目的など抱かず、既存の惰性に促されるまま蠢き続ける。
それが原始的な生物を突き動かす『本能』であり、取りも直さず生命『本来』の姿であるのだとすれば、根を同じくする者同士が寄り集まって形成した『社会』も所詮は同じ真似を繰り返すだけの代物に過ぎぬのだろうか。
何処までも、何処までも。
いつまでも、いつまでも。
いつか別の『社会』によって跡形も無く喰らい尽くされるその時まで。
昨日までの隣人達、今や物言わぬ画然たる他人を見回して、リウドルフは湿った息を徐に吐き出した。
と、その時、彼の斜め前、坂の上から一人の人物が急ぎ足で近付いて来る。
動きを見せたそちらへとリウドルフが目を移した先で、街灯の灯され始めた坂から現れたのはナタナエルであった。司教の下へ陳情へ出向いた時と同じ身形の、赤い外套を未だ脱ぎもせぬ姿で、街の司祭は異端の宣告を受けた医師の下へと急ぎ歩み寄った。
「先生! どうも何か手違いが起こったようで……!」
いつになく慌てた様子で、ナタナエルは詫びるように訴えた。
顔色すら衣服の色に近付けた彼の前で、リウドルフは穏やかに答える。
「ええ。事のあらましは私も先程確認しました」
「『悪魔使い』などと言い掛かりも甚だしい。全く、管区の方々は一体何を考えておられるのか……!」
「まあまあ、落ち着いて下さい」
憤りを覗かせるナタナエルとは対照的に、リウドルフは平静そのものの態度で相手を宥めた。
「確かに困った言い掛かりですね。悪魔なぞ使役した所で患者の治療に役立つ訳でもなし、何の得にもならないと言うのに。またぞろ何処かの商売敵が適当な噂を流したのでしょう」
そう述べると、リウドルフは荒らされた診療所の方を肩越しに一度顧みた。
他方、その彼の前でナタナエルは眉根を寄せる。
「ここを訪れた『聖ミゼア騎士団』なる集団については私も幾度か耳にした憶えがあります。団長の『ヴァンサン・ド・ルン』と言う騎士はパリ近郊の地方領主でもある人物です。自身も修道士であり……」
「ああ、所謂騎士修道会の流れを汲む団体ですか。今時古風ですなぁ」
惚けた口調で言葉を挟んだリウドルフに対し、ナタナエルは気難しげな表情を保つ。
「はい。但しあまり良い噂を聞かないのですよ。信条が硬過ぎると言いますか、一切の怠惰と堕落を許さず切って捨てる性根の持ち主であるらしく、今の王政にも兎角批判的な立場を取り続けている人物であると……」
「ほう……」
リウドルフは関心を示すような素振りを一応覗かせたが、異端審問なぞを率先して実施したがる輩は悉皆そうした手合いではなかろうか、とも思ったのであった。
多少の理解は及ぶにせよ、特に親しみを感じる事も無い。
「……しかし、どうしてまたそんな人達に目を付けられる事になったのでしょうね?」
リウドルフは腕組みをして首を傾げた。
ナタナエルも緩やかに首を横に振った。
「判りません。ですが私は知っていますし信じてもいます。これが、貴方が異端であるなどと何かの間違いか濡れ衣である事を」
「有難う御座います。司祭様お一人にでもそう言って頂けるのは大きな励みとなります」
礼を述べて一礼したリウドルフを見て、ナタナエルは漸くにして相好を崩した。
然るにそれも束の間、壮年の司祭はまたしても表情を曇らせる。
「それで、その傍迷惑な騎士団ですが、教会に言付けを残して行ったようなのですね。先生の姪御さんを連れ去る際に」
「それはまたどの様な……?」
その辺りの経緯(いきさつ)は既に知っていながら、リウドルフは心配したような素振りを相手に見せた。
ナタナエルは真面目そのものの口調で説明を続ける。
「『斯様な僻地につき……何とも失礼な言い草ですが……異端審問は俗界を離れた神聖なる場所にて執り行なうものとする。一切の申し開きはそちらで受け付ける。然れば……」
そこで言葉を一旦区切り、ナタナエルはリウドルフをじっと見つめた。
「……然れば「エギュー修道院」まで是非御足労願いたし。道中の安全は保障致す』と」
「修道院……」
リウドルフはそこで改めて怪訝な面持ちを覗かせたのであった。連行されたアレグラが最後に遣した思念もまた、森の奥の修道院へ向かっているとの報であった。
近隣の住民に対する配慮から、極端な話、拷問を行なう際の阿鼻叫喚が周囲に届かぬようにとの配慮から、街の教会を問責の場として利用しなかったのは判る。
然るに、何故ここで例の『修道院』が出て来るのであろうか。
俄然しかつめらしい顔を作ったリウドルフに配慮してか、ナタナエルが不安そうに眼差しを遣した。そんな司祭の後ろをまた通り過がりの振りをした野次馬が横切った。
西の地平へ沈もうとする太陽はいつしか深紅に輝き、炎のような光彩で空の半分を覆った。森の棲み処へと戻るのか、鳥の一群が緋色の空を横切って行く。
暫しの緘黙の後、リウドルフは徐に顔を上げた。
「……まあ何にせよ、その場所を御使命とあらばそちらまで足を運ばなくてはならないでしょう。これ以上じっとしていも埒が明かない訳で……」
夕暮れの空へ立ち昇った声は至って平淡なものであった。
次いでリウドルフは、今もこちらを食い入るように見つめるナタナエルへ顔を向けた。
「全てはほんの少しの齟齬や誤解から生まれた事ですよ、きっと。ですからそれをこれから解いて参ります」
「先生、必要であるならば付き添いましょうか? むしろそうした方が……」
ナタナエルが控え目ながらも大真面目に提案した。
対して、リウドルフはそんな顔を覗かせる司祭へとやおら笑顔を向けたのであった。
「いえいえ、そう重く受け止められずに。司祭様の立場を悪くしても拙いですし、きちんと話し合えば判ってくれると思いますよ。解けない結び目と言うのも無いでしょう」
「先生……」
痛ましげに呟いた後、ナタナエルは体の前で十字を切った。
「……どうか神の御加護を」
簡潔ながらも、それは真なる祈りの言葉であった。
「有難う御座います」
一礼した後、リウドルフは街の司祭の前から歩き出した。
坂を下って夕闇の覆いつつある方向へ、夜の森が広がる方角へとリウドルフは歩き出した。
如何にも頼り無い細身の孤影は、深紅に染まった日輪の吐き出す光に押されるようにして、夜の帳が覆う先へと向かおうとする。
その最中、彼はふと肩越しに後ろを垣間見た。
民家の窓辺から、幼い男の子がこちらの後姿を見つめていた。
単純な興味本位からであったのだろうか。夜の街を一人歩く男の姿を彼は不思議そうに眺めていた。
しかし間も無く、その男の子は横合いから近付いて来た母親に押し遣られて家の陰へと姿を消し、窓には透かさずカーテンが掛けられたのであった。
辺りを通り掛かる人の数もめっきりと少なくなった。
宵闇の広がる最中、息を殺して並び建つ民家を瘦身の孤影は物憂げに見回した。
恐らく、この場所に戻って来る事は無いだろう。
或いは、もう二度と。
予期せぬ別れとなりそうだが、これも一つの『現実』である以上は致し方無い所であろうか。
静かに歩を進めたリウドルフの前に、直に街と外とを隔てる門が見え始める。既に閉ざされた門の前には、だが、いずれも馬を随伴した四人の胸甲騎兵がこちらの訪れるのを静かに待ち構えていた。
その様子を認めてリウドルフは眉をぴくりと震わせた。
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