幻葬奇譚-mein unsterblich Alchimist-

ドブロクスキー

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フレンチでリッチな夜でした

その32

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 この日の夜も森は静けさと無縁であった。
 虫の声を始め、そこをとする諸々の生き物の息吹が宵闇の奥から絶えず湧き上がり、一瞬の空白も設けずに夜気を震わせ続ける。
 あたかも、個にして全となる生命の輪郭を示すかの如くに。
 そしてその夜の森を一組の足音が荒々しく通り過ぎた。
 梢を透かして時折届く月明かりに照らされる二つの人影が、森の息吹にもまるで無頓着な様子で木々の隙間を一心に駆け抜けて行く。足元もにわかには見通せない暗闇の中を、二つの影法師は灌木かんぼくを蹴り付けるようにして慌ただしく疾走した。
 夜の木立を息つく間も無く駆ける最中、アレグラは自分の手を取って走るベルナールへと非難じみた声を掛ける。
「おい! 一体何処へ行く積もりだ!?」
「何処だっていい! 兎に角、奴らの目の届かない所まで逃げられれば!」
 慌ただしく、と言うよりいささか錯乱気味にベルナールは答えた。
「何つったかな、もう一人のあの矢鱈やたらと長い名前の先生……あっちにまでは手が回らないが、あの人も凄腕の魔法使いなんだろ? 人質さえいなくなりゃあ、あんな連中なんか余裕で蹴散らせるんじゃないのか?」
「否定はしないが……」
 そんな相手に先導されるまま、アレグラは暗がりの中で渋面を浮かべる。
「しかし、こんな真似をした所で……」
 一方のベルナールは、前方に広がる暗闇を見据えたまま急ぎ口調で説明する。
「さっき奴らが話し込んでるのを聞いたんだ。『事態がどう転がろうと人質だけは手中に留めておきたい。あれ程の貴重な資料が手に入る機会はそうは訪れまい』、ってな」
「『資料』か……」
 足元を束の間眺め、アレグラはぽつりと呟いた。
 それには気付かぬ様子で、ベルナールは言葉を続ける。
「だから、あのまま『あすこ』にいたら何をされるか知れたもんじゃない。『最悪の場合でもせめて「交配」だけは試しておきたい』、とか平然と抜かしてやがったからな、あいつら……」
 そう言って、ベルナールは忌々しげに、わずかな憎悪すら覗かせて虚空を睨み付けた。
 他方、アレグラは怪訝な面持ちを浮かべる。
「『交配』? 何と何を『交配』させると言うんだ?」
 他人事のように訊ねた彼女の前で、青年は力の抜けた笑みを浮かべる。
「そりゃ勿論もちろんあんたとだろ。あんたとあの修道院で飼ってる不気味な生き物に襲わせる積もりなんだよ、奴らは。それであの『怪物』を強化出来るんだったらせめてもの収穫って塩梅で」
「『怪物』……?」
 アレグラは、いぶかる度合いを更に深めたのであった。
 その隣で、ベルナールは眉間に深いしわを刻んだ。
「『交配』ってのは所詮『奴ら』の言い草だ。実際はそんな生易しいもんじゃない。これまでも何度か目にした事がある。あの騎士共がどっからか捕まえて来た狼やら熊やらをおりに繋いで、あの『化物』の前に差し出すのを。怯えてすくみ上がった獣の声が夜通し聞こえて、翌朝には皆無惨な姿に変わり果ててた。それで『奴ら』は感心してやがるんだ。『また大きくなった』、『強くなった』って孫の成長でも見るみたいに……」
 走る速度は緩めず、ベルナールは息を切らせながらも言葉を吐き出す。
「あすこの連中はおかしい。揃いも揃ってどうかしてる。いや、そんな連中に顎先でこき使われてる俺も他所よそから見りゃあ充分におかしいのかも知れないが……」
 そこで唾を一度吞み下すと、ベルナールは言葉の端々に怯えを覗かせ始める。
「……だが、それでも奴らは異常だ。まともじゃない。取り分けあの二人なんぞ、もう完全にイカレてる。ろくに話も通じやしない」
 忌み嫌いながらも、何処かに悔しさをにじませた口調で述懐した青年の背中をアレグラはじっと見つめた。
「……大学を出てから一体何があった?」
 控え目に遣された質問に、ベルナールはすぐには答えなかった。
 草木を蹴散らす一組の乾いた足音だけが、わずかの間辺りに鳴り響いた。
 だが数秒の沈黙を経た後、彼は首をわずかに持ち上げた。
「……元を正せばうちの祖父じいさんだかひい祖父じいさんだかが、『新教徒ユグノー』に同情的な態度を取ったのが原因さ。親父も結局それにならっちまったからな。昔、『新教徒ユグノー』に対する弾圧がまだ激しかった頃、領主の権限を使って地域の信者を見逃したり、国外へ逃亡するのを手助けしてやったりしたんだそうだ」
 そう語ると、ベルナールはふと一笑した。
「『自分の意見を口にしたぐらいで何も焚刑にまで処す事はないじゃないか』……そんな風に親父とお袋はよく文句を垂らしてたよ」
 寂しげに、そして懐かしそうに貴族の青年は背中越しに述懐した。
「……けど、その事実をあの嫌味なクソジジイに嗅ぎ付けられたのが運の尽きだった。異端審問官アンキジターなんぞやってやがった所為せいか、あいつは社会の表裏に色々と顔が利くらしい。実際、俺が覗き見た限りでも色んな情報が寄せられてたからな、あの修道院には。大方あの石頭のクソ軍人も、見えない所であれこれと手を回してやがんだろうが……」
 アレグラはベルナールの背中を黙って見つめた。
「んで、異端宣告だとか公職追放だとかをチラつかせてうちを脅迫しに掛かったって訳さ。元々発想が『新教徒ユグノー』寄りだとか何とか、色々と『悪い噂』が流れて出てて、他の貴族連中から冷や飯を食わされてる最中での事だった。そこへあのジジイがとどめを刺しに掛かったんだ。『こちらの要求に大人しく従わなければ、これまでの背教行為を一切合財暴露してやる』って具合にな。その上で奴らに人質兼下働きとして差し出されたのが俺って次第だ」
 走りながらベルナールは肩を落としたようだった。
 そんな様子を覗かせた青年へとアレグラは控え目に訊ねる。
「大事な跡取りだったからか……?」
「いやいや、俺ァただの五男坊だよ。実家でも扱いに困ったから、わざわざ大学なんかへ行かせたんだから。家督を継がせる積もりなんかはなから無かったから、せめて坊主にでもしとこうってハラの何ともイキな計らいだ。残り物には福は無かったってトコかな」
 ベルナールは鼻先で一笑するのと一緒に、自身の境遇をあっけらかんと語った。
 それでも彼はすぐに口調を真面目なものへと戻し、言葉を続ける。
「だが、そんな経歴がどうにも奴らの琴線に触れたらしい。曲がりなりにも『神学部卒』って所がな。手元に置いときゃ何かの時に役立つかも知れないと思ったのかもなぁ。自分で言ってりゃ世話無いが、貴族の子息を人質に取っておけば、それだけで金銭なり便宜なりを色々と工面出来るようになるだろうし」
 そこまで推論を述べた所で、青年は眉間にしわいくつも寄せた。
「こっちとしちゃ全く以っていい迷惑だが。誰だって奴隷になりたくて生まれたり、いいようにこき使われたくて努力を続けたりして来たんじゃねえってのに……」
 ベルナールが憎々しげに吐き捨てた時、二人の後ろから複数の足音が相次いで届いた。アレグラが肩越しに振り返ってみれば、闇夜を照らすランタンの明かりがいくつも修道院の方角から散って行く所であった。
「もう追っ掛けて来やがったか……!」
「それはまあ、開いた窓からロープが外へ垂らされていれば、何が起きたか誰でもすぐに気付くだろうからな……」
 悔しげに呟いたベルナールへ、アレグラは呆れ半分の口調で指摘した。
 その間にも追跡者達の足取りは刻々と二人の下へと迫っていた。
 アレグラは目元を幾分いくぶんか引き締め、今も自分を逃そうと躍起になっているベルナールへと問う。
「……それで、結局そちらは何処まであの連中に協力して来たんだ?」
 格段にとがめる程の強い口調でもなかったが、それでもベルナールはばつが悪そうに歯切れ悪く答える。
「逃げ口上になっちまうが、さっきも言った通り俺はあの修道院に回されて来たばかりの下っ端だ。方々の街に繰り出しちゃ、托鉢を装って市井の動向を探るのが課せられた『任務』って奴でね。大それた真似なんかしちゃいない。ここ何週間か、奴らの狙いが『そっち』に移ってからはあんたらの診療所を主に見張らされてた」
「すると家主の留守を狙い澄まして、あのゴロツキ連中を引き入れたのもそちらの仕業であった訳か」
 部屋の掃除を誤魔化した子供へ小言を遣すようなアレグラの冷ややかな指摘を受けて、ベルナールは口をへの字に曲げた。
「……確かにそう言われりゃあ、相当あくどい真似をしてるかな、俺も……」
 そうぼやいた後、顔は前に向けたままベルナールは短く詫びる。
「……悪かった。あの先生にも後で詫びを入れとかなきゃなんねえか……」
 愚痴を漏らすように呟いたベルナールの背を見て、アレグラはふと口元を綻ばせたが同時に別の不安も抱いたのであった。
 あの手の狂信的な集団と同志と呼べる程の間柄でもなく、大した信頼関係も構築していない一介の若者がこんな重大な裏切り行為を仕出かしたからには、その罰は相当に苛烈なものとなるのではないだろうか。
 そこまで相手を思い詰めさせる真似を、こちらが何かして来たのだろうか。
 何より、彼はこれからどうする積もりなのだろう。
 そんな疑問を抱いたアレグラの胸中に、氷水の染み渡るような所在の無さが出し抜けに湧き上がったのだった。
 その時、両者の前で森の木立が一旦途切れた。
 永らく待ち侘びていたかのように、降り注ぐ月明かりが一組の男女の姿を照らし出す。
 街道に出たのである。
 ベルナールとアレグラは共に足を止め、辺りを見回した。
 深夜の街道に人の姿は無く、満天の星空の下を細い道が暗がりの奥まで伸びて行く。相変わらず虫や蛙の鳴き声は辺りの木立から絶え間無く伝わり、山裾の長閑のどかな夜に賑やかな伴奏を添えた。
 息を整えがてらベルナールはアレグラへ提案する。
「……どうする? このままクールベの街まで逃げ込むか? あすこの司祭は良い人みたいだったから、事情をきちんと説明すればかくまってくれると思うぜ。異端宣告自体が出鱈目だって言えば……」
「そうかも知れないが、それでは……」
 呼吸を全く乱していないアレグラは、ただ表情を曇らせた。
 それでは流石に無責任だろう。
 胸中で独白してから、赤毛の女は元来た方角へ首を巡らせた。
 先程から彼女が密かに期待を寄せていたのは、例の修道院から突如として火の手が上がる事であった。あの偏屈な主がまたぞろ癇癪かんしゃくを起して派手に暴れ回ってくれれば、その機に乗じていくらでも手の打ちようが出て来る。
 しかるに、そんな穏やかでない期待はそうすぐには現実のものとなりそうもなかった。
 夜の森は至って平穏であり、騒乱とは今の所無縁である。
 肩越しに振り向いたアレグラの目元が徐々に険しくなって行く。
 柄にもなく何を大人しく囚われているのだろうか。
 あるいはこちらの身柄が未だ押さえられていると思って、自制の最中にあるのだろうか。
 リウドルフから何の思念も未だ届かない中、ベルナールと言う予期せぬ同行者を連れたアレグラは焦りの感情を抱いていたのであった。
 一方相手の胸中なぞ露知らずの様子で、ベルナールは上気した顔をアレグラへと据えていた。
「なあ、どうすんだ? クールベに戻るのが嫌なら、多少遠くなるがソーグへ向かうって手もある」
「ああ……」
 兎も角、この男を何処か安全な所まで送らなければならぬ。
 皮肉にも相手と全く同じ事で頭を悩ませながら、アレグラは不機嫌な面持ちをベルナールへと向けた。
「……そうだな。取りえず近くの……」
 アレグラがそこまで答えた時の事であった。
 満天の星空に、何かが破裂するようなけたたましい音が鳴り響いた。
 突然の事に顔を強張らせたアレグラの前で、ベルナールがゆっくりと膝を折り、そのまま地べたに倒れ伏して行く。
 酷くゆっくりと。
 まるで、液体の中を沈み込むように緩やかに。
 その様子を目を大きく見張って凝視する彼女の鼻先に、硝煙のにおいがかすかに漂って来る。そしてうつぶせに倒れたベルナールの後ろから、一組の人影が木立より新たに現れ、街道へと近付いて来たのであった。
 慌てたような声が遅れてアレグラの下へも届く。
「おいっ! 狙いをたがえちゃいないだろうな!?」
「大丈夫だ。俺は夜目が利く。人の輪郭まで見間違えたりはしない」
 夜風が無人の街道を駆け抜けた。
 追手の足音が近付いて来る最中、アレグラは呆然と、ただ呆然と路肩に立ち尽くしていたのであった。
 彼女の足元ではベルナールが呻き声も漏らさずに地面に倒れ伏している。修道服スカプラリオの脇腹の辺りに小さな穴が穿たれ、月明かりの下、黒々とした血が生地に染みて行くのが見て取れた。
 これまで、死の際に置かれた患者の有様を数限り無く見て来た。
 充分過ぎる程見慣れた光景であったはずだ。
 それなのにこの時、彼女は咄嗟とっさに微動だに出来ずにいた。
 双眸そうぼうを細かに揺らしながら、かすかな吐息を唇から漏らすのが精一杯であった。
 その彼女の足元でベルナールは苦しげに首を動かすと、目の前に今もたたずむ人影へと叱咤するように促す。
「……何やってんだ……逃げろ、早く……!」
「……何を、言って……」
 ベルナールの見上げる先で、アレグラは首を横に振って狼狽した声を漏らした。他ならぬ彼女自身が初めて耳にする、動揺し切った己の声であった。
 そんな彼女へとベルナールは尚も訴え掛ける。
「行けよ! このままじゃ、奴らに……あんたが、あいつらになぶりものにされる所なんか、俺は死んでも見たくねえ……!」
「馬鹿な……どうしてここまでして……!」
 アレグラが責めるように言った時、二人の下へ同じ人数の胸甲騎兵が歩み寄った。
 近付くなり、一人が地面に倒れたベルナールを乱暴に蹴り転がす。
「崇高な理念の欠片もせんクズめが! 随分と要らん手間を取らせてくれたものだな!」
 刹那、アレグラの瞳孔が大円に広がった。
 銃口から未だ煙の漏れ出るピストルを片手に握り締めて、その男は仰向けになった裏切り者の修道士を踏み付けた。
「開けた場所に出るのを待っていたのだ。頭を撃ち抜いてやっても良かったが、誰にそそのかされての愚挙なのかを一通り確かめておく必要がある。どの道、貴様を待つのは死だけだろうが、それまでの短い命を精々せいぜい苦痛に喘いでおけ!」
 憎々しげに吐き捨てる男の隣で、もう一人の男がアレグラの肩を掴んだ。
「さあ、夜の散歩はお開きだ。元来た道を戻って貰おうか。こちらも団長にどやされるのが目に見えているので、正直気は進まんがね」
 苦笑交じりに促した男は、そこで目の前の人質が肩を震わせている事に気が付いた。
 天上の月が、星々が、夜道にたたずむ一同を憐れむかのように光り輝く。
 天空より届く眼差しの中心で、アレグラは両の拳をきつく握り締めた。
「おい……?」
 相手の只ならぬ気配に気付いた男が、怪訝な表情を浮かべた。
 もう一人の胸甲騎兵は何も知らずに、付近の仲間を呼び集めるべくシフリを吹き鳴らし始めた。
 風に溶け込みながら辺りへ広がって行く甲高い笛の音が放たれる最中、赤毛の女は只一人、全身を戦慄わななかせていたのだった。
 強く激しい眼光が彼女の双眸そうぼうほむらの色に染め上げる。
「私に……!」
 大きく揺らいだ声が夜の街道の片隅に漏れ出した。
「……触るなッ!!」
 一喝した直後、彼女の全身より強烈な波動がほとばしった。大洋を吹き荒れる嵐にも勝る荒々しい突風が、無人の街道を全方位へ駆け抜けた。
 その衝撃波が収まった時、咄嗟とっさに身構えた二人の胸甲騎兵の前に『それ』は立っていた。
 周囲の暗がりよりも尚くらい漆黒の礼服をまとった、宵闇の貴婦人が。
 煌々と輝く緋色の髪をなびかせ、同じ色の瞳を爛々と光らせてこちらを睨み据える人ならざるものの姿を、何も知らぬ胸甲騎兵達はひたぶるに恐れおののいて見つめるばかりであった。
 この時、アレグラの胸中を一つの感情が占有していた。
 即ち、『憤怒』と呼ばれる激情が。
 現世うつしよに生を受けて二百二十五年、己の胸に初めて湧き上がった激しい感情に促されるがまま、彼女は身の程を弁えぬ愚かな敵対者を睨み付ける。
 あたかも猛々しくも凛々しい一匹の獣の如くに。
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