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去年のリッチな夜でした

その18

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 一方、そんな空模様なぞ望みようもない閉ざされた場所に、中村は身を置いていた。
 辺りは一様に薄暗かった。
 遠く、廊下の突き当りに設けられた非常口のガラスから、西日がぼんやりと差し込む以外に大した光源は見当たらず、壁面に灯された安っぽい照明が心細く足元を照らしている。
 実にさびれた、人音の絶えた場所だった。
 辺りをざっと見回した後、中村は一人、眉間にしわを寄せる。
 階を一つ隔てただけで、こうも変わるものか。
 きびすを返して階段を下れば、安木達が未だ飲んだくれている最中の事務所にすぐさま辿たどり着く。あのやかましさの中に戻るのに、恐らく二十秒と掛かるまい。
 それなのに、間に天井板一つを挟んだだけで、この階には異様な寒々しさが足元に堆積していた。
 昔は、何処かの会計事務所が営業活動を行なっていた時期もあったらしいが、数年前から新たな店子たなこも入らず、現在ではテナントの募集も停止している寂れた階に、中村は一人置き忘れられたかのように、ぽつんとたたずんでいたのであった。
 それでも、ややあってから中村は薄暗い通路を進み、階段の斜交いにしつらえられた扉の前で足を止めた。
 付近の壁に比べて随分と真新しい、そしてはなはだ重厚な扉であった。
 正に異界の門だな、と中村はしかつめらしい面持ちを浮かべる。
 威圧的ですらある堅牢堅固な扉を、中村は幾度いくどかノックした。
 彼自身意外な事に、扉はすぐに開かれたのだった。
 分厚い扉の隙間から顔を覗かせたのは果たして『あの男』、『チェン』である。薄暗い階ではその顔色は益々ますます悪く見え、さながら巣穴から頭を出した蛇のようであった。
 ビルの一角に巣食うその『蛇』は、暗い中で中村をじっと見つめると、おもむろに口を開く。
「……どうした?」
「何、途中で姿が見えなくなったもんでね。社長が一応探してたぞ」
 中村の答えに、『チェン』は特に表情を変化させず、戸口の隙間からも動かなかった。
「『仕込み』の続き、ある」
「熱心だな」
「仕事だから」
 中村が苦笑を浮かべて見せても、『チェン』は愛想笑いも返さなかった。
 それでも、出て行けとも言われなかったので、中村は面持ちを切り替えて訊ねる。
「中、また見せて貰ってもいいか?」
 『チェン』はうなずきもせず、静かに扉を外へと押し開いた。
 そうして、中村は人の気配の無い階の、さらに濃く闇のわだかまる箇所へと足を踏み入れたのであった。
 目測で量る限り、部屋の広さは6LDK程であろうか。確かに、昔は何処かの事務所がここに門戸を広げていたのかも知れない。それも今や見る影も無いのは、正に見ての通りであるのだが。
 外の通路と変わらず、部屋の中もまた薄暗かった。まだ昼日中だと言うのに、壁際の窓と言う窓はことごとくが閉ざされ、部屋の中には最低限の明かりしか灯されてはおらず、外からの音も滅多に聞こえて来る事は無い。
 そして、シャッターの下ろされた窓からかすかに漏れるか細い光に浮かび上がるのは、無数の壺やかめであった。
 夜逃げ後の骨董屋みたいな所だな、と中村は以前と同じ感慨を抱いた。
 大小様々な、小脇に抱えられる程度の物から大人の背丈とほとんど変わらぬ大きさの代物まで、実に多くの壺とかめが壁一面にずらりと並べられている。薄暗い中でも、その物々しい有様は中村に圧迫感を与えるに充分過ぎる程であったが、同時に、言いようの無い刺々しい空気が寄せて来ている事にも彼は気付いたのだった。
 異様な気配、いや、『視線』だろうか。
 前に安木に連れられてこの場所を訪れた時も、こちらにぴたりと据えられる気配、息遣いのようなものを感じた。諸々の容器の中に収められている『もの』を考えれば、る意味では当然なのかも知れないが、それにしても、薄暗い部屋に満ちる気配は、中村もかつて味わったためしの無い代物であった。
 敵意。
 憎悪。
 憤怒。
 渇望。
 様々な負の感情が音も無く渦巻き、その領域へと足を踏み入れた者へ一斉に向けられている。
 中村は唾を呑み下すのと一緒に、前を歩く『チェン』の背中を凝視した。
 どうして『こいつ』は、こんな異常な空気の中で、尚も平然と構えていられるのだろう。
 壁際に並べられた壺の数は五十を超えるやも知れなかったが、それでも部屋の中央付近には作業台や机がいくつか置かれ、何かの器材や実験器具の類がその上に乗せられている。この場所が、腐っても作業場である事に間違いは無いようだった。
 しかるに、こんな薄暗い中に、異様な空気の絶えず満ちる空虚な空間に身を置いて、一体何をどうすれば『作業』に集中出来ると言うのだろうか。まして、それを来る日も来る日も整然と繰り返すなど、少なくとも、中村の正気の範疇はんちゅうには収まらなかった。
 不審に思うと共に、若干の薄ら寒さすら覚えた中村の前で、その時、『チェン』は足を止めた。
 入口から真向かいの、壁際での事だった。
 仕切りの一切が取り払われた部屋は地平まで続くかのような錯覚を訪れた者へもたらしたが、それでも行き止まりに差し掛かったのである。
 突き当りの壁には、無数のスチールロッカーがずらりと並べられていた。それ自体は目立つ所も見当たらぬ、更衣室に置いてあるのと同じアイボリーのロッカーであった。
 その内の一つ、左から五つ目のロッカーを、『チェン』は前触れも無く開け放った。
 瞬間、甘ったるい匂いが、薄暗い中を漂った。
 香水のような作られた芳香ではないが、その手の匂いから角を取ったような、日常的に嗅ぐ事の少ない代物である。眉をひそめる中村を他所に、『チェン』は開け放たれたロッカーの中へ手を差し伸ばすと、内部から何かを取り出し始める。
 その都度、辺りに撒き散らされる匂いは濃さを増して行くようだった。
「よお……」
 先程からずっと続く沈黙に流石に耐え兼ねて、中村が声を上げた時、『チェン』は半身はんみを彼に向けると、その手に握った『もの』を差し出した。
 見た事も無いきのこが、中村の鼻先に突き付けられた。毒々しいまでに紅い、いびつな扇形の傘を持つきのこであった。
霊茸れいし……」
 暗がりの中で、『チェン』がぽつりと言った。
「これも『薬』の材料、なる」
「……ああ、何かそんな名前のきのこは聞いた事があんな。『万年茸マンネンタケ』とか言う……」
 中村が少々気圧されつつも言葉を挟むと、『チェン』は半身はんみを向けたまま笑みを浮かべた。
日本リーベンで出回ってるのと違う。本物の『灵芝リンチー』ね。嵩山ソンシャンの奥で見付かった、近くて遠い別のしゅ……」
 亀裂のような、とはこうした笑顔を指すのであろうか。
 中村は何とも答えようも無く、ただ口をつぐんでいた。
「欲しけりゃあげる。でも、そのまま食べると、多分倒れるよ、あなた」
 そう告げた後、『チェン』はまたロッカーの中へと体を向け直した。
「この苗床ミャオチュアンももう終わり。これが最後の収穫だね」
 それから程無く、『チェン』は片手に血のように紅いきのこを鷲掴みにし、もう一方の手にロッカーの中から取り出した大きなビニール袋を持って、中村の方へと緩やかに向き直った。
 容積こそ大きそうだが厚みに乏しいビニール袋を無造作に肩に掛け、『チェン』は中村の前を横切ると、そのまま壁際の閉ざされた窓の方へと歩いて行く。そうして、わずかな光を漏らすだけの窓の前に立った『チェン』は、シャッターを一息に持ち上げた。
 それまでかげりの堆積するばかりだった室内に、外の日差しがさっと切り込んで来る。自分の爪先近くまで伸びた西日を中村が思わず見下ろした最中、『チェン』は肩に担いだビニール袋を片手で掴むと、開かれた窓の外へと向けて、それを乱暴に振り回したのであった。
 その刹那、灰色のビニール袋の中から、いくつもの細かな欠片が舞い散った。
 顔を上げた中村の瞳に、一瞬、き散らされた『もの』が映り込む。
 半分程が砕けた頭蓋骨。
 節がばらばらになった背骨。
 二つに割れた骨盤。
 その他、様々な骨片。
 全体が何か黄緑色の粉のようなものに覆われていたが、袋の中から飛び出したのは、紛いもない人間の骨であった。
 声こそ上げなかったものの、突然の事に中村は表情を強張らせた。
 その彼の見つめる先で、窓の外へと放り出された人骨は、瞬く間にさらに細かく砕けて飛散する。西日の照らす中、一瞬だけ宙を舞った何者かの遺骸は、乾いた砂を散らすように微細なちりと化して、春の空のふところへ溶け消えたのであった。
 眼下に人の行き交う商店街が広がる中、暖かな春風が、その頭上に散った塵芥じんかいを跡形も無く吹き流して行く。遠くで鳴り響いたクラクションの音が、硬直したように立ち尽くす中村の耳に酷く小さく届いたのだった。
 粗方からになったビニール袋を窓の外で尚も二三度、まるで洗濯物に付着したほこりでも払うかのように作業的に振り回した後、『チェン』はそんな中村の方へと首を巡らせた。
「あなた、下に降りるなら社長に言ってよ。また一つ『空き』が出来たって」
 日差しを背にし、顔に濃いかげりをまとわせたまま、『チェン』は事も無げに言う。
「また一人、杀人シャーイェン(※殺人)してもいいからって」
 そう告げると、『そいつ』は再び笑みを浮かべた。
 窓辺に立ちながら光あふれる青空に背を向け、それでいて実に愉快げに笑う『そいつ』の顔を、中村は険しい面持ちで見遣った。
 最初に出会った時に受けた、あの印象は誤りではなかったな。
 蛇か蜥蜴トカゲのようなこの眼差し。
 そう、『こいつ』の、この『眼』は完全な『捕食者』の目だ。
 周囲の人間を『獲物』、それも突き詰めれば、『食糧』のようにさえ見做みなせる『別種』の目だ。
「……ああ。判った」
 中村は努めて平静を装いながら、気付かぬ内にすっかり乾き切った口の中で、所在無さそうに舌を動かした。
 窓の外では、遠くを伸びる高架の上を電車が走り抜けて行く。
 うららかな春の陽気に、外の世界はすっかりひたり切っているようであった。
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