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去年のリッチな夜でした
その40
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「……被疑者の正体が割れた」
いつものように何の前置きも挟まず、出し抜けに周知は遣された。
都心の景色を後ろに置いた薄暗い部屋で、一つきりの机に腰を据えた白井は、いつものように不機嫌そうに言葉を発する。
「中国の公安部に確認が取れた。中国で足取りを追っていた犯罪者が行方を晦まして一月と経たない内に、日本で売人の行方不明事件と新種の『違法薬物』の流通が発生する事態となっている。同一犯の仕業である可能性は限り無く高い」
向かい立つ薬師寺と鬼塚は、共に引き締まった面持ちを湛えていた。
晴れて毒も抜けて退院した翌日の事であった。
その二人へ向け、『暗室』の女主人は説明を続ける。
「中国本土にいた頃は幾つもの組織を渡り歩き、その都度、危険な薬物の製造と流通に関わって来た『筋金入り』だ。また、それとは別に殺人及び死体処理にも関与していたとされ、その二つの総件数は三桁に上るとも推察されている」
白井がそこまで告げた時、鬼塚が首を傾げて見せた。
「話がそれだけだったら、後はICPOにでも任せりゃ良いでしょうね。それを俺らにわざわざ言い聞かせる理由は?」
「大方、お前が内心で勘繰っている通りだろう」
些か挑発的に訊ねた鬼塚へ、白井もまた不敵に答えた。
「『奴』は危険な『呪術師』なのだ。『蠱道』、即ち『蟲毒』を収めた、極め付けに質の悪い『乙級特異能力者』だ」
「……『蟲道』」
「……『蟲毒』」
鬼塚と薬師寺が、揃って眉を顰めた。
白井は机から資料を持ち上げると、それに目を通しながら解説する。
「『蟲毒』。壺や甕のような密閉した容器に、主に蛇や蜘蛛と言った毒を備えた生き物を押し込み、互いに共食いを強制させる。そうして勝ち残った最後の一匹は霊的な力を帯びるとされ、これを上手く操作する事によって任意の対象を暗殺、毒殺する。中国に起源を持つ古い呪術だ。『奴』は現代に於けるその使い手であり、『闇の薬剤師』であると同時に恐るべき『暗殺者』でもある。合わせて、仙薬、霊薬の扱いにも長けているらしい」
そう言うと、白井は手元の資料を捲った。
「その手腕から何処の組織も最初は重用するものの、やはりその恐るべき手腕が原因で警戒を抱かれ、黒社会を点々と渡り歩く運びとなったようだな。そして付けられた仇名が『鴆』、向こうの発音では『鴆』と言う。『史記』や『漢書』、『魏志』、『晋書』と言った名立たる歴史書にもその名を記された、伝説の毒鳥だ」
「そいつが今頃、日本に渡って来たってんですか。雁でもないのに迷惑な……」
鬼塚がげんなりした口調で述懐した向かいで、白井が資料から目を持ち上げた。
「気を付けろ。『奴』は恐らく、お前達がこれまで出くわした中で最も危険な犯罪者だ。『それ』の通り過ぎた土地の作物は全て枯れ果てたとされる伝説の毒鳥と同様、『奴』の行く先々には常に『死』が撒き散らされて来た」
滅多に覗かせる事の無い険しい口調で、白井は二人の部下へと警告を発した。
そして今、薬師寺と鬼塚は、伝説の毒鳥の通り名を持つ男と相対したのだった。
外の日差しを遮る暗い室内で、階下の物音も届かぬ凍て付いた静けさの中、二つと一つの人影は人知れず向かい合う。
緊張感を漲らせる追手に対し、『鴆』は至って平然と言葉を遣す。
「下が静かになったら出て行こうと思ってたんだが、こんなに早く詰め寄られたんじゃ敵わないな。そこを通しちゃ貰えない?」
「……何?」
隣の薬師寺に倣って防毒マスクを外した鬼塚は、まるで渋滞の車列を横切ろうとする歩行者のような相手の言い草に眉を顰めた。
その鬼塚の前で、『鴆』は肩を小さく竦めて見せる。
「どの道、そろそろ潮時だったんだよ。あんた達じゃないの? 俺の放った『蜘蛛』を潰したのは?」
薬師寺も鬼塚も、その質問にはすぐに答えようとしなかったが、『鴆』は構わず言葉を続ける。
「何処の国でも、『そういう事』が出来る人はいるみたいだからねぇ。『そんな人達』に目を付けられたが最後、ここでの仕事も長くは続かないだろうと思っていた。だからもう、諦めてさっさと切り上げる事にしたよ」
それぞれに怪訝な面持ちを浮かべた二人の『警官』の前で、『容疑者』はまるで他人事のように言い放つ。
「それで一つ提案があるんだけど、ここを出た後は台湾かシンガポールにでも移って、日本には当面寄り付かない積もりでいる。その辺りで納得しちゃくれないかな?」
「ふざけるな!」
片手でリボルバーを突き付け、鬼塚が鋭く吐き捨てた。
「これだけの騒ぎを引き起こしといて見逃す理由があるか! 殺人及び死体損壊・遺棄、並びに外来生物法違反でお前を逮捕する!」
「逮捕ねぇ……」
暗闇の中、素直に困った様子で、『鴆』は苦笑さえ浮かべて見せたのだった。
「こっちはただ、人に言われた事をやっただけだ。周りの要求に応えただけなんだ。それ以上でも以下でも以外でもない。それで責任まで追及されたんじゃ間尺に合わないんだが」
「そういう事は弁護士に言え」
薬師寺もまた相手に銃を向け、低い声で告げた。
「生憎、何処の社会でも法的責任は必ず付いて回る。特にお前のように、抵抗するでもなく殺人に加担するような奴に、情状酌量の余地を用意してやる義理も義務も無い。連行されるのも当然の結果だ」
「だから、それは他に望んだ人間が居たからやった事だよ。俺の意思は関係無い。責任だの何だのは全部『そいつら』に問えば良いのに、判らない人達だ」
嘆息混じりにそう言った直後、暗闇の向こうで『鴆』の双眸がきらりと瞬いた。
「だったら、もう仕方が無いか……」
闇の中で金色に輝く、それは異形の眼光であった。
その刹那、薬師寺は反射的に身構えていた。
「こいつ……ッ!」
或いは彼自身は無意識であったやも知れぬが、この時、薬師寺はその身を半歩程引いていたのだった。
「……退いて貰うしかないね」
『鴆』が冷ややかに告げた直後、暗がりに湛えられた空気を、細かな振動音が震わせた。鬼塚と薬師寺が辺りを見回せば、部屋の壁際に置かれた壺や甕が一斉に震え出し、不吉な振動音を発していたのであった。
まるで、底知れぬ大地の深みより伝わる鳴動のように、部屋の空気を揺るがす騒音はおどろおどろしいものへと変貌して行く。
そして間も無く、左右の壁に並んだ器の蓋が、残らず宙に吹き飛んだ。
それと時を同じくして、鬼塚の隣で空気が俄かに膨張を始めたのであった。僅かな圧迫感すら覚えた鬼塚は、思わずそちらへ首を巡らせるのと一緒に、驚愕の表情を露わにする。
「お前……!」
彼の隣に、『それ』は立っていた。
そこへ、彼らの下へ、諸々の器から這い出た毒虫や蛇、蛙などが一斉に襲い掛かって来る。
闇の中に、切れ味を帯びた風が唸りを上げた。
次の瞬間、獲物へ殺到しようと飛び掛かった無数の有毒生物達の体は、千々に切り裂かれて宙を舞ったのだった。あたかも、服の裾にこびり付く夜露を無造作に払い除けるが如く、襲い来る『蠱毒』の毒牙を猛々しくも凛々しい疾風が打ち払ったのであった。
周囲の闇すら引き裂く風の源には、一個の『人影』が屹立していた。
二本の足で確と立ち続けるその姿は、確かに『人』と呼んで差し支え無いかも知れぬ。だが一方で、その影の示す輪郭は、明らかに『人』のそれとは掛け離れていたのだった。
闇の中でも尚煌めきを放つ、僅かな光さえも撥ね返す白銀の体毛で、『それ』は全身を覆い尽くしていた。
暗闇に浮かぶその全容は、現実の狼の姿に酷似している。
然るに、その『狼』は二本の脚で以って床に立ち、自身に近寄る脅威を両手の爪を振るって切り裂いて除けたのである。
淡く輝く体躯を持つ、それは白銀の『人狼』であった。
自分のすぐ横に現れ出でた『相棒』の姿を認めて、鬼塚が吃驚を露わにする。
「いきなり本気で行くってのか!?」
白銀の人狼は、暗闇の中で頷いた。
「こいつは、この相手は、本気で掛からないと拙い……!」
それまでより低い声で、だが、確かな緊張を孕ませて答えた薬師寺へ、鬼塚は先程とは趣を異にする驚きを面に出した。
そこへ再び、横手から這い進んで来た影の塊が両者に躍り掛かった。
膨よかな幼児程もある巨大な蠍が、長大な尾を振り上げるや、音も無く二人へと襲い掛かる。
その刹那、暗がりに一条の光が煌めいた。
白銀の人狼がまるで無造作に左手を一閃させた直後、指先より伸びる長く鋭い爪によって、蠍の体は瞬時にして二つに切り裂かれた。
そして透かさず、薬師寺は床を蹴って駆け出した。
文字通り人間離れした瞬発力で、姿も見せず、影も残さず、白銀の人狼は『鴆』の下まで一瞬にして詰め寄ったのであった。
「ほう……」
『鴆』がそちらへと目を向けた時には、人狼と化した薬師寺は鋭い爪を振り被り、微塵の躊躇も見せずにそれを振り下ろした。
闇に包まれた密室で、猛り狂うように風が吼えた。
が、それだけであった。
暗がりの中に於いて、それと判る血飛沫が飛び散る事は無く、苦悶や驚愕の呻きが漏れる事態も訪れなかった。
ただ、鬼塚の漏らした独白だけが、翳りの中を漂うばかりである。
「……嘘だろ……?」
半ば呆然と呟いた鬼塚の前で、一組の人影は未だ睨み合いを続けていた。
相手の頭へと左腕の爪を振り下ろそうとした所で、白銀の人狼は全身の動きを固めていたのであった。
そして、その薬師寺の向かいで、『鴆』は実に面白そうに目の前の相手を見定めている。
元の場所から、一歩も動かずに。
「兽人だったか。やはり何処にでもいるもんだね、こういう人は」
平然と言葉を遣した『鴆』は、顔の横に片手を掲げていた。他ならぬ自身の頭部に振り下ろされんとした人狼渾身の一撃を、彼は片手で難無く受け止め、尚も頭上で遮り続けている。
体格に遥かに勝る人狼の強襲を苦も無く防いだ相手へ、当の薬師寺も、後ろの鬼塚も、俄かに狼狽の気配さえ滲み出させたのであった。
「お前、何者だ……!?」
薬師寺か低く唸った下方で、『鴆』は細い目を更に細めて微笑を湛える。
「『人間』だよ」
そう答えた『鴆』の双眸が、再び金色の煌めきを放った。
目の前の獣人と同じ色に、それは輝いたのだった。
人目の届かぬ暗闇の中で、熱を帯びた空気が渦を巻いた。
いつものように何の前置きも挟まず、出し抜けに周知は遣された。
都心の景色を後ろに置いた薄暗い部屋で、一つきりの机に腰を据えた白井は、いつものように不機嫌そうに言葉を発する。
「中国の公安部に確認が取れた。中国で足取りを追っていた犯罪者が行方を晦まして一月と経たない内に、日本で売人の行方不明事件と新種の『違法薬物』の流通が発生する事態となっている。同一犯の仕業である可能性は限り無く高い」
向かい立つ薬師寺と鬼塚は、共に引き締まった面持ちを湛えていた。
晴れて毒も抜けて退院した翌日の事であった。
その二人へ向け、『暗室』の女主人は説明を続ける。
「中国本土にいた頃は幾つもの組織を渡り歩き、その都度、危険な薬物の製造と流通に関わって来た『筋金入り』だ。また、それとは別に殺人及び死体処理にも関与していたとされ、その二つの総件数は三桁に上るとも推察されている」
白井がそこまで告げた時、鬼塚が首を傾げて見せた。
「話がそれだけだったら、後はICPOにでも任せりゃ良いでしょうね。それを俺らにわざわざ言い聞かせる理由は?」
「大方、お前が内心で勘繰っている通りだろう」
些か挑発的に訊ねた鬼塚へ、白井もまた不敵に答えた。
「『奴』は危険な『呪術師』なのだ。『蠱道』、即ち『蟲毒』を収めた、極め付けに質の悪い『乙級特異能力者』だ」
「……『蟲道』」
「……『蟲毒』」
鬼塚と薬師寺が、揃って眉を顰めた。
白井は机から資料を持ち上げると、それに目を通しながら解説する。
「『蟲毒』。壺や甕のような密閉した容器に、主に蛇や蜘蛛と言った毒を備えた生き物を押し込み、互いに共食いを強制させる。そうして勝ち残った最後の一匹は霊的な力を帯びるとされ、これを上手く操作する事によって任意の対象を暗殺、毒殺する。中国に起源を持つ古い呪術だ。『奴』は現代に於けるその使い手であり、『闇の薬剤師』であると同時に恐るべき『暗殺者』でもある。合わせて、仙薬、霊薬の扱いにも長けているらしい」
そう言うと、白井は手元の資料を捲った。
「その手腕から何処の組織も最初は重用するものの、やはりその恐るべき手腕が原因で警戒を抱かれ、黒社会を点々と渡り歩く運びとなったようだな。そして付けられた仇名が『鴆』、向こうの発音では『鴆』と言う。『史記』や『漢書』、『魏志』、『晋書』と言った名立たる歴史書にもその名を記された、伝説の毒鳥だ」
「そいつが今頃、日本に渡って来たってんですか。雁でもないのに迷惑な……」
鬼塚がげんなりした口調で述懐した向かいで、白井が資料から目を持ち上げた。
「気を付けろ。『奴』は恐らく、お前達がこれまで出くわした中で最も危険な犯罪者だ。『それ』の通り過ぎた土地の作物は全て枯れ果てたとされる伝説の毒鳥と同様、『奴』の行く先々には常に『死』が撒き散らされて来た」
滅多に覗かせる事の無い険しい口調で、白井は二人の部下へと警告を発した。
そして今、薬師寺と鬼塚は、伝説の毒鳥の通り名を持つ男と相対したのだった。
外の日差しを遮る暗い室内で、階下の物音も届かぬ凍て付いた静けさの中、二つと一つの人影は人知れず向かい合う。
緊張感を漲らせる追手に対し、『鴆』は至って平然と言葉を遣す。
「下が静かになったら出て行こうと思ってたんだが、こんなに早く詰め寄られたんじゃ敵わないな。そこを通しちゃ貰えない?」
「……何?」
隣の薬師寺に倣って防毒マスクを外した鬼塚は、まるで渋滞の車列を横切ろうとする歩行者のような相手の言い草に眉を顰めた。
その鬼塚の前で、『鴆』は肩を小さく竦めて見せる。
「どの道、そろそろ潮時だったんだよ。あんた達じゃないの? 俺の放った『蜘蛛』を潰したのは?」
薬師寺も鬼塚も、その質問にはすぐに答えようとしなかったが、『鴆』は構わず言葉を続ける。
「何処の国でも、『そういう事』が出来る人はいるみたいだからねぇ。『そんな人達』に目を付けられたが最後、ここでの仕事も長くは続かないだろうと思っていた。だからもう、諦めてさっさと切り上げる事にしたよ」
それぞれに怪訝な面持ちを浮かべた二人の『警官』の前で、『容疑者』はまるで他人事のように言い放つ。
「それで一つ提案があるんだけど、ここを出た後は台湾かシンガポールにでも移って、日本には当面寄り付かない積もりでいる。その辺りで納得しちゃくれないかな?」
「ふざけるな!」
片手でリボルバーを突き付け、鬼塚が鋭く吐き捨てた。
「これだけの騒ぎを引き起こしといて見逃す理由があるか! 殺人及び死体損壊・遺棄、並びに外来生物法違反でお前を逮捕する!」
「逮捕ねぇ……」
暗闇の中、素直に困った様子で、『鴆』は苦笑さえ浮かべて見せたのだった。
「こっちはただ、人に言われた事をやっただけだ。周りの要求に応えただけなんだ。それ以上でも以下でも以外でもない。それで責任まで追及されたんじゃ間尺に合わないんだが」
「そういう事は弁護士に言え」
薬師寺もまた相手に銃を向け、低い声で告げた。
「生憎、何処の社会でも法的責任は必ず付いて回る。特にお前のように、抵抗するでもなく殺人に加担するような奴に、情状酌量の余地を用意してやる義理も義務も無い。連行されるのも当然の結果だ」
「だから、それは他に望んだ人間が居たからやった事だよ。俺の意思は関係無い。責任だの何だのは全部『そいつら』に問えば良いのに、判らない人達だ」
嘆息混じりにそう言った直後、暗闇の向こうで『鴆』の双眸がきらりと瞬いた。
「だったら、もう仕方が無いか……」
闇の中で金色に輝く、それは異形の眼光であった。
その刹那、薬師寺は反射的に身構えていた。
「こいつ……ッ!」
或いは彼自身は無意識であったやも知れぬが、この時、薬師寺はその身を半歩程引いていたのだった。
「……退いて貰うしかないね」
『鴆』が冷ややかに告げた直後、暗がりに湛えられた空気を、細かな振動音が震わせた。鬼塚と薬師寺が辺りを見回せば、部屋の壁際に置かれた壺や甕が一斉に震え出し、不吉な振動音を発していたのであった。
まるで、底知れぬ大地の深みより伝わる鳴動のように、部屋の空気を揺るがす騒音はおどろおどろしいものへと変貌して行く。
そして間も無く、左右の壁に並んだ器の蓋が、残らず宙に吹き飛んだ。
それと時を同じくして、鬼塚の隣で空気が俄かに膨張を始めたのであった。僅かな圧迫感すら覚えた鬼塚は、思わずそちらへ首を巡らせるのと一緒に、驚愕の表情を露わにする。
「お前……!」
彼の隣に、『それ』は立っていた。
そこへ、彼らの下へ、諸々の器から這い出た毒虫や蛇、蛙などが一斉に襲い掛かって来る。
闇の中に、切れ味を帯びた風が唸りを上げた。
次の瞬間、獲物へ殺到しようと飛び掛かった無数の有毒生物達の体は、千々に切り裂かれて宙を舞ったのだった。あたかも、服の裾にこびり付く夜露を無造作に払い除けるが如く、襲い来る『蠱毒』の毒牙を猛々しくも凛々しい疾風が打ち払ったのであった。
周囲の闇すら引き裂く風の源には、一個の『人影』が屹立していた。
二本の足で確と立ち続けるその姿は、確かに『人』と呼んで差し支え無いかも知れぬ。だが一方で、その影の示す輪郭は、明らかに『人』のそれとは掛け離れていたのだった。
闇の中でも尚煌めきを放つ、僅かな光さえも撥ね返す白銀の体毛で、『それ』は全身を覆い尽くしていた。
暗闇に浮かぶその全容は、現実の狼の姿に酷似している。
然るに、その『狼』は二本の脚で以って床に立ち、自身に近寄る脅威を両手の爪を振るって切り裂いて除けたのである。
淡く輝く体躯を持つ、それは白銀の『人狼』であった。
自分のすぐ横に現れ出でた『相棒』の姿を認めて、鬼塚が吃驚を露わにする。
「いきなり本気で行くってのか!?」
白銀の人狼は、暗闇の中で頷いた。
「こいつは、この相手は、本気で掛からないと拙い……!」
それまでより低い声で、だが、確かな緊張を孕ませて答えた薬師寺へ、鬼塚は先程とは趣を異にする驚きを面に出した。
そこへ再び、横手から這い進んで来た影の塊が両者に躍り掛かった。
膨よかな幼児程もある巨大な蠍が、長大な尾を振り上げるや、音も無く二人へと襲い掛かる。
その刹那、暗がりに一条の光が煌めいた。
白銀の人狼がまるで無造作に左手を一閃させた直後、指先より伸びる長く鋭い爪によって、蠍の体は瞬時にして二つに切り裂かれた。
そして透かさず、薬師寺は床を蹴って駆け出した。
文字通り人間離れした瞬発力で、姿も見せず、影も残さず、白銀の人狼は『鴆』の下まで一瞬にして詰め寄ったのであった。
「ほう……」
『鴆』がそちらへと目を向けた時には、人狼と化した薬師寺は鋭い爪を振り被り、微塵の躊躇も見せずにそれを振り下ろした。
闇に包まれた密室で、猛り狂うように風が吼えた。
が、それだけであった。
暗がりの中に於いて、それと判る血飛沫が飛び散る事は無く、苦悶や驚愕の呻きが漏れる事態も訪れなかった。
ただ、鬼塚の漏らした独白だけが、翳りの中を漂うばかりである。
「……嘘だろ……?」
半ば呆然と呟いた鬼塚の前で、一組の人影は未だ睨み合いを続けていた。
相手の頭へと左腕の爪を振り下ろそうとした所で、白銀の人狼は全身の動きを固めていたのであった。
そして、その薬師寺の向かいで、『鴆』は実に面白そうに目の前の相手を見定めている。
元の場所から、一歩も動かずに。
「兽人だったか。やはり何処にでもいるもんだね、こういう人は」
平然と言葉を遣した『鴆』は、顔の横に片手を掲げていた。他ならぬ自身の頭部に振り下ろされんとした人狼渾身の一撃を、彼は片手で難無く受け止め、尚も頭上で遮り続けている。
体格に遥かに勝る人狼の強襲を苦も無く防いだ相手へ、当の薬師寺も、後ろの鬼塚も、俄かに狼狽の気配さえ滲み出させたのであった。
「お前、何者だ……!?」
薬師寺か低く唸った下方で、『鴆』は細い目を更に細めて微笑を湛える。
「『人間』だよ」
そう答えた『鴆』の双眸が、再び金色の煌めきを放った。
目の前の獣人と同じ色に、それは輝いたのだった。
人目の届かぬ暗闇の中で、熱を帯びた空気が渦を巻いた。
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